mrmaxの城めぐり 鳥取県2 (米子城)
米子城は、吉川広家により築かれた城だが、吉川広家は関ヶ原の戦いに負け、岩国に移封。 一国一城令後も壊されずに鳥取藩の支城として明治維新まで残った。
続日本100名城の第169番に選定されている城である。
米子城
平成二十八年(2016)十月二十八日に米子城跡を訪問した。
米子城は標高九十米の湊山に天守を置き、
東側は国道9号の先にある応仁から文明年間(1467〜1487)に山名宗之により砦として築かれた飯山、
北側には丸山、さらに南西は中海という天然の要衝を備え、
その城山を内堀で囲み、その外に武家屋敷を配し、外堀を巡らせた、広範囲な平山城である。
「 米子城は文明年間(1467〜1487)に山名宗之により砦として築かれたのが始まりとされる。
本格的な城を築いたのは吉川広家(きっかわひろいえ)である。
西伯耆の領主となった吉川広家は、天正十九年 (1591)に湊山に築城を開始したが、
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れたため、城を完成を待たず岩国に国替えになった。
慶長六年(1601)、中村一忠(なかむらかずただ)が伯耆国十八万石の領主として封せられ、
翌慶長七年(1602)に城が完成したとされる。
慶長十四年(1609年)、一忠が急死して中村氏が断絶すると、加藤貞泰が会見・汗入六万石の領主として入城する。
元和三年(1617)、加藤貞泰は伊予大洲へ移封となり、
幼少のため岡山藩から因幡と伯耆の領主になった池田光政(いけだみつまさ)を補佐した池田由之(いけだよしゆき)が、
米子城預かりの三万二千石になった。
由之は元和四年(1618)、江戸から米子へ帰る途中に家臣により暗殺され、その子由成が跡を就く。
寛永九年(1632)、鳥取藩主池田光政は岡山藩主となり、代わりに池田光仲(いけだみつなか)が因伯領主となる。
同時に、家老の荒尾成利(あらおなりとし)が米子城預かり一万五千石となり、
以後、明治二年(1869)の廃藩置県まで、荒尾氏が代々米子城主として城を預かり、政治を行なった。 」
湊山公園は当時は中海で、埋め立てられた跡につくられたものだが、とりで山(出山)近くの駐車場に車を置いて
上っていく。
けっこう急勾配で少し行くと「←内膳丸跡 頂上→」と「←内膳丸 二の丸、本丸→」の標識があった。
標識を左折し上っていくと石段が見えてきて、その先に低い石垣があり、その上に長方形の空地があったが、これが内膳丸跡である。
「 城の北側、標高五十二米の丸山に、本丸の守りを強化する目的で
中村一忠の家老、横田内膳正村詮が築いたことから内膳丸と呼ばれ、
二段に配置された一の段郭、二の段郭から構成され、二の段郭には角櫓、蔵が置かれていた。 」
二重櫓が数棟と武器庫が設置されたというが、空地の一部に敷石が露出するのがその痕跡だろう。
この郭から本丸へ向けて石垣を設け、西の防衛線が築かれていたというが、
本丸へ向けた石垣は崩落埋没し、入口で見た石垣のみが残っているのみである。
「←内膳丸 二の丸、本丸→」の標識まで戻り、先に進むと左側に「←二の丸本丸→」の標識があり、
ここを下ると湊山テニスコートがあり、小原家の表門長屋が移築されているが、この一帯が二の丸跡である。
「 二の丸は城主の御殿や台所、藩の役所が置かれていたところで、
慶長八年(1603)、横田村詮は二の丸の建物内で暗殺された。 」
二の丸入口は東西二十五米余、南北二十二米余で桝形になっていた。
三の丸はその外で、現在、鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地になっている。
三の丸には作事小屋、厩舎、資材小屋、米蔵、番人詰所などか建ち並び、
外周に内堀を廻らせ、大手門、搦手門、鈴の門で守られていた。
本丸に向って上っていくと見えてきたのは本丸石垣で、一番上の右側が天守、左側が副天守である。
「 天守郭は東側に二段、北側に一段控え積み郭を持ち、五重の天守閣台、四重櫓台を配し、
天守、四重櫓、鉄門櫓、多聞櫓、番所、冠木門を持ち、土塀を巡らしていたという。 」
本丸石垣の下段の左側に番所跡の表示があるが、ここが番所郭跡である。
天守郭の東下段にある番所郭には番所、蔵が配置されていたとある。
左右に高石垣を見ながら上ると「鉄門跡」の標木があり、
「 御天守の入口を固める鉄張りの堅固な門が造られた。 間口十二・七十二米、奥行四・五米の二階建て 」 とあった。
中村一忠が建てた天守閣は独立式望楼型四重五階の天守で、
左側に吉川広家が建てた四重櫓の小天守が連なっていたという。
「 江戸時代に発布された一国一城令の下、
例外として存続を許された支城のなかで、
天守をそなえた城は全国でも稀で、その偉容を誇っていたが、
今は広い平地になっていて、
一部に礎石があり、城があったことを示している。 」
山頂からは西伯耆から出雲の平野部や日本海、中海、島根半島、中国山地が一望できた。
北側には二つの石垣の先に虎口があり、御水手門跡の標木が建っていた。
「
水手郭には多聞櫓、続二重櫓、水手門があり、門外にも二つの外郭があったようである。
また、遠見郭は天守郭の北下段にあり、遠見櫓、二重櫓を配していた。 」
米子城は石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめていることや
米子城に関する文献・絵図資料なども数多く残っていることから、
平成十八年に国史跡に指定された。
米子城へはJR山陰本線米子駅から徒歩20分
米子城のスタンプは山陰博物館(9時30分〜18時、入館は17時30分まで 火休 12/29-1/3休) にて
鳥取砂丘
平成二十九年(2017)十月二十日、鳥取砂丘を訪れた。
鳥取砂丘は鳥取市の日本海海岸に広がる広大な砂礫地で、
山陰海岸国立公園の特別保護地区に指定されていて、南北二・四キロ、 東西十六キロにも及ぶ広大な砂丘である。
昭和三十年(1955)に国の天然記念物に、平成十九年(2007)に日本の地質百選に選定された。
小生はこれまでに二回訪れているが、、同行した娘が関心を示したので、
津山から鳥取駅に到着するとそのまま鳥取砂丘へ直行した。
数十年振りに訪れると砂防センターやサンドアート美術館、ロープウエイがあり、
多くの外国人が訪れていたので、驚いた。
さらさらした砂が革靴を履いた人には歩きずらく、登り坂で苦労した思い出があるので、
小生は柵の近くの団体写真用の椅子に座り、娘の戻ってくるのを待つことにした。
目の前に広がる砂丘の風と砂が織りなす風紋や砂柱、砂簾などは美しく、見る人の心を魅了する。
しばらくして「楽しかったよ!!」と娘が戻ってきた。
すり鉢の方に下り、その先に広がる山のようなすり鉢を登ると、その先に白砂な海岸と海が見えて、きれいだったとのこと。
彼女が登ったすり鉢の高さは分らないが高いものは四十メートルあるという。
すり鉢の斜面には、流れるように砂が崩れ落ちた形が簾を連想させる砂簾(されん)などの模様や
海風によって作られる風紋(ふうもん)と呼ばれる筋状の模様が見られる。
それらを堪能したようで、案内してきてよかったと思った。
鳥取砂丘へは鳥取駅バスターミナルから「岩美・岩井線」や「砂丘線」あるいは
ループ麒麟獅子バスに乗り、「砂丘センター展望台」または「砂丘東口」で下車
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