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鶴松館からの登城口は佐土原城の大手道にあたる。
大手道は駐車場から鶴松館の土塁に上り、館に沿って左に進み、
右折した更に進み、館から左に続く道を行くと、正面に「佐土原城」の旗があり、
その先に「大手道」の看板が置かれている。
左の林の中に入り、道なりにすすむと、「登城路」の説明板がある。
「 どの山城でも、登り道に防御の工夫がされています。 この城では、正面の道、つまり、大手道をV字型に深く切り込ませて、 その底の道を歩くようになっています。 これはこの登城路から敵が、わきに入り込むのを防ぐためと、 まわりの高い土塁の上から直接下を歩く敵を攻撃するためです。 もし、敵がこの城を攻撃しようとすると、この道で上から鉄砲をうたれたり、矢を射かけられたり、 石を落されたりして、逃げ場がなく大変苦戦する仕掛けになっているわけです。 また、こうした戦いのためばかりでなく、風を防いで登城が楽になることも考えられたでしょう。」
説明板の通り、両脇にそびえ立つ崖の間を進むようになっている。
丸太で造られた階段を上るが、両側は崖で正に切り通しである。
シラス台地なので、関東や関西に比べ、加工はしやすいように感じる。
また、シラスは傾斜があるようにすると崩れやすく、
垂直に加工すると崩れないという性質を持つ。
尾根を縦に断ち割ってつくられた非常にめずらしい構造である。
急な階段を曲りながら上っていくと、佐土原城の旗がある下に山城図とルートの看板がある。
「 佐土原城は、標高約七十メートルの険しい山の自然地形を利用して築かれた、
中世の典型的な山城である。
二十七万平方メートルという広大な面積に、標高七十メートルの丘稜部に造られた山城部と、
その麓に広がる平城部で構成されていた。
藩主や家臣は平和時は麓の屋敷に居住し、戦いの際は山城で戦うという生活であった。
登城路は狭く急な切通しで、
その先の山中に本丸、南の城、松尾丸の三つの主要曲輪が並んでいた。
その姿は大城郭というにふさわしい堂々たる城で、
江戸時代の初期には南九州で唯一、天守があった。 」
深いV字形の底道を上っていくと、道は本丸、南の城方向と松尾丸方向に分岐する。
地面には「斜右松尾丸 ↓鶴松館 本丸 南の城↑」の道標がある。
「 松尾丸方向へ細い通路を歩いていくと小さな曲輪があり、
それに沿うようにクランク状に道が付けられている。
俗に言う虎口で、敵が来たら有利に戦えるように、わざと折り曲げている。
さらに進むと、松尾丸がある。
江戸時代の終わりに書かれた「旧事集書」に
「 松尾丸には櫓(やぐら)が建っていて、海からも見えたそうだ 」 と書かれている。
松尾丸へは行かず、本丸へ向かう、
その先の左側は高い崖である。 右側はその延長部のようになっていて、
その間はV字状になっていて、人が一人しか通れない幅になっている。
これは北東に伸びる尾根を切り通りした堀切で、
北東の尾根を攻めてきた敵を喰いとめるためのもので、
頭上の南の城から弓矢や鉄砲で狙い打ちもできる。
説明板「掘切」
「 中世の山城は、尾根伝えに進む敵を防ぐため、
その尾根をV字型に切り割る「掘切」がよく作られます。
この佐土原城にも、この堀切がいくつかありますが、ここはその代表例です。
この堀切は、北側からの尾根から登る敵を防ぐと同時に、
その堀切の底を本丸へ続くルートとして利用しています。
深さは5m近くあり、この山城を攻撃するため尾根を登ってきた敵は、
この掘切をわたるのがとてもむずかしかったでしょう。 」
堀切を越えた右側は竪掘のような感じである。
階段を上ると左下に「←南の城 ↓鶴松館 本丸 三層櫓跡↑」 の道標があり、
左に入っていくと約20m先に虎口があり、その先に南の城がある。
