東 海 道


大津宿から京三条 




{左}東海道線のトンネル
今日は、江戸日本橋から始まった東海道の492kmの旅が終わる日である。 大津宿から京都 三条大橋までは11.7kmで あるので、のんびり歩こう、と思う。 札の辻から国道163号を国道1号に合流するまで歩き、その後は国道1号を歩く。  右側に、南無妙法蓮華経の石碑があり、妙光寺の石柱の先には、京阪電車の線路が横ぎっていて、妙見大菩薩と、あった。  右側の東海道線のトンネルは、左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた 煉瓦製
{左}蝉丸神社下社
で、鉄道開通から百年以上が経つが、今も現役である。  山科までは東海道の古い道はなく、国道を歩くことになるが、通過する車の数は半端ではない。  少し歩くと、右側に蝉丸神社下社の常夜燈と石碑があり、線路の向こうに鳥居があるので、踏み切りを渡って、境内に入った。  案内板によると、 「 蝉丸神社は、音曲の神様ということで、琵琶法師は蝉丸神社の免許がないと、地方興行ができないほどの権力を持っていた。  現在の神社は、江戸時代の万治
{左}安養寺
三年(1660)、ここにあった蝉丸を祭神として祀る蝉丸宮に、現社殿が建てた時、街道筋にあった、猿田彦大神と豊玉姫命を合祀 したものである。 」 と、あった。 境内には、「 これやこの  行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」  という歌碑があった。 京阪電車の踏切りを渡ると、右側の小高いところに、安養寺がある。 蓮如上人の旧跡の寺で、上人の 身代わりの名号石があり、国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置され
{左}蝉丸神社上社
ている。 ここから、逢坂山の登りになる。 逢坂(おうさか)の地名は、日本書紀の 神功皇后の将軍、武内宿禰が、この地で 忍熊王と出会った、 という故事に由来する。 平安時代に、平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、関を守る鎮守として、 関蝉丸神社(現在の蝉丸神社)と関寺が建立された。 この先、右側には歩道がないので、左側を歩くことになる。 国道の 左側を歩いていくと、右手に、赤い鮮やかな鳥居の蝉丸神社上社が見えてきた。 
{左}逢坂山弘法大師堂
天皇の皇子だった、という設定の謡曲 蝉丸があるが、蝉丸の生い立ちははっきりしないが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようである。  それはともかく、逢坂の頂上近くの右側の民家のような建物には、逢坂山弘法大師堂の木柱が建っていて、小さな祠が幾つかあり、石仏が祀られていた。  建物から少し離れた左側に逢坂常夜燈が建っていた。  逢坂は右にカーブをしながら頂上に至るが、東海道はここで国道と別れ、右側の道を行くことになるので、
{左}逢坂山関址の石碑と 逢坂常夜燈
歩道橋で国道を越えて、右側に出た。 国道を少し大津方面に下ると、逢坂山関址の石碑と 逢坂常夜燈が並んで建っている。  常夜燈には、寛永六年建立と刻まれていて、先程遠目で弘法堂の脇に見たものと同じもののようであった。 歩道橋まで戻り、 旧道に入ると、うなぎ日本一の看板が大きく掲げられていた。 かねよという鰻料理の老舗の店で、料亭とレストランとかなり 大きい。 少し先の右側に、 蝉丸大明神と書かれた常夜燈があり、小高いところに、     
{左}蝉丸神社
もう一つの蝉丸神社がある。 江戸時代には、このあたりに、立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った走井餅が評判だっ たところである。 この区間の東海道は短くすぐに終わり、国道に合流しまったので、国道の左側にある歩道を歩いていく。  民家の前に大津算盤の始祖、月岡庄兵衛住宅跡の石柱があり、 「 庄兵衛は慶長十七年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を 参考にして、当地で製造を開始した。 最近まで子孫の方が住んでいた。 」  
{左}伏見道との追分
と、説明にあった。 坂は下り坂なので、快調に歩ける。 このあたりは旧寺一里町で、江戸時代には両脇に一里塚があったところである。  左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれる。 名神高速道路をくぐる。  道が少しごちゃごちゃしている感があるが、左に入っていくのが東海道で、国道1号とは、ここで別れる。  道の北側が大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、 滋賀県と京都府の県境である。  少し歩くと三差路があり、伏見道の  
{左}蓮如上人碑と追分道標 
