mrmaxの城めぐり 鹿児島県1 (志布志城・霧島神宮)


志布志城は鹿児島県志布志市志布志町にある中世(十二世紀)の山城で、 平成十七年(2005)に国の史跡の指定された。  
続日本100名城の第197番に選定されている。


かうんたぁ。




志布志城(しぶしじょう)

志布志城へは令和三年三月十七日に訪れた。
当日は飫肥城を見て、10時45分志布志に向い、11時50分志布志市埋蔵センターに到着。 
飫肥からは県道、黒潮ロード、県道54号を経て、国道220号に号流、 坂道が続き左に海が見えてきた。 
すると自転車が数台組になり走るクループに何回か出会った。 
志布志湾の砂浜が美しかったので、車を停め、しばし眺めた。
志布志市埋蔵文化財センターには、志布志城内城の復元模型が展示されている。 
当時の姿を想像するには大変役にたつ。 

「 志布志は古来から軍事、海運、商業の中心地で、 海上、陸上の交通の要所、物流の要所としての重要性から、 多くの武将が港を手に入れようと争奪戦が繰り広げられた。  十二世紀時代から千種氏、肝付氏、楡井氏、畠山氏、 新納氏による豪族の興亡の歴史を繰り返していたが、 南北朝時代までは矢倉場といわれる曲輪と本丸のみであった。 
新納氏の時代に中野久尾と大野久尾曲輪を築き、内城本丸の山下に居館を置いた。  島津家の分家の新納氏(にいろし)は約百八十年にわたり、志布志を治めたが、 飫肥、串間も領有する豊州家島津氏が、 新納氏を破り、志布志を手に入れた。 その後、 肝付氏が豊州家島津氏を破り、志布志を領有し、伊東氏と協調して島津氏と対立したが、 天正五年(1577)、降伏し、島津氏に従った。 
志布志は島津氏の直轄地となり、地頭(代官)が置かれ、 戦国期に見られるような直線連郭(れんかん)型式の山城となった。 
初代の地頭として鎌田出雲守政近が任命された。  島津氏の本城を守る大隅地方の重要な城だったが、 徳川幕府の一国一城制により、廃城となった。  」 

志布志湾海岸(左側)
     志布志湾海岸(右側)      内城復元模型
志布志湾海岸(左側)
志布志湾海岸(右側)跡
内城復元模型



志布志城は日豊本線の志布志駅の北東約二キロにあり、 埋蔵文化財センターは駅の南西千二百メートル、 志布志高校の国道220号の道を挟んだ反対側を北に入ったところにある。
歩くと25分以上かかると、センターの係員から言われた。
車で近くの駐車場まで行くことにして、途中にあったレストランジョイフルで、 鹿児島ラーメンを食べた。 
食事後、国道220号で権現橋交叉点まで戻り、細道に入り、川辺を走り、左の橋を渡り、 志布志小学校の裏側、平山庭園のそばにある観光駐車場に駐車した。 
駐車場には地元ロータリークラブが掲げた説明板があり、下記が記されていた。

「 志布志は、万寿3年(平安時代中期 1026年)に平季基によって開かれた、 日向国の大荘園島津荘(現在の宮崎県都城市)の港として発達した。  志布志湾に面した前川の河口付近に、河川で浸食・分断された標高50m程のシラス台地の東端に 内城・松尾城・高城・新城があり、この4城をあわせて「志布志城」と呼ぶ。  いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した戦いのための砦のような「山城」である。  志布志城の築城者と築城年代は正確には不明だが、文献で初めて記載があるのは、 建武3年(室町時代 1336年)で、「志布志城の肝付氏が重久氏(しげひらし)に攻められた」 という 記録が残っている。  志布志城の領主は、港の所有をめぐって幾度も交代しており、記録に残る領主を大きく分けると、 肝付氏ー楡井氏ー新納氏ー豊州家島津氏ー肝付氏ー島津氏の流れとなる。  その後、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり、現在に至っている。  「志布志城」の中心である内城の規模は、山城部分だけでも南北500m、東西250mになる。  志布志にこのような広大な山城が築かれたのは、この地が海上交通の要所であり、 国内のみならずアジアの各地とつながった国際的な貿易港であったからと考えられる。 」