「 佐土原城の曲輪は、南の尾根と東の尾根の合流地点にあり、 侵入時はこの南の城曲輪の下を通過しなければなりません。 そのため、本丸へ向かう時は、必ず南の城曲輪を攻略しなければならないので、 時間をかせいだり、敵の疲労を促したりすることになります。 この南の城曲輪には、東側と南側には、高い土塁+塀や柵で囲まれていて、 佐土原城では珍しいことから、南の城は防衛の要であったことがわかる。 」
入口には「あぶないから入ってはいけません」の看板が立ち、針金線が張られていた。
佐土原城は昨年の南九州豪雨で被害にあったようで、南の城曲輪には入ることが出来なかった。
直進するとと左側に西の谷筋曲輪があり、手前に城の旗と城図の標板がある。
本丸はこの曲輪の上にあり、大手道は左に廻り込むように進むと、本丸の南西の虎口にでる。
「 本丸は城の中では最も重要な曲輪であることから、 その出入口である虎口も、とても防衛上の工夫がされている。 ここでは枡形虎口になっている。 枡形とは、四角い空間の意味で、枡の形から付けられた名称である。 道を直角に曲げて、そこに城門を作ると門の前に四角い空間ができる。 これが枡形で、そこに攻めてきた敵がたむろする。 その敵を城門の上から攻撃することができる。 」
この道に対し、本丸東方曲輪の右側を回り、裏の天守台側から入るルートがある。
訪問した時、大手道の本丸枡形虎口へのルートは行けなくなっていたので、右に続く道を進む。
その先に佐土原城の旗が立っていたが。右側の道は進入禁止になっていた。
ここにも城図があったが、その下に「登城路(中の道)通行止めのお知らせ」が貼られていて、
「 整備工事のため、「中の道」を一時通行止めにします。
3/8(月)〜3/24(水)予定
「大手道」から本丸へは登城できます。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いします。 」 とあった。
道は下りになり、狭い道を進むと階段が二箇所あり、上ると少し開けたところに出た。
道の脇に伐採した樹木の束が置かれていて、周囲は竹やぶになっている。
左側には小さな曲輪があったように思えた。 その上に本丸があるが、
段差があるので上って行けない高さである。
その先に「↑本丸・天守台はこちら」の標板があり、進むと大変急な階段が現れた。
階段を上ると、階段を上がって先に天守跡が見えるが、
右手前の細長い五角形は本丸北方曲輪であるが、今は原野化していた。
本丸北方曲輪の先は北部本丸で、ばち形をしていて、
中心よりやや北に「佐土原城跡 天守台跡」の木柱が立っていて、説明板がある。
説明板「天守台跡」
「 古い文献や絵図をもとに、以前から佐土原城には天守があったのではないかと
言われていました。 平成8年(1996)から始まった本丸跡の発掘調査で、
古絵図の位置に天守台跡が確認されました。 天守が二層であったか、三層であったかなど、
天守の構造についてはこれからの調査を待たなければなりません。 」
長方形に盛りあがった土地が天守台で、石がところどころに散らばっていた。
「 古い文献や絵図から、以前は佐土原城に天守があったのではないかと
言われてきたが、平成7年度、8年度の発掘調査で、
南九州では唯一となる天守の存在が確認された。
また、平成29年度の調査では天守の柱を支える礎石が発見された。
全身金箔貼りと考えられる鯱瓦も出土している。
石垣や瓦、古文書の分析から、江戸時代はじめ頃の慶長16・17年(1611・1612)、
佐土原藩二代藩主島津忠興によって建てられた可能性が高いと考えられている。 」
本丸は北西から南東に楕円形というか長方形で、
かなり広く、佐土原城のなかで一番標高が高い所にあった。
本丸の中央に「佐土原城跡 本丸跡」の標柱が立ち、その前に斜めに傾いた説明板があった。
説明板「本丸跡」
「 城の中で一番中心になる曲輪を本丸といいます。
ここは、この山城の中で、一番標高が高く防御上でも有利な所なので、本丸となったのです。
