mrmaxの城めぐり 熊本県1 (熊本城・水前寺公園)


熊本城は、肥後藩主になった加藤清正が七年もの歳月をかけて、 築城した鉄壁の守りを誇った大城郭である。 
大坂城、名古屋城と並び、日本三名城に数えられており、 重要文化財が13件である。 
日本100名城の第92番に選定されている。
水前寺公園は寛永九年(1632)に、肥後の城主となった細川忠利により築かれた、 桃山式庭園である。


かうんたぁ。




手取天満宮と小泉八雲旧居

令和三年(2021)八月二十六日(木)、前夜は水道町電停前の東横インに泊まった。 
九時過ぎにホテルを出て、熊本城へ向かう。 

ホテルを出て、右折すると右手の小路の先に手取天満宮があったので、お参りをした。 

説明板「手取天満宮」
「 御祭神: 菅原道真公
 由緒: 後光明天皇の御代 承応年間(西暦1650年頃) 手取被分町の住人、肥後藩士 平井勘右衛門正恒は かねてより天満宮を崇敬し、或る夜管公が夢枕に立たれ、平井家の井戸にきていることを告げられ、 翌朝邸内の井底より尺余の天神尊像を得て、一宇を創祀し鎮祭。  宝永五年三月、平井家大火に罹り焼亡の砌、神祠も延焼。  近くの鎮護山長安寺境内の梅の樹より、夜々光明を放つ微があった。  寺僧之を怪しみ梅の樹の下に至れば天神様の尊像厳然として出現された。  僧かしこみて使いを出し、平井氏は年来の信徒達を率いて来たが、 その奇瑞を感じ、元の如く邸内に復祭を議れしが火災を遁れて此の地に来られし故に、 長安寺境内に鎮祭されることとなった。  その後、七十余年月を経て、安永七年七月二十八日、再び大火が起こり、 寺塔悉く回禄となりしも神祠はこれを免れた。  明治の初め、神社区画改正の際、熊本五小区中の氏神社に定められ、 大正の御代に地方宮より市内幣饌料供進の神社に指定された。  昭和二十年七月一日の熊本大空襲では戦災にあうことなく、厳として残り奇しき由来多く、 学業成就、厄除開運、鎮火の神として、 城東校区の氏子を始め、多くの崇敬者に崇敬されている。  昭和初期までは毎年一月二十五日の初天神の祭典には管公出現の井より若水がお供えされていた。 
平成十四年十月二十五日 管公壱千百年大祭斎行。 
境内に徳富蘇峰揮毫碑二基、汗かき地蔵堂あり。 」

御参りを済ませ、車道に出て、道の反対にあるつるやデパートの二つの建物前に出て、 その間の道を南に進み、右折すると左側に、小泉八雲が住んでいた家がある。 

説明板 「小泉八雲熊本旧居」
「 小泉八雲(こいずみやくも) 別名ラフカデイオ・ハーンは、 怪談「耳なし芳一」、「雪女」、「むじな」などの作者として、知られています。  この小泉八雲熊本旧居は、明治24年(1891)、第五高等中学校(現在の熊本大学)の英語教師として 熊本に赴任した際、最初の一年を過ごした住居です。  八雲の日本に関する最初の著書である「知られざる日本の面影」は、 ここで執筆されたといわれています。  昭和35年、解体の危機にさらされましたが、小泉八雲熊本旧居保存会が結成され、 翌年、旧居は現在地に移築、保存されました。 」

手取天満宮
     徳富蘇峰揮毫碑      小泉八雲旧居
八王子城跡自然公園
徳富蘇峰揮毫碑
小泉八雲旧居






熊本城

小泉八雲熊本旧居前の道を西に進むと、熊本市役所に突き当たる。 
市役所に入り、 中を通り抜けると熊本城のお堀前のバス停がある道に出る。 
目の前に熊本城の城壁が続いている。 
市役所の左側にある交叉点で、車道を渡り、対面に出る。 
ここは中央区花畑町1番 「←熊本城440m 桜の馬場城彩苑340m 熊本城ホール750m 」「中心市街地(アーケード)300m↓」 の道標がある。 
坪井川の向うには櫓と長塀(土塀のある石垣)が連なっている。
右端に見えるのは竹之丸にある平御櫓である。 

