平成三十年(2018)一月二十二日と二十三日、娘の刀剣乱舞の御朱印巡りに付き合って、神社、仏閣を御参りした。
初日、一月二十二日、ホテルを出て、最初に行ったのは建勲神社である。
◎ 建勲神社
四条大宮からバスに乗り、「建勲神社前」バス停で降りる。
「 建勲神社の正式名は 「たけいさおじんじゃ」 だが、
地元の人は 「けんくんじんじゃ」 や 「けんくんさん」 と読んでいて、
バス停も 「けんくんじんじゃ」 を使用している。
建勲神社は明治二年(1869)、明治天皇の御下命により、創建された。
祭神は織田信長で、明治八年(1875)に別格官幣社に列せられ、
京都の船岡山に社地が与えられた。
江戸幕府を開いた徳川氏は朝廷を軽んじていたので、
新政府は朝廷を重んじた織田信長を東京遷都後の京都を守る神としたのだろう。
明治十三年(1880)に社殿を新たに造営し、御嫡子織田信忠卿を配祀した。
明治四十三年(1910)には山麓から山頂へ遷座し、
拝殿や本殿など十棟の社殿を建立し、現在に至っている。 」
少し歩くと「建勲神社」の石柱があったので、
道幅がある道を歩くと右手に船山が見えてきた。
道の右側に素木の鳥居と「建勲神社」の石柱があった。
その奥に並んでいる赤い鳥居は末社の義照稲荷社、命婦元宮のものである。
左手にある石段を上っていくと 四〜五分で社務所があり、
その先に建勲神社の拝殿と本殿があった。
x | x | |||
建勲神社にお参りすることになったのは同行した娘による。
今流行お刀剣女子の一人で、今回「京都刀剣御朱印巡り」の一つに建勲神社がなったためである。
社務所にはそれに関わる品々が置かれていて、小生ら以外に若い女子が訪れていた。
説明板「船岡妙見社」
「 妙見社は船岡山の地の神、玄武大神を祭る。 千二百年前の平安遷都に際し、
風水で船岡山は大地の生気のほとばしる玄武の小山と卦され、
ここを北の基点として平安京は造営された。
玄武侵攻は古くから広く行われ、玄武神の大元は国常立尊で、
のちに妙見菩薩として形を変えて現れるとされた。
船山妙見社は船岡山の地の神として崇拝され、今日に至る。 」
建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)など、
東山三十六峰の眺望が望めた。
一段低いところにある義照稲荷社は、元明天皇、和銅二年、
秦氏が穀物、織物の神として祭ったのが始めで、
宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神を祀っている。
稲荷命婦元宮には伏見大社の命婦社の竜神と船岡山の霊狐が祀られていて、
稲荷神の威力を高めているとされる。
x | x | |||
◎ 今宮神社
次は今宮神社へ向かう。
先程と違う道を通ると、「今宮門前」の交叉点に出て、赤い鳥居と「今宮神社」の石柱が建っていた。
少し歩くと今宮神社の神門にでた。
ここには「京都十六社巡り」とあり、京都の神社の商売熱心なことに驚いた。
神門をくぐると、境内にはいろいろな境内社があるが、メインは今宮神社である。
「 今宮神社は平安時代、一条天皇の正暦五年(994)、
厄病を払うため、当社地の厄神を二基の神輿にお祓いをこめて
船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪病退散を祈ったのが紫野御霊会であり、
今宮祭の起源である。
長保三年(1001)に船岡山から現在地に奉遷され、
新たに設けられた神殿三宇とともども今宮社と名付けられた。
応仁、文明の乱で今宮神社も焼失した。
文禄二年(1593)、豊臣秀吉が今宮社の御旅所を再興し、神輿一基を寄進した。
西陣の八百屋に生まれた「お玉」が徳川三代将軍家光の側室となり、
五代将軍綱吉の生母・桂昌院として従一位となった。
桂昌院は京都の寺社の復興に力を注いだが、
今宮社に対する崇敬と西陣に対する愛郷の念が非常に強かったといい、
元禄七年(1694)、荒廃していた社殿の造営などを行い、
御牛車や鉾を寄進したほか、祭事の整備や氏子区域の拡充、
やすらい祭の復興など様々な施策を行った。
江戸時代には社領として今宮神社に五十石が与えられた。
寛政七年(1795)には機業者を中心とした西陣界隈の豊富な経済力を背景に御旅所に能舞台を落成させ、秋季に能の公演を行っていたが、
織物産業の衰退により、1970年代を最後に途絶えることとなった。
明治二十九年(1896)に本社殿を焼失したが、同三十五年に再建し、
その後も西陣をはじめ多くの人々の崇敬を集めている神社である。
また、毎年四月に厄病退散を祈願して、やすらい祭が行われている。 」
x | x | |||
