|
菊池温泉へは、熊本駅より熊本電鉄バス「菊池温泉」行きで、 終点の「菊池温泉・市民広場前」で下車。
鞠智城
令和三年(2021)八月二十七日は、三泊四日で、福岡から八代、人吉、熊本と旅してきた最終日である。
続日本100名城に選定されている鞠智城へ行く。
ナビに従っていくと、小山というか、丘を上り下りする道が選ばれ、
温泉地の真ん中を通る道は遠くなるので、選ばれなかった。
20分程で、温故創生館の駐車場に到着した。
「 鞠智城は、
大宰府の南約六十二キロに位置する、
標高約九十メートル〜百七十一メートルの米原台地上にあり、
城壁の周長は自然地形の崖を含めて約三・五キロ、
城の面積は約五十五ヘクタールである。
ここは有明海に注ぐ菊池川の河口の東北東約三十キロの内陸部で、
流域は肥沃な平野が広がる。
また、城の南側は古代官道が通る交通の要衝にあった。 」
駐車場にある銅像は、「温故創生之碑」といわれるもので、平成八年に造られた。
「 正面の中央に防人、前面に防人の妻子、 西側に築城を指導したとされる百済の貴族、 東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側に一対の鳳凰が立っている。 台座には万葉集から防人の歌と鞠智城の歴史を解説した六枚のレリーフが貼られている。」
七世紀後半(約1300年前)、白村江(はくすきのえ)の戦いで、
唐と新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)は、連合軍の日本侵攻に備えて、
大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県・福岡県)、金田城(長崎県)などを築いた。
鞠智城は、大和朝廷が九州のこれらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地として築いた城郭である。
日本書記には 「 天智二年(663) 、朝鮮半島での白村江の戦いで、
唐と新羅の連合軍に大和朝廷軍と百済軍が敗れる。
天智三年(664) 筑紫などに防人ととぶひ(のろし場)を置き、水城を築く。
天智四年(665) 筑紫に大野城、基肄城、長門に長門城を築く。
天智六年(667) 「大和に高安城、讃岐に屋嶋城、対馬に金田城を築く。 」
と書かれている。
また、続日本紀には、「 文武天皇二年(698) 大宰府をして、
大野、基肄、鞠智の三城(みつのき)を統治する 」
と、記載されているが、鞠智城の築城年は不明である。
鞠智城跡は現在、県営の歴史公園になっていて、 跡地に建つ温故創生館では展示や映像により、 鞠智城の歴史や構造について、詳しく説明している。
温故創生館の手前にある長者館は地場物産館である。
鞠智城は、築城当初は大宰府が統轄した軍事施設として、 大野城、基肄城等とともに北部九州の防衛拠点であり、 兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどであったと考えられる。
「 発掘調査により、国内の古代山城で唯一の八角形建物跡二棟など、 合計七十二棟の建物跡が発見され、三か所の城門跡、土塁、水門、貯水池など、 当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見された。 」
温故創生館を出て、最初に向ったのは八角形の建物・鼓楼である。
右手の駐車場の先に八角形の鼓楼が建っていて、その手前には柱状のものがある。
ここにはQR コードリーダーで読み取れるコードが付いた説明板があるが、
小生はガラ系のため、使用できなかった。
以下のは、帰宅後、鞠智城ホームページから転載したものである。
説明文「八角形鼓楼」
「 鞠智城では、国内の古代山城では似かよった例を見ない、
四基の八角形建物跡が見つかっています。
韓国の二聖(イーソン)山城でも同じものがあり、注目されます。
特別な性格の施設であったことをうかがわせる、
八角形という特殊な形であったことから、
「鼓の音で時を知らせたり、
見張りをしたりするための「八角形鼓楼」として復元しました。
復元した「八角形鼓楼」は、高さ15.8mで、重さ約76トンの瓦が載る建物です。
一帯に響いた古代の鼓の音、
