令和四年十一月十五日〜十六日、紅葉の京都へ旅をした。
ここ二年以上はコロナで旅はできない状態に置かれていた。
政府が旅行の振興策を再開したので、コロナ患者の数はまだ多いが、
紅葉の京都へ久しぶりに行くことにした。
◎ 高山寺
十一月十五日(火)東京駅発八時二十一分 のぞみ209号に乗る。
十時三十二分に京都駅に着いたので、駅のロッカーに荷物を預け、
十一時烏丸口から出る西日本JRバスで、周山行きに乗る。
バスはあちらこちらに停まりながら進むので、
十一時五十一分に栂ノ尾バス停に到着した。
バスはハイブリットバスであったので、環境にやさしいと思った。
降りたところの右側に清滝川が流れ、とが乃茶屋があり、高山寺は左手にある。
高山寺へは裏参道を上っていったが、すぐに赤い楓が迎えくれた。
白壁に石垣という城郭を思わせる風情である。
高山寺境内案内図と「栂尾山 高山寺」の説明板があった。
「 高山寺は、三尾の一番奥の栂尾(とがのお)にある世界遺産に登録された
真言宗の古刹である。
創建は八世紀に遡る。 その後、一時期は廃寺となったものの、
建永元年(1206)、明恵上人が後鳥羽上皇の勅願により、
栂尾の地を華厳宗の復興道場として賜り、名を高山寺として中興開山した。
中興以来、学問の寺として発展し、現在に至るまで国宝・重要文化財あわせて、
一万ニ千点余の宝物を伝える。
国宝石水院は、明恵上人時代唯一の遺構であり、
数少ない鎌倉時代の寝殿造風建築として伝わる。
南面欄間には後鳥羽上皇より賜った勅額「日出先照高山之寺」が掲げられ、
寺号の由来を語る。
また、高山寺は、茶の発祥地といわれ、
明恵上人が栽培した茶が宇治へと伝わったことで知られる。
現在でも、茶園が営まれ、毎年十一月八日には開山堂にて、
献茶式が執り行われる。
境内は昭和四十一年(1966)に国の史跡、平成六年(1994)に世界遺産に登録された。
文化庁 」
その先にあるのは国宝石水院である。
門をくぐった少し奥にある。
内部は撮影禁止であった。
説明板「栂尾山高山寺 石水院」
「 高山寺は、建永元年(1206)、
明恵上人が後鳥羽上皇の勅願によりこの地を賜り、
華厳宗の道場として中興開山した寺院である。
草創以来、皇族・公卿・武士の要人たちの庇護の元、学問寺として興隆した。
寺宝は典籍を中核に、国宝・重要文化財を含む一万ニ千点余が伝わる。
平成六年(1994)、世界文化遺産に登録された。
石水院(国宝 鎌倉時代)は、明恵上人時代の唯一の遺構であり、
上人が後鳥羽上皇より学問所を賜ったものとされる。
簡素な佇まいの寝殿造風住宅建築である。
明治二十二年(1889)、金堂の東より現在地へと移築された。
西正面は、かって春日明神・住吉明神の拝殿であったところで、
今は善財童子像が置かれている。
欄間には、富岡鉄斎筆の木額「石水院」がかかる。
南面内部には、寺号の由来になった後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」や、
明恵上人筆とされる木額「阿智辺幾夜宇和」が当時より伝わる。
京都市 」
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石水院を出ると、右側に「仏足参道」の石柱が石垣の前にある。
反対側に小高いところに「日本最古之茶園」の石柱と少し離れたところに
「高山寺」の説明板があった。
茶園は竹垣で閉鎖されているので、確認には行かなかった。
道の右側には「遺香庵庭園」の説明板が立っているが、
石垣の上の庭園は 「 明恵上人の七百年遠死忌を記念し、
昭和六年(1931)に作られた茶庭である。 」 などの説明があったが、
非公開である。
参道は紅葉していて迫力があるが、両側の石垣が城郭の石垣に似ていて、
戦国時代にこれらの築石技術が城造りに転用されたのだと思った。
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その先、右側に聖観音像が祀られていて、奥にあるのは開山堂である。
その先に「明恵上人 御廟 高山寺」の立札があり、石段を登っていくと、
御廟(明恵上人の墓所)がある。
石段を降り、左側のカーブする道に入ると、
右側に「仏足石さんけい道」の石柱があり、その先に祠が見える。
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祠には大きな足形の仏足石が祀られていた。
道を上ると、赤い小さな社・春日明神があった。
その左側に、「金堂 本尊 釈迦如来
真言 ノウフクサマンダ ボタナンバク
高山寺 」
の立札があり、その奥に金堂(本堂)があった。
御参りして、帰りは表参道を歩く。
紅葉になっている林の参道を下る。
丸味を帯びた常夜燈が印象的であった。
その先に「世界遺産 高山寺」の石碑があり、周山街道へ出た。
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◎ 西明寺