内城拡大写真
内城拡大写真




志布志城は福島川の西側一帯の山が全て志布志城と言っても過言ではなく、 志布志小学校の裏山の内城、 その西側の山にある松尾城、志布志中学校前の高城と新城の四つの城郭で構成されている。   今回訪問するのは内城跡である。 
駐車場を出ると、右側に平野家庭園があった。

説明板「国指定文化財 平野氏庭園」
「 この庭園は、江戸時代初期に造られた寺院庭園で、作庭型式は風景式、 庭趣は自然的岩石園の築山観堂式で、面積は246uである。  当家の敷地は古刹石峯寺の遺跡で、明治の廃仏毀釈の後は代々平野家の住宅となっている。  作庭舎は明らかでないが、石峯寺時代の住職が世俗を離れて仏道を修行するための場として 自ら想を練り作庭したものと推定されている。  作庭の手法は、背景に樹林を負い、住家の前に迫った自然の傾斜地を利用して、 その裾に露出した大岩盤の崖を主景となし、 その上に青々とした山の景観を表象する60数株のサツキ類の小刈込物を配して、 深山幽谷の自然を風景的にまとめあげた庭園である。  
 (以下略)  」

道を進むと右側に「→ 志布志城(内城)跡入口 →」の道標がある空地があり、 三叉路を右折する。

志布志城全景
     平野家庭園      志布志城(内城)跡入口
志布志城全景
平野家庭園
志布志城(内城)跡入口



両側は民家で坂道を上りきると、説明板が立っている。

説明板「国指定史跡 志布志城(内城)跡」
「 城の変遷
 内城は、志布志城(内城・松尾城・高城・新城の総称)の主体部であり、 肝付氏の没落による天正5年(1577)の島津氏初代地頭、
 鎌田出雲守政近まで、 およそ400年間の豪族の興亡の歴史を繰り返している。 
 築城の歴史
 志布志城の最初の築城年代はわからない。  南北朝時代までは、本丸と矢倉場といわれる曲輪のみであり、 新崎氏の時代に
 中野久尾・大野久尾と拡大し、内城本丸の山下に居館を置いた。  戦国期に現在見られるような直線連郭型式の山城となり、
 常に当地方の支配者の居城であったが、徳川幕府の一国一城令によって廃城となり、 今日に至っている。
 立地と環境
 内城は北東から南西に延びた細長い丘稜の先端部に立地しており、 北東部のみ台地に繋がっているので、ここに深い堀切を
 設け、大地と丘稜とを切り離している。  そして、細長い丘稜に5つの曲輪を直線的に並べ、各曲輪は互いによって区切られて
 いる。 
 構成と性格
 志布志城には志布志城五口と称して、 大手口・西谷口・沢目記口・小渕口・向川原口の5つの入口があるが、 この他にも留城戸
 一つがある。 
 空堀は、丘稜を横断する5つの大きなものと、 これに直角に交わり丘稜と平行して長く続く2つとから成っている。 
 曲輪は、深掘で区切った上、さらに浅掘で2つに分割し、 浅堀の中央付近で両側の曲輪の虎口が繋がるというのが基本である。 
 本丸(曲輪3)の土塁は大きく、北の隅は大きく張出し、高さ4メートルの櫓台となっている。  中野久尾の両曲輪とも二段で、曲輪5
 (A)の虎口は中仕切りの掘底から登り、 同(B)は四面とも土塁で囲まれていて、南西のみ空き、坂虎口となっており、これを守る
  土塁が張りだしている。  ここが当城で最も手がこんでいる。  大野久尾の曲輪は農道で中仕切りの空堀が埋没している。
 現 況
 中世の新崎氏200年間の居城の守護神である三宝荒神が本丸跡に、 また、新納家始祖新崎時久公の墓が矢倉場の旧新納家
 墓地跡に残っている。  この内城は、空堀の規模が大きく縄張りも明快で、港・河口・街道に望んで望遠観察にも適している。
 また、中世城下町の存在も予想されており、 伝承にも恵まれた、南九州でも有数の山城である。 」


内城復元予想模型
内城復元模型




上は内城の復元予想模型であるが、上部の左の旗の立つ上が本丸で、丸に十の(島津氏)の旗のある 右が中野久尾、右側端は大野久尾である。 

「 志布志城は南九州特有のシラス台地の上に造られた城で、 シラスの地形と性質を利用して、 深く切り立った長い空堀(歩道を兼ねる)と空堀に切り離された複数の曲輪により、構成されている。 
主城の内城は南北約五百メートル、東西約二百五十メートルに渡り、 面積約九万七千uで、六つの郭からなり、その間は空堀で遮る構造になっていた。 」

