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ミュージアム知覧 | 知覧特攻平和会館 | 桜並木 |
駐車場から桜並木を通り、交叉点を左折し、コンビニを左折し、
左にグランドを見ながら左折する。 即ち、平和会館の裏側へ半周したことになる。
右にサッカー場があるが、この一帯が飛行場があったところのようである。
道は右にカーブしていて、その先の交叉点を左折する。
道は下り坂、、道は左右にカーブ、次の交叉点で右折する。 まっすぐ行くと住宅街へ。
森に囲まれたところに出ると、左側に「国指定史跡 知覧城跡」の標柱があり、
その脇に「知覧城跡」の説明板がある。
説明板「知覧城跡」
「 鎌倉時代の始め、源頼朝の命によってできた建久八年(1197)薩摩国図田帳(土地台帳)によると、
当地は知覧院と呼ばれ、薩摩平氏の一族である平忠益が郡司として治めていたところに、
地頭として島津忠久(島津氏初代)が乗り出してきた。
その後、郡司・地頭の職務はそれぞれの子孫に継承され、南北朝時代になると、
郡司平忠世は南朝方に、地頭島津久直は北朝に属して各地域を転戦しましたが、
ともに没落してしまう。
島津宗家四代当主忠宗の三男(五代島津貞久の弟)忠光は、大隅国佐多村を領有していたことから、
佐多氏を名乗り、初代佐多忠光となる。
文和二年(1353)、足利尊氏が軍功を賞して、郡司知覧忠世の遺領を与えたことにより、
これ以後、薩摩国知覧は佐多氏の領地となりました。
室町時代初め、知覧は、そのころ南薩摩に勢力を張っていた伊集院氏の一族、
今給黎久俊が押領して、島津氏八代目久豊に反抗していましたが、
応永二十七年(1420)、ついに降伏しました。
山田聖栄自記によると、島津久豊は知覧城(当時は上木場城と呼ばれてました)に入ると、
あらためて知覧は 「 佐多殿の由緒の地である 」といって、佐多氏四代佐多親久に与えました。
これが知覧城に関する最も古い記録となっている。
その後、天正十九年(1591)佐多氏は家臣が豊臣秀吉の命令に背いたことから、知覧を没収され、
隣村川辺宮村に領地が移されました。 十年後にまた知覧に復帰しましたが、
その間に知覧城は火災にあって全て焼失してしまいました。
元和元年(1615)には徳川家康は一国一城の制をしきましたが、
それをまつまでもなく、知覧城は廃城となったものと思われます。
なお、佐多氏は江戸時代より薩摩藩一所持の家格となる。
十六代久逵は薩摩藩二代藩主、島津光久の子で、
四代藩主、島津吉貴より島津庶流知覧家として、長男家のみであるが、島津姓を代々名乗ることを許され、この後の知覧領主は島津を名乗っている。 」
説明板の隣には、「続・日本100名城スタンプはミュージアム知覧内に設置しています。」という案内文と地図が記された看板があった。
道路脇に車を置き、少し道路を歩くと、右側が開けているので中に入って行く。
ここは小谷大手口である。
(注)駐車場がその先にあることは後日知った。
「←今城・弓場城」「本丸・蔵之城→」の道標が立っていた。
このあたりには、かって、やぐら台と土橋があったようであるが、形跡は残っていない。
知覧城の全体図が上述の説明板に掲げられていた。
「 知覧城はシラス台地を利用した南北八百メートル、東西九百メートル、
面積四十五万平方メートルという壮大な城郭であった。
シラス台地のへりにできた浸食された大きな谷を利用して空堀とし、
十余りの曲輪(平坦なところ)を築いて、これらを本丸の周辺に配置した山城で、
築城当初の原形がよく保存されている貴重な遺跡であると評価されています。
中核となる本丸の他、今城、蔵之城、弓場城などの曲輪と
式部殿城、児城、東之栫、西之栫、南之栫、伊豆殿屋敷等の出城から成り立っていた。
