平成三十年(2018)一月二十二日と二十三日、娘の刀剣乱舞の御朱印巡りに付き合って、神社、仏閣を御参りした。
初日の一月二十二日、建勲神社、今野神社、北野天満宮を訪れ、 その後、向ったのは仁和寺である。
◎ 仁和寺
北野白梅町から仁和寺にバスで向ったが、 到着時間が昼だったので、近くのそばやに入り、その後、仁和寺を訪れた。
「 仁和寺は真言宗御室派の総本山で、「古都京都の文化財」として、
世界遺産に登録されている。
仁和寺は平安時代、第五十八代光孝天皇が西山御願寺として着工したのに始まり、 仁和四年(888)、宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和寺を完成させた。
宇多天皇は退位後、出家して仁和寺を住房とされ、真言密教の修行に励まれた。
以来、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡となられ、
仁和寺は 御室御所(おむろごしょ) と称された。 」
仁和寺の正面に建つ巨大な門は二王門である。
「
寛永十八年(1641)から正保二年(1645)頃に建立されたとする入母屋造の二重門で、
国の重要文化財に指定されている。
横幅は約十メートル、奥行きは約六メートルで、本瓦葺。
門正面の左右に阿吽の二王像、後面には唐獅子像が安置され、
平安時代の和様で統一されている。 」
二王門をくぐると、左側に「社務所」の看板がある本坊表門があった。
この門は国の重要文化財に指定されている。
本坊表門をくぐると「御殿、庭園拝観入口」の案内板があり、右手に皇族門があり、
正面にあるのが大玄関である。
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ここは宇多法皇の御所があったところで、「御殿」 と呼ばれている。
「
御殿は白書院、黒書院、宸殿と霊明殿の建物などから構成されている。
白書院と黒書院の間の北側には池を配した北庭がある。
宸殿は西から東に向け、上段の間、中段の間、下段の間の三室で構成される。
宸殿の東端に車寄せが設けられていて、
南北に配置された庭園とともにかつての宮殿の雰囲気を漂わせている。 」
白書院と宸殿との前には白川砂を敷きつめた広い南庭が広がる。
「
左側の宸殿は近世初期の皇居・常御殿を移築したものだったが、
明治二十年(1887)に焼失。
現在の建物は亀岡末吉の設計により、明治四十二年(1909)に着工、
大正三年(1919)に完成したものである。
中央奥に見えるのは勅使門である。
右奥に見えるのは二王門である。 」
白砂の庭は南庭 (左) 宸殿 (中央奥) 勅使門 (右奥) 二王門 |
白書院も黒書院も国の登録有形文化財である。
「
白書院の襖絵などは、昭和十二年に福永晴帆による松の絵が部屋全体に描かれている。
黒書院には堂本印象が描いた襖絵が部屋全体を飾る。
印象が付けた秋草の間などは現在部屋の名前になっている。 」
北庭は南庭とともに江戸時代初期に作られたと考えられている。
「 北庭の石橋のある池には飛濤亭の露地と滝口からの水が流れ込む池泉式の構成をしていて、 江戸時代の寺院の池泉式庭園の様相を残す貴重なものとして、 京都市特別名勝に指定されている。 」
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霊明殿は檜皮葺の屋根の上に見事な宝珠が飾られている。
歴代の門跡の位牌が安置され、本尊は薬師如来である。
腰をかがめずに入れるように鴨居の高い貴人口が設けられている。
遼廓亭と飛濤亭は国の重要文化財である。
「
霊明殿の奥にある遼廓亭は江戸時代の画家、尾形光琳の屋敷から移築された茶室で、
葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中ににじり口を開いているのが珍しいとされる。
また、飛濤亭は江戸時代末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席である。 」
御殿を出て、参道を進むと中門がある。
「 中門は寛永十八年(1641)から正保二年(1645)頃の建立された、 切妻造、本瓦葺、柱間三間の八脚門で、国の重要文化財に指定されている。 側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られていて、門内の左側に西方天、右側に東方天が安置されている。 」
門をくぐると左側にあるのが御室桜である。
門と同時期に植えられた御室桜は今日はつぼみもなく、寂しい状態である。
亡くなった妻とごった返すこの場所に桜を見にきたことを思い出した。
遅咲きの桜は四月中旬に見頃を迎える。
下の写真はその時撮ったものである。
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御室桜の右側にある五重塔は寛永二十一年(1644)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。
御室桜の上にある観音堂は現在修復中で、覆いに囲まれていた。