次の西明寺には周山街道(国道162号)を歩き、十五分程かかる。
国道には紅葉が続くので、散策は楽しい。
白雲橋を渡ると、高雄錦水亭となかがわがあり、
客引きがいた。
この先にある指月亭などの料理茶屋は、
昼食でも3,000円〜5,000円とお高い。
今はまつたけなので、5000円以上の店もあった。
これらの店には入らず、
坂を上り、槇の尾バス停に出ると、よしでんがあった。
大衆的店なので、中に入り娘はきつねうどん、小生はにしんそばを食べた。
学生時代、南座の隣でにしんそばをよく食べた。
そんな感慨にふけりながら、たいらげた。
ここは大衆的な料金なので、客は多かった。
一服したところで、西明寺に向う。
よしでんを出て、坂を下ると右にカーブする。
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そこを過ぎると、右側に「槇尾山聖天堂」の石柱があり、
その先に赤い橋が架かっている。
「本堂までゆっくり歩いて3分」の表示板があり、指月橋を渡る。
西明寺は、三尾でもっとも小さな寺であるが、
門前に架かる朱塗りの指月橋付近の眺めは格別なので、
多くの参拝者が訪れる。
石段を上って行くと山門(表門)に出た。
表門は、一間薬医門で、本堂と同じ、元禄十三年(1700)の造営である。
「西明寺」の由緒(寺のパンフレットによる)
「 西明寺は、古義真言宗に属し、槇尾山と号す。
高雄山・神護寺、栂尾山・高山寺と共に三尾の名刹のひとつとして知られる。
清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、
冬の雪景色と、四季おりおりの自然豊かな山寺である。
天長年間(824〜834)に、弘法大師(空海)の高弟・
智泉大徳が神護寺の別院として開創したが、その後、荒廃した。
鎌倉時代の建冶年間(1275〜1278)に、
和泉国(現在の大阪府南西部)槇尾山寺の自性上人が
中興し、正応三年(1290)に、平等心王院の号を後宇多法皇より賜り、
神護寺から独立した。
その後、永徳年間(1558〜70)に兵火にあって焼失したが、
慶長七年(1602)に明忍律師によって再建された。 」
門をくぐると、右手に聖天堂がある。
「 元禄時代に造営された建造物で、
堂内には歓喜天(聖天)が秘仏として祀られている。
拝殿の前に城幕が掛けられており、お供物の大根と御団の紋が染められている。
大根は夫婦和合・家庭円満のご利益を、
御団は金運招福・商売繁盛のご利益を授ける歓喜天の誓願を表現している。
聖天堂と本堂をつなぐ渡り廊下は古風な造りで、
廊下から眺める苔庭の風景は格別の美しさである。 」
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正面にあるのは本堂である。
「 元禄十三年(1700)に五代将軍・徳川綱吉の生母・
桂昌院の寄進によって再建された建物である。
桁行七間、梁行四間で、内部は梁行きに三分されている。
中央が内陣で、後方に四天柱を建てて、
逆蓮宝珠付きの唐様須弥壇(しゅみだん)に厨子が奉安されていて、
本尊の釈迦如来立像(重要文化財)が祀られている。
この像は、高さ五十一センチメートルの小像で、
清涼寺(嵯峨釈迦堂)の釈迦如来像を模して、
鎌倉時代に檀家によって作られたももである。
その隣に平安時代の作と伝えられる、十一面千手観音菩薩が祀られていて、
これも国の重要文化財である。
東西の脇陣が外陣の役割を果たしており、
真言宗寺院の本堂としては特異な平面構造となっている。
正面入口の梁上に「霊山鷲心(空海)」の額が掲げられており、
霊鷲山で瞑想している釈迦の心境を表現している。
本堂の東側には五色の苔庭が広がっており、 宝しょう印塔の傍の紅葉を併せ、見る人々の心を癒してくれる、と、 寺のパンフレットにあったが、 庭では紅葉と苔が微妙なハーモーニー(調和)をかもし出していた。
客殿は、本堂の西側(左側)にあり、本堂の左後方と短い渡り廊下で、
結ばれている。
本堂より古く、江戸時代前期(1650年後路)に移築された建造物である。
「
当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。
前列ニ室、後列三室からなり、前列南室には、
慶長・元和年間に制定された「平等心王院僧制」の木札が掲げられている。
幅広い廊下には、半鐘と雲盤が吊り下げられており、
法式に使われていた鐘である。
渡り廊下の脇には池庭が広がっており、
池に映る逆さモミジを楽しむことができる。 」
堂内は撮影禁止で、外の紅葉は撮影可能である。
聖天堂から鐘楼がちらっと見え、鐘越しの紅葉が印象的であった。
今年の秋のJR東海の京都のポスターに、西明寺が取り上げられている。
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◎ 神護寺
石段を降りて、神護寺へ向かう。
右手の清滝川には黄色、朱色、赤など、色々な樹木が色付きていて、
素晴らしい。