説明板
「 平櫓は、長塀の東端にあるが、 長塀の防御線を一段高いところから擁護する役割、 須戸口門から進入した敵を、東竹の丸との連携で挟み打ちにするための櫓である。  櫓に上る石段は、敵が須戸口門を突破した時、この石段を崩して侵入を防ぎ、 敵中で孤立した時も拠点として最後まで戦える櫓として造られたと考えられる。
平櫓は、江戸時代の寛永年間(1624〜1644)に建てられたが、 現在の建物は明治二年(1869)に再建されたものである。 」

道標の案内に従い、川辺の道を左に進むと、「長塀の復旧」の説明板がある。 

「 平成28年熊本地震で倒壊した国指定重要文化財の長塀は、 平成31年(2019)2月から復旧工事を開始し、令和3年(2021)1月に完成しました。  長塀の復旧は、破損した部分を補修し、可能な限り元の部材を再利用しながら、 工事を進めました。 さらに塀本体と控石柱をステンレス製の筋交いでつなぐなど、 耐震・耐風対策も施しました。 」

左側の建物の壁に「城見櫓」の入口を示す看板があったが、そこには行かなかった。 
右手に馬具櫓と長塀が大きく見えるところまできた。 

「 馬具櫓は江戸時代初期(慶長〜寛永年間)に建てられたと考えられる。  現在の建物は平成二十六年(2014)に復元されたものである。 」

復旧された長塀
     説明板      馬具櫓と長塀
復旧された長塀と表御櫓
「長塀の復旧」の説明板
馬具櫓と長塀



ここには「熊本城復元整備予想図」と書かれた熊本城の全体図があり、 国の重要文化財が前述の長塀を含め、十三ヶ所、復元完了五ヶ所、 短期計画による復元建造物十ヶ所、復元予定建造物六ヶ所、とあった。 
復元された建造物を含め、2016年の熊本地震により、大きな被害を受け、 五年経った今日でも再建途上にある。

「熊本城の歴史」
「 天正十五年(1587)、豊臣秀吉による九州平定により、 肥後国の隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を行い、肥後国人一揆を起される。  翌天正十六年(1588)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国を与えられ、 十九万五千石の領主になり、隈本城に入った。  加藤清正は、天正十九年(1591)から室町時代に築かれた千葉城や隈本城のあった茶臼山一帯に 築城を始めた。 慶長五年(1600)には天守閣が完成。  同年の関ヶ原の戦いでは東軍で活躍し、徳川家康より肥後一国五十二万石を与えられ、 慶長十一年(1606)には城の完成を祝い、翌年、隈本から熊本と名を変えた。  これが現在の熊本城である。 
慶長十五年(1610)から、通路で南北が分断されていた本丸に、 通路をまたぐ形で本丸御殿が建造された。   これにより、天守二上るには本丸御殿の下の地下通路を通らなければならなくなった。 
寛永九年(1632)、加藤氏の改易により、豊前小倉藩の細川忠利が熊本城に入り、 城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷きを造営し、 以後、歴代藩主はここを日常の住まいとした。 
細川氏時代にも二の丸の整備や三の丸の開発は続けられ、天保年間まで続いてという。 
明治維新を迎えても、城解体反対派により、解体を免れた。  明治十年(1877)の西南戦争では城内に籠った新政府軍を西郷軍が攻めたが、 落城せず、城の強固さは証明されたが、本丸の大部分が焼失、 しかしなお宇土櫓はじめ十二基の櫓が現存、 清正流と称された高石垣もほぼ完全な姿で残っていたが、 2016年の熊本地震により熊本城は大きな被害を受けた。 」

 
 

復旧された長塀
熊本城復元整備予想図



馬具櫓の手前の堀には御幸橋が架かっているが、その手前の小公園に加藤清正の銅像がある。 
被っている烏帽子は彼のトレンドマークで、近くに「碧城」の石碑があり、その裏に

