mrmaxの城めぐり (人吉城 続き)



かうんたぁ。




下の人吉城見取り図の赤い斜線は、令和2年7月の豪雨災害による被災で、 危険区域(使用不可)、   丸い赤で結ばれてところは当日立ち入り禁止になっていた場所である。

人吉城見取り図
人吉城見取り図



「 人吉城は、 北側と西側の球磨川と胸川を天然の堀とし、 東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として巧みに自然を利用した城郭で、 藩主の居館・御館の右手の山(丘)に三の丸を配し、その先に二の丸、 さらに丘陵の頂上に本丸が配している、連郭式山城である。  」

御館跡庭園の端に「本丸 二の丸 三の丸→」の道標があり、坂を上る石段がある。 
本来はここに道はなかったのだが、見学者用に城主館から三の丸への階段がつくられたようである。 
距離は短いが、けっこう急である。 
階段を上りきると、東屋がある広場に出た。 
出たところは三の丸の北西部で、西の丸といわれたところである。 
右側(南側)に三の丸を横断する南西曲輪石垣がある。 

三の丸への道
     三の丸への道      東屋と石垣
三の丸へ作られた階段道
三の丸への道
東屋と石垣



東屋がある西の丸の北からは球磨川に架かる水の手橋や市街地が一望できる。 
また、石柱の周りに礎石があるところには、「於津賀社跡」の説明板がある。 

説明板「於津賀社跡」
「 初代相良長頼の入国前の人吉城主であった、 平氏の代官の矢瀬主馬佑を祀る霊社跡である。  第2代頼親が建立し、初めの頃、御墓(塚)大明神という。  文化18年(1840)に再興され、元和年間(1620年頃)に於津賀と改め、 寛永7年(1630)に造替られた。 社殿は南向きで、 板葺きの御殿(神殿)と添殿(拝殿)の2棟があり、現在その礎石が残っている。 
   平成5年3月 人吉市教育委員会  」

上記を補足すると、

「 源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は、 元久二年(1205)、肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。
当時、この地を支配していたのは、平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑であった。   相良長頼は、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。 これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。 三の丸に、鎮魂の為に建立されたのが、「於津賀社」である。 」

その南西に三の丸を分断する石垣があり、右側の道を石垣に沿って進む。

人吉市眺望
     於津賀社跡      三の丸石垣
人吉市眺望
於津賀社跡
三の丸石垣



石段をのぼると三の丸の南東曲輪で、かなり広い芝生広場で、周囲の崖の上には竹で編んだ垣根を巡らせ、その先には二の丸の石垣が見える。 
江戸時代には、三の丸を分断し、一段高くなった南東曲輪石垣のあたりに、二軒の塩蔵が建っていた、というが、二の丸の石垣の前に「三ノ丸跡」の石柱があるだけである。 
奥の二の丸石垣には二ノ丸からの排水溝が見える。 

石段
     三の丸跡      排水溝
三の丸への石段
三の丸跡
二の丸石段と排水溝



三の丸北東曲輪から二の丸石垣に沿って階段を降りると、三の丸の北曲輪の一角で、 「 中御門の手前あたりに井戸があった 」 と、案内にあるが、 石垣や通路の上に草が生い茂り、 草叢のようになっていて、確認できなかった。 
右側の石垣は二の丸石垣で、石垣の上の繁った樹木があるところが二の丸跡である。
右側の石段を上る。 上りきったところの両側に石積みがあるが、 ここに「埋門」があったという。
二の丸跡には樹木が多く植えられており、視界をさい切っているが、ここには、 江戸時代、六棟の建物が建つ二の丸御殿があった。 
今は、「二の丸跡」の標柱が立っているだけである。 
また、「二の丸跡」の説明板があり、かなりくわしく書かれていた。

