mrmaxの城めぐり 鹿児島県2 (鹿児島城・仙巌園)


鹿児島城は、館造りで造られた島津藩七十七万石の居城である。
日本100名城の第97番に選定されている。  


かうんたぁ。




鹿児島城

鹿児島城へは令和三年三月十九日に訪れた。
前日、指宿温泉に泊まり、ホテルを九時過ぎに出発。 朝の通勤時間帯だったので、 鹿児島市内に入ると、渋滞していて、地道を走り、一時間三十分かかって、 レンタカー返却の鹿児島中央駅西口の営業所に到着。 
車を返し、駅のロッカーに荷物を預け、駅間から市電にのり、鹿児島市役所前で降りた。 

市役所の前を通り、桟橋通交叉点を左折し、城山交叉点に出る。  左手に、最近完成した御楼門が出迎えてくれる。 
御楼門の復元には市はかなり力を入れた様子で、天璋院篤姫や西郷隆盛を使った看板があった。 
御楼門があるのは本丸の東正面である。

「  鹿児島城は、初代薩摩藩主・島津家久(忠恒)が、 標高百七メートルの城山東麓に築いた平城で、別名は鶴丸城(つるまるじょう)である。 
城山の東麓に北に本丸、南に二の丸、二の丸出丸の曲輪を設けた館造りの城郭である。 
本丸と二の丸が連郭式に並ぶだけのシンプルな縄張で、 御楼門以外には天守も櫓もなかった。 
本丸と二の丸出丸には石垣が築かれたが、高石垣などは築かれなかった。 
御楼門は本丸正面にあった櫓門で、大手門に相当し、薩摩藩で最上格の門であった。
御楼門には、藩主格の者と藩の上級家臣など、限られたものしか通行できず、 通行を許されたのは百名程度であった。 
門の内部は枡形になっている。 
江戸時代には御兵具所が門をくぐるとハリ番がいて、左側に玄関があった。 
右折するところに能方兵具方の建物があり、その左に北御門(御買物方口)があった。
御楼門の前の橋は慶長十一年(1606)に渡り初めが行われた、 という記録が残るが、 当時は木橋であった。  たびたび壊れたため、幕府へ願い出て、 文化七年(1810)に石橋に架けかえられた。 
現在の御楼門は令和二年(2020)に復元されたもので、 高さと幅は約二十メートル、奥行きは約七メートル、 総重量は約三百二十トンで、史実等に基づいて復元されたものである。 」 

鹿児島市電
     天璋院篤姫や西郷隆盛の看板      御楼門
鹿児島市電
天璋院篤姫や西郷隆盛の看板
御楼門


交叉点を越えて進むと、今は水か入っていないが、 夏には蓮が咲くという内掘がある。 
本丸を巡る石垣、そして、本丸と二の丸の間の石垣は、切込接で積まれていて、 美しい。 
石垣は内掘に沿ってあるが、北東端の石垣は角が大きく凹んでいて、 「  鬼門除けの北東端石垣 」 と呼ばれるものである。 

「 石垣の隅をくぼませていて(欠いていて)いるので、 角欠ともいわれる。 
これは当時の慣習で、南と東を陽、北と西を陰と考え、 その陰陽の境目になる北東(鬼門)と南西(裏鬼門)が忌み嫌われた。  鬼門除けとして、ここ鹿児島城では、石垣の隅を切り落している。 
鬼門除けの凹部は、通常の隅部に比べ、算木積みをしないといけない凸部が二倍、 通常は無い凹部が一つ余計できるので、石工や石垣職人に二重の手間をかけさせている。 」

本丸石垣北面に沿って西へ進む。 
正面である東側に比べ、角度がやや緩やか感じがする。 
内掘の突き当たりに土橋が見えるが、掘はここで終わりではなく、 橋の向こうにも掘と石垣は続いている。 
土橋を渡ると、「黎明館」 の看板と出入口の引き柵があるが、ここは北御門跡である。 

「 北御門は、古写真によると、 切妻屋根の瓦葺きの長屋門であったと思われる。  発掘調査で、礎石や敷石の一部が確認されている。  北御門の前の掘に架かる橋は土橋で、暗渠の排水溝が埋設されていた。 」

