ホームページで、「龍馬と幕末の史跡めぐり おさんぽマップ 伏見桃山 」 というのを見つけたので、コピーした。
これを見ながら、令和六年(2023) 一月十五日(月)、
伏見桃山と中書島を歩いた。
◎ 御香宮神社
京都駅から近鉄奈良線で桃山御陵前駅で下車。
桃山御陵前駅を出て、大手筋通りを東に向うと、
「御香宮」と書かれた大鳥居がある。
桃山幼稚園を過ぎると、左側の石垣に「大手筋通り」の標識があり、
近くに「黒田節」誕生の地という案内板がある。
その内容を要約すると、
「 黒田節の歌詞は、福岡藩の儒学者、
貝原益軒が著した「黒田家臣伝」の母里但馬伝にも登場する逸話が、
元になっている。
伏見桃山にあった戦国大名・福島正則の屋敷での酒宴に、
黒田家の家臣・母里太兵衛(もりたへえ)が招かれた時、
福島正則は大きな鉢を杯に見立て、「これで酒を」と勧めたところ、
余りの大きさに太兵衛は断った。
しかし、飲めば望みの品を与えると強いたため、
太兵衛は座上に架かっていた槍を見て、「あれがいただけるなら」と答えた。
その槍は正則が豊臣秀吉から賜った秘蔵の品。
正則は酒の勢いで承知したところ、太兵衛は大杯に注がれた酒を見事飲み干し、
槍を持ち帰った。 公開した正則は、返して欲しいと何度も使いを出したが、
太兵衛はついに返さなかったという。
この名槍「日本号」は、別名「呑み取りの槍」と言われ、
現在は福岡市博物館に収められている。 」
更に進むと進むと左側に「御香宮神社」の石柱があり、
その先に御香宮神社の表門がある。
表門は国の重要文化財に指定されている。
この門は元和元年(1622)、徳川家康が
伏見城の大手門を貰い受け、寄進したもので、中国の二十四孝の蟇股がある。
門をぬけると、左側の白塀の前に「伏見義民事蹟」の説明板があり、
その下に文字が読めない石碑がある。
説明板「伏見義民事蹟」の内容を要約すると、
「 天明五年(1785)、
時の伏見奉行小堀政方(こぼりまさみち)の悪政を場府に直訴し、
伏見町民の苦難を救い、
自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を伏見義民という。
この碑は、明治二十年(1887)に建てられたもので、碑文は勝海舟の撰、題字は
三条実美の賞である。 」
その先には石製の鳥居がある。
「 江戸時代・万治二年(1659)、紀州徳川頼宣は当神社境内入口
の大手筋に石鳥居を奉納した。
その鳥居は寛文年間の大地震により倒壊、その後数度の建て替えを経て、
明和四年(1767)に現在の鳥居が奉納された。
数回の修理後、平成十年九月の台風により傾斜したのを機に解体修理を行った。
今回の修理で、基礎を鉄筋コンクリートにて補強するのに際し、
旧来の柱根石は交換したが、柱根を支えていた石底根石は再利用した。 」
左に桃山天満宮があり、そこを過ぎると石段があり、
御香宮神社の建物が見えてくる。
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本満寺参道 |
石段を上ると、寛永二年(1625)に紀州藩主・徳川頼宣により寄進さえ、 再建された拝殿がある。
「 御香宮神社は、神功皇后を主祭神とし、
夫の仲哀天皇、その子の応神天皇の他、六神を祀り、
伏見・桃山・向島地区の産土神である。
伝承によると、境内より香りの高い水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。 」
拝殿をくぐると、右側に絵馬堂がある。
正面には本殿がある。
「 本殿は慶長十年(1605)に徳川家康の命令で再建されたもので、 平成二年(1990)の修理の際、極彩色の彫刻が復元された。 」
本殿の手前左側に「御香水」の説明板があり、隣に御香水がある。
御香水は徳川義直、頼宣、頼房の産湯に使用されたという。
説明板「御香水」
「 いまから1100年前、平安時代の貞観4年(863)9月9日、境内から水が湧き出し、よい香りが四方に漂い、この水を飲むと病気がたちまち療りました。
この記奇瑞により、清和天皇から「御香宮」の名を賜りました。
井戸は明治時代に環境の変化により、涸れてしまいましたが、
昭和57年の春に復元。 昭和60年には、歴史と由緒があり、
地場産業である酒造業と結びつきが深く、水量が豊富で保存管理がよいことから、環境庁「名水百選」に認定されてました。 」
庭園は伏見奉行に就任した小堀遠州が奉行所に作庭した庭を、
昭和三十二年(1957)に再現したものである。
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御香宮神社本殿 |
◎ 伏見銀座跡から薩摩藩伏見屋敷跡
大手筋通りに戻り、来た道を西へ進む。
近鉄の踏切を越え、京阪電車伏見桃山駅の踏切の先に、
大手筋商店街のアーケードが見えてくる。
商店街に入ると、アーケードの天窓の下に「迎春 辰 」と「大手筋」と、
書かれた幕が吊るされていた。
昨年は卯(うさぎ)であったが、今年の辰の字を見ると、
かなり変化の多い年になるかな、という予感がする。
その先の三井住友銀行の一角に、「此付近伏見銀座址」の石碑があり、
説明板が建っている。
説明板「此付近伏見銀座址」
「 これより北方の銀座町は江戸時代はじめ、
徳川家康によってはじめて銀座が置れたところである。
銀座とは、銀を加工して一定の品位をもつ丁銀、
小玉銀などの銀貨とする独占鋳造所のことで、特権商人によって構成される。
関ヶ原の戦いが終わった翌慶長6年(1601)5月、家康は後藤庄右衛門、
