令和四年(2022)十一月十六日、洛北の曼珠院門跡を訪れた後、 東山の真如堂・金戒光明寺・永観堂を訪れる予定である。
◎ 曼殊院門跡
市バスの東山系統は混んで座れないないので、四条大宮から直接行くのはやめて、
まず京都駅へ行った。
京都駅から5番系統に乗るが、最初のバスは座れないので、次のバスに乗った。
すし詰め状態のバスは平安神宮前から減り出して、
南禅寺永観堂前バス停を過ぎると、ほとんどの客が降り、閑散となった。
そこから10分位か、一乗寺清水町バス停で降りた。
曼珠院に一番近いのがこのバス停で、ここから東に20分程歩かないといけない。
バス停の先の交叉点を渡り、路地を東に入って行く。
三叉路に突き当たるので、左折し、次の交叉点を右折するが、
ここには愛宕大神の常夜燈二基と
「右 葉山馬頭観世音 ひゑい山無碌寺」と刻まれた道標がある。
その裏は地域の掲示板で、その下に曼殊院約0.9km 赤山禅院約1.4qの表示があり、
周囲の地図が書かれていた。
道標にある葉山馬頭観世音とは一燈寺(葉山観音)のことであることが分かった。
落ち着いた住宅街を歩いて行くと、三叉路があり、「曼殊院→」の道標があった。
さらに行くと、上り坂になり、左に「鷺森神社」の石碑があり、
道端に「曼殊院↑」の道標があった。
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少し行くと、右側に「↑曼殊院徒歩6分 圓光寺徒歩9分→ 詩仙堂徒歩11分→
」の道標があり、曼殊院までもう一歩であることが分かった。
修学院離宮〜曼殊院〜詩仙堂が散策ルートであるが、
修学院離宮と詩仙堂は以前に行っているので、今回、詩仙堂には寄らない。
その先の道の右側に「武田薬品工業京都薬用植物園」の看板があり、 右側には 「曼殊院○○」(○○の文字が崩されているので読めなかった) の石碑があり、頭上の楓は朱色に紅葉し、きれいである。
林の中を少し進むと、左側に鳥居と常夜燈がある。
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天満宮と刻まれた常夜燈の先には石橋がある。
弁天池に架かる石橋を渡ると、左側に弁天堂、右側に天満宮がある。
お参りして、道まで戻り、進むと正面に石段があり、その上に勅使門がある。
階段の下には「←参拝者 曼殊院」の看板と「歴史的風土特別保存地区」の石碑と
「天皇皇后両殿下行幸路」の石碑がある。
勅使門の左右の塀は、五本の水平の筋が入った築地塀で、
門跡寺院の格式の高さを表している。
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勅使門には柵があり、中に入れないので、左折すると、右側に坂がある。
坂を上ると石垣の前に「曼殊院門跡」の説明板があった。
「 最澄が比叡山に建立した一坊を起こりとする天台宗の寺院で、
青蓮院、三千院、妙法院、毘沙門堂と並ぶ、
天台宗五箇室門跡の一つの数えられる。
門跡とは皇族や摂関家の子弟がが代々門主となる寺院のことで、
当寺では明応四年(1495)に、伏見宮貞常親王の子、
慈運大僧正が入手したことに始まる。
初代門主の是算国師が菅原家の出身であったことから、
菅原道真を祭神とする北野天満宮の別当職を歴任した。
数度の移転を経た後、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた良尚法親王により、
江戸時代初期の明暦二年(1656)に現在地に移された。
親王は桂離宮を造った八条宮智仁親王の子で、
父宮に似て、茶道、華道、書道、造園等に優れ、
大書院や小書院(ともに重要文化財)の棚や欄間、金具など、
建築物や庭園の随所に其美意識が反映されている。
大書院の仏間には本尊の阿弥陀如来立像が安置され、小書院の北側には、
八つの窓を持つ明るい茶室、八窓軒(はっそうけんー重要文化財)がある。
優雅な枯山水庭園は国の名勝に指定されており、
寺宝にして「黄不動」の名で知られる不動明王像(国宝)を蔵するが、
現在は京都国立博物館に寄託されている。
京都市 」
紅葉がきれいな坂を上る。
右側に北通用門があり、中に入ると管理棟があり、
拝観料を支払い、御朱印をいただく。
その先の入口の大玄関には「竈媚」の額が掲げられている。
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中に入ると左手にある庫裏は国の重要文化財に指定されている。
館内は撮影禁止になっているので、撮影できるのは庭だけである。
本堂にあたる大書院は、明暦二年(1656)の建立、
寄棟造り、柿葺きの数寄屋風書院で、十雪の間、滝の間があり、
十雪の間背後には仏間、滝の間背後には控えの間がある。
十雪の間の床の間に慈恵大師の坐像、
仏間には本尊の阿弥陀如来像や諸仏を安置する。
大書院の東北方にある小書院も明暦二年(1656)の建立、寄棟造り、
柿葺きの建物で、富士の間と黄昏の間、
西側には二畳の茶立所などの小部屋がいくつかある。
部屋の襖絵は狩野派と思われるが、傷んで、また、退色していて、
鑑賞にはあたらない気がした。
建物の杉戸の引手金具や釘隠し、
欄間に桂離宮と共通した意匠が見られることから、
小さな桂離宮と言われるようである。
大書院の前に広がる庭園は遠州好みの枯山水で、国の名勝に指定されている。