本丸以外の曲輪は二重の深い空堀で更に囲まれていた。
十六代当主、佐多久達の時、知覧城は原因不明の出火で炎上し、廃城となった。
火災のために当時の建造物は全く残っていないが、
その後ほとんど手が入れられなかったため、
南九州中世城郭の典型例を残しているといわれる。 」
本丸へ向かって進むと「空堀」の標木があった。
「 南九州の城はシラス台地に曲輪が造られ、 雨で削られつくられた谷は空掘として利用され、平時は通路として利用された。 ここも両脇は丘稜になっていて、その上に曲輪があった。 」
その先に「←主郭部入口」の道標がある。
この先は左に曲がる枡形虎口で、右側は本丸、左側は蔵之城で、地面に「枡形」の標木がある。
枡形の階段を上ると道は左に曲がり、右側には階段がある。
ここは本丸へ入る玄関口で枡形になっている。
道の両側は開けたところに出た。 右側の樹木の間に階段が見える。
階段は右にカーブし、その先に「枡形」、そして、「虎口」の標板が現れた。
上った先には「知覧城址」の石碑があり、背後の桜は満開で美しかった。
この空地が本丸跡で、土地の一部が盛り上っていたが、何かがあった場所なのだろうか?
北側に「土塁」の標木がある。 草が生い茂っているので、確認はむずかしいが、
横に土塁が続いているのだろう、と思った。
下に降り、反対側の階段を上る。 階段の手前に「蔵之城」の道標がある。
階段は左に折れ、右にカーブし上ると、左側に「虎口」の標板があり、
かっては蔵之城の入口の虎口を形成していた。
ここは、現存する虎口で、屈折している。
発掘調査で別の虎口が発見された。 これは以前に築かれたもので、
直進して入城するようになっていた。
蔵之城は正方形に近い形をしていて、南側に柱跡が縦横に沢山配置されている。
これは大型掘立柱建物跡の表示で、
この曲輪には兵士が多く滞在できるようになっていた様子である。
説明板「 掘立柱建物跡」
「 発掘調査によって、桁行きが6.5尺(約1.97m)の東西4間(約7.9m)X
南北4間(約9m)の東・南・西側に庇がつく(3間3面ひさし)建物跡と考えられる柱穴が、
出土している。 柱の大きさは約15センチ〜約20センチ(5寸〜6寸)ほどであることが発掘調査で
分った。 室町時代の建物跡と考えられる。 」
「国史跡 知覧城跡 蔵之城跡」の説明板が地面にあった。
「 知覧城は知覧麓の武家屋敷群から、
南西に約1.2キロ、シラス台地の自然地形を利用して、深い空掘で区画され、
独立した大規模な丘稜を形成した中世佐多氏の居城である。
城の中心に位置する蔵之城は、平成13年(2001)から16年(2004)に発掘調査が実施された。
掘立柱の建物跡、虎口(城の入口)などの施設跡が見つかった。
遺物には15世紀・16世紀代を中心とした中国(明)やタイ(シャム)などの青磁や白磁、染付けの皿、碗、瓶、それに茶つぼ、茶入れ、甕など、多数の陶磁器片がある。
また、硯や碁石、かんざし、鉄クギ、金銅製の十一面観音菩薩立像などが出土した。
曲輪(平坦地)の南側には、掘立柱建物が密集して建っていたのに対して、
北側には木炭を含んだ施設の跡や炉跡などがみつかっていることから、
北側は作業場や炊事場で、南側は、武士たちの居住の場として区別されていたのだろうか。
当時の城でのくらしがしのばれる。 」
土塁は南側と東側に残っている。 土塁は土製の壁のことで、
もともとあった火山灰の地層を掘り出して築いている。
本来はもっと高かったと思われる。
蔵之城からは、使途不明な12基の竪穴が発見されている。
竪穴遺構(土坑)
「 中には3mを超える深い穴や直径約1m、円形で深さ約2m、底には、
15世紀代の青磁碗やイノシシの骨、貝殻片などが入った穴もあった。
