mrmaxの城めぐり 熊本県2 (八代城)


八代城は加藤清正の次男、 熊本藩第二代藩主忠広が、江戸幕府の許可を得て、家臣の加藤正方に命じ、 松江村の徳渕津近くに築いた城で、元和の一国一城令の例外になった城である。 
続日本100名城の第190番に選定されている。


かうんたぁ。




八代城

令和三年(2021)八月二十五日、前夜泊まった福岡から、博多発八時三十九分発さくら403号に乗り、九時二十九分に新八代駅に着いた。 
事前に連絡していたので、レンタカー会社の迎えの車が駅前にきていた。 
レンタカー会社で車を借り、市立博物館未来の森ミュージアムの駐車場に車を停めた。
駐車場の近くにある八代市立博物館未来の森ミュージアムの守衛所に、 続日本100名城の八代城のスタンプが置かれているので、捺印した。 
なお、市立博物館には八代城の城郭模型が展示されている。 

さくら403号
     レンタカー送迎車      未来の森ミュージアム
さくら403号
レンタカー送迎車
未来の森ミュージアム



未来の森の前の車道に出ると、道の反対にあるのは、城主の御茶屋である松浜軒で、 その東側に松井神社が祀られている。 

「 肥後熊本藩細川氏の筆頭家老で八代城代であった松井氏の邸宅と庭園である。 」

道を右にとり、すすむと右手奥にお祭りでんでん館と八代市厚生会館がある。 
北側は北の丸町で、浅野神社があり、 バス停名の「松江城町」の「松江城」は八代城の別称である。 
その先に松江城町交叉点があり、その左手には松江神社がある。 
交叉点を渡ると右手にあるのは水堀で、松江城ともいわれた八代城跡である。 

「  八代(やつしろ)には南北朝時代に古麓城があったが、宇土城主になった小西行長は、球磨川の三角州に総石垣造りの麦島城を築いた。  しかし、関ヶ原の戦いに敗れ、刑死され、小西家は改易となる。  肥後五十二万石を与えられた加藤清正は、重臣加藤正方(片岡正方)を城代として、 麦島城に入れた。  元和の一国一城令でも、麦島城は例外として存続が認められたが、、 元和五年(1619)の大地震により、麦島城が倒壊したため、廃城となった。 
、 加藤清正の次男、熊本藩第二代藩主加藤忠広は、元和六年(1620)、 江戸幕府の許可を得て、松江村の南、球磨川(前川)の北岸、 松江の徳渕津近くに、家臣の加藤正方に命じ、築城を開始した。  元和八年(1622)に竣工した八代城は、 麦島城時代に認められた一国二城体制下でも継続された。
それがJR八代駅の西北西二キロの八代市役所の西側に築かれた平城の松江城である。 
寛永九年(1632)、加藤氏が改易されると、細川忠利が熊本藩主となり、 忠利の父・細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。
忠興は八代城の整備を行い、北の丸の隠居所には名木臥龍梅を植え、茶庭を設けた。 
忠興は四男の立孝を本丸に住まわせ、 いずれ、自分の隠居料九万五千石を継がせて、立藩させることを望んでいたようだが、 正保二年(1645)、立孝は若くして没し、忠興も同年十二月に没した。 
忠興が没した後は細川家の筆頭家老で、 徳川将軍直臣の身分も持つ松井興長が八代藩三万石の城主となり、 以降、明治維新まで松井氏の居城となった。 」

八代城跡は、周囲を約二百メートルの水堀と石垣が囲んでいる。 
上部に標柱が見える石垣は大天守台である。 

「 外観四層、地下一階の大天守は八代城本丸の北西隅に建てられ、 大きさは東西十間、南北十一間であった。  また、渡り廊下で二層二階の小天守とつながっていた。  しかし、寛文十二年(1672)、落雷による火災で焼失してしまった。 」

松浜軒
     松江神社      八代城大天守石垣
松浜軒
松江神社
八代城大天守石垣



「官幣社 中社 八代宮」の石柱のある「北参道神橋」と刻まれた橋を渡るが、 ここは北側に虎口(出入口)が開かれていた「裏枡形門」の跡である。 
橋を渡ると両側にしっかり築かれた本丸石垣が内掘に沿って続いている。 
その先の左側の小高いところに、「八代城跡 廊下橋門」の石柱があった。 

北参道神橋
     本丸石垣      廊下橋門の石柱
北参道神橋
本丸石垣
廊下橋門の石柱



江戸時代には水堀の上に廊下橋が架かっていたということである。
「八代城跡 廊下橋門」の石柱の右側には廊下橋門の石垣が残っていた。 
庭木に囲まれた中に、西山宗因の句碑がある。 
 「 雪見よと兼ねては植し浦乃松 」  
句碑は、昭和四十年三月二十八日に、西山宗因顕彰会が建立したものである。  