北御門から本丸へは、東側の御楼門のような枡形はなく、 そのまま石垣土橋を上っていたようである。 
本丸には、本丸御殿(政庁と藩主の居館、表書院など) がおかれたが、 今は、鹿児島県歴史資料センター黎明館が建っている。 
「鹿児島(鶴丸)城跡 総合案内」 の看板があった。

説明板「鹿児島城(鶴丸城)跡」
「 鹿児島(鶴丸)城は山から平野にかけて城を築く 「平山城」 でした。  藩主の居所(居館)は、城山を背にして建てられ、居所を中心に海に向って、 城下町が築かれました。  築城された頃(慶長6年:1601年)、この城の軍事機能の中核は城山にあり、 行政の機能の中核は居所に置かれました。  また、藩の政治を行う役所の一部は居所以外にも置かれていました。 
鹿児島(鶴丸)城本丸は、廃藩置県後の 明治5(1872)年に、 鎮西鎮台の分営となり、翌6(1873)年12月、失火によって焼失しました。  」

鬼門除けの北東端石垣      本丸石垣北面
     北御門跡(黎明館入口)
鬼門除けの北東端石垣
本丸石垣北面
北御門跡 (黎明館入口)


黎明館の近くに天璋院篤姫像があり、また、島津重豪の聚珍寶庫碑があった。

「 島津重豪(しげひで)が、文政十年(1827)に、 江戸高輪の藩邸内に建てた、聚珍寶庫(珍しいものを集めた宝物館)の由来を記した碑。  平成十二年(2000)、東京都大田区南雪谷の旧島津邸から移築された。 」

黎明館には鹿児島城復元模型と歴史資料がある。 

御楼門の右手には、「七高生久遠の像」 と書かれた石碑が立っている。 

「 第七高等学校は、戦後、鹿児島大学になり、 医学部があったが、移転した。 
第七高等学校造士館開校85年を記念して、昭和六十年(1985)十月に、七高同窓会により建立。  「知・情・意」 を象徴する七高生の姿をあらわしている。  」

碑の裏に、「七高ゆかりの楷の木→」 の看板が立っている。

「 楷(かい)の木は、中国山東省にある孔子廟の楷の木の種子から育てたものが、 戦後枯れてしまった。  現在の木は、昭和五十八年(1983)に、七高同窓会から寄贈・植樹されたものである。 」

その右手に、明治天皇行幸碑が建っている。

「 明治五年(1872)六月二十二日、明治天皇の鹿児島行幸を記念して、 明治四十五年(1912)六月に建立、碑銘 「行幸記念碑」 は、松方正義の揮毫である。 」

本丸の南に、「御角櫓跡」 の説明板が立っている。 

説明板「御角櫓跡」
「 御角櫓は、鹿児島(鶴丸)城本丸居所の内掘に面した南端に位置する櫓でした。  長さ約20メートル、幅約7.5メートルほどの建物だったと推測されます。  平成11年(1999)に、石垣の補修事業に伴って実施された発掘調査では、 現地表面下約1メートルの地点で、櫓の基礎の一部が発見されました。  基礎の石組みは、長さ10メートル、幅3.8メートル程度が残存しており、このことから、 御角櫓の外壁は、石垣の上と切石を並べた礎石の上に建っていたことが分かりました。  御角櫓の周辺には、幅0.6メートルほどの雨落ち溝(排水溝)が巡らされ、 同幅の犬走りがありました。  犬走りや基礎の石積みには、漆喰で固められていた痕跡が残っています。  御角櫓は、館の南東角に位置し、 城の防御とともに美観や威厳を保つ役目を持つと考えられている施設ですが、 明治初期の資料では 「御角屋敷」 と表現され、 物品収蔵施設としての用途もあったものと思われます。  13代将軍徳川家定の御台所となる篤姫(のちの天璋院)が、嘉永6年(1853)6月15日に、 ここから祇園祭を見たとの記録が残っています。 」