遠く故郷を離れた防人たちの姿を感じてみてはいかがですか。 」
この奥にあるのは米倉で、手前の柱石群は、発掘時の柱跡である。
「 鞠智城では、石を規則正しく並べて土台にした、
21棟の礎石建物跡が見つかっている。
その中の一棟の建物跡は、重い荷物に耐える造りであり、
かつ周りから大量の炭化した米が見つかったことから、
食料である米を蓄えるための「米倉」と断定した。
復元された米倉の足元に説明板があった。
説明板「米倉復元建物(20号建物跡)
「 平成3年度の調査で見つかりました。
20個の礎石(土台石)全部に柱を建てた総柱建物です。
調査時に多量の炭化米と瓦が出土しました。
間口8.6m、奥行き11m、床高は1.6m。 壁材は、内側が平板で、
外側の断面は三角形になるように加工されています。
この長い材木を横方向に積み上げて壁にしたのが校倉造りです。
床端には鼠返しの工夫がなされています。
材質は樹齢100年〜140年の県産杉で、扉のみヒバ材を使用しました。
瓦葺き屋根で、使用した瓦の枚数は平瓦2870枚、丸瓦1800枚、瓦の総重量は約32トン。
多量の炭化米が出土したことにより、米を保管する倉であったことがわかります。
米俵に換算して1200俵の米を収納できる大きさです。 」
「ねずみ返し」は、右下写真の赤字で囲まれた部分である。
木を張り出させて、ねずみが登れなくしていた。
大陸からの進攻の危機が去ると、各地に造られた城の価値は減り、 地元との結びつきが強くなり、やがて廃城に追い込まれる。
「 築城当初は大宰府と連動した軍事施設で、
大野城、基肄城などとともに、北部九州の防衛拠点であり、
兵站基地や有明海からの侵攻に対する構えなどであった。
その後、軍事施設に加え、食料の備蓄施設の拠点になったが、
大陸からの進攻の恐れがなくなると、役所機能のある肥後北部の拠点に改修され、
南九州支配の拠点などの役割や機能などが与えられた。
八世紀の終わり頃になると、鞠智城の機能は大きく変わり、
食糧等の貯蔵施設としての役割が大きくなる。
太宰府との関連は認めらられなくなり、
在地(地元)との結び付きが強くなっていたようである。
九世紀の終わりになると、大型の倉庫群が建ち並ぶ貯蔵施設としての機能が役割の中心となり、十世紀中頃までには約三百年続いた鞠智城は廃城となった。 」
芝生が広がる中に、礎石を復元し、区画されたところがあり、 地面に「Aゾーン (長者原地区:中央部)」の説明板があった。
説明板
「 掘立柱建物跡が見つかりました。 北域には、大型の3棟があります。
並立するのは2棟は、同時期に建てられたと考えられます。
縦長の側柱建物で、土間づくりであったことから「兵舎」として復元しました。 」
兵舎は米倉の右手奥にあり、足元に説明板があった。
説明板「兵舎復元建物(16号建物跡)」
「 平成2年度の第12次調査で発見された側柱のみの掘立柱建物跡です。
3間X10間の規模で、大型の建物に属します。
柱径は30cm程度です。 同規模の建物群が2基並んでいるうちの1基を復元しました。
構造 間口8.0m、奥行き26.8mで、土間面積は213.6m。
屋根までの高さは6.3m。 茅葺き屋根で、3枚の厚板を重ね合わせて葺かれています。
壁は土壁で、突き上げ窓がついています。
防人(さきもり)と呼ばれた兵士が寝起きしていた「かまぼこ製の兵舎」です。
建物規模から、50人程の兵士が生活していたと考えられます。 」
その先に建つのは板倉である。
「戦いに備えた 板倉」
「 鞠智城跡では、柱穴を建物の内側まで配置した、
総柱の掘立柱建物群が見つかっています。
その中の1棟の建物跡を、荷物を保管するための高床の造りであり、
防人たちが生活していた「兵舎」の近くにあったことから、
武器や武具などを保管するための倉庫として復元し、「板倉」と呼びました。
復元した「板倉」は、長さ6.9m、幅12.0m の 3間X4間の建物です。
茅葺の屋根、側柱に彫った溝に板を落し込んで壁を造る「落しはめ技法」など、
今日ではなかなか見かけない古代の技を感じていかがですか。」
その近くに、平成十一年十月に天皇皇后陛下が訪問された際、植えられた樹木が
大きく育っていた。
板倉の先は長者山で、その麓の三叉路を右折して、山に沿って進むと、