廊下橋門は枡形になっていたようで、正面に石垣があり、 左折すると植え込みがある庭である。 
現在は本丸跡が八代城跡公園になっている。 

「 八代城は本丸の北西隅に四重五階の大天守と二重二階の小天守、 七棟の櫓をはじめとする建物が建ち、石垣に石灰岩が用いられ、 その色から別名「白鷺城」とも呼ばれた。 
寛文十二年(1672)の落雷により、天守、櫓、長塀を焼失。 
寛政九年(1797)には落雷により、本丸大書院、三階櫓等を焼失した。
大書院は再建されるが、天守や櫓は再建されなかった。 
明治維新の廃城令で廃城になり、城は壊された。 」 

廊下橋門石垣
     西山宗因句碑      八代城跡公園
廊下橋門石垣
西山宗因句碑
八代城跡公園



右側の石垣の下に「埋め門跡」の標柱が立っていた。 
右折すると、八代宮の社殿があった。 

「 八代宮は明治維新により廃城になった八代城本丸跡に、 南朝の征西将軍懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社として創建された。 
南側に八代宮の参道として、月見櫓と舞台脇櫓の間の石垣を取り壊して造られた。 」

八代は天皇崇拝の強い地区と思え、「昭和天皇 武蔵野陵遙拝所」の石柱が立っていた。 
現在、相撲場となっている場所の近くには、かって能舞台があった、という。 

説明板
「 相撲場の左側の隅に、宝形櫓、その北側に磨櫓があり、 その北側に欄干橋が架かっていた。 
本丸の東側の欄干橋と高麗門が本丸の表枡形門であったが、今は残っていない。 
また、相撲場の西側、現在の八代宮のある場所に本丸御殿が建っていた。 」

埋め門跡
     八代宮社殿      相撲場
埋め門跡
八代宮社殿
相撲場



歩いて行くと、八代宮の正面に出て、八代宮と八代城跡の説明板が立っている。 

説明板「八代宮 八代たてもの」
「1619(元和5年)、地震により麦島城が倒壊すると、城代・加藤正方は当地に城を移し、 1622(元和8年)、八代城(松江城)を完成させる。  欄干橋の擬宝珠には竣工年の銘が残されている。  石垣には八代産の石灰岩を用い、麦島城の石垣も再利用したが、 その白さから別名「白鷺城」とも呼ばれる。  そもそも麦島城は一国一城令のなか存続を許された城だったが、 八代城は新築を許された点で価値がある。  1870(明治3年)に廃城になると、城内の建造物は撤去され、 1880(明治13年)、ここ本丸は八代宮の境内地となる。  本丸には天守台を含む石垣や掘のほか、大書院の枯山水や井戸跡が残る。  八代宮の御祭神は懐良親王。  一の鳥居は旧大手門付近に設置され、参道が徳渕の津より直進する。  二の鳥居の次に三間一戸、軒唐風の四脚門がある。  門に回廊と透き塀がつき、神殿を囲む。 拝殿は入母屋妻入、向拝つき。  左右に切妻屋根の神餞所がつき、拝殿の屋根と交差する。  本殿は三間社流造で、向拝の奥行きが深い。  いずれの建物もかっては柿葺であったが、現在は銅板葺、妻飾はいのこ叉首(さす)、 軒が深くプロポーションが美しい。  組物などのしのぎは平らで、丸みがなく直線的である。  開口部は腰長押または腰貫と内法長押の間に連子窓がつく。  官幣社にふさわしい気品あるただずまいである。 」 

鳥居の前の水掘に架かる橋を渡り、車道側に出る。 
この橋は江戸時代にはなかったが、八代宮創建の際、正面に造られた橋で、 欄干橋を模している。 
平成二十六年(2014)、八代城跡は八代城跡群として国の史跡に指定された。 
八代城跡公園には石垣と水堀が残るだけで遺跡はないが、 加藤忠正の菩提寺・本成寺には本丸にあった高麗門が移築されていている。
また、春光寺には永御蔵(米蔵)の薬医門と番所が移築復元されている。 

軒唐風の四脚門
     欄干橋      八代城スタンプ
軒唐風の四脚門
欄干橋
八代城スタンプ



所在地:熊本県八代市松江城町7−34 
鹿児島本線八代駅からバスで10分、八代宮前で下車、すぐ  
続日本100名城 八代城のスタンプは八代市立博物館未来の森ミュージアムにある。 
八代市立博物館未来の森ミュージアム (0965-35-2448 9時〜17時 入館は16時30分まで 月休 年末年始休)





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