分岐点に出た。 伏見道(伏見街道)は、伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道だった。 大名が京都に入るのを幕府が好ま なかったので、参勤交代の時、大名は京都を避け、伏見道を使ったのである。 ここには、蓮如上人碑と追分道標が建っていた。  蓮如上人の石碑には、 「 明和三丙 」 と、刻まれていたが、途中で折れたものか?、かなり小さかった。 道標には、 「  柳緑花紅 法名未徹 」 「 みきハ京ミち 」 「 ひたりハふしミみち 」 と、三面に刻まれている。 道標の建立時期は不 明だが、寛政六年(1794)発行の都名所図会には、「 追分は    
{左}東海道の道標と車石
京師伏見大津の駅路なり。 追分の石に柳は緑花は紅の文字を刻む 」 とある。 柳緑花紅は春の景色の良い様を表現している。  右側の京都への道が東海道なので歩いていくと、右側の閑栖寺の門前に、 「 東海道、京三條 」 と刻まれた道標と車石があり、 寺が作成した説明板には、 「 逢坂山は、大量の荷物の輸送があったので、牛馬車が使用されたが、急坂なので難儀していた。  文化弐年(1806)三月、京都の心理学者、脇坂義堂が車石を並べ、荷車が通行することを発案。 近江商人の中井源左衛門が一万両の財を投じて、大津から京三條  
{左}車石を通る牛車
まで、花崗岩に轍を刻んだ敷石(車石)を並べ、荷車が通行できるようにした。  このあたりは車道と人道に分かれていて、京に向かって右側に車石を敷き、左側に人や馬が通る道があった。 」 、とある。  左の写真は国道1号の道脇にあったタイル画であるが、その様子が描かれている。  これに費やした一万両というお金は半端なものではないが、文化文政時代ごろから商人の経済力が強くなり、幕府に頼らず 自分で行う動きがでてきた。 近くのお寺の庭にも、
{左}三井寺観音道道標
車石があった。 東海道は横木1丁目で国道にでたが、国道の反対側に道が残っているので、横断歩道橋で越えていく。  横断歩道橋から歩いてきた方向を見ると、京都東ICへの道や北国街道への道などが見て、壮観だった。  これで逢坂山は越えた。 少し行ったところに三井寺観音道と刻まれた道標があった。 三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する。  この道は前述した長等神社の脇から小関越をする道で、ここが小関越の
{左}徳林庵
追分という訳である。 江戸時代、北国街道を利用する人にはこの道が近道だった。  このあたりは横木1丁目で、まだ大津市の領域である。 四ノ宮町に入ると、京都市山科区に変った。 道の右側に二つの石柱が建っている寺は徳林庵。  南無地蔵尊と書かれた石柱は京都六地蔵の一つ、山科地蔵(四宮地蔵とも山科廻り地蔵ともいう)のことで、地蔵像は六角堂の中に安置されている。  小野篁(おののたかむら)により、仁寿弐年(852)に作られた六体の地蔵尊像の
{左}手水鉢には、丸に通の字が彫られている
一体で、最初は伏見六地蔵の地にあったが、西光法師によりここに移され、東海道の守護佛となった。  毎年八月二十二日、二十三日に、六地蔵巡りの行事が行なわれる。 手水鉢には丸に通の字が彫られ、裏には 「 定飛脚、宰領中、文政四巳年(1821) 」 と彫られている。  これが日本通運の丸通になったといわれるが本当だろうか?  もう一つの石柱に、人康親王(さねやすしんのう)墓所とあるが、寺の脇の道を奥に行くと十禅寺があり、その隣に墓がある。 
{左}諸羽神社入口
人康親王は蝉丸という説もあるようで、徳林庵は親王の子孫が開創した寺という。  その先の右側に諸羽神社の石標と鳥居があったので、寄り道をする。  線路を越えた先に、更に鳥居があり、その奥に青い屋根の社殿があった。 諸羽神社は延喜式の式内社なので、神社の歴史は古い。  神社の説明では、 「 祭神の天兒屋根命と天太玉命が、禁裏御料地の山階郡柳山に降臨座されたので、楊柳大明神と奉称された。 二神は、天孫降臨の時、左右を補佐した
{左}諸羽神社
ことから、両羽大明神と称し、清和天皇の貞観四年(862)に、御所により社殿が造営され、裏山は両羽山と称するに至る。 永正 年間に、八幡宮と若宮八幡宮を合祀したことから、諸羽神社と改称した。 これが四ノ宮の地名の由来である。 」 と、 あった。 社殿は二度の火災に遭い、現在の社殿は明和五年に再建されたものである。 お参りをすませ、奥に行くと、山科疎水 が流れていたが、橋を渡り、緩やかな上り道を行くと、毘沙門堂の入口に出た。       
{左}毘沙門堂の入口
橋の形の先に毘沙門堂門跡の石標と常夜燈が建ち、石畳が続いているが、車道に架かる橋の上には極楽橋とあり、後西天皇による勅号で、明治以前はどんな高貴な方でもここで下乗され、参拝した、という。  その先はかなり急な石段が待っていた。 寺の説明によると、 「 毘沙門堂は、大宝三年(703)、行基上人によって、出雲路に創建された出雲寺と号する天台宗の五門跡の一つである。  室町以降の度重なる戦乱により荒廃し、岩倉や大原などに移転した
{左}毘沙門堂
が、天正年間に堂宇が全焼。 寛文五年(1665)、天海僧正によりこの山科の地に再興された。 」 、とある。 お堂の前には、 しだれ桜もあったが、有名なのは紅葉である。 機会があれば、秋にもう一度来たいと思った。 街道に戻る道に瑞光院という寺 があった。 山門の脇の説明板には、 「 慶長十八年(1813)、因幡国若桜藩主、山崎家盛により、浅野長政の旧蹟に創建された 寺で、山崎家が無嗣により断絶すると、赤穂浅野家の祈願寺となる。 更に、元禄
