京 都 散 策
(京都名所めぐり)

「 相国寺・同志社大学(京都薩摩藩邸跡) 」




令和五年(2023) 一月二十二日(日)、洛中を歩いた。 

◎ 相国寺周辺

市バスで河原町今出川バス停で降り、今出川通りを寺町通りまで歩くと、 交叉点の北東角に「史跡 大原口道標」の標柱があり、道標が建っている。

「 平安時代に京都に入る街道が整備され、 鯖街道でもある大原街道の入口であることを示す道標で、 京への入口は七つあったことから、京の七口と言われたようである。
慶応四年(1868)四月、地元の十九名により建てられたと銘記され、 「 北 上御霊、上加茂、くらま、今宮」、 「 西 内裏、北野、金閣寺、 御室、あたご」、「 東 下加茂、比ゑい山、吉田、黒谷(金戒光明寺)、 真如堂、坂本城 」 と、良質の花崗岩に流麗な文字で刻まれており、 これだけ多くの地名が道標に刻まれているのは珍しい。 」

寺町通りを北上すると、右側にアーケードがあったが、 これは出町柳商店街であろうか?
時間が早かったので、人足は見られず、入って確かめなかったが ・・・
さらに進むと、道は左にカーブして、右側に法泉院、実泉院があり、 その間に「本山 本満寺」の大きな石柱が建ち、中に入る参道があり、 右側に「山中鹿之介幸盛御墓有」の石柱が建っている。

「 本満寺は、日蓮宗の本山である。
応永十七年(1410)に本国寺から分立し、 六老僧の一人日持を崇敬開山とし、 玉洞妙院日秀(関白近衛道嗣の子)により開かれた寺である。 
万治四年(1751)に、江戸幕府第8代将軍・吉宗の病気平癒を祈願し、 幕府の祈願所となっている。
本堂は明治四十四年(1911)に焼失、現在の建物は昭和二年(1927)に、 再建されたものである。 
山中鹿之介の墓は、 宝暦十四年(1764)に、子孫の山中永辰と同一信によって建立されたもので、 本満寺実泉院の墓地に山中家一族の墓の中央にある。  」

大原口道標 x 出町柳商店街 x 本満寺参道 x 本満寺本堂
大原口道標
出町柳商店街
本満寺参道
本満寺本堂


寺町通りを更に北に進むと、相国寺東門付近の右側に少し入ったところに、 「甲子役 薩藩戦死者墓 戊辰役」と書かれた大きな石碑があり その先に石柱で囲まれた墓地がある。

 「 甲子役は、元治元年(1864)に起きた禁門の変である。
墓地は、禁門の変と慶応四年(1868)に起きた戊辰役(鳥羽伏見の戦い)で亡くなった戦死者との合葬になっている。 
薩摩藩邸が近くにあったことからここに設けられたと思われる。
蛤御門の変は長州藩が薩摩藩と戦ったが、長州藩の戦死者の墓も 相国寺塔頭の大光明寺境内にある。 
薩摩藩が長州藩の約二十名の首を獲り、この地に埋葬したもので、 明治39年に、毛利家が墓石を建立した、という。 」

上立売通りを左に入ると、相国寺の石柱があるので、中に入り参道を歩く。
その先には常願寺、法輪寺があり、その先の右側に京極幼稚園がある。
交叉点の先は相国寺の境内で、かなり広い敷地に、建物は点在し建っているが、 他の寺院に比べ建物は圧倒的に少ない。

「 相国寺(しょうこくじ)は、臨済宗相国寺派の大本山である。
室町幕府第三代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に、 一代禅宗寺院を建立することを発願し、 その名称は、足利義満の左大臣の官名が相国であること、 明の五山制度の始まりとする大相国寺があることから、相国寺とし、 また、義満により、京都五山と鎌倉五山が制定され、 京都五山の第二位に列せられた。  」

右側に「本派専門道場」の看板を掲げるのは、 山内塔頭である大通院で、相国寺の専門道場になっており、 座禅堂は選仏場ともいう。 
その先にあるのは天響楼である。

「 平成二十二年(2011)に建立された鐘堂で、 中国の開封にある大相国寺により、二つ鋳造された梵鐘のうち、一つである。
日中佛法・両寺友好の記念として寄進されたものである。 」

