◎ 東福寺
令和二年(2020) 一月十七日、JR京都駅発12時19分、
奈良線で東福寺駅には12時32分に到着。 早速、寺に向う。
東福寺には多くの塔頭がある。
東福寺北門よりまっすぐ進むと、正面にあるのが霊源院で、
山門の前には「戊辰役殉難士菩提所」の石柱が立っていた。
「 霊源院は、観応年間(1350年頃)、
後醍醐天皇の皇子・龍泉和尚により、
天護庵と号し創建されたが、龍泉和尚の死後、
応永年間(1400年頃)、在先和尚により、現在の名の霊源院になった。
天正十五年(1582)の本能寺の変では、
水野忠重(後の備後福山藩藩主)を追手から匿った。
境内には福山藩初代藩主水野勝成の墓所がある。
石段を上り門を入ると六体の小さな地蔵が迎えてくれる。
書院造りの建物(書院)は明治初期に建立されたものである。 」
霊源院の先に駐車場があり、その先の三叉路を右折すると左側に 「明暗寺 尺八根本道場」の門札と右下の石柱には「尺八の古里 明暗寺」とある。
「 鎌倉時代末期の建武二年(1335)に、
天外明普(てんがいめいふ)が虚竹了円を開山と仰ぎ、
京都三条白川に創建された普化宗(虚無宗)の寺院で、尺八吹しょう禅を宣揚、
以後虚無僧(武士)による明暗尺八が広まった。
江戸時代になると、幕府の軍役寺として隠密や国事犯の逮捕も義務つけられ、
諸国の情勢を探る任務を負っていた。
明治四年(1871)、江戸時代、隠密活動をしていたとして、普化宗廃止の令が下り、廃寺となった。
本尊の虚竹了円像などは東福寺塔頭の善慧院に預けられたが、
明治二十三年(1890)に「明暗教会」として活動を再開、
昭和二十五年(1950)に同寺に同居する形で、普化正宗明暗寺となった。 」
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その対面にあるのは同聚院で、 「 十万不動明王 五大堂」の石柱が立っている。
「 同聚院は、東福寺百二十九世が1444年に建立した寺で、 藤原道長が仏師康尚に1006年に造らせた不動明王坐像を本尊として、 五大堂に祀られている。 不動明王坐像は、木造坐像としては日本一の高さ(二メートル六十五センチ)で、 国の重要文化財に指定されている。 」
その先に月下門があり、川には臥雲橋が架かる。
月下門の左手にあるのは東福寺の方丈で、川に架かる橋は通天橋である。
春の新緑、特に秋の紅葉はすばらしいため、人がごったかえし、
ゆっくり見学することは望めない場所である。
「 この地には、平安時代の延長二年(924)、
藤原忠平により建立された藤原氏の氏寺・法性寺の大きな伽藍があった。
しかし、嘉禎五年(1239)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)が、
境内に臨済宗の東福寺を建立する。
東福寺は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ採って、寺名とした。
法性寺は母屋を取られた形で、寂びれ、
現在は京阪東福寺駅近くに小寺院として存続するのみである。
東福寺は、数度の大火を蒙り、また、明治の廃仏希釈で、寺域は小さくなったが、
今でも二十五の塔頭が残っている。 」
臥雲橋を渡り、日下門から中に入ると、右側に禅堂、そして法堂がある。
その反対にあるのが方丈である。
「 方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、
後には応接間の役割が強くなった。
明治十四年の火災で、仏殿、法堂、庫裏と共に焼失したが、
明治二十三年(1890)に再建されたものである。
三室二列の六室からなり、南面に広縁を設けている。
中央の間を室中といい、正面は双折桟唐戸になっている。
広大な方丈には、東西南北に四庭があり、「八相成道」に因み、
「八相の庭」と称している。
八相とは、蓬莱、方丈、えい州(えいじゅう)、壺梁(こりょう)、八海、五山、
井田市松、北斗七星の八つで、釈迦の重要な出来事(八相成道)である。 」