書院庭園は、武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、
いわゆる公家好みの庭になっている。
司馬遼太郎は、「街道を行く」の中で、
「公家文化は豊臣期・桃山期に育成され、江戸初期に開花した。
桂離宮と曼殊院は桃山の美意識の成熟と終焉を示している。 」 と書いている。
紅葉をバックに、白砂の中にあるのは亀島である。
鶴島にある樹齢四百年の五葉松は鶴を表現している。
その根元には曼殊型のキリシタン燈籠がある。
枯れ山水は砂と岩(石)と苔で構成されるものと思っていたが、
ここは樹木で構成され、岩は使われていなかった。
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◎ 真如堂
一乗寺清水町バス停に戻り、市バスに乗り、真如堂前バス停で降りた。
短いが、急な坂道を上ると、左側に「真如堂東参道」の石柱が立っている。
石段を上って行くと、紅葉があざやかな境内に出た。
正面に出ると、本堂がある。
「 真如堂の正式名称は、鈴聲山真正極楽寺で、
比叡山を本山とする天台宗の寺院である。
永観二年(984)に、比叡山の僧・戒算上人により、神楽岡東の東三条院の離宮に、
延暦寺常行堂の本尊を安置したのが始まりである。 しかし、
応仁の乱により、堂塔は焼失、その後、他に移転、また戻るを繰り返えす。
元禄六年(1693)、東山天皇の勅によって現在地に移転し、再建される。
享保二年(1717)に完成したのが現在に本堂で、七間四面総欅の入母屋造り、
本瓦葺きである。
国の重要文化財に指定されている。 」
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本堂の手前の右側に紅葉を前景にした三重塔は、写真映えする古塔である。
文化十四年(1817)に再建、多宝塔を祀った本瓦葺きで、
高さは約三十メートルある。
三重塔の右側にあるのは鎌倉地蔵堂である。
「 能の演目「殺生石」に由来する地蔵尊で、 家内安全・福寿・延命などの他、冤罪を晴らし、心の病を治す御利益があると、 される。 」
本堂の左側に、京都・映画誕生の碑がある。
説明板「京都・映画誕生の碑」
「 一八九五年、フランスのリユミエール兄弟が発明した映画は、
二年後の一八九七年に
実業家稲垣勝太郎が日本に持ち込み、初めて上映されたのが、
この土地京都の地で、当初の映画は既に存在する物を対象とした撮影で、
今日でいう記録映画でした。
一九〇八年、横田永之助の依頼をうけた牧野省三氏は、シネマグラフを用いて、
歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。
京都に生まれた歌舞伎という伝統芸能を映像という新しい時代の科学技術と結びつけ、京都の映画を誕生させたものです。
スクリーン上に動く映像は観る人々を魅了したものです。
以来、京都では多様にして大量の映画が創られようになりました。
これを支えたのは、京都の伝統芸能の力、伝統工芸の力、
歴史都市京都の景観等々、
まさに、京都の文化力に培われたものであります。
一世紀の時を経て、京都の文化となりました。
京都で映画が創られて一〇〇年という記念すべき年にあり、
牧野省三氏が、第一作「本能寺合戦」を撮影した、
この地「真正極楽寺 真如堂」 境内に、その足跡を深く刻み、
益々の映画発展を願って、「京都・映画誕生の碑」を建立するものであります。
二〇〇八年一〇月一日 「京都 映画一〇〇年宣言」
プロジェクト推進協議会 」
左側の道に入り、本堂と紅葉を写した。
白い障子と本堂の黒ずんだ茶色をバックに紅葉が浮かび上った。
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道の左側に伝教大師巡錫の像があり、その奥は池のある庭園であった。
道の奥の突き当たりに渡り廊下があるのが見えた。
そのまま進むと、渡り廊下があったので、横断すると、白壁の建物が見えた。
案内がないので、確かではないが、薬師堂だろうか?
そうだとすると、このお堂は昭和四十一年に東山五条の金光院より寄進されて、
移転された建物で、薬師如来が祀られている。
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時計回りに進むと、道の左奥に阿弥陀如来露仏が鎮座している。
「 江戸時代に木食正禅養阿上人が建立。
功徳日参りを三年三ケ月間続けると、無病息災、家運隆盛、
祈願成就のご利益がある という、
「洛陽六阿弥陀巡り」を発案した僧である。 」
本堂に戻ると、紅葉とお堂がマッチするアングルがあったので、パチリ。
本堂に上り、御朱印をいただく。
本堂の御本尊・阿弥陀如来は年一度の秘仏である。
伝教大師最澄に師事していた慈覚大師円仁の作で、
造物の際、円仁が「 すべての人々、特に女性を御救いください。 」 と、
お願いすると、如来は三度うなずいたという伝説から、
「うなずきの弥陀」 と呼ばれている。
お参りをすませ、来た道の方向に向うと、
「戦国武将斎藤利三 東陽坊長盛・海北友松 の墓 →」の道標があった。
その先は墓地で、墓が林立しており、歩いてみたが確認できなかった。
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この後、 金戒光明寺・永観堂・南禅寺水路閣 を訪れた。