かなり広い曲輪ですが、掘り下げた道などで分割されて使用されていたようです。
建物もあったはずですが、殿様は普段はここにいず、麓の居館に住んでいたと思われます。
しかし、一旦戦争になれば、ここが一番中心の曲輪になり、殿様が入ったことでしょう。
江戸時代の初めごろまでは、この本丸も使われていたようですが、
寛永二年(1625)にこの本丸を含めて山城は廃止されました。 」
なお、本丸の標高は72m、南の城は68m、松尾丸は58mである。
本丸の西端に尾根が唯一続くが、尾根との落差が十五メートル以上あり、
西側からの谷が入り込み、天然の空堀となっているので、
この方面からの攻撃は無理である。
以上で見学は終了した。 見学時間は一時間二十分であった。
佐土原城は広い本丸と天守台跡。 延々と続く大手道の深いV字道が印象的であった。
佐土原城へは
JR日豊本線佐土原駅からは宮崎交通バス西都行きで15分、東春田下車、徒歩6分
JR宮崎駅より西都バスセンター行きに乗り、佐土原小前で下車、徒歩5分
佐土原城のスタンプは鶴松館(宮崎市佐土原歴史資料館)の一階受付か、
道を挟んだ、城の駅いろは館(1/1-1/3は休み)でいただける
(鶴松館 宮崎市佐土原町上田原8227−1 0985-74-4649 9時〜16時30分 月休12/28-1/3休)
青 島
13時20分過ぎ佐土原を出て青島に向う。
一宮くろしおラインを通り、宮崎港前、
一の宮交叉点を経由して、14時20分に青島の有料駐車場に車を停めた。
青島は日南海岸国定公園の日向灘に浮かぶ周囲約1.5qの小さな島で、
陸地から橋で渡る。
途中に観光土産店、食堂などあり、フルーツを売る店には宮崎特産のマンゴーが切り売りされている。 現地の名物などで一皿買って浜で食べた。
浜に出る手前の左側の石段を上ると和歌山牧水の歌碑がある。
「 びろう樹の古樹を想へ その葉影 海見て石に 似る男をも 」
若山牧水は医師の長男として、宮崎県日向市(旧臼杵郡平谷村)で生まれた。
延岡中学時代から牧水と号し、早稲田大学英文科に入学した。卒業後、歌集「海の声」を出版。
前後二回の短い新聞記者生活のほかは、歌人として生きた。
放浪の歌人として有名である。
以前訪れた時は、海岸に道はなかったような気がしたが、
海岸より一段高く石垣で両側覆われた道が出来、橋を渡ると浸食された海岸群が現れた。
青島の周囲は2400万年前〜200万年前の地層が浸食してできた波状岩で囲まれている。
広大な洗濯岩のように見えることから、鬼の洗濯岩と呼ばれ、国の天然記念物に指定されている。
橋を渡ると左側にびろう樹がしげる前に「青島神社」の石碑と太陽で褪せた「青島の文化財」の説明板などがある。
国指定特別天然記念物 「青島の亜熱帯性植物群落」
「 この地域は、黒潮が近海に流れ、温暖な気候で雨量が多いとろです。
青島には、そうした気象条件のもとに多くの亜熱帯性植物が繁茂しており、
その代表植物であるビロウの成木は約5000本あり、最高樹齢350年と推定されます。 」
国指定天然記念物「青島の隆起斐海床と奇形波蝕痕」
「 青島周辺の岩盤は、新三世紀(2400万年〜200万年前)に規則的に堆積した砂岩と泥岩の互層が
傾き海上へ露出したものが、波の浸食を受け、堅さの違いにより凹凸を生じたものです。
青島周辺及び日南海岸の戸崎鼻から巾着島に至る海岸にみられ、続称「鬼の洗濯岩」と
いわれています。 」
その先に赤い鳥居が見え、鳥居をくぐりと左に曲がりすすむと、左側の奥に神門がある。
その手前の左側の石樋の先に 「掃守神事(かもんしんじ)」の説明板があった。
「 古語拾遺には、青島神社の御祭神である彦火火出見命・豊玉姫命夫婦のご出産に
際し、海浜に産屋を建てる前に天忍人命が仕えて、「 箒を作りて蟹を掃う 」 と清めたとある。
そこから、清掃(掃き清め)が生まれたのである。