右手に宮野礎石群がある。
鞠智城の中で、一番大規模な礎石建物で、
「長倉(ちょうぞう)」と呼ばれる倉庫だったと考えられ、
当時の礎石をそのままの姿で復元している。
説明板 「宮野礎石群(49号建物跡)」
「 昭和57年度に県指定となった3間X9間の総柱の礎石建物跡です。
もともとの礎石は40個でありましたが、7個が消失しています。
120cmX90cm程度の花崗岩を使用し、柱間は梁・桁ともに240cm、
調査時に平瓦、丸瓦などが検出され、瓦葺き屋根であったことがわかります。
瓦には焼けた痕があり、建物が焼失した可能性が考えられます。
このような大型倉庫は、「長倉(ちょうそう)」と呼ばれています。
3間(7.2m)X9間(21.6m)の規模を誇ります。 」
宮野礎石群の後ろの道を登っていくと、
両側の丘の間に道が続き、その上に橋が架けられている。
橋の下の道は丘を削って造った切り通しの道である。
左側階段を上ると左側の丘に建物が見えるが、この山は長者山で、展望広場休憩所である。
「展望広場休憩所」
「 南側への展望が抜群の小高い長者山の頂上に建てられた休憩所です。
古代建物の意匠を採り入れたもので、復元建物ではありませんが、
鞠智城時代と同じ時代の建築技法に触れることができます。
また、鞠智城跡の映像解説ビデオを見ることができます。 」
右側の階段を上っていくが、けっこう急である。
距離は短いので、途中で息を継ぎ進むと、灰塚に到着した。
突端には金属製の展望デッキが設けられている。
「展望デッキ」
「 城内の全貌はもちろん、周囲の雄大な風景を一望できるデッキである。
天気の良い日は、遥か遠くに長崎普賢岳を見ることができます。 」
灰塚と頂上に方位と見える風景の表示がある。
灰塚の西側には涼みヶ御所や西側土塁があるが、
そちらは樹木で見えなくなっていて、どのへんか、確認は出来なかった。
「 西側土塁にはワクド石がある。
横から見ると、蛙そっくりに見えることから、その名で呼ばれています。
昔から地元の人の信仰の対象になっていたようです。 」
以上で鞠智城の探勝は終えた。
鞠智城へは、JR熊本駅から菊池プラザ行きで、熊本交通ターミナル経由で約80分、菊池プラザで下車し、タクシーで約5分
熊本空港からは車で約40分
鞠智城のスタンプは、歴史公園鞠智城・温故創生館の受付にある
温故創生館 : 山鹿市菊鹿町米原443−1 0968−48−3178
( 9時〜17時45分 受付は、16時45分まで 月休、年末年始休 」
菊池渓谷
この後、念願の菊池渓谷に向かう。
菊池温泉まで戻り、国道387号を経由し、県道45号に入り、五キロ程走ると到着する。
この道をそのまま走れば阿蘇山の大観峰近くに出る、ミルクロードと呼ばれる道で、
車の通行はけっこう多かった。
「 菊池渓谷は、阿蘇くじゅう国立公園の一角に位置しており、 阿蘇外輪山から湧き出した伏流水は日本名水100選に選ばれている。 春の瑞々しい新緑、夏の冷たい清流、秋の紅葉、冬の幻想的な樹氷など、 四季折々に変化する景色が売り物で、小生もカメラ雑誌で見て、一度行きたいと思っていたところである。 」
入口は菊池渓谷ビジターセンターであるが、その手前に駐車場があり、 そこの車を置き、川沿いに上っていくと、道の反対側に渓谷の入口があり、 橋から掛幕の滝を見ることができる。
説明板「掛幕の滝 由来」
「 20m余りあろうか、絶壁の落差を怒涛の如く流れ落ちる水は飛躍し、
まさに舞台に張られた銀幕のように映ずるところから、この名が付けられたというが、
その昔、五郎・十郎兄弟がこの地で炭焼きをしながら住んでいたことから、
地元の人々は五郎・十郎滝とも要んでいた、という。
昭和63年3月建立 菊池渓谷を美しくする保護管理協議会 」
その先のビジターセンター(8時30分〜17時)は渓谷の紹介と休憩できるところだが、
コロナの影響でトイレが使える程度だった。
館内に「菊池本城・守護の館」の看板があった。
看板「菊池本城・守護の館」
「 菊池一族の領土の心臓部、菊池本城が置かれた場所です。
現在、菊池神社のある守山には砦が置かれ、麓には菊池氏守護の館がありました。
この館は200メートル四方の敷地に築かれた広大なもので、
敵方に攻め込まれたときは城山に立て籠もり、多くの菊池の若者たちが命を散らせました。 」