今宮神社の別名は珠の腰神社で、桂昌院・お玉の方に由来する。
境内にお玉の像がある。
神社にお参りしてからあぶり餅屋に向う。
娘を案内した目的の一つが門前のあぶり餅である。
前回訪問した同じ店の一文字和助事 一和に入る。
この店は現在で二十三代目という老舗である。
十時開店で早いと思ったが、先客があり、寒いので、暖かい小屋に通されて、
しばらくするとお茶とあぶり餅が出てきた。
あぶり餅はお茶付きで500円。 腹の足しにはならない少量だが、これで今年も健康で送れそう!! である。
「 あぶり餅はきな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、
炭火であぶったあと白味噌のタレをぬった餅菓子である。
あぶり餅の起源は、
長保二年(1000)、神社の神前にこの餅を供え、持ち帰って食べれば厄病から逃れるといわれたことに始まり、
応仁の乱や飢饉のときには今宮神社参道で庶民に振舞ったと伝えられる。
あぶり餅で使われる竹串は今宮神社に奉納された斎串(いぐし)で、
今宮神社で毎年四月に行われるやすらい祭の鬼の持つ花傘の下に入ると
御利益があるのをたとえとし、
食べることで病気・厄除けの御利益があるとされる。 」
x | x | |||
◎ 北野天満宮
次は北野天満宮である。
ここも「京都刀剣御朱印巡り」の一つである。
今出川通りに面して建つ北野天満宮の一の鳥居は、
高さ十一・四メートルの大鳥居で、大正十年に建立されたものである。
木曽の花崗岩の一本柱で出来ていて、
上部に掲げられた扁額は高さ二・七メートル・幅二・四メートルで、
閑院宮載仁親王により「天満宮」という文字が書かれている。
「 北野天満宮は、菅原道真の祟りを恐れた朝廷と公家が
社殿を建てたことに始まる。
平安時代の延喜三年(903)、大宰府に流された菅原道真が没すると、
都で落雷などの災害が相次いだ。
これは道真の祟りだとする噂が広まり、
御霊信仰と結びついて京都の公家たちは恐れおののき、
没後二十年目に朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復活させ、正二位を贈った。
天暦元年(947)、現在地に社殿が建てられ、菅原道真が祀られた。
その後、藤原師輔が自分の屋敷の建物を寄贈し、大規模な社殿に作り直されたと伝えられる。
永延元年(987)、一條天皇は北野天満宮に勅使が派遣し、北野天満天神の神号が贈り、 国家の平安を祈念する勅祭が初めて行われた。 、
更に、正暦四年(993)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。
寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、
以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
皇室や公家、将軍家からも庇護を受けた北野天満宮だったが、
文安元年(1444)、室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、
一時衰退した。
それを復活させたのが豊臣秀吉で、
天正十五年には豊臣秀吉による北野大茶湯が催行されている。
北野天満宮は、
江戸時代の頃には道真の御霊としての性格は薄れ、寺子屋で学問の神として信仰されるようになる。
全国に菅原道真を祀る神社は1万二千社あるといわれるが、その多くは当宮から御霊分けをした神社である。 」
その先の参道には寄進を受けた常夜燈があるが、二つが対になっているのは珍しいと思った。
「末社 伴氏社」の石柱があり、説明板があった。
「 伴氏社は道真の母が祭神である。
大伴氏の出であることからその名がある。
かっては石造りの五輪塔があったが、
明治維新の神仏分離で当社南隣の東向観音寺に移された。
石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
台座に刻まれた珍しい蓮弁により有名になった。 」
x | x | |||
鳥居をくぐって入ると、石段の先に立派な楼門がある。
「 桃山時代の様式の二階建ての門で、
両側に随神(貴族の護衛に従事した官人)の像が安置され、「文道大祖 風月本主」の額が掲げられている。
幣額の文字は平安時代中期の学者、慶滋 保胤、大江匡衡が菅原道真を讃えた言葉である。 」
楼門の右手前には 「北野大茶湯之址」 の石碑とその側に太閤井戸がある。
「 豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された際、 茶会で使用する水をこの井戸で汲んだと伝えられている。 」