以来、子孫は蟹守・掃守として宮中のお仕へしたのである。
そして、箒は母木となりて、物事を生成発展させる信仰となった。
賽物(賽銭・供物)や持物(硬貨・お札など)を生命の母なる神木で清め、箒で掃ふ事により、
禊となり心身健全。金運財運発展の祈願となる。
常に福銭に感謝し、家内安全。事業発展に活用する事により、
さらに大神様の御加護を頂く事となります。 」
神社の案内によると、
「 青島神社の青島は昔から霊地として一般の入島は許されず、
藩の島奉行と神職だけが常に入島し、
一般は旧三月十六日島開祭から島止祭(同月末日)まで入島が許されていたが、
元文二年(約二百八十年前)、当時の宮司長友肥後が一般の参拝者にも入島を許されるよう、
藩主に願い出て許可され以後入島が自由になった。 」 とある。
階段を上がり、神門をくぐると正面に社殿があった。 旅行の安全を祈願した。
青島神社の祭神は天津日高彦火々出見命、豊玉姫命、塩筒大神である。
御由緒
「 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が海宮から御帰りのときの御住居の跡として
三神をお祀りしたと伝えられている。
始めてお祀りした年代ははっきりしていないが、日向土産という国司巡視記に嵯峨天皇の御宇
(約千二百年前)奉崇青島大明神と書いてあったといわれる文き(糸へんに亀という字)以後は
藩主伊東家の崇敬が厚く御社殿の改築や境内の保護に万全を尽くされ、
明治以降は国内絶無の熱帯植物繁栄の境内を訪れる人が多く、
縁結び、安産、航海、交通安全の神として、益々神威が輝くようになった。 」
宮崎の神話「海彦・山彦」の舞台で、火々出見命は迩迩芸命(ににぎのみこと)と
木花佐久夜姫との子で、山彦となった。
天つ神と国つ神の間で産れた海幸彦と山幸彦は山と海に領分を決めて暮らしていたが、
たまたま交替した海彦は針を取られ困っていると、塩津神により綿津見大神の宮へ行くように
教えられ、宮で綿津見大神の豊玉姫と出会い、結ばれ三年暮らす。 山幸彦が訪れた海神の宮は
青島の近くにあったとされる。 きわめてロマンのある話である。
以上で青島見学を終了、駐車場近くのクレープ屋で、昼飯とおやつを兼ねたクレープを食べた。
JR青島駅から徒歩15分
鵜戸神宮
15時20分青島を出て、16時、鵜戸神宮に到着。
数少ない駐車場に車を置き、神社に向うと随神門がある。
門をくぐると、左手に「鵜戸神宮社務所」がある。
近くに「国指定名称 鵜戸」の標柱と説明板が立っている。
説明板「 国指定名勝 鵜戸」
「 名勝鵜戸は、日向灘に突き出た岬で、古来より南九州各地から暑い信仰を受け、
修験の場として栄えてきた。
また、日向神話の海幸山幸神話の舞台として、鵜戸神宮が建つ洞穴(隆起海食洞)や亀石、
お乳石や速日峯陵(主祭神陵)、周辺の玉依姫陵伝承地(宮浦古墳)などが伝えられている。
名勝の中核をなす鵜戸神宮は、南九州を代表する神社である。
鵜戸神宮の社伝には延暦23年(804)に社殿を再建したとあり、
近世には飫肥藩主伊東氏の庇護のもと、造替や改修が行われた。
明治維新までは、鵜戸山もしくは鵜戸大権現と呼ばれ、境内の仁王護国寺を仁和寺が所管し、
神門に至る八丁坂参道の両側には十八の寺坊が並んでいた。
宮崎市青島から日南市風田にかけての日南海岸には、宮崎層群(約1200万年〜150万年前までの間、
深い海底で砂の層と泥の層が交互に堆積した層)の中でも古い時代の地層が露出しており、
この砂岩泥岩互層が波の浸食を受けて形成された波食棚や海食洞、ノッチ(岩が窪んだ地形)が
随所に見られる。
鵜戸崎の南面に見られる波食棚は、鵜戸千畳敷奇岩(鬼の洗濯板)と呼ばれ、
軒の天然記念物に指定されている。 」
その先には「国指定名所鵜戸」の石柱と朱塗りの楼門があった。
楼門の前には「御武運長久」「紙開発 願主 大坂住 油屋善兵衛」の常夜燈が左右に建っていた。