聚珍碑      七高生久遠の像      御角櫓跡説明板
聚珍寶庫碑
七高生久遠の像
御角櫓跡 (左奥) 明治天皇行幸碑


本丸の隅で右折して、二の丸方面へ向かう。
江戸時代、二の丸には世継や側室などの居館や庭園が設けられていたが、 今は鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などの施設が建っている。 
本丸間取図で、「大奥」 とあるところから北西に進むと 、「御庭方」 だったあたりに、「鹿児島(鶴丸)城跡 総合案内」 の看板が立っていた。 
そこから見ると、左下が図書館で、そこが二の丸跡、右側は駐車場になっている。 
道を直進すると、西門の手前左側に、「御野立所(おんのだてしょ)跡」 の石碑を見付けた。 

「 昭和十年(1935)十一月十七日、昭和天皇が鹿児島行幸の際に、 第七高等学校造士館を視察され、ホッケー競技をご覧になられた。  この視察を記念して、昭和十三年(1938)に建立された。 」 

西門を出て、左折して車道に出た。 
二の丸石垣の前に細い排水溝があるが、当時のものか、当時はもっと幅の広い掘であったのか、 分らなかった。 
江戸時代、美術館入口付近に二の丸御門、図書館前の入口には矢来御門と呼ばれる門があった。  どちらも枡形門であったようである。 

美術館前には、「距離児嶋県廰貮丁貮拾九間」 の里程標があった。 
明治四十年に建立されたもので、ここから県庁まで2丁29間の距離を表している。 
さらに進むと、二の丸跡の中央付近、美術館の南側の小山の上に、 巨大な西郷隆盛像が建立されている。 

説明板「敬 天 愛 人」
「 西郷隆盛は、幕末維新の指導者で、明治天皇の信頼が厚く、 日本最初の近衛都督陸軍大将になりました。  文政十年(1827) 下加治屋町郷中に生まれた西郷は、幼名を小吉、 通称を吉之助といい、南州と号しました。  青年時代に、二才頭として、農政に関する意見書を提出。  藩主島津斉彬の目にとまり、側近に抜擢され、国事への関心を高めました。  ところが、その斉彬が急死。  勤皇僧月照と錦江湾に投身、一人生き残って、大島に流されました。  その後、大久保利通らの助けで、幕府を倒す運動に復帰。  藩論を指導し、薩長連合を結んで、王政復古の大号令を決行。  東征大総督府参謀として、江戸城無血開城を実現しました。  新政府が樹立した後は、参議として廃藩置県を断行。  岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが外遊中の政府を預かりました。  明治六年(1873)、遣韓使節をめぐる政争に敗れて東京から鹿児島に帰った後は、 私学校を開き、後進の指導にあたりましたが、彼らの血気に押され、ついに西南戦争へと突入。  明治十年(1877)、西郷は城山で自刃しました。 
この銅像は、郷土出身の彫刻家・安東照が、習志野大演習で陸軍大将の制服を身につけた、 西郷の姿を思い描き、制作したものです。 」

二の丸の南外れから西に行くと照国神社があり、そこに城山の大手門がかってはあった。 
また、そこから登っていくと、城山公園が山城跡であるが、 そちらには行かず、ここで鹿児島城の探勝は終えることにした。 

御野立所跡碑
     美術館前      西郷隆盛像
御野立所跡碑
美術館前 (二の丸御門跡)
西郷隆盛像


鹿児島城へはJR日豊本線鹿児島駅からは徒歩15分    
九州新幹線鹿児島中央駅からは市電で12分「市役所前」下車、徒歩5分  
鹿児島中央駅からバスで約10分「市役所前」下車、徒歩5分      
鹿児島城のスタンプは鹿児島県歴史資料センター黎明館にて   
黎明館 (9時〜18時 入館は17時30分まで、月曜日と25日は休館) 




(ご参考) 鹿児島城と島津本家の歴史

島津本家の体制確立 ー 三州 (日向・大隅・薩摩) の統一

「 天文十九年(1550) 、島津貴久が十五代当主の地位を確立したころは、 北薩摩には菱刈氏や渋谷氏が、大隅には肝付・伊地知・蒲生氏が、日向には伊東氏が勢力を張っていた。 島津氏の勢力範囲は薩摩国の半分程度であった。  貴久は、子の義久や義弘を率いて、蒲生合戦や菱刈合戦、伊東氏と戦った木崎原の戦いで勝利し、 天正二年(1574)、最後まで抵抗した肝付氏を降伏させ、同五年(1577)に伊東氏を日向から追って、 念願の三州 (日向・大隅・薩摩) 統一を果たしました。 」 