{左}瑞光院
十四年(1701)三月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。 同年八月、大石良雄は当寺に長短の衣冠を埋め、亡君の石 塔を建立し、墓参の都度の同志との密議のところとなる。 元禄十五年十二月の赤穂義士による吉良邸討ち入り、本懐を遂げて 後、義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墳墓の傍らに埋めたのが遺髪塚とあり、赤穂義士のゆかりの寺である。 」 、 とあった。 瑞光院は京都市内の堀川通、現在の大日本スクリーンの場所   
{左}エスタシオデ山科 三品
にあったが、昭和三十七年現在地に移転した。 その先の左側の民家前には左毘沙門堂道と刻まれた道標が建っていた。  鉄道のガードをくぐると、東海道に出た。 山科駅の手前のエスタシオデ山科 三品というマンション前には、東海道の道標と車石が置かれていた。  数年前までは義士餅を売っていた菓子屋跡で、マンションの入口の壁に、菓子屋の看板が大事そうに残され ていた。 その先の右手にJRの山科駅。 道を越えた右側には、RACTOビルがあり、
{左}明治天皇御遺蹟碑
植え込みに明治天皇御遺蹟と書かれた石碑が建っていた。  明治天皇は、東京に遷都の際、京都と東京の間を数回往復されたが、その際、本陣あるいは小休所として三回利用されたのが、毘沙門堂の領地内にあった奴茶屋だった。  昭和の終わりまでは料亭として残っていたが、現在はビルの中に移り、営業している。  少し歩くと、渋谷街道の道標が建っている。  渋谷街道は、澁谷越道といい、道標から南下し、京都薬科大の校舎の中を通り、山科団地や
{左}渋谷街道の追分
山科中央公園(山科本願寺跡)を抜け、国道1号に出る。 川田道交差点から上花山へ 北上し、花山トンネルをくぐって、五条大橋へ出る道である。 道標には、北面に 「 右ハ三条通 」、東面には 「 左ハ五条 橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道 」、南面には 「 宝永四丁亥年十一月 」、西面には 「 願主・・・ 」とあ る。 道を右にとり、道なりに進むと、県道に合流する。 すぐに鉄道のガードをくぐる。 左側に散歩道があるが、そのまま 歩き、左側
{左}細い道に入る
の細い道に入る。 これが東海道であるが、ここは間違いやすいところなので、要注意である。 東海道はその先、左右の道と数 回交差する。 左右からの道の方が広いが気にせず、まっすぐ行く。 左側に畑が一部残るところを過ぎると、御陵岡町の住宅地 に入った。 その先は、日の岡地区で、大乗寺の案内がある先の交差点を越えると、かなりの上り坂になった。 日ノ岡峠への道 で、今は自動車も通れるが、石ころや窪みのある道で、牛車や荷車の難所だった。 
{左}亀水不動
木食上人はこの峠の改修に心血を注ぎ、 元文三年(1738)、三年がかりで道を完成させた。 坂を登りきった左側に亀水不動がある。  峠の途中に道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待したというのがここである。  その先の北花山山田町の敷地の一角に、二条講中が建てた妙見道の道標と隣に右かざんいなり(花山稲荷)道の道標が建っていた。 左の小さなお堂の脇
{左}九条口
には石仏群が並んでいた。 都会と隣接しながら、一部古い家が残り、落ち着いた暮らしの雰囲気があるのだが、周りの住宅地開 拓がどんどん進んで変貌しつつ感じも受けた。 一台しか通れない狭い道なのに、走る車は多かった。 しばらく歩くと、県道に 合流してしまった。 歩道は右側にしかないので、道を横切り、反対側に出て、坂を上る。 九条山交差点を過ぎると、前方に見 えるのは東山ドライブウェイの橋で、標識には九条口とあった。 その橋をくぐり、少し
{左}京都蹴上浄水場
歩くと、道の頂上である。 振り返ると、右は京都市蹴上浄水場、左は将軍塚の標識がある。 将軍塚は、桓武天皇が平安京の造 営時、王城鎮護のため、八尺の征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、都に向けて埋めたと伝えられるところである。 坂を下 り始めると、山科区から東山区に変った。 左側に京都蹴上浄水場が見える。 道の右側に、式内日向大神宮の石柱がある。 日 向大神宮とは、顕宗天皇の時代に、筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが
{左}琵琶湖疎水
始まりとされ、天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請した、といわれる神社で、延喜式にも記名がある。  鳥居をくぐり登っていくと、疎水が流れていて、疎水に架かる太神宮橋から眺めると、大津方面からのトンネルが見えた。  橋の脇には安政六年(1859)三月建立の常夜燈が建っていた。 大神宮へは橋を渡った先の石段を上っていくが、時間がないのでやめた。  反対側には疎水を利用して、人や荷物を運んだインクラインの跡があ      
{左}蹴上発電所