排水を兼ねたゴミ溜めの穴、トイレ、あるいは何らかの儀式に使われた穴だったのか、
これに似た穴は、本丸跡からも1基発見されている。 」
下に降りると、「本丸・蔵之城→」「↑今城・弓場城」の道標があったので、今城方面に向う。
その先には「弓場城→」「←今城」の道標がある。
今城方面の階段を上ると、周りは樹木が繁っている平場(広場)がある。
これが今城跡で、横に少し長い形状をしていた。
今度は弓場城の道標の矢印に沿って弓場城へ行く。
こちらの道は自然のままという感じで、林の樹木の間を行く。
林を抜けると弓場城跡があった。 これまでの三つの曲輪より小さく、
横に長い五角形のような形をしていた。
奥にはしっかりした高い土塁が残っている。
以上が知覧城の中核部分で、その外に「拵」という出城や殿屋敷、蔵屋敷があったようであるが、
そこは行かなかった。
知覧城へは、
JR鹿児島中央駅から鹿児島交通バス特攻観音入口(知覧)行きで1時間14分、
中郡バス停で下車、南東へ徒歩15分
JR指宿枕崎線喜入駅からバスで薩南工業高校バス停で下車、徒歩15分
九州自動車道(または指宿スカイライン) 谷山ICから約45分
知覧城のスタンプはミュージアム知覧にて。
(南九州市知覧町平和公園内 9時〜17時 水休 12/29-12/31 7/1-7/3休 )
知覧武家屋敷
知覧城の見学を終え、知覧武家屋敷に向う。
車を走らせ、突き当たりの三叉路を左折して下って行くと、
二つ目の交叉点を越えたところに有料駐車場があるので、そこに置いた。
右側に南九州市役所がある。
城馬場通りを信号交叉点まで引き返し、交叉点を渡り、
左に入る本馬場通りの三叉路の手前に武家屋敷を見る料金所があり、御金を支払った。
「 島津氏は源頼朝より薩摩、大隅、日向を与えられた守護大名であり、
戦国時代末には九州全土の半分以上を支配し、九州全土を制覇する勢いであった。
しかし、豊臣秀吉の九州征伐で敗れ、領地が大幅に減らされ、ほんりょうである薩摩・大隅2ヶ国・
日向諸県郡は近衛前久の仲介や交渉の末、全領安堵される。
このような状態でも武士の数は減らさなかったため、薩摩藩は他の藩より武士の割合が高くなり、
全人口の4分の1程度を武士が占めることになった。
本城である鹿児島城の城下に全ての武士を集住させることができず、
各地の山城周辺に「麓(武家屋敷群)」をつくり、
数十人から、時には数千人を配置させる方法を採った。
これは外城制度と呼ばれ、薩摩藩独自のものである。
本城である鹿児島城を中心に、藩内各地に113の外城(とじょう)を設け、
島津一門家や重臣である「私領」21ヶ所や島津宗家直轄の「地頭所」92ヶ所を配置する
防衛体制を築いた。
江戸時代に入り、徳川幕府より一国一城制度が実施された際、
薩摩藩は鹿児島城以外の山城は廃止したが、外城の領主である地頭の制度は残し、
江戸幕府もそれを認めた。
麓(ふもと)はシラス台地の端にある山城跡と近くを流れる川に挟まれた、
防衛に適する場所に作られた。
麓の中心は仮屋(かりや)と呼ばれた役所や、私領の場合は領主の屋敷があった。
その周囲を馬場と呼ばれる何本かの広い道と、人が歩く程度の狭い道で町割され、
その間に武家屋敷がそれぞれ隣接するように配置された。 、
武家屋敷には門と玄関の間に生垣を配置する等、まるで城のような構造を持っていた。
武士達はそこに住み、心身を鍛え、農耕に従事し、
平和の世でありながら、武芸の鍛錬に励んでいた。 」
上記に記されているように、知覧の麓は、麓川にある。
知覧武家屋敷群の道に入ると、きちんと刈り込まれた生垣の家が続く。
この先に国の名勝に指定されている七つの庭園がある。
最初に入った西郷恵一郎庭園。
「 庭の南東部の隅に、枯滝の石組を設けて高い峯とし、