説明板「二の丸跡」
「 戦国時代までの人吉城は、東南の上原城を本城とする山城であり、 この場所は「内城」と呼ばれる婦女子が生活する地区であった。  天正17年(1589)、第20代長毎(ながつね)によって近世城としての築城が始まると、 本丸や二の丸の場所となり、慶長6年(1601)には石垣が完成している。 
二の丸は、江戸時代の初めに「本城(本丸)」と呼ばれているように、 城主が住む御殿が建てられた人吉城の中心となる場所である。  周囲の石垣上には瓦を張り付けた土塀が立ち、北東部の枡形には櫓門式の「中の御門」 (2.5間X9.5間)があり、見張りのために番所が設けられた。  また、北辺には御殿から三の丸へ下る「埋御門」が土塀の下に作られ、 この他に「十三間蔵」(2間X13間)や井戸があった。 
三の丸は二の丸の北・西部に広がる曲輪で、 西方に於津賀社と2棟の塩蔵(2.5間X6〜7間)を、 東の「中の御門」近くに井戸と長屋を配置するだけで、大きな広場が確保されている。  その周囲には当初から石垣は作られずに、自然の崖を城壁としており、 「竹茂かり垣」と呼ばれる竹を植えた垣で防御している。  これは、人吉城がシラス台地に築かれているため、崖の崩壊を防ぐ目的があった。 
二の丸御殿   享保4年(1719)の「高城二ノ丸指図」によれば、 御殿は北側を正面にするように配置され、「御廣間」(4間X9間)・「御金ノ間」(6間四方)・ 「御次ノ間」(4間X6間)の接客・儀式用の表向建物と「奥方御居間」(3間X8間)・「御上台所」(3間X9間)・「下台所」(5間X8間)の奥向の建物の合計6棟からなる。  これらの建物は、すべて板葺きの建物で、相互に廊下や小部屋でつながり、 建物の間には中庭が作られている。  この内、「御金ノ間」は、襖などに金箔が張られていた書院造りの建物で、 城主が生活・接客する御殿の中心となる建物である。
   平成5年3月  人吉市教育委員会  」 

三の丸北西曲輪
     二の丸埋門跡      二の丸跡
三の丸北西曲輪(右側は二の丸石垣)
二の丸埋門跡
二の丸跡



このまま進めば本丸だが、それに気が付かず、三の丸へ下りた。 
そのまま進むとあったのが、「中御門」跡の石垣群である。 
両側の石垣の上に、櫓門がドーンと乗っていたことを想像するとその巨大さには驚く。 
中御門は右枡形になっていたようで、石段が右へ右への続く。 
中御門の東側に三の丸東曲輪があったが、ここには建物は建てられず、広場のままだった、といわれる。 
石段を上りきると、先程の二の丸跡の杉林の左端に出た。 


御中門跡石垣
     御中門跡      二の丸跡
御中門櫓門石垣
御中門石垣
二の丸跡



その先に続く道を歩いて行くと石段が現れた。 
二の丸の奥にある石段を上ると「本丸跡」である。 
本丸はこの山で一番高いところにあり、今は東屋と礎石跡があるだけである。 

説明板「本丸跡」
「 本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。 
地形的には天守台に相当するが、 天守は建てられず、寛永3年(1626)に護摩堂が建てられ、 その他に御先祖堂や時を知らせる太鼓屋、山伏番所があった。 
礎石群は、板葺きで、4間四方の二階建ての護摩堂跡である。 
中世には「繊月石」を祀る場所であったように、 主として宗教的空間として利用されていることに特色がある。 
  平成5年3月 人吉市教育委員会  」

相良長頼が矢瀬主馬佑の城を拡張し、人吉城の基礎を造ったが、 その築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。  

上記の「繊月石」はこのことを指すのだろう。 
このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。

見晴しは良くないので、長くはいられない。 
そのまま 御中門まで下り、御下門跡に向かって、石段を下りていく。 
雨上りで滑りやすくなっているので、転ばぬようにゆっくり歩く。

本丸への石段
     本丸跡      石段を下る
本丸への石段
本丸跡・護摩堂跡
石段を下る



道は左右にカーブしながら続く。 下方に高石垣が見えてきた。 
更に下りると、両側に高い石垣があるが、これが御下門跡の石垣群である。 

説明板「御下門跡」
「 御下門は、「下の御門」とも呼ばれ、 人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。  大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に梁間2間半(5m)、桁行10間(20m)の櫓をわたし、 その中央下方の3間分を門としていた。  門に入った奥には出入り監視のための門番所があった。 
  平成5年3月 人吉市教育委員会  」

下まで下りて、御下門の石垣を見ると、三段構成になっていて、 一番下は古いタイプの石垣、二段目には櫓門が載っていた。 
一番高い三段目石垣の上に建物が載っていたのかは不明。 