楼門をくぐると左斜めに行く道があり、その道を進むと左側に絵馬所、
納札所と絵馬掛所がある。
絵馬所には算額等の絵馬が多数奉納されている。
その先には菅原道真を支えた人達を祀る摂社が両側に並んで建っていた。
老松社もその一つである。
その前を進むと、国の重要文化財に指定されている三光門(中門)がある。
「
上部に掲げられた「天満宮」の勅額は後西天皇の御宸筆である。
三光とは、日、月、星の意味で、梁の間にそれらの彫刻があることが三光門の由来である。
平安京に遷都された頃の御所は千本丸太町にあり、大極殿から見ると門の上に北極星が輝くことから、
天空と一つになって平安京を守る場所(玄武)がこの地(北野)になるとされた。 」
x | x | |||
三光門をくぐると右側に渡邊綱燈籠があり、正面に拝殿がある。
北野天満宮の社殿は拝殿と本殿の間に石の間がある権現造りと呼ばれる形態である。
「
菅原道真を祀る本殿と拝殿が一段下がった石の間という石畳の廊下でつながり、
本殿の西には脇殿、拝殿の両脇には楽の間を備えた八棟造という複雑な構造で、
屋根は桧皮葺である。
これらの建物は、慶長十二年(1607)、豊臣秀吉の遺命により、
豊臣秀頼が造営されたもので、
桃山建築を代表する建造物として、国宝に指定されている。 」
拝殿を見上げると、唐破風や黄金色に輝く装飾、精緻な彫刻の数々は絢爛豪華な桃山文化の建築ならではと思った。
三光門を出て、北側に回ると柵の向こうの廻廊の先には、
東照宮と同じような極彩色の彫刻が施された本殿の一部が見えた。
廻廊の朱色の壁と丸い提灯の取り合わせが良く、美しい。
なお、毎月二十五日の夕には吊燈籠に火がともされ、ライトアップされるという。
x | x | |||
社殿の左手には「史跡御土居の紅葉」の石碑がある。
この先は梅の季節と紅葉の季節だけ、有料で公開される場所であるが、
一部だけはいつでも行ける。
「 豊臣秀吉は応仁の乱で荒廃した京都の都市計画に乗り出し、
天正十七年(1589)御所を造営し、 天正十九年(1591)には京洛の区域を定め、
その境域の外敵からの防備と鴨川の水防のため、
諸大名に命じて御土居(大土堤)を築造した。
東は鴨川(上京区北辺町、河原通り)、北は鷹ヶ峰(鷹峯旧土居町、大宮土居町、
紫竹上長目町)、
西は紙屋川(紫野西上居町、平野鳥居前町、西京中合町)、南は九条あたり(京都駅北、洛南中学北)を囲む二十二・五キロメートルに及ぶ場所に、
台形の土塁と堀(堀の一部は川、池、沼を利用)が築かれ、
土塁の内側を洛内、外側を洛外と呼び、要所には七つの出入口を設けた。
鞍馬口や丹波口などの地名はその名残である。 」
豊臣秀吉が築いた土塁は数ヶ所しか残っていない。
ここ北野天満宮の土塁は御所の北西(乾)にある最も重要な箇所とされ、
境内に水が溜らないように約二十メートルの切石組暗渠(悪水抜き)が造られた。
歴史的に重要な遺跡であることからから、
この場所は国の史跡・御土居と指定されている。
菅原道真が詠んだ 「 このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山 紅葉の錦 神のまにまに 」 の歌碑があった。
x | x | |||
社殿の北側には地主社の小さな朱色の社殿がある。
地主社は、北野の地が誕生した時代からのこの地で信仰されてきた神様で、
境内でもっとも古い社(やしろ)である。
その右側にある小さな社殿は「多治比文子」を祭神とする文子天満宮である。
「
右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)は菅原道真の乳母をつとめた女性である。
道真の死後の天慶五年 (942)、菅原道真が夢枕にたち、
「 北野の右近馬場(現在地)に社殿を造り、自分を祀れ 」 という 神託が降りた。
また、近江国比良宮の神主神良種にも託宣があり、
これがきっかけになって、 北野朝日寺の僧最珍らが、
天歴元年(947)に現在地に社殿を建て、
菅原道真公を祀ったのが北野天満宮の始まりとされる。
文子天満宮は文子が住む自宅の地にあったが、明治時代に現在地に移された。 」
本殿の右側には宝物殿があり、そこには北野天満宮御宝刀の鬼切丸、別名髭切が所蔵され、
刀剣乱舞として宝刀展を開催し、重文の国広や恒次など約四十振りの刀剣が展示されていた。
この神社の名物は菅原道真が愛した梅であるが、訪問した日は梅には早く平日だったので、
刀好きと女子と外国人しかいない閑散とした北野天満宮だった。
最後に以前訪れた時の紅梅の下で白い牛の像の写真を掲載する。
x | x | |||
この後は 続く (新春の神社・仏閣めぐり 2) をごらんください。