この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの遠山を表現している。
鶴亀の庭園とも呼ばれ、一変して高い石組は鶴となり、
亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。 」
知覧麓の整然とした縦横の道路は、第18代知覧城主の島津久峯の時代に造られたものである。
「 武家屋敷庭園群は1750年前後に造られた。 主屋と庭園がよく調和し、石垣の上には大刈り込みによる生垣がつづいて、 麓全体が母ヶ岳を中心に自然をよく取り入れた一つの庭園を形成している。 昭和56年に7庭園が名勝に指定された。 指定理由として、鹿児島藩にだけにある郷の麓にあること、 いずれも江戸時代中期の作庭で、それぞれ優れた意匠で構成されていること、 その手法は琉球の庭園と相通じるものがあることなどをあげ、 庭園文化の伝波を知るうえでも、貴重なものと、説明している。 」
その先の交叉点の先、右側に平山亮一氏邸があった。
「 江戸時代に建設された主屋は、茅葺から瓦葺きに姿を変え、
今も残されている。
庭園は天明(1781)の作庭と伝えられ、イヌマキの生垣は波状に、
サツキの刈込は築山のように仕立てている。
刈込の前には琉球庭園に見られる盆栽を乗せるための切石が置かれている。 」
サツキが咲く頃くると、ピンクではなやかになり、きれいだろうと、思った。
その先に三叉路があるが、ここに「石敢当」と「稽古所跡」の説明板があった。
白い石が石敢当で、「稽古所跡」の石碑も立っていた。
説明板「石敢当」
「 三叉路の突き当たりに建てられているこの石塔は、屋敷内に魔物が入ってくるのをふせぐ
「石敢当」というものです。 中国発祥の考え方で、江戸時代に琉球を経て伝わりました。
丁字路や三叉路に設置されます。
南九州市では、麓(武家屋敷群) や海運業が盛んであった海岸地域に多く確認されています。 」
説明板「稽古所跡」
「 江戸時代後半、郷土子弟の教育の場が稽古所です。
稚児は数え7歳から、二才は15歳から25歳までの若者が学問や武術礼儀作法を学びました。
知覧には5番組まであったとされています。
石碑の右側には、ここは知覧島津氏が領主の時代に武士たちの青年たちが集まり書を読み、
学問を行い、武芸の鍛錬に励むために設置された場所であると彫られています。
「書ヲ読ミ武ヲ練リ」の書は、太平記や義士伝、太閤記を読み上げ、武は示現流の剣術や弓術、
相撲を修練していたとされています。 」
その先は道が右に曲るが、正面に重厚な茅葺屋根の家が見える、
道に石垣の前に、「大河ドラマ「西郷どん」撮影地 知覧武家屋敷庭園群」
「第一話 妙円寺詣りのシーン 撮影日 2017.8.27(SUN) 」の看板があった。
道を進むと、左側に「知覧型二ッ家」の説明板があり、中に入ると茅葺の家があった。
説明板「知覧型二ッ家(小棟おき二ッ家)」
「 鹿児島に独特だといわれる二ッ家の中で、特に知覧だけにみられる二ッ家は、
二つの屋根の間に小棟をおいてつなぎとした造りです。
民家建築文化史の上からも、貴重なものとされています。
居住用のオモテと台所のあるナカエの建物が、別棟となっている分棟式民家は、
生活上不便が多く、次第に近づけるようになったのです。
知覧型ニッ家は、その分類式の建物であるオモテとナカエが合体したもので、
知覧大工によって創作された知覧独特の知覧町の建築文化であります。 」
二ッ家を出て進むと、左側に佐多美舟庭園があった。
説明板「佐多美舟庭園」
「 宝暦年間(1751〜1764)の作庭と伝えられ、指定を受けた7庭園で最も広い庭園です。
美舟家は、知覧の領主の流れをくむ家柄で、
江戸時代は御役人と言われる知覧における最高の役職を担う家の一つでした。