それを見ながら歩いて行くと、いくつかのの駐車場があり、
そこを過ぎると赤い橋(高雄橋)があった。
ここでは多くのカメラマンが写真を写していた。
右側に急な石段があり、これまでに栂尾から歩いて来た身では、
足が負担が多すぎて、登るのが難航した。
石段下に高雄観光ホテル、途中に高雄茶屋、硯石亭がある。
長い階段の先にあるのが、西を正面にして建つ神護寺の楼門(山門)である。
楼門は、元和九年(1623)の再建で、両脇に二天像を祀る。
「 神護寺は、延暦年間(782〜806)に、
平安京造営の最高責任者だった和気清麻呂が建立した愛宕五坊の一つである。
和気氏の私寺である高雄山寺と河内国神護寺を合併してできた、
神護国祚真言寺が始まりといわれる。
大同四年(809)には、唐から帰朝した空海が十四年間、住持した。
最澄や空海の活躍により、根本道場としての内容を築いていったが、
正暦五年(994)と久安五年(1149)の二度の火災にあい、
後鳥羽上皇の怒りに触れて、全山壊滅状態となった。
わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た、
武士出身の僧・文覚は、生涯の悲願として神護寺の再興を決意するが、
その達成への道はとても厳しかった。
上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ、
任安三年(1168)、以前より立派な規模に復興された。
その後も、天文年間の兵火や、明治の廃仏希釈の弾圧にも消えることなく、
法灯を護持している。 」
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楼門をくぐると、山の中腹を平らに整地した境内が広がる。
右側にあるのは書院である。
書院の唐門は、「平唐門」 と呼ばれる門で、
田中亀太郎氏の寄進による昭和初期の建立である。
毎年5月一日から五日に、この書院で虫払いの行事が行われる。
虫干しのことで、寺宝の虫干しを兼ねて特別参観が行われる。
その先の右側に宝蔵と和気公霊廟がある。
その先に明王堂が建っている。
「 天慶二年(939)に平将門の乱が起きた時、 朱雀天皇は、嵯峨上皇の勅命により、 弘法大師空海が刻して神護寺明王堂に奉安していた不動明王像を、 遍照寺の寛朝大僧正に命じて、 下総国公津ケ原(現千葉県成田市)の堂宇に護持させ、 二十一日間、朝敵調伏の護摩を修させた。 翌年、乱が平定したので、朱雀天皇は、寛朝を帰京させようとしたが、 不動明王像が動こうとしないという報を聞いて、 公津ケ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、 神護寺新勝寺の寺名を下賜し、勅願寺として、 現在の成田山新勝寺の始まりである。 」
その先には五大堂と毘沙門堂が南向きに建っている。
毘沙門堂の後方には大師堂がある。
「 五大堂と毘沙門堂は、元和九年(1623)の建立である。
五大堂は入母屋造の三間のお堂である。
毘沙門堂は入母屋造の五間のお堂で、金堂が建つ前はこのお堂が金堂であった。
内部の厨子には、平安時代の毘沙門天像(国の重要文化財)が祀られている。 」
五大堂北側に石段があり、金堂に続いている。
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五大堂北側の石段を上った正面に金堂、その裏手に多宝塔が建つ。
境内西側には地蔵院がある。
「 金堂は、昭和九年(1734)に山口玄洞の寄進により、
建立されたもので、入母屋造、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。
須弥壇中央の厨子に、本尊薬師如来立像(国宝)を安置し、
左右に日光・月光菩薩立像
(重要文化財)と十二神立像、左右端に四天王立像を安置する。 」
多宝塔には国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置する。
地蔵院ではかわら投げができる。
以上で神護寺の参拝は終わったので、長い石段を降りる。
ここから清滝まで、錦雲渓ハイキングがあり、以前二度歩き、嵐山に抜けたが、
今回は三尾の紅葉のみの訪問なので、高雄橋を渡ったところにある坂道を上り、
高雄バス停を目指す。
坂の途中で今日の締めくくりの紅葉に出会った。
左側に中店、山本食堂、
右側にもみじ家があるが、どの店か分らないが、立ち売りで、
季節限定のもみじ餅を売っていた。
高雄バス停では長蛇の列で、臨時のバスが出ていた。
来たバスに乗ったが、超満員で、途中降りる人もほぼなく、
五十分程立ちぱなして、京都駅に着いた。
当初、伊勢丹で食事後、ホテルへと予定していたが、
地下一階でなだ万のまつたけ・牛肉弁当2850円を買い、ホテルへ向かった。
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翌日は 洛北(曼珠院門跡)、東山(真如堂・金戒光明寺・ 永観堂) を訪れる。