島津藩の誕生と鹿児島城の築城

「 三州を統一した島津貴久の子の島津義弘は、 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際、西軍につき、敗退後、引退する。 
徳川家康より、島津氏七十七万石の藩が認められ、 慶長六年(1601)、島津家久(忠恒)が当主となり、新たな城の築城が開始され、 慶長九年(1604)に完成させた。 
実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、 最後まで築城に反対していた、という。
そうして出来た鹿児島城は、城山の東麓の本丸と二の丸が連郭式に並ぶ館部と、 背後の城山に本丸曲輪とニ之丸曲輪を構える山城部で構成された、中世以降の館造りを踏襲した城構えであった。 
背後の城山は、南北朝時代には 「上乃山城」 あるいは 「上山城」 と呼ばれた、 上山氏の居城があったところで、 ここに大手門 (大手口は現在の照国神社横) と本丸、二の丸があった、といわれるが 、今は残っていない。 
鹿児島城が築かれた頃は、城山は有事の詰めの城として、城代が置かれた。 
鹿児島城が築城された時の城代は島津常久で、かれは日置島津家第三代当主である。 
城代として四年間城山に勤務し、家族を呼び寄せ一緒に暮らしていたが、 疱瘡で二十八才で亡くなった。  その後は、城山自体が聖域として、立入禁止区域となっている。 
七十七万石の城としては規模が小さく、極めて質素な城だったのは、 江戸幕府に対する恭順の意味があったとされるが、 一方、薩摩藩は外城制という領内各地の山に支城を築いて、代官を配置する体制をとり、 一国一城制でも例外として支城が認められたので、 本城を要塞化する必要がなかったためともされる。 
家康の薩摩征伐は実施されることなく、薩摩藩は外様大名として存続を許されることとなり、 家久(忠恒)の時代に、鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。 
元禄九年(1696)に、御殿などが焼失したが、宝永四年(1873)に再建された。 
しかし、数百年後、幕末の薩英戦争の時に、義弘の懸念は現実のものとなり、 イギリス軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれた。  この時、御殿が簡素な造りだったために、イギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃して、 難を逃れた。 
廃藩置県後も、明治六年(1873)までは、本丸の御楼門と書院造の御殿などがあったが、 再び焼失した。 
遺構として残るのは本丸、二の丸の石垣と堀、大手門との間に架かる石橋、 西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡位である。 」 

鹿児島城は、明治六年(1873)十二月、失火により焼失した。 
鹿児島城の変貌と殿舎の荒廃を嘆いた元薩摩藩士成尾常矩が、 城周辺の見取図 (成尾常矩城下絵図) と、本丸間取図 (成尾常矩指図) を作成している。 
下図は、その本丸間取図 (成尾常矩指図) である。

成尾常矩・本丸間取図
成尾常矩による本丸間取図




仙巌園

令和三年三月十八日、薩摩藩主の別邸であった仙巌園を訪れた。
仙巌園は、錦江湾に面した国道10号の旧集成館前交叉点の左手一帯の山裾にある。 
旧集成館前交叉点から中に入ると、左側に駐車場があり、 反対側に旧集成館、その奥に仙厳園がある。

「 仙厳園は、薩摩藩島津家の別邸であったが、 明治二十一年(1888)から、焼失した鹿児島城に代わり、島津忠義伯爵一家の住まいになった。  忠義の死後、後を継いた忠重は、新政府の高官により、東京に移住されられ、 仙厳園は住人不在となった。 現在は島津興業が管理している。 」

入口に 「名勝 仙厳園」 の石柱があり、暖簾に、島津家の紋章・丸に十の字が、 染められている。
中に入り、右に進むと右に、土産処薩摩ののれんがあり、 左側の石垣の上には、松風軒レストラン、そして、桜華亭がある。 
下の道を進むと右側に 「近代薩摩焼発祥の地」 の石碑があり、 左側には、島津家水天渕発電所記念碑がある。
その先、右側に仙巌園の正門がある。 

「 正門は、明治二十八年(1895)、二十九代忠義により、 建てられたもので、薬医門である。 建材は裏山で採れた樟が使われている。  門の上部には島津家の家紋である、「丸十紋」 が、 その左右には、同じく、島津家の家紋である桐紋が彫られている。 」