御下門櫓門の建っていた場所の真下、中央にある石組は、 門扉を閉めた時、中央で止めるための石材と思われる。 

門の外は東外曲輪である。 
球磨川寄りの土地は立ち入り禁止になっていた。 
人吉水害ではこの川寄りの低い土地は水に浸かり、被害がでたためだろう。 
左折して川に沿って進むと、「故郷乃廃家」の歌詞が書かれた石碑があり、 「犬童球渓」の説明板がある。

説明板「犬童球渓(いんどうきゅうけい)」
「 本名を犬童信蔵という。 明治12年(1879)3月20日、人吉市西間下町で出生。  昭和18年(1943)10月19日、同所で逝去。  生涯の大半は教職にあり、最後は地元の旧制人吉高等女学校で指導にあたった。  人吉が生んだ偉大な音楽家で、作詞・作曲は360余作品にのぼる。  なかでも「故郷の廃家」、「旅愁」は、広く知られている。  この2曲は、旧制新潟高等女学校在籍中に、ふるさと人吉をしのんで作詞されたものと思われる。 
 (以下省略)  」

御下門櫓台
     御下門跡      「故郷乃廃家」の歌碑
御下門櫓台(中央)門扉止石
三段の御下門石垣
「故郷乃廃家」の歌碑



その先の左手、芝生地には礎石群があり、「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」の説明板がある。 

説明板「大村米御蔵跡・欠米蔵跡」
「 人吉藩では藩内12ヶ所に米蔵を置き、このうちの間(村)蔵と大村蔵は、 それぞれ城内の水の手口と堀合門東方に1棟づつあった。  大村米御蔵(西側礎石群)には隣接して欠米御蔵(東側礎石群)があった。  両方とも瓦葺きで4間X10間の長大な建物であった。  発掘調査で「御用米」「免田納米」「上村納米」と墨書した木札が出土している。  右手の門は堀合門である。 
    平成4年3月  人吉市教育委員会  」

その先に「史跡 人吉城跡」の石柱があり、その先に堀合門と御館の城壁(石垣)があった。 
堀合門は、城主の館の表門にあたる門で、西南戦争でも焼失を免れ、市内に移設され、 今も残っているという。 
この門は復元されたものである。 
門から中を覗くと、右側は城主の館跡へ。 左は二の丸の下部方面である。 

説明パネル「堀合門」
「 堀合門は、藩主が住む御館の北側にあった表門で、 文久2年(1862)の「寅助火事」でも難を逃れました。  明治4年(1871)の廃藩置県以後は城外の士族である新宮家(土手町)に移築され、 人吉城唯一の現存する建造物として、市の有形文化財に指定されています。。  形式的には棟門と呼ばれるもので、 化粧垂木に強い反りを持たせた屋根の曲線が特徴的である。  門跡の発掘調査では、 門柱を建てた2つの礎石跡とその西側にあった排水溝が確認されました。  この門は、旧位置での発掘調査結果や移築され現存する門、 絵図に描かれた絵図に基づいて、 平成19年度に塀や排水溝とともに復元しました。 
    平成20年3月  人吉市教育委員会  」

江戸時代にはその先の右側に水の手門があった。 

説明パネル「水ノ手門跡」
「 慶長12年(1607)から球磨川沿いの石垣工事が始まり、外曲輪が造られた。  水運を利用するため、川に面した石垣には7個所の船着場が造られ、 その中で最大なものが水ノ手門である。  この門は寛永17年(1640)から幕末まで、人吉城の球磨川に面する城門であった。  享保13年(1728)、「御修理場御本帳写」によると、門の規模は三間で、 門の内側に板葺きの御番所、茅葺の船蔵があった。  平成11年度の発掘の結果、門は大きく壊されていたが、階段や排水溝が確認できた。  川側にあった船着場は石張りの傾斜面になっていて、 水位の増減に対応できるように工夫されていた。  水ノ手門近くにある大村米蔵跡・欠米蔵跡の発掘調査では、 「御用米」「免田納米」「上村納米」といった木札が出土していて、 免田や上村方面から年貢米が球磨川の水運を利用し、 この門から城内に運び込まれていたことがわかる。 
    平成19年3月  人吉市教育委員会  」

大村米御蔵跡・欠米蔵跡
     堀合門と石垣      水ノ手門跡
大村米御蔵跡・欠米蔵跡
人吉城跡碑と堀合門・石垣
水ノ手門跡



その先の城壁を見ると、城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んである。  これは武者返しという仕組みのようである。 
城壁の下に「武者返し」の説明パネル板がある。 