説明板 市指定建造物 「 鵜戸山石灯籠のうち 紙開発石灯籠一対」
「 飫肥藩は、寛政十二年(1800)に産業開発の一政策として楮栽培および紙の製造を計画した。
そこで、大坂の両替商油屋善兵衛から資金の提供を受け、飫肥藩領内で生産された和紙を大坂で
善兵衛が飫肥藩の蔵元として販売し、事業は順調に拡大された。
紙開発石灯籠は、この事業の成功を記念して、天保三年(1832)に善兵衛が鵜戸六所大権現
(鵜戸神宮)に奉納したものである。
灯籠には油屋一族とともに飫肥藩の大坂蔵屋敷の役人達の名前も刻まれている。
昭和四十五年十一月三日 指定 日南市教育委員会 」
楼門をくぐると常夜燈があり、右側は朱塗りの垣根、その下は崖絶壁で、
波で造形された色々な形の岩が波に洗われている。
神橋から本殿までの参道は八丁坂参道と呼ばれている。
すこし歩くと、太鼓橋の千鳥橋があるが、
橋の手前、左側に山頭火の句碑と「鵜戸神宮本殿」の説明板が立っている。
種田山頭火の句碑には 「 鵜しきりに啼いて 何を知らせる 」 と刻まれている。
説明板「 種田山頭火の句碑」
「 漂泊の種田山頭火は、昭和五年十月二日、鵜戸神宮に参詣。
御神鳥の「鵜」をとりあげ、次の句を残しました。
鵜しきりに啼いて何を知らせる
鵜戸の大自然と「鵜の鳥」が、今の世に何かの警鐘をならしていると考えたのでしょうか。
寺原聖山 書 」
説明板「県指定建造物 鵜戸神宮本殿」
「 鵜戸神宮本殿は、鵜戸岬の日向灘に面した岩窟内に建てられている。
本殿創建の年代は不詳であるが、社伝によると崇神天皇の代に創建し、
桓武天皇の勅命により、光喜坊快久が神殿及び仁王護国寺を再興した、と伝えている。
中世には、「鵜戸六所大権現」、江戸時代以降は「鵜戸山大権現」として、日向国内外から
厚い信仰を得ていた。
現在の本殿は、正徳元年(1711)に飫肥藩五代藩主伊東祐実が改築したものを明治23年(1880)に
大修理を行い、さらに昭和42年(1967)に修理したものである。
平成9年度(1997)には屋根や内装等の修理が行われた。
このように幾度の改修を実施したものの、岩窟内に見事に収めた権現造風の八棟造は、
往時のままであり、その文化的価値は高い。
説明板管理者/日向市教育委員会 」
橋を渡ると下り坂で左右に多くの常夜燈が建っている。
右に休屋があり、道は左にカーブすると、海側に神橋の説明板が立っていて、
その先に玉橋(神橋)がある。
説明板「神橋(玉橋・霊橋・鵜戸の反橋)」
「 この神橋は神仏習合時代には金剛界三十七尊の御名が書かれた三十七枚の板が配してありました。
この神橋を渡ると御本殿に至る急なる石段です。
古手より先は古来より尊い御神域、霊場として深い信仰を集めてまいりました。
かっては、橋の手前から履物を脱ぎ、跣(はだし)でお参りをしていましたが、
今はその習慣がなくなりましたが、その心は生きています。
御参りの方々は御神慮にかない、心は清く正しく明き人として祝福され、御籠を受けられると
言われています。 (中略) 鵜戸神宮社務所 」
玉橋は太鼓橋でかなりの湾曲があり、登りずらかった。
橋を渡り、右側から下を見ると、山がけずられ、その下の一部が洞窟になっていて、
山は垂直な絶壁のまま岩となって海に沈んでいる。 柱状節理の異景である。
その先が問題である。 説明板に足元に注意して下りください、とあったが、
その石段の急なこと。 てすりを使って降りて行ったが、帰りの方が大変だろう。
本殿は、日向灘に面した断崖の中腹、東西に38m、南北29m、高さ8.5mの洞窟(海食洞)内にある。
鵜戸神宮の御祭神は山幸彦(火遠理命 ほおりのみこと)と豊玉姫(とよたまひめ)の子、
鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)である。
妻が玉依姫(たまよりひめ)でその間に産れたのが、