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方丈に入ると「八相庭園」がある。
「 八相庭園は昭和十四年(1839)に作庭家・重森三玲により作庭された庭園で、四つの庭園で構成されている。
寺創建当時の鎌倉時代庭園の質素剛健な風格を基本に、
現代芸術の抽象的構成を加えた近代禅宗庭園である。 」
まず、南庭。
「 南庭は広さ二百十坪の蓬莱に因む枯山水庭園である。
古来、中国の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙人が住む「蓬莱」「方丈」「えい州」「壺梁」と呼ばれる四仙島があり、
島には仙薬財宝があると、信じられていた。
南庭は上記の四仙島を十八尺の長石を基本に剛健に配し、
渦巻く砂紋によって、八海を表す。
西隅には五山になぞらえた築山を置き、
その苔地と砂紋とを区切る斜線の表現も効果的である。 」
南正面に設けられた向唐破風の表門は、昭憲皇太后の寄進と伝わる。
「 恩賜門とも呼ばれ、小型ながら、明治期唐門の代表作である。 」
東庭は円柱の石で構成されている。 モダンな感覚の庭で、おしゃれである。
「 雲文様の地割に、円柱の石で北斗七星を構成し、北斗の庭と呼ばれる。
北斗七星に見立てた石は、もと、東司(重要文化財、旧便所)の柱石の余り石を利用したものである。
後方には天の川を表した生垣が配され、夜空が足元に広がるかのような小宇宙を造り出している。 」
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西庭は、さつきの刈り込みと砂地とを葛石(かずらいし)で区切り、 大きく市松模様に図案化している。
「 井の字に等分した、古代中国の田制「井田(せいでん)に因み、 「井田市松」と呼ばれる。 北庭へ続く途中には、「通天台」と呼ばれる舞台が設けられ、 眼下に渓谷「洗玉澗」(せんぎょくかん)を一望できる。 」
通天台からは渓谷「洗玉澗」と通天橋を見ることができた。
北庭は、ウマスギゴケの緑と色鮮やかな市松模様の敷石を対比し、造られている。
「 敷石は、かって恩賜門に使われていたものである。
サツキの丸刈りとの調和の妙も印象深く、彫刻家・イサム・ノグチは、
この庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と称した。
秋には、背景の紅葉の赤色と聖一国師が宋より持來した、
といわれる唐楓「通天紅葉」の黄金色とが織りなす色彩感あふれる空間となる」
(東福寺パンフレット) 」
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東福寺の本堂は、昭和九年(1934)に再建されたものものである。
明治十四年の大火で焼失したのを起工から竣工まで十七年をかけて復興させた昭和の木造建築中最大の建物である。
細長い禅堂は、貞和三年(1347)に再建された単層、裳階付の切妻造の建物で、
日本で最大で最古の禅堂ということから、国の重要文化財に指定されている。
左側に鐘楼と経堂があった
三門の右側に鐘楼と経堂がある。
山門(東福寺では三門という)は、室町時代中期の応永十二年(1405)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されている。
「 足利義持揮毫の「妙雲閣」と描かれた扁額を掲げる三門は、++南禅寺、知恩院と共に京都の三大門と称され、室町時代の禅宗寺院の姿を今に伝える貴重な遺構である。
三門とは空門、無相門、無作門の三解脱門の略である。
五間三戸で、二階二重の建物、両側に屋根付き階段が付設されている。
二階内には釈迦如来と十六羅漢が安置され、柱や梁は極彩色に彩られている。
屋根の四隅を支える柱は、天正の大地震による痛みを豊臣秀吉が天正十三年に補修したので、
「太閤柱」と呼ばれている。 」
門をくぐり、日下門をでて、東福寺の参拝は終了した。
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この後 醍醐寺 へ向かった。