「 この地は加藤清正の「御花屋敷」の西北隅にあたる。  (以下読めず) このように由緒あり、城内への重要な入り口である。  現在地に加藤清正公の銅像を設置することが最もふさわしく、 「辛島公園」から移築したものである。
  平成三年九月 熊本市長 田尻清幹  」 とあった。 

城内に入るには御幸橋を渡り、櫨方門からのルートと奥の頬当門(ほほあてごもん)  からのルートがあるが、櫨方門へ向かう。 

説明板「御幸橋」
「 明治二十六年(1892)、天皇の2度目の熊本行幸が決まると、 天皇の馬車が通れるように南坂の傾斜を穏やかにして、 坪井川の上流にあった下馬橋を直進できるように現在の位置に架け替えました。  当時、この橋は御下馬橋と名付けられていましたが、 間もなく天皇御幸を記念して御幸橋と呼ばれるようになりました。 」

橋を渡る時、馬具櫓を見ると櫓を支える石垣が崩れたままになっていた。 
地震の爪跡である。 

加藤清正の銅像
     御幸橋      馬具櫓
加藤清正の銅像
御幸橋
馬具櫓



直進は御幸坂、右に櫨方門(はぜかたもん)がある。 

「 櫨方門は加藤神社があったところに櫨方からここに移設された、といわれる。  櫨方門へ入ると、長い石垣に囲まれた竹之丸と呼ばれる広間に出て、 飯田丸経由で、本丸へ行くルートが一般的である。 」

小生が櫨方門に入ろうとすると、進入禁止になっていた。 
熊本県はコロナの万延防止地区になっていたが、 ホームページでは天守の見学ができると掲載されたままになっていたので、 熊本城を訪問したのだが、残念であるがしかたない。 
左手に桜の馬場 城彩苑がある。 

「 桜の馬場 城彩苑は、地域の食文化や歴史伝統を発信し、 お城と城下町の魅力を高める目的で、設置された観光施設である。 」

観光案内所があり、100名城のスタンプがあるので、訪れたが、 無人で暗くやっていなかった。 また、熊本城の資料も有料なものしかなく、 城のガイダンスのようなものはなかった。 
食事処などの施設も平日でもあり、休店になっていて、人影はいなかった。 
頭上にあるのは未申櫓であろうか?
階段を上ると、「飯田丸五階櫓」の説明板がある。 

「 飯田丸一帯は、加藤清正の家臣で、築城の名手といわれた飯田覚兵衛(かくべい) が築いたと伝えられ、その南西角に五階建てが建てられていました。  櫓は明治時代になると、軍によって撤去されましたが、 平成十七年(2005)に木造で復元しました。  平成二十八年(2016)の地震では下部石垣が大きく崩落しましたが、角石のみで櫓を支え、 被災した人々に勇気を与えてくれました。  現在は櫓・石垣共に解体されていますが、解体中に築城当時の石垣が確認されました。 」

櫨方門付近
     城彩苑      飯田丸五階櫓説明板
櫨方門付近
城彩苑
飯田丸五階櫓説明板



道なりに進むと、「←二の丸広場 熊本県立美術館   熊本城入口南口券売所→」の道標があるところに出るが、通行は規制されている。 
未申櫓(ひつじさるやぐら)の説明板があった。

「 未申櫓は、西出丸の南西角にある三階櫓です。  江戸時代には方角を干支の動物で表すことがあり、 南西を意味する「未申(ひつじさる)」の名が付いています。  櫓は明治時代に解体されましたが、平成15年(2003)に木造で復元しました。  堀で囲まれたこの一角には、役所機能が集められ、「奉行丸」とも呼ばれています。  平成28年(2016)の地震では、石垣や塀がいたるところで崩れました。 」

未申櫓の左側の掘は薬研掘で、現在臨時の石置場になっていた。

説明板「薬研堀の石置場」
「 薬研堀には、これまで実施した頬当御門周辺、加藤神社、山崎口周辺、 二の丸御門跡の石垣回収工事で、回収された石材を保管しています。  手前に見えるのは築石(石垣表面の石)の背後に詰められているグリ石(裏込め石)で、 回収された場所ごとにまとめ、保管しています。 」