また、「城下町菊池 総構え」の看板もあった。
「 武光公が南朝のプリンス懐良親王(かねながしんのう)を菊池に迎え、 征西府が置かれると、城下町菊池は政都・商都・文化都市として最高度に成熟したと思われます。 迫間川、菊池川を南北の掘とみなし、立石にあった大手門を挟んで、 菊池、迫間の両河川を人工的掘り割でつないで築き上げた巨大城郭都市、 それが城下町菊池なのです。 南北朝期において、これは画期的なことでした。 」
窓側には「九州を制した男 菊池武光」のイラスト看板が立っていた。
ベランダに出ると掛幕の滝見ることが出来る。
滝のしぶきがベランダまで届き、迫力のあり、見ごたいがあった。
その先で道は直進と左に橋を渡る道に分かれるが、
その手前に維持管理協力金を徴収する窓口がある。
赤い吊り橋を渡ると原生林の中を行く道で、アップダウンしながら、
右手の渓谷を見ながらの散策となる。
川原に降りて、石伝えに行き、先端から霞が立ちこめる黎明の滝を写した。
説明板「黎明の滝」由来
「 上流は穏やかな石畳の紅葉ヶ瀬、それを覆う原生林、奇岩、怪岩の渓谷のあいまを縫って、
流れる滝、飛散する水しぶきに朝の太陽が輝いて一帯に霞が立ちこめ、
まさしく夜明けを思わせる景観を呈することから、この名がついたという。 」
階段を上り、進むと杉林の中を通る。 樹高は35m〜45m、胸高直径は60cm〜80cmである。
「森林は二酸化炭素を吸収する緑の貯蔵庫」と書かれた大きな看板があった。
また、樹齢185年と表示された杉の木があった。
杉の看板文
「 このスギの木は、江戸時代文政6年(西暦1823年)頃植えられたもので、
2008年時点で樹齢185年を経ております。 樹木を傷つけないようにしましょう。 」
道の周辺は霞というか、もやで包まれて、見づらい状態である。
下りになると渓谷は穏やかに、川原に「紅葉ヶ瀬」の標柱がある。
その先では水が踊るように流れていた。
橋を渡って六百メートル位歩いてくると、周辺案内の看板があり、
直進すると広川原の先の橋でUターンして、戻ってくるルートで、
四十三万滝が見られる。
小生は時間の加減が分からないことから、
そこまでは行かずに手前の橋を渡るルートを選んだ。
この橋のところは竜ヶ淵で、その上流は天狗瀑布と天狗滝である。
橋を渡ってところに「竜ヶ淵と天狗滝」の説明板があった。
説明板「竜ヶ淵と天狗滝」由来
「 人里遠く離れた深葉の山々は、その昔未踏の地であり、
キツネ・タヌキ・野猿をはじめ、多くの鳥獣の棲息地であったという。
数百年も経過した老木の混在する原生林は、
昼なお薄暗くその谷間に流れる清流は瀬を作り、
滝を作り、そして渕を作っているが、その一つで最も大きく藍色によどみ、
不気味さを感じさせるこの淵は、
かって竜が住んでいたという村人の伝説があることから、竜ヶ淵と呼ぶようになった。 また、その昔、
里山の頂付近には、山伏の周蓮杖としての洞窟または天狗岩が残っているが、
修験者が時折渓谷に降りてきては岩場で身を洗い清めたことから、
こと滝を天狗滝と呼ぶようになったという。 」
ここには「名水百選認定書」の石碑もあった。
こちらに「←紅葉ヶ瀬」「広川原→」「竜ヶ瀬・天狗滝→」の道標があるが、
帰りの道は九州自然歩道で、山行きの服装の人は阿蘇方面に歩いて行くのだと思った。
ここから菊池渓谷の入口まで引き返す。
右手下の瀬は紅葉の瀬と名付けられているので、
写真に登場するのはここだと思ったが、
熊本、長崎は7月〜8月まで度々の豪雨にあい、崖崩れなどが起きていること、
小生も高齢になったため、娘に降りていかぬよう、釘を刺されたため、
どのような景色かの確認はあきらめた。
黎明の滝が樹木越しに見えた。
一時間強という短い滞在時間であったが、
長年の思いが果たせたという満足を得ることができた。
この後、菊池市街のコメダ珈琲店で食事兼時間調整を行い、
熊本空港でレンタカーを返し、
15時25分JAL632便で羽田へ帰ってきた。
菊池渓谷へは、熊本駅より熊本電鉄バス「菊池温泉」行きで、
終点の「菊池温泉・市民広場前」で下車。
菊池温泉より、予約制「きくち観光あいのりタクシー(土・日・祝・振休・GW運行)
で菊池渓谷へ
植木インターより、車で県道53号、国道387号で約50分