朽ちた家の脇の細道を行くと、薄暗く不気味である。 
右側に「志布志城(内城)跡」入口Iの標柱があり、 「志布志城内城跡 散策コースマップ」の標板が立っていた。
直進は本丸方面、、右折が矢倉場とあったので、右折した。 
急勾配の山道というような道である。 
矢倉場は土塁の上に樹木が自生し曲輪を取り囲み、空地の一角に丸太が区画を示すように立っていた。

説明板「国指定史跡 志布志城跡 内城跡 曲輪T(矢倉場)」
「 内城は志布志城を構成する4つの山城(内城・松尾城・高城・新城)の中で、 中心的役割を果たしたと考えられている。 
曲輪Tは内城の中心部を構成する曲輪であり、矢倉場と呼ばれていた。 
矢倉とは、弓矢を納める倉庫のことであり、同時に防御のための施設を指す用語でもあることから、 この曲輪には「新納時久
(にいなときひさ)の墓」として、 城主であった新納時久の供養碑が明治時代に建て替えられた。 
2001年度に実施した確認調査によって、 この曲輪が東西で上下段に分かれた高低差のある曲輪であったことが確認された。  2009・2010年度に実施した発掘調査によって、 この曲輪に建物の柱穴や土坑、溝跡などが検出された。 
柱穴には、中に柱を支えるための石を備えたものがあり、上下2ヶ所に石を有し、 2時期に渡って使用されたと考えられるものも存在する。  ほぼ垂直に掘りこまれた長方形の土坑は、トイレとして使用された可能性が高い。 
この曲輪から中国産の磁器、備前や瀬戸の陶器、土師器などが出土し、 山城の築城以前から遺跡であったことがうかがわれる。 」

「志布志記」に「内城の端に矢倉の場があった」ことが記されている。  このことから曲輪Tには、防御や見張りのための建物があったと考えられているようである。

志布志城(内城)跡入口
     矢倉場への道      矢倉場跡
志布志城(内城)跡入口
矢倉場への道
曲輪T 矢倉場跡



矢倉場を出ると下りになり、まさに堀切と思われる道を下る。  掘切は左右の尾根をV字にカットして造られている。 
下に降りると散策コースマップの標板があるが、左右の道も掘切で造られた道(空堀)である。
右折するとその先は小学校の校舎である。 
復元模型では左下から右下に続く曲輪の上にある道である。 
左折して丸太の階段の道を上っていくが、左右に杉の樹木が道に沿って生えていて、 その上はかなりの傾斜であるが、道幅が広いので、ここは空掘として造られた道である。 
シラスは垂直には強いが、傾斜がゆるやかだと崩れやすい性質がある。 
右側は市の資料にある曲輪10で、左は曲輪1矢倉場と曲輪2の間の傾斜である。

堀切
     コースマップがある道に出る      空堀(通路)
堀切
コースマップがある道に出る
空堀の道



その先に又コースマップがある。 コースマップの右側にポッカリ開いた堀切がある。 
そこに入って行くと空地が広がっていたが、これが曲輪10の上段のようである。
曲輪を出て、さらに道を上っていく。

堀切
     曲輪10上段      更に上る
堀切
曲輪10上段
更に上る



その先は広い空間であるが、これも空堀である。 
道は傾斜のある上りになり、左右が崖面となり、明らかに尾根を切った堀切の道である。
するとまた広い空間がある道で、傾斜は少ない。

空堀
     堀切の道      広い空間がある
空堀の道
堀切の道
広い空間がある



その先はするどく掘られた掘切の道である。
その先にコースマップがあり、ここで右折すると勝手口(至小渕)で、 直進するとその先の三叉路で、右をとると曲輪5中野久尾に至る。  左に行くと曲輪4中野久尾の脇を通り、大空掘方面に行く。
自分が今いる場所がわからなくなってきた。
道を左にとり、狭い道を上っていく。