神倭伊波礼昆古命(神武天皇 かむやまといわれひこのみこと)である。
洞窟の中に朱塗りの社殿があった。
「 社殿は、本殿・幣殿・拝殿が一体になった権現造(八棟造)こけら葺きで、 極彩色が施されている。 拝殿には千鳥破風と唐破風を飾る。 正徳元年に飫肥藩主伊東祐実が改築したものを、明治二十二年(1889)に大改築し、その後、 二度改修された。 幾度の改修を経たが、その様式は往時のままである。 」
御参りをした。
本殿には天皇家の御印である金色の菊の紋があしらわれていた。
唐破風には天皇家の御印である菊の紋がついていた。
洞窟内は薄暗く、人の顔をはっきりしないくらい。
「お乳水」の説明板があり、お乳岩から出るお水をもって飴を作ったおちち飴が1袋300円で売られていた。
説明板「おちち水のゆらい」
「 御祭神のうかやふきあへずのみこと(神武天皇の父君)の母君
(豊玉姫)は暖かい母性愛から御祭神の為に両乳房を窟内に置いていかれたと伝えられ、
その乳岩から出るお乳水は今もなお絶え間なく玉のように岩清水を滴らせて、
安産・育児・身体健全その他心願成就がかなうことで知られています。」とあった。
「産湯の跡」の標柱が小さな祠の脇に立っていた。
社殿をでて、海岸側にいくと眼下に御舟岩、二柱岩などの奇岩群が見ることができた。
突き当たりの常夜燈の近くに「鵜戸神宮の奇岩」の説明板がある。
〜 台地がつくった不思議な球体コンクリ―ション 〜
「 鵜戸神宮本殿の天井をささえる厚い岩盤は、宮崎層群と呼ばれる地層のなかでも飛び抜けて
厚い砂岩の層です。 この岩層には丸いボールのようなかたまりがたくさんふくまれています。
これをコンクリーションといい、砂岩を作る砂粒が石灰成分でかためられたものです。
コンクリーションは、ノジュール(結核)とも呼ばれ、長くその成因がわかっていませんでしたが、
近年、コンクリ―ションをかためている石灰成分は生物由来だとわかりました。
鵜戸神宮一帯の地層は、約800万年前の海底に砂や泥が堆積してできた地層からできています。
当時、地震などで大量の砂が海底に供給されたときに、
クラゲやナマコなどの海で暮らしていた生物が取り込まれたようです。
これが微生物によって分解されるときに炭酸イオンをつくり、
海水中にカルシウムイオンと反応してできた炭酸カルシウム(石灰成分)が周囲の砂岩をかためた、
と考えられています。(本殿裏の「お乳水」はカルシウムイオンが溶けて硬水になっています)
海洋生物やバクテリア、海底の砂などは、いつでもあるのですが、
コンクリーションはこれらが微妙な条件でそろったときだけにつくられたようです。
約800万年も前の日向灘の海底でおこった珍しい出来事の記憶を、
今もこの境内で見ることができます。
平成30年3月24日 NHK総合テレビ 「プラタモリ」 にて放送 」
亀島枡形岩の窪みに素焼きの玉を投げ入れ、入れば願いが叶うといわれる。
何組かのカップルが挑戦していた。
16時30分過ぎ鵜戸神宮を出発、今夜の宿、北郷温泉丸新荘に向う。
海岸を少し走ると山側に方向を変え、飫肥市を左に見ながら、内陸部に入っていった。
17時過ぎ、森の緑が溶け込んだかのような、山々に包まれた宿に到着した。
「 ペッぴんの湯と称した温泉が自慢の宿で、日帰り温泉を行っている。
硫黄系の湯で、加水、加熱なしのかけ流し温泉で、少し熱めだが、硫黄が多いため、
帰宅後洗濯しても匂いがかすかに残るほどであった。
食事は地元色が多く、地元でとれたカジキマグロのさしみや宮崎牛などが出た。
しょうゆが九州独特のあまいもので、小生の口に合わなかった。
風呂がよかったので、満足した。 」
鵜戸神宮へはJR以伊比井駅からバスで15分
宮崎駅から宮崎交通海岸バスで60分、日南海岸鵜戸神宮バス停で下車。
北郷温泉 丸新荘へは宮崎自動車道田野ICより約30分
JR日豊本線北郷駅からタクシーで約5分