説明パネル板「武者返し」
「 御館北辺の石垣上には、絵図にみえる長櫓があったが、 文久2年(1862)の「寅助火事」で焼失した。 翌年、櫓は復旧されず、代わりに石垣を高くして、 その上端に槹出工法(はねだしこうほう)による「武者返し」と呼ばれる突出部をつけた。
この工法は、西洋の築城技術で、嘉永6年の品川台場(東京)で初めて導入され、 五稜郭(北海道)や龍岡城(長野)等の西洋式城郭で採用されているが、 旧来の城郭で採用されたのは人吉城のみである。 
    平成5年3月  人吉市教育委員会  」

武者返しは、城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、 ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、 割合簡単に落下させられるようになっていて、 城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。
当日も修復工事が続けられていて、城壁の端の石に番号が振られ、その順番に積み直し、 固定のため、テグス糸で囲われていた。 
以上で人吉城の見学は終了した。 

水の手橋を渡り、右手に行くと「球磨川下り」の船が出るのであるが、 コロナの影響でやっていなかった。 
観光客もいなく、小生も市内の温泉に泊まるのはやめて熊本で泊まることに・・ 
左折して球磨川沿いにある商店街を車で走らせたが、このあたりは床上浸水で被害をうけた地区で、 今も修理ができないままになっている家を何軒も見た。 
最後に訪れたのは、出町橋を渡った先の右手にあった「青井阿蘇神社」である。 

青井阿蘇神社由緒
「 当神社は第五十一代平城天皇の大同元年(806)、肥後国阿蘇郡鎮座阿蘇神社の御分霊を 阿蘇の神主此所に勧請すと、御鳥羽天皇建久九年相良氏当郡に封じられ、其の後、 慶長二年、二百五十余社の宗社と定め、神領二百十六石を供莫し、大宮司をして統轄せしむ。  祭礼最も壮厳を極め、神社を中心として領内に祭政一致の範を示し、子孫累代其の遺風を守り、 明治初年に及ぶ。 爾来、当地方の一の宮として郷民深く尊崇す。  本殿、渡殿、幣殿、楼門は国の重要文化財にして、慶長五年(1600)、藩主相良長毎之を奉納す。  豪華絢爛たる桃山様式の代表的建造物で、楼門の神額は天台座主二品法親王の親筆である。  明治五年郷社に列格、昭和十一年県社に昇格、昭和三十四年神社本庁の別表神社に加列せらる。  」 

青井阿蘇神社は、千二百年以上の歴史を持ち 御祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)、 国造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)である。 
茅葺の桃山様式の楼門は、華やかさと迫力を醸しだし、圧倒的な存在感を示している。 

武者返しのある城壁
     修復中の石垣      青井阿蘇神社楼門
武者返しのある城壁
修復中の石垣
青井阿蘇神社授与所と楼門



拝殿には向背が付き、その後に幣殿、廊、本殿が続く。 屋根は茅葺という今まで見たことも ないものである。 

「  社殿群(本殿・廊・幣殿・拝殿・楼門)は慶長十五年(1610)から慶長十八年にかけて 造営されたもので、統一的な意匠を持ち、完成度が高い。  近世球磨地方に展開した独自性の高い意匠を継承しつつ、桃山期の華麗な装飾性を機敏に受け入れ、 近世球磨地方の社寺造営の手本となっている。  雲龍など要所を飾る華麗な彫刻、特異な拝殿形式は広く南九州に影響が認められ、 南九州地方の近世社寺建築の発展において、深い文化史的意義が認められることから、 平成20年6月9日、熊本県で初で、茅葺社寺建造物初の国宝指定を受けた。 」

楼門の外に出ると、鳥居が見えたが、蓮池に架かる神橋の欄干が壊れて、横たわっていた。 
水害のすさまじさを感じた次第である。

神社の駐車場の上にあるカフェに寄り、暑かったので、氷水を頼み、一服。
こうして人吉の旅は終わった。 

国宝の本殿と幣殿
     鳥居と壊れた橋      日本100名城スタンプ
拝殿、幣殿、廊、本殿
鳥居と壊れた神橋
日本100名城スタンプ



熊本市から高速バスでJR人吉駅まで約1時間30分
鹿児島空港から直行高速バスで約1時間
JR人吉駅から徒歩で10分
日本100名城の人吉城のスタンプは人吉城歴史館(0966−22−2324)にて





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