未申櫓
     未申櫓      薬研堀
道標と未申櫓
未申櫓
薬研堀



地震の前は、未申櫓から元太鼓櫓へ続く道が二の丸広場への通り道であったというが、 崩壊したため、通ることができないので、 薬研堀を越え、そのさきで右折して薬研掘を見ながらすすむ。
右手に天守閣の一部が見えた。
その先は二の丸駐車場で、お休み処があった。 
ここには、日本100名城のスタンプが厳重に保管されていて、 ここで我々は最後のスタンプを手に入れた。 
城印も熊本城に関する本も販売しているが、係員は無愛想であった。

天守閣
     お休み処      熊本城のスタンプ
天守閣が見えた
お休み処
熊本城のスタンプ



二の丸駐車場にあった周辺案内図によると、 立ち入りが許されているのは桜の馬場 城彩苑と二の丸広場と三の丸だけで、 桜馬場から二の丸広場は見学者通路のみ通行可能で、その間は無料のシャトルバスも走っている。 
今年の六月頃から熊本城特別公開エリアとして、 この先の西大手門から頬当御門、天守閣、本丸御殿を経て、 桜の馬場の南口券売所に至るコースが設定されたので、これに参加するために来たが、 八月三日からコロナの万延防止処置として、ツアーが中止されてしまった。 
その他のところに入れないのは、地震による修復が終了されないためのようである。 
小生は立ち入り禁止地区になっている西大手門に向って進む。 
西大手門のところは前と両側、そして裏、歩道以外は緑のフェンスで囲まれていて、 「西大手櫓門・元太鼓櫓」の説明板があった。 

「 熊本城では、西出丸に西・北・南3つの大手門を置き、 このうち城の玄関にあたる西大手櫓門は最大規模かつ最も格式の高い門でした。  明治時代に軍が取り壊した後、昭和の復元工事や平成の台風被害を経て、 平成15年(2003)に木造で復元しました。  元太鼓櫓も同時期に復元したものです。  平成28年(2016)の地震で、西大手櫓門・元太鼓櫓ともに石垣が崩落し、櫓が傾きました。  現在、建物と石垣は回収し、崩落防止の安全対策を行っています。 」

左に「加藤神社」の矢印があるので、道に従い進む。 
右側の桜の間から内掘越しに天守が見えた。 
その先を見ると、石垣が崩落していているが、その先に宇土櫓がある。 


説明板
     お休み処      宇土櫓
西大手櫓門・元太鼓櫓の説明板
天守
崩れた石垣と宇土櫓



道の右側には「元太鼓櫓(震災前)」の写真がぶら下げられたテントがあり、 回収された石が置かれていた。 
また、「西大手櫓門」の写真が付いた、組あげた姿の石垣もあった。 
この一帯は回収された石材の保管所と事務所になっていた。 

元太鼓櫓の石材
     西大手櫓門材      西大手櫓門
元太鼓櫓の石材
組あげられた西大手櫓門材
震災前の西大手櫓門



見学通路を進むと、西の丸の突き当たりの左側に戌亥櫓があったが、 手前の石垣は崩れて、全体的に左に傾いていた。 

「 戌亥櫓は木造2重3階の隅櫓で、戌亥(北西)の方向に建っていることから、 その名で呼ばれている。  戌亥櫓から右に伸びる西出丸塀は、西大手門まで百五十七メートルあるが、 隅櫓から数十メートルが崩壊していた。 」

近くに「西出丸」の説明板があった。

説明板「西出丸」
「 本丸西側の守りを固めるため、西出丸が築かれました。 江戸時代後期の絵図によると、 西出丸には「西御蔵」と呼ばれる年貢米などを保管する蔵があり、 蔵の北側に「御銀所」という落札(各藩が独自に発行する紙幣)を管理する役所がありました。  また、北西隅には3階建ての戌亥櫓がありました。  明治時代には櫓は解体されましたが、平成15年(2003)木造で復元しました。 」

ここには管理事務所の架設プレハブが建っていたが、その前を右に曲がると、 橋があり、加藤神社の方へいける。 
橋を渡ると、「清正公」の青い幟が多く祀られている、 大きなな樹木の下に「櫨方会所跡」の説明板がある。 