「 観音堂が最初に造られたのは延長六年(928)だが、度々火災にあい、 現在の建物は江戸時代の寛永二十一年(1644)に建てられた もので、一度も修理されないままの貴重なものという。 入母屋造り、前面一間向拝付き、本瓦葺き。特徴は折りたたみ式の金飾り付板扉に正面両脇の桟唐戸である。 本尊の千手観音は修理期間東京国立博物館で仁和寺と御室派の仏たちとして公開されている。 なお、観音堂は非公開なので、修復が終了しても中に入ることはできない。 」
石段を上った先にあるのは金堂である。
「 慶長十八年(1613)に建立された御所の正殿である紫宸殿を、 寛永年間(1624〜1644)に移建改築したもので、仏堂への用途変更に伴い、 屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、 寝殿造遺構として宮殿建築の雰囲気をよく残していることから、 国宝に指定されている。 」
金堂の左側にあるのは寛永二十一年(1644)に建立された鐘楼である。
その周囲には変わった桜が植えられていて、開花期には華やか雰囲気を醸し出す。
鐘楼の先に寛永年間に建立された御影堂中門と御影堂がある。
「 御影堂は旧御所の清涼殿の用材を用いて建設したもので、宗祖空海を祀る。 」
金堂の右側には寛永年間に建立された経蔵があるが、これは禅宗様建築である。
その先に同時期に建立された九所明神拝殿と同本殿がある。
これらの建物全てが国の重要文化材に指定されている。
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◎ 妙心寺
次は妙心寺である。
バスに乗り、妙心寺北門前のバス停で降りた。
「 妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山で、花園法皇が建武四年(1337)に慧玄を招き、 法皇の離宮を禅寺に改めて、建立した寺院である。 応仁の乱で多くの堂塔を焼失したが、細川勝元、政元親子らの援助で再興。 その後、豊臣、徳川家をはじめ諸大名が帰依し、隆盛を極めた。 」
広い敷地に南から三門、仏殿、法堂と重文の伽藍が一直線に、
その周囲に四十六もの塔頭が並ぶが、
公開されているのは一部の塔頭の庭と法堂と浴室位である。
三門は慶長四年の建立で、境内で唯一の朱塗りの建物である。
「 三門には空、無相、無作という禅の境地による解脱の意味が託されている。 」
浴室は明智風呂と呼ばれるサウナ風の浴室で、
江戸時代に明智光秀を追善するために、建立された。
法堂(はっとう)は明暦三年(1657)に当寺を開いた関山慧玄国師の三百年忌を記念した建てられた建物で、
国の重要文化財に指定されている。
「
法仏殿より一周り大きく、一段と禅宗様(唐様)に徹した造りになっているが、
住職が法要儀式を行うところなので、中にあるのは須弥壇だけである。
内部の鏡天井にある狩野探幽筆の雲龍図は、
狩野探幽が五十五歳のとき、八年の歳月を要して描きあげたとされる直径十二メートルの天井画である。
龍の目は円相の中心に描かれるが、立つ位置、見る角度によって、龍の表情や動きが変化するように見え、
通称「八方にらみの龍」という。
また、かってNHKの「ゆく年くる年」の除夜の鐘になっていたという鐘が保管されている。 」
訪れている間、ずーとみぞれが降っていた。
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◎ 本能寺
最後に、本能寺へ京都バスで行った。
本能寺へは京都市役所前のバス停で降りる。
本能寺の門の前には「法華宗大本山本能寺」の石柱があり、「立正安国」と書かれた日蓮の像が建っていた。
「
本能寺は法華宗本門派の大本山で、応永二十二年(1415)日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永亨五年(1433)六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、
更に天文十四年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て、大伽藍を復興した。
天正十年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃した。
その折、三十余の宿坊を構えた大伽藍も灰塵に帰した。
豊臣秀吉による都市計画により、天正十七年(1589)、現在地に移転して再建された。
しかし、江戸時代後期の天明元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失した。 」
現在の本堂は昭和三年(1928)に再建したものである。
本堂の奥に織田信長及びその側近達を供養する信長公廟がある。
その近くに江戸時代後期の南画家、浦上玉堂父子の墓がある。
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今日は多くの神社、仏閣にお参りした。 明日は宇治方面を訪れる。
今日戴いた御朱印の一部です・・・・
仁和寺 | 妙心寺 | 北野天満宮 |
この後は 続(新春の神社・仏閣めぐり 3) をごらんください。