門も最も高い屋根の左右に一段低く小さな屋根を付けた格式の高い門構えとなっています。 」
反対の右側にあるのが佐多民子庭園である。
説明板「佐多民子庭園」
「 巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景をうつしだし、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、
仙人が岩の上から手招きしているようだ。
麓川の上流から選んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨石のため、石目にそって割り、
牛馬で運びしやすくしたものである。 」
その先、右側にあるのは佐多直忠宅である。
門をくぐると、切り石の目隠しに突き当たる。 屏風岩とも呼び、防衛を兼ねた造りである。
「 この家は
知覧島津家重臣・佐多十郎左衛門(現当主の曽父母)の時代(約170〜180年前)に建てられたものだが、
その後、中屋(土間、囲炉裏等を備えた炊事棟)を解体、規模を縮小し、
来客を接客する部屋がある棟の一棟を瓦葺きにした。 平成19年に中棟を増築の形で復元した。 」
左にすすむと、形の樹木に刈り込まれ、その下に小さな灯籠があった。
その先には母ヶ岳を借景とした石組の枯山水の庭があった。
説明板「佐多直忠庭園」
「 佐多直忠住宅は、江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。
1741年〜1744年の作庭で、借景の母ヶ岳を望む庭の一隅に、
石で組まれた築山を設け、その中心部に3.5mの立石と枯滝の石組が絶妙な趣きを呈し、
一幅の水墨画をそのままに現わした名園である。 」
そこを出ると、交叉点で、直進すると、左側に「旧高城家住宅」の説明板がある。
説明板「旧高城家住宅」
「 旧高城家住宅は、明治以前に建てられた武家住宅であり、
「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つがある特徴をもっている。
他の知覧型二ッ家と同様に「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いたタイプのもので、
知覧だけにみられる。
二つの本棟と小棟の形、そこにできる屋根の造形は実に美しく、
この構造は、知覧大工の創造力と技術によって完成されたものである。
昭和に入り、「なかえ」部分は失われていたが、平成6年3月に復元したものである。 」
建物の前の奥行きがなく、写真のフレームに入りきれなかった。
色の新しい右側が復元されたものである。
左側の縁側の外の廻りに庭がつくられていた。
この先に森重堅庭園があるが、ここで終わりにして、駐車場へ戻った。
16時前、駐車場を出て、今夜の宿泊先の指宿岩崎ホテルに向った。
有料道路は使用せず、備蓄石油タンクのある喜入近くに降り、
国道226号を左に時々海を見ながら走り、約1時間かけてホテルに到着した。
ホテルで小休止後、ホテルの地下から海岸に設けられている砂風呂へ行った。
「
指宿の地形が特殊で温泉が海岸に流れているのを利用しているのが砂風呂である。
のんびりと海を眺めながら、楽しむものと思っていたのは間違い。
砂をかけられて、5分もしない内、身体があつくなり、そのままだと茹で蛸になると、
係員に合図して砂を除いてもらった。 」
砂風呂とはという貴重な体験であるが、
私が理想にしていたのんびり砂の中とは違っていた。
この後、屋上にある展望ふろで、のんびりし、今日一日の疲れをとった。
知覧武家屋敷へはJR鹿児島中央駅から指宿枕崎線坂之上駅で下車、 知覧行きのバスで、市役所前下車すぐ