仙厳園入口
     薩摩焼発祥の地碑      仙厳園正門
仙厳園入口
薩摩焼発祥の地碑
仙厳園正門


その先の左側に、「名勝 仙厳園」 の標柱があり、近くに説明板がある。

説明板 「名勝 仙厳園標柱」
「 仙厳園は、万治元年(1658)、19代島津光久によって建てられた島津家の別邸です。  中国江西省の景勝地、竜虎山仙厳の名前をとって、「仙厳園」 と名づけられました。  歴代当主に愛されたこの庭園は、桜島を築山に、錦江湾を池に見立てた借景庭園です。  昭和33年(1958)には、「仙厳園 附 花倉御仮屋庭園」 として、国の名勝に指定されています。 」

その先で左折すると、正面に御殿が見えてくる。 別名は磯御殿。

「 仙厳園の御殿は、島津家十九代、光久によって建てられ、 数百年の歴史の中で、建て直しや増改築が行われた。 島津家歴代がこよなく愛し、 幕末以降は国内外の賓客をおもてなしするための施設としても用いられた。  二十九代忠義は、仙厳園を本邸と定め、御座の間などを改築、 三十代忠重が跡を継ぐと、住まいを東京に移したため、邸宅は縮小されたが、 鹿児島に帰ってきた時の邸宅として、維持・管理された。 和の趣の中にたたずむ風水を取り入れた作庭や西洋風の調度品を通して、 公爵であった島津家の暮らしぶりを感じることができる。 」

観覧受付に入ると、隣が鳳の間(玄関の間)である。

「 玄関の間は、島津家の世継ぎの部屋である。  床の間の甲冑はロシヤのニコライ2世が仙厳園を訪れた際、 島津家30代忠重が着装していたものの複製品である。  大正時代に改築された時、玄関になった。 」

仙厳園の標柱
     仙厳園御殿      鳳の間
「名勝 仙厳園」 の標柱
磯御殿
鳳の間 (玄関の間)


祐筆の間には、ニコライ2世がロシア皇帝に即位した際、 島津家が贈った薩摩焼蓋付き壺の複製品が置かれていた。
中庭があり、池があった。 
テーブルに洋食用のセットがある部屋が謁見の間である。

「 賓客と面会するために用いた部屋である。  丸十紋が施されたジャンデリアに灯されたこの部屋は、 明治十七年(1884)に改築されたものである。 」 /p>

謁見の間の左下に、忠義が1日の大半を過ごしていた、という御居間があった。

「 島津家29代忠義が1日の大半を過ごしていた部屋で、 書類の決裁や昼の食事をここで行っていた。  この部屋からは、桜島をはじめ、亀石、鶴灯籠、御庭下段の梅の花、 ヤクタネゴヨウの松が目に入りました。  また、裏山にはモウソウチクの竹林、江南竹林もあるため、 仙厳園は中国の理想郷「蓬莱山」の象徴である、松・竹・梅・鶴・亀のすべてが揃った、 風水的にもよい場所とされている。 」

中庭
     謁見の間      御居間
中庭
謁見の間
御居間


御居間からはつくばい越しに、御庭、その先に当日はもやがかかっていたが、桜島が見えた。 
御居間の対面にあるのが、御小座(化粧の間) である。

「 島津家29代忠義が着替えたり、髪を結ったりするための部屋である。  忠義は古い慣習を守る人物で、息子の忠重が、随筆 「炉辺南国記」 に 「 父は終生丁髷(ちょんまげ)を残していた 」と記している。  朝の身支度として、忠義はここで髷(まげ)を整えていた。  この部屋の天井板は、矢羽根状になっており、立体感や奥行きを感じさせる工夫と言われている。 」