末吉勘兵衛に銀座取立を命じ、この地に四町の屋敷を与えた。
有力商人の座人が集められ、早くから銀鋳造は特殊技能をもつ大黒常是が
鋳造を担当し、銀座会所、座人屋敷が建ち並んだ。
これが、江戸時代銀座のはじまりである。
慶長13年、銀座は京都中京の両替町へ移され(のち江戸、大坂などにも設置)、
伏見銀座は廃止されたが、銀座の地名を今もとどめている。
伏見観光協会 京都市 」
高いところに、からくり時計があったが、
「調整 試運転中」の紙が貼られ。蓋は閉まっていた。
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伏見銀座址碑 |
大伏見銀座址碑で、両替町通を北上すると、右手に丹波橋駅が見える。
この交叉点を左折し、丹波橋通を西に向う。
その先には浄土宗 勝念寺があり、山門の前に「天明義民柴屋伊兵衛墓所」と
書かれた石柱が建っている。
「 天明義民とは、天明五年(1785)、 時の伏見奉行小堀政方の悪政により虐げられていた住民の苦しみを救うため、 天下の禁を破り、場府に直訴した七人を指す。 石柱に書かれている柴屋伊兵衛も一人で、幕府に直訴した後、 京都奉行に投獄され、獄死している。 」
三叉路に突き当たるので、左折し南下すると左側に玄忠寺があり、 山門の左側には、伏見義民小林勘次之碑が建っていた。
「 淀川奉行により、淀川船の通行料が値上げされたため、 伏見町民が困っていることを知った薪炭商小林勘次は、 江戸に出て幕府に直訴し、値下げの朱印状を受けた。 元和元年(1618)四月二十六日、江戸から伏見へ帰る途中の鞠子宿で急死。 勘次は暗殺されることを恐れ、朱印状は魚の腹に入れて、 別人に持ち帰らせていた。 この結果、通行料は旧に復したので、伏見町民は小林勘次を徳とした。 」
その先の交叉点を右折し、西に向う。
向かった先は伏見薩摩藩邸跡である。 川を渡ると、松山酒造があり、
その入口の右手塀の前に、
「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難地」と「江戸時代 薩摩島津伏見屋敷址」 と、
書かれた石碑が建っている。
「 江戸時代、ここに薩摩藩島津家の伏見屋敷があった。 慶応二年(1866)一月二十三日深夜、蓬莱橋のたもとの南浜町の寺田屋で、 土佐亡命志士坂本龍馬が、薩長同盟成立の重要人として、 伏見奉行所役人の襲撃を受け、重傷を負いつつ脱出した。 龍馬は、濠川沿いの村上町の材木納屋に潜伏、 妻のお龍や長府毛利家家臣三吉慎蔵の通報により、 薩摩伏見留守居役大山彦八に救出され、この地に避難しました。 」
来た道を戻り、信号交叉点の先の三叉路を右折する。
左側に御馬篭郵便局があり、
その先に寺田屋の女将・お登勢(お)龍)の墓がある松林院がある。
民家のような寺で、中には入れなかった。
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伏見薩摩藩邸跡 |
◎ 薩摩寺の大黒寺から金礼宮
松林院を過ぎると、右側に薩摩寺ともいわれる大黒寺がある。
説明板「大黒寺」
「 円通山と号する真言宗単立の寺で、
空海(弘法大師)の開基と伝えられる。 もとは長福寺といい、
豊臣秀吉が信奉したのを初め、武家の信仰も厚かった。 江戸時代のはじめ、
この近くに薩摩藩邸が置かれ、
薩摩藩主、島津家の守り本尊と同じ大黒天が祀られていたことから、
元和元年(1615)、薩摩藩の祈願所と定められ、大黒天を本尊として、
寺名も大黒寺と改められた。
本尊秘仏大黒天は金張りの厨子に安置された小さな像で、
六十年に一度、甲子の年に開帳される。 」
本堂の左側には、金運清水、薩摩義士碑と伏見義民の遺髪塔が建っている。
「 中央の大きな薩摩義士碑は大正十一年に建立されたものだが、
宝暦三年に幕府より薩摩藩に下された木曽三川の治水事業に、
家老平田靱負を總奉行として取り組んだが、
幕府の邪魔や多額の借財をして成功したが、
工事の途中で殉死者や病死者を出したことなどから、
靱負は工事完成後、割腹自殺した。
墓地には、平田靱負の墓がある他、
西郷隆盛が建てたという寺田屋騒動の犠牲者、有馬新七など、
薩摩九烈士の墓碑や伏見義民文殊九助の墓がある。 」
右側の柳に隠れて見えない碑は伏見義民の遺髪塔である。
「 天明五年(1785)、伏見奉行小堀政方の暴政を幕府へ訴えるため、江戸で寺社奉行松平伯耆守に籠訴を決行した、 伏見義民の文殊九助ら七名の遺髪を祀ったものである。 」
大黒寺を出ると、左側に喜運寺があり、 その先の鳥居の脇の石柱には「金礼宮」とある。
「
金礼宮は天平勝宝二年(750)創建と伝えられる伏見区で最も古い神社である。
神社に伝わる話は、
『 平城京より山城の国に遷都された桓武天皇が、
伏見の里に神社を建立の為の勅使を使わしたら、金札が降ったので、
勅使がとり上げると、
「 伊勢大神宮の流れを絶やさぬため、天津太玉神を祀るように 」
という御神託が金文字で書かれていた。 神社では金札を御神体として祀り、
御祭神は天津太玉神と天照大神とした。 』
本殿の前には、しめ縄がかけられた大きなクロガネモチの木があった。
京都市指定天然記念物に指定されているが、
樹齢はさだかではないと案内板にはあった。
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伏見義民遺髪塔 |
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