薩摩藩戦死者墓 x 相国寺東入口 x 大通院 x 天響楼(鐘堂)
薩摩藩戦死者墓
相国寺東入口
大通院
天響楼(鐘堂)


手前の細道を右折すると、鳥居と小さな社があり、 、宗旦稲荷が祀られている。
宗旦稲荷は、千宗旦に化けた狐・宗旦狐を祀っている。

天響楼(鐘堂)の左の奥にある鳥居と社は弁天社である。

「 社殿は、十七世紀後半の建物で、もとは久邇宮邸で祀られていたもので、 明治十三年(1880)に寄進され、移築されたものである。 」

弁天社の脇の道を直進すると、開山堂と法堂が建っている。
法堂は、現在、仏殿がないため、仏殿を兼ねているため、 本堂とも呼ばれるものである。

「 相国寺は無窓疎石を開祖とし、 伽藍は十年をかけて明徳三年(1392)に竣工したが、大火で焼失。  その後、再建されたが、応仁の乱で、細川方の陣地となったため、 全焼、その後も、細川晴元と三好長慶の戦いで全焼している。
現在の法堂は豊臣秀頼が、慶長十年(1605)に再建したもので、 国の重要文化財に指定されている。
本尊は釈迦如来坐像、脇侍は阿難尊者像と迦葉尊者像で運慶による作といわれる。  天井にある蟠龍図は狩野光信によるもので、鳴き龍と呼ばれるものである。 」

開山堂は、無窓疎石を祀るお堂で、 桃園天皇の皇后・恭礼門院の女院御所にあった黒書院を、 文化四年(1807)に下賜されて、現在地に移築したものである。 」

その先には方丈と庫裏がある。

「 天明八年(1788)の大火により、法堂と浴室、塔頭九ヶ所を除き、 ほとんどの堂宇が焼失した。
方丈と香積院とも呼ばれ庫裏は、文化四年(1807)の再建で、 扁額「方丈」は、中国の名筆家・張即文の筆である。 
方丈には有名画家による杉戸絵がある。 」

法堂、方丈と庫裏は特別公開時のみで、春秋には見られるが、 公開時でなく、また、御朱印も日曜日は執務休みとあり、いただけなかった。

宗旦稲荷 x 弁天社 x 法堂 x 庫裏
宗旦稲荷
弁天社
法堂
庫裏


庫裏の右手に進むと、左手に承天閣美術館がある。
相国寺とその塔頭である金閣寺と銀閣寺の文化財を収蔵展示する施設である。
当日は、白陰禅師の達磨絵やかれの書などが展示されていた。
白陰禅師は 「駿河に過ぎたものが二つあり、 富士の小山に原の白陰」と呼ばれた名僧で、臨済宗の中興の祖といわれる。

法堂の南西に「後水尾院天皇御歯髪塚」の石碑が建っていた。

「 ここには承応二年(1653)に後水尾天皇によって再建された大塔があり、 その上層部に後水尾天皇の歯と髪を納めていた。
天明八年(1788)の大火により焼失したため、塚が造られた。 
鉄製の入口と回りは樹木で囲まれていて、 宮内庁の看板が入口にある。 」

御歯髪塚の北側、方丈の道の対面には浴室があり、その先に大光明寺がある。

「 浴室は慶長四年(1596)の再建で、宣明ともいわれ、蒸気浴をしながら、 柄杓で湯をかけて入浴を行ったとされる。 」

御歯髪塚の南側には経堂がある。
経堂は、万延元年(1860)の再建で、この地にはかっては宝塔が建っていた。

経堂の脇の道を西に進むと、左側には同志社大学の校舎があり、 右側には瑞春院がある。

説明板「瑞春院 雁の寺」
「 由緒
 本尊 阿弥陀三尊仏(鎌倉時代)
足利義満公が、一山派、雪村友梅禅師の法嗣太清和尚を相国寺に迎請する為、 その禅室として雲頂院を創設、その後、雲頂院は兵火に懸り瑞春軒に合併、 瑞春軒は亀泉集證和尚が一四六六年から一四八四年(文正・文明年間)の間に創設。
(中間 略)
寺宇は天明年間に消失し、弘化から嘉永まで(1845〜1849)の間に、再建され、 今日の瑞春院に至る。
直樹賞の名作「雁の寺」の舞台として有名であり、 作者の水上勉が雛僧時代を過ごした禅院である。 
 庭園
当院には今昔の庭があり、南庭を雲頂庭と言う。  室町期の禅院風の枯山水で、枯淡な趣と、 公素的な作意が禅的な世界を象徴している。
北庭は昭和の名庭、雲泉庭、文化庁文化保護専門審査官・文化功労賞を受賞された 庭園研究の権威、村岡正先生が、 相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した池泉式庭園である。
 (以下 省略)   」