その先には御不浄(トイレ)や御湯殿もあった。

以上で御殿の見学は終えた。

御居間から眺望
     御小座(化粧の間)      御湯殿
御居間から眺望
御小座(化粧の間)
御湯殿


外庭の見学に移る。
玄関を出て、庭に入ると先程訪れた御殿が灯籠の先に見え、裏側の山が借景になっていた。
右側の石灯籠は、獅子乗り大石灯籠である。

説明板「獅子乗大石灯籠」
「 29代島津忠義が、明治十七年(1884)に造らせた園内最大の石灯籠です。  灯籠の上部には、江戸時代の別邸・花倉御仮屋にあった飛獅子が乗っています。  笠石は、かっての磯浜の海岸にあったもので、 たたみ8畳ほどの大きさがある非常に大きなものです。 」

錫門は工事中であった。

「 錫門は、鹿児島藩の特産である錫瓦で屋根を葺いた朱塗りの門である。  錫瓦葺きの建造物としては、我が国唯一のもので、嘉永元年(1848) の庭地拡張までは、 仙厳園の正門として使用されていた。  この門は19代光久の時に建てられたと伝えられており、 かっては、当主と嫡男しか通ることが許されなかった、とされる。 」 

御庭に入る
     獅子乗大石灯籠      錫門
御庭に入る
獅子乗大石灯籠
錫門


右手に桜島が見えるが、庭の端に鶴灯籠がある。 

説明板「鶴灯籠」
「 安政四年(1837)、28代斉彬は、鶴灯籠を用いてガス灯の実験を行いました。  この後、城下町をガス灯を灯す計画を立てますが、志半ばで急死。  豊かな国づくりを目指した斉彬の象徴となるものです。 」

望庭楼という東屋があり、左下に池泉庭園がある。 
石の配置も良くまとまっていて、穏やかの雰囲気が漂っていた。
先程の謁見の間がここから見えた。

鶴灯籠
     池泉庭園      奥に御殿
鶴灯籠
池泉庭園
石灯籠、奥に御殿


池にに近いところに、望嶽楼が建っている。 

「 望嶽楼は、19代光久の時代に、 琉球王国から贈られたと伝えられる建物である。  藩主が琉球使節と面会する際に使用されたといわれている。 
異国情緒に富むこの建物の最も特徴がある部分は床で、 中国清朝初期に阿房宮の床瓦を模造したと伝えられる、 (せん) が二百七十三枚敷き詰められている。  望嶽楼の額は、中国東晋時代の書道家王義之の書を彫った、とされている。 」

沖縄が本土復帰してまもない時、鹿児島で会議を開催した時、この磯公園を訪れた。 
沖縄の参加者が、鹿児島は沖縄を征服した国で、 この磯公園で琉球の使者は蹲り、鹿児島藩主に挨拶をした。  琉球人として屈辱的な外交であった、と云っていたことを思い出した。
亀石は、仙巌院の磯御殿と望嶽楼の間にあるようであるが、気がつかずに終わった。

「 亀石は、亀に見える石を並べ、そばの大きな木はヤクタネゴヨウである。 」

庭の池に左右にずらした切石の橋があり、「祥福橋」 と名付けられていた。

望嶽楼
     望嶽楼      祥福橋
望嶽楼
望嶽楼
祥福橋


案内書では、この先、水力発電所跡、曲水の庭、御庭神社を通って、 御殿の裏に抜けて行くコースであるが、時間の関係からここで引き返すことにした。 

最後に桜島越しの庭を写した。 

桜島遠望
桜島遠望



集成館

薩摩藩二十八代藩主・島津斉彬は、仙厳園の敷地を使って、 ヨーロッパ式製鉄所やガラス工場を建設するなどの 近代化事業(集成館事業)を起した。 
安政四年(1857)には、園内の石灯籠にガス管をつないで点火させ、 日本のガス灯発祥のルーツの一つとして挙げられる地になっている。 

説明板 日本近代化の先駈け「集成館事業」
「 海に囲まれ大陸との交流もあった薩摩には、 鎖国時代にも海外の情報がいち早く届いていました。  幕末の薩摩藩は欧米列強のアジア進出や植民地政策に危機感を募られ、 藩主島津斉彬が中心となって、積極的に西洋の技術を導入し、 軍備や産業の近代化に取り組みました。 これが集成館事業です。 
ここ磯地区には、集成館事業の中枢を担った工場群がありました。  当初は水車動力や在来の技術を生かし、洋書を参考に試行錯誤をくり返します。  艦船の建造や蒸気機関の製造、反射炉による鉄製大砲の鋳造に挑戦しました。  1863年の薩英戦争を経て、さらに西洋の蒸気機関や機械類を導入。  明治維新後、その技術が各地に伝えられ、 集成館はわが国における産業革命の先駆けとなりました。 」 