するどい堀切の道
     マップの先の道を上る      左の道を行く
するどい堀切の道
マップの先の道を上る
左の道を行く



右側が曲輪4中野久尾で、左側の高いところが本丸の道を歩いている。
右側に中野久尾に入る入口があると思ったが、みつからないまま、三叉路に突き当たった。
ここは右に行くと大空掘、左に行くと本丸、大手口である。 
掘切の幅が広いところが大空堀である。 
時間の関係もあり、中野久尾と大野久尾の探索はあきらめ、左折して本丸へ向かう。
この道は整備されている感じで歩きやすい。 
左側にそびえるのが本丸の曲輪である。 
少し歩くと、丸太階段が二箇所あり、上り坂の先は両側は絶壁で、 まさに尾根を垂直に割ったといえる堀切の道である。

大手道に出た
     大空掘      大堀切
大手道に出た
大空掘
大堀切



その先にマップがあり、直進は出発した大手口、左折は本丸とあるので、左折して進む。
上り口は朽ちた階段で少し怖かったが、その先に丸太の階段が直登のようにあるので、 はしごを上る感覚で上っていく。 
その先は急な上り坂である。
丸太の階段を上っていくと、マップがあって、本丸はその先を左である。
丸太の階段を上ると本丸下段に出た。
本丸下段地面にタイルの説明板がある。

説明板「志布志城跡 内城跡 曲輪3下段」
「 内城は志布志城を構成する4つの山城(内城・松尾城・高城・新城)の中で、 中心的役割を果たしたと考えられている。 
内城の中心となる部分を地元では本丸と呼んでいる。  曲輪が上下段に分かれていることから、それぞれが本丸上段、本丸下段と呼ばれている。  2006年度から2008年度にかけて実施した発掘調査によって、 本丸下段から柱穴や土坑、道跡、掘、火を使った跡などが検出され、 碗や皿、甕などの陶磁器や土師器、釘や金具などの金属製品、銅銭やガラス製品の破片、 鉄滓が出土した。  出土した陶磁器は14〜16世紀ののものが中心で、備前焼などの国産陶器のほか、 中国や東南アジアの製品もある。 また、京都周辺で出土する土師器などもあり、 国内外の様々な地域の遺物が出土することは志布志の港を通じた交易をうかがわせる。 
検出された柱穴から、少なくとも2棟以上の建物が存在していたことが推測され、 一方で建物よりも土坑の数が多く、製鉄や鍛冶の際に出る鉄滓が多く出土していることから、 居住地として使用と工房のような作業場としての使用が推測される。 」

丸太の階段
     >丸太の階段      丸太の階段の上は本丸下段
丸太の階段
丸太の階段
本丸下段



本丸下段の北側に二メートル程の高低差があり、その上に上る一面樹木が生いている。 
その中に「本丸」と書かれた小さな標板が立っている。 
その先の北の突端が小高くなっているが、櫓台跡である。 
石段を上ると「三宝荒神」の標柱が立っていた。 
三宝荒神は、中世にこの地を二百年間統治した新崎氏の守護神である。
二つの苔蒸した小さな祠があった。
以上で志布志城の見学を終え、大手口の入口に引き返した。
駐車場からの往復を含め1時間20分の見学時間であった。

本丸上段
     三宝荒神の祠      志布志城スタンプ
本丸の標板(本丸上段)
三宝荒神の祠
続日本100名城 志布志城



志布志城へは、JR日南線駅から徒歩20分で内城入口 
鹿児島空港から志布志行きリムジンバスで志布志駅前で下車、徒歩20分 
志布志城のスタンプは城跡からかなり離れた志布志市埋蔵文化財センターにて
(志布志市安楽41−6 9時〜17時、入館は16時30分まで 月休12/29-1/3休) 




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霧島神宮

14時25分志布志を出発し、霧島神宮へ向かう。 
県道、都城志布志道路を通るが、ところどころで道路が分断し、工事中であった。 
また、宮崎と鹿児島の県境を走っているようで、ナビは県境のお知らせをその度に出していた。
霧島神宮の鳥居を車で越えると、正面に霧島神宮の常夜燈があり、その先に赤い橋が見える。
手前に数台止めることができる駐車場があったので、そこに停めた。  霧島神宮には15時40分に到着。 
ここには斉藤茂吉の歌碑があり、
 「 大きなるこの 静けさや高千 穂の峰のすべたる あまつゆふぐれ  茂吉  」
  と刻まれている。 隣に補足するような説明板があった。

「 大きなるこのしずけさや高千穂の峰の統(すべ)たる あまつゆふぐれ 
 南なる開聞岳の暮れゆきて暫くわれは寄りどころなし 
                       斎藤茂吉
  昭和十四年十月六日夕暮、霧島林田温泉。