後水尾院天皇御歯髪塚 x 浴室 x 経堂 x 瑞春院
後水尾天皇御歯髪塚
浴室
経堂
瑞春院




◎ 同志社大学(京都薩摩藩邸跡)

その先に、「相国寺」の石柱が建っていて、相国寺に西側の入口になっている。

「 相国寺は、最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、 南は一条通り、北は上御霊神社までが寺域であった。
度々の火災に遭い、豊臣秀頼により法堂の再建、徳川家康により、 三門が寄進されたり、 伊藤若冲により、釈迦三尊像や動静物採絵が寄進されして、 大火の度に再建されてきたが、 明治維新の廃仏棄却で、多くの塔頭を統合したり、廃絶し、 相国寺の経営は行き詰った。 
この危機に、相国寺は明治天皇に動静物採絵を献納し、金一万円を下賜された。  このことで、相国寺の危機は去り、敷地一万八千坪が維持できた。  しかし、塔頭の建っていた土地は失われた。  その跡に同志社大学、京都市立鴨沂高校、京都市立烏丸中学校等が建っている。 」

そのまま道(上立売通り)を進むと、烏丸通りに出る。
道の反対側、南西には同志社大学の室町キャンバスの寒梅館と大聖寺がある。
このあたりは花の御所といわれた室町幕府があったところである。

「 同志社大学は、明治八年(1875)にアメリカから帰った新島襄が、 山元覚馬とともに、キリスト教の精神教育を実践しようと、 宣教師の支援受けて開校。  キャンバスには京都最古の煉瓦建築といわれる彰栄館をはじめ、礼拝堂、 クラーク記念館などがある。
寒梅館は、2004年竣工とあるので、あたらしい建物であるが、 同志社共通の煉瓦状の建物である。  学生サービスを目的に造られたもののだが、 一部にはロースクールとビジネススクールが入っている。  また、建築工事の際行った遺跡調査で発見された室町時代の遺構・遺物を 常時展示している。 」

烏丸通りを南下すると、同志社大学今出川キャンバスの入口近くに 「薩摩藩邸跡」の石碑と「京・薩摩藩邸(二本松屋敷)の説明板が建っている。

説明板
「 日本が未曾有の大混乱に陥った幕末、 文久二年(1862)九月、薩摩(鹿児島)藩が相国寺から土地を借りうけ、 京都に新たな藩邸を造営する。  同志社大学今出川キャンバスの約三分の二を占める広大な敷地の藩邸が、 御所に近隣して誕生した。  そして、この場所は幕末京都において、薩摩藩の政治的な重要拠点となっていく。
大政奉還の後、戊辰戦争が勃発、 その直後に会津藩士山本覚馬(新島襄の妻・八重の兄)は捕えられ、 ここの藩邸に幽閉された。  その折にまとめた建白(通称「管見」)が、 京都の近代化の指針として後に影響を与えた。
明治時代になると、京の薩摩藩邸は京都府に接収、民間に売却された。  そして人手を経て新島襄が購入した。   
             同志社大学    」

この近くに「中世相国寺の遺構復元」の説明板がある。

説明板
「 同志社大学良心館地点の発掘調査(2010〜2012)では、 中世の相国寺に関わる遺構が数多くみつかりました。  京都五山の禅寺の室町〜戦国時代の遺構が大規模にみつかることは稀です。  ここには、みつかった遺構の一部を移築・復元しています。  500年前の京の景観の一部をごらんください。 
 以下に、相国寺水路の石垣と相国寺西辺の石敷道路の説明があるが、 省略する。 」

相国寺西側入口 x 同志社大寒梅館 x 薩摩藩邸跡碑 x 遺構復元説明板
相国寺西側入口
同志社大寒梅館
薩摩藩邸跡碑
遺構復元説明板





この続きは  「 清明神社・一条戻橋・聚楽第跡 」  をごらんください。





かうんたぁ。