下の写真は、当時の工場群が写っていて、上にあるのがここ集成館機会工場。 
その下が、鹿児島紡績所、その下のベランダ付き洋館は、鹿児島紡績所技術館(異人館)である。 
海岸にはカノン砲が並ぶ石砲台があった。 

集成館工場群
集成館工場群


仙厳園の入口近くに戻ると、左手の山麓に山神・水神が祀られていた。 
その先の長方形の区画は反射炉跡である。

説明板「反射炉跡」
「 嘉永四年(1851)、薩摩藩主となった島津斉彬は、 日本が西洋列強から植民地化されるのではないか、と危惧していました。  これを防ぐため、西欧の科学技術を導入し、「集成館事業」という近代化事業を推進しました。  その中核となったのが、日本初の洋式工場群「集成館」でした。  集成館で最初に築かれたのが、鉄製の大砲鋳造に必要な反射炉でした。  嘉永5年に1号炉の建設が始まりましたが、耐火レンガが崩れるなどして失敗。  続いて建設された2号炉は安永4年(1857)に完成し、鉄製砲の鋳造に成功しました。  そして、反射炉の周囲に溶鉱炉やガラス工場など様々な工場が整備されました。 
斉彬が築いた集成館は、文久3年(1863)の薩英戦争で、イギリス艦隊の攻撃を受け、焼失しました。  その後、再建されましたが、それも明治10年(1877)に大半が焼失してしまいました。  今は反射炉2号炉の基礎部分などが遺り、 世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産となっています。 」

尚古館の入口を入るとあるのが、「明治天皇行在所集成館」の石碑で、 その先に石造りの建物がある。 

説明板「明治天皇行在所集成館」
「 明治5年(1872)に明治天皇が地方巡幸でこの場所を訪れた記念碑です。  当時、集成館は日本最先端・最大級の工場群であったため、天皇の視察地に選ばれました。 」

現在、尚古集成館本館となっている建物は、慶応元年(1865)に竣工した、 現存する日本最古の石造り洋式機械工場である。 
島津家800年の歴史や文化を紹介する博物館の本館として使用されている。 
その先に別館があり、外に出ると島津薩摩切子ギャラリーショップと工場があった。 
それを覗いて、仙巌園と集成館の見学は終了した。

反射炉跡
     集成館工場
2号反射炉跡
集成館工場


仙巌園へのバス利用はカゴシマシテイビュー、まち巡りバス、民営バス(3社)で 「仙巌園前」で下車
車の場合は鹿児島中央駅より20分、
鹿児島空港からは姶良IC、国道10号経由で、40分
仙巌園 9時〜17時(年中無休) 3月第1日曜日は鹿児島マラソンの為、休園


天文館通り

宮崎・鹿児島旅行の最終の3月19日、天文館通りを訪れた。

西鹿児島駅から市電に乗り、天文館で降りた。 
目の前に、天文館のアーケードがあった。 
訪れた目的は、白熊発祥のむじゃき亭を訪問するためである。
店の入口に、 「白熊生誕71周年」 と書かれた板を掲げる白熊の人形があった。 
ニ階への階段わきには、「天文館むじゃきの歴史」 という看板があった。 

、「 むじゃきは、大衆食堂として開業し、昭和24年に現在地に移り、 店内用に氷白熊の販売を開始、昭和32年からティクアウト氷白熊販売開始、 昭和56年現在の五階建てビルを建て、昭和60年に氷白熊の宅配を開始した。 
平成に入り、製造工場を造り、全国のデパートの物産展で出張販売を行う。 」

この頃から、「白熊」は話題になり、今はブームとなり、 白熊の存在は不動のものになった。
氷菓の白熊は食べていたので、本店で削りたての氷の白熊を食べたくて訪れたが、 氷で鼻かつーンとなることもなく、ふわふわで、 いろいろなフルーツなどが中に入る宝石箱のようなもので、満足した。

鹿児島市電
     天文館アーケード      むじゃき亭
鹿児島市電
天文館アーケード
むじゃき亭





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