 天が晴れて、桜島、開聞岳方面まで、一眸(いちぼう)のうちに入り、鱗雲が長く棚引き、 来る道からは高千穂も韓国(からくに)も
まったく晴れていたから、 めずらしく豊かな大風景となったのであった。 」  ( 「南国紀行」より )

その先に朱塗りの橋があり、渡ると交叉点で、霧島神宮駐車場は右折と表示がある。
交叉点を渡り、大きな「霧島神宮」の石碑を見て、長い石段を上った。
頭上の桜が満開で美しかった。

斉藤茂吉の歌碑
     朱塗りの橋      長い石段
斉藤茂吉の歌碑
朱塗りの橋
長い石段



参道を歩くと両側に常夜燈があり、その先の左側に展望台がある。
坂本龍馬・おりょう新婚旅行記念の看板があり、 隣に二人のパネルがあり記念写真が撮れるようになっていた。 
右奥に徳富蘇峰の詩碑がある。
「 新聖降臨地  乾坤定位時  煌々至霊気 萬世護皇基  徳富蘇峰  」 

説明板
「 徳富蘇峰は明治、大正、昭和にかけての思想家で、 皇室中心の国粋主義者である。  この詩は、昭和二十七年「卒寿」を迎えた蘇峰の詠詩揮毫で、国体の精華が詠みあげられている。 」

そのまま参道を進むと、鳥居が見えてきた。
鳥居をくぐると、正面に色鮮やかな社殿が見えてきた。 

「 霧島神宮の主祭神はニニギノミコトで、相殿神は木花開花姫尊、彦火火出見尊、 豊玉姫尊、玉依姫尊など、日本神話に登場する神々である。
六世紀に高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始めであるが、相次ぐ噴火で焼失し、 文明十六年(1484)、島津忠昌の命により、兼慶上人が再興したのが現在の霧島神宮である。
現在の社殿は正徳五年(1715)、島津吉貴の奉納によるものである。 」


徳富蘇峰の詩碑
     鳥居      社殿
徳富蘇峰の詩碑
鳥居
霧島神宮社殿



霧島神宮は、勅使殿から上に向って登廊下があり、その上に拝殿・幣殿・本殿があり、 これらが一体で構成される大規模な複合社殿である。

「  霧島神宮の社殿は、正面に勅使殿が建ち、その左右を廻廊が巡っている。 
勅使殿は方一間、入母屋造で、正面に唐破風造の向拝をつけるなど派手な意匠になっている。 
拝殿は入母屋造で、正面に千鳥破風、向拝一間を付け、極彩色、漆塗りである。
登廊下の途中から西に廊下が出て、神饌所に繋がっている。 
本殿は正面五間、側面四間、入母屋造で、正面に一間の向拝をもつ大きな建物で、 組物や各所に施されている極彩色の彫刻、小壁や天井には絵が描かれ、柱等軸部は漆塗りである。  また、向拝柱は龍の彫刻柱である。 
石段の下には左右に門守神社の小さな入母屋造りのやしろがある。 」

霧島神宮社殿
霧島神宮社殿




勅使殿の彫刻はすばらしく、天皇家の家紋「菊」の紋章がある。
ご神木として樹齢800年の杉があり、高さ三十八米、幹回り七・二米である。 
参拝をすませ、霧島温泉に向う、
泊まるホテルは、天下の名湯として三百年の歴史がある硫黄谷温泉の宿「霧島ホテル」 である。 

「  慶応二年(1866)、寺田屋事件で負った手傷を癒すため、坂本龍馬は妻・お龍とともに 硫黄谷温泉へも宿泊し穏やかな日々を過ごした。  その記録として有名な「霧島登山図」などの資料が館内展示されていた。
硫黄谷庭園大浴場はその迫力に圧倒された、  一日の湯量は千四百万リットル、一分間にドラム缶五十本の湯量という比類ないものである。 」

お湯が大プールに頭上から熱い湯が落ちてくる様はこれまで経験のないものだった。
湯もかけ流しで、数種の湯も経験できて、また訪れたいと思った。

勅使殿の彫刻
     ご神木      霧島ホテル
勅使殿の彫刻
ご神木
霧島ホテル



JR日豊本線霧島神宮駅より、バスで15分
霧島ホテル(硫黄谷温泉)へは霧島神宮駅よりバスで硫黄谷バス停で下車(580円)
鹿児島空港からホテル直通バスが出ている。




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