る。 明治に入ると、大津港から南禅寺溜まりまで、船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われたが、 高低差の多いこの区間は水路が使えないので、土砂で傾斜を付けてレールを敷き、船を載せた台車をロープで引き上げる方法(インクライン)をとった。  街道に戻ると、道の右下に煉瓦造りの蹴上発電所の建物が見える。 蹴上発電所は日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行った。  明治二十三年1890)一月に工事を着工し、明治
{左}都ホテル
二十四年(1891)の八月に運転開始したが、明治四十五年(1912)二月に第二期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたといい、左上写真の煉瓦造りの建物は、第二期のものである。  坂を下ると、右側に地下鉄蹴上駅があり、右折すると南禅寺や銀閣寺に行ける。 三叉路で右に行くと、平安神宮、真っ直ぐ進むと、左側に都ホテルがある。  坂を下りきったあたりが粟田口で、正一位合槌稲荷明神参道の道標が建っている。 ここあたりは刀匠三條小鍛冶宗近  
{左}白川橋
の家があったところで、三條宗近は稲荷大明神の神助を得て、名刀、小狐丸を打った、と伝えられる。  合槌稲荷明神のお稲荷さんは、その狐を祭ったものだろうか??  道の反対側に粟田神社があった。  四差路に出ると、右に平安神宮の大きな鳥居が見え、左折して行くと知恩院へ出る。  その先の白川橋脇に、東面に  「 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち 」 、南面に 「 延宝六戊午三月吉日 京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽 」     
{左}東山三条
とある道標が建っていた。  少し歩くと、左右は東大路通りで、東山三条の交差点である。 交差点を越えると銘酢 千鳥という看板が目に入った。  村山造酢という会社で、創業以来二百八十年の老舗で、質のいい江州米と酒を使って、食酢をつくり続けている。  江戸時代の醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれた。  茶懐石 辻留 出張専門 という看板を掲げている家があるが、裏千家お出入りの仕出し屋である。 京都の料亭は板前を持たず、  
{左}高山彦九郎像
一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせる。  明治三十五年創業の辻留は、料亭だけではなく、駅などで弁当を販売しているが、五千円以上とお高い。  左側に、京阪三条駅がある。 出町柳まで延伸した時、駅は地下に潜ったので、上の空地はしゃれた喫茶店とモダンな庭園になっていた。  その先にひれ伏す武士像は皇居を遙拝している高山彦九郎像である。 高山彦九郎は延享四年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、  
{左}加茂川
天皇を崇拝した勤王思想家である。  松平定信などの幕府の警戒から常に監視下に置かれ、寛政五年(1793)、筑後国久留米の友人宅で、四十六歳で自刃した。  林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物であるが、その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えたといわれる。  目の前は加茂川で、三条大橋が架かっている。 日本橋からここまで、百二十六里余(492km)を歩いてきたが、東海道の旅もこの橋で終わりである。 
{左}三条大橋
東海道は中山道より短く、交通手段も運行頻度も多いので、計画が立て易かった。 しかし、中山道のような古い集落や神社仏 閣、そして石仏など、歴史を感じさせるものは少なかった。 中山道の時は家族の出迎えもあった。 そんなことを思いながら、 加茂川を渡った。 橋は昭和二十五年に建設されたものだが、擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、また、西より二つ 目の擬宝珠には、池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残る。
{左}弥次喜多像
なお、池田屋は、高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあった。 橋を渡り終えて、左手にある弥次喜多像の前に立つ。 東海道を 本格的に歩き始めたのは、昨年の初めだが、春から秋にかけて中断し、再び歩いたのは去年の終わりからで、正味一年かかったと いうことになる。 毎日が休日の生活をしていると、富士が見える時期や桜の時期など歩く時期も考え、終わったのが平成二〇 年四月下旬の今日になった次第である。 それにしても、旅というのは終わってしまうと味気ないものだなあ!! と、mr.max は 川面を見ながら、思っていた  (おわり)



     

貴方は かうんたぁ。目のゲストです!!