「 現在、加藤神社があるところは、江戸時代後半、「櫨方会所」という、 ろうそくの原料となるハゼの栽培を管理する役所がありました。  東隅には櫨方三階櫓があり、西側には櫨方門がありました。  昭和35年(1960)、加藤神社の現在地への移築に伴い、櫨方門は竹の丸へ移設し、 料金所として使用しました。 
その先に鳥居があり、その奥に加藤神社の社殿がある。

「加藤神社御由来」
「 御祭神は加藤清正公 陪神は大木兼能公と韓人金宦公
加藤神社の始まりは、慶応四年に熊本藩主細川韻邦公の弟、長岡護美公の建議により、 明治元年朝廷より神祭仰せ出され、浄池廟を新道儀式にて守護する。 
明治四年に熊本城内で、神宇を創建し、錦山神社と公称する。 
明治五年に大木兼能公と韓人金宦公を合祀する。 
陸軍の熊本鎮台が城に置かれたことにより、明治七年に市内京町台に改築遷座された。 
明治十年の西南戦争で、社域は戦場になり、焼失。ご神体は逃れて無事。
明治十九年社殿再建なる。
昭和三十七年永年の熊本城内遷座の願いが叶い、現在地に遷座する。 」


戌亥櫓
     櫨方会所跡      加藤神社
戌亥櫓
櫨方会所跡
加藤神社



加藤神社の境内からは本丸の建物がよく見えた。 
手前に見える建物は宇土櫓で、奥にあるのは大天守と小天守である。 
熊本城では、最高所にある本丸に大天守や小天守を建て、各曲輪には宇土櫓をはじめ、 三重天守に匹敵する五階櫓を五基も建て並べた。 

説明板「宇土櫓」国指定重要文化財
「 三の天守といわれる宇土櫓(うどやぐら)は、地上五階、地下一階、 建物の高さは19m、土台石垣の高さは21m以上と大天守に次ぐおおきさです。  西南戦争直前に大小天守は炎上しましたが、宇土櫓は焼けずに残りました。  熊本城では、江戸時代から残る唯一の五階櫓です。  平成28年(2016)の地震では、南に続く続き櫓が倒壊し、五階櫓の漆喰壁・床などが破損しました。  土台石垣も大きく膨らんだ箇所があります。 」

地震前の写真が付いていたが、比較すると宇土櫓の右側に延びていた続き櫓がないことに 気が付いた。 
宇土櫓は三層五階の櫓で、その右(南)に二階の隅櫓と平櫓から構成される続櫓が繋がっていたのだが、それが崩れて石垣や石材が下に流れている。 
なお、深い堀側の石垣の高さは二十メートル程あるという。
加藤神社の社殿近くから見ると堀の奥に、小天守とが大天守がよく見えた。

説明板「天守閣」
「 大天守内部は地上六階地下一階の建物です。  明治10年(1867) 西南戦争直前に焼失し、現在の天守は昭和35年(1860)に古写真などを基に 再建されたものです。  白漆喰と黒い下見板の調和が力強く、大天守の出窓には「唐破風」という曲線の装飾、 下の階には「千鳥破風」という反りが美しい装飾も施されいます。  現在も「熊本の誇り」といえる建物です。 」

大天守は、天守台(石垣)よりも木造部分の一階の方は広い、 「張出造り(はりだしつくり)」という手法で造られている。 
小天守は、大きな櫓(建物)の上に小さな望楼がちょこと乗っているような独特のデザインである。 
これまで訪れた他の城の天守とは違っていたのに驚いた。 
熊本地震で被害を受け、再建していたが、今年の五月から特別公開と形で、 日を決めて公開していたが、コロナのまん延防止処置として、休館が続いている。 
本丸御殿は平成二十年に復元されたが、ここからは見えなかった。

現在の宇土櫓
     被災前の宇土櫓      小天守と大天守
現在の宇土櫓
被災前の宇土櫓
小天守と大天守



熊本城の後半と水前寺公園は、   熊本の城1(熊本城 その2)をご覧ください。