新町宿のはずれの神流川は、滝川一益と北条氏直との戦いで、四千人以上の戦死者を出した古戦場である。
本庄宿は、宿場と商人の町として繁盛したところといわれるが、当時のものはほとんど残っていなかった。
平成十八年(2006)三月六日(月)、今日は、新町宿から深谷宿まで歩く予定である。
新町宿の出口に見通し灯籠があったが、これは復元されたものである。 本物は、
明治時代に売却され、現在は、高崎市大八木の諏訪神社の参道入口にある (右写真)
江戸時代には、国道の向かいの交番あたりにあったようで、一茶が寄付を強要されたこと
は、
既に新町宿で書いたので、ご覧いただきたい。
合流した国道17号を少し歩いた。
自衛隊の駐屯基地が左に続く道である。 旧中山道は、右に入る細い道の筈だが、
お菓子の国のような菓子工場が出来てしまい、その存在は分からなくなっていた。
国道をそのまま歩くと、神流(かんな)川にでた。 ここは、天正十年(1582)旧暦六月(現在
は七月)、織田信長の家臣で、関東管領の滝川一益と小田原の北条氏直が、炎天下で、
この河原で戦い、約四千人の屍を残した、と伝えられる古戦場である。 数百年前、ここでまさに血で洗う戦いが夏の河原で行われたのである (詳細は巻末参照)
旧中山道があったあたりに神流川古戦場跡の石碑があると思い、右折して川縁を歩いた。 この河原に無数の死体がころがっていたことを想像すると、異様な感じがした (右写真)
河川敷には、ゲートボール場などの施設があり、老人達が集まっていて、ゲームに熱中するのを見ると、遠い過去の出来事と実感できた。
浮世絵師の渓斎栄泉は、木曽街道六十九次本庄宿で、神流川の渡し場を描いている。
江戸側からの見た絵と思うが、見通し灯篭と流れが二つ、背景には妙義、榛名そして赤城
の上州三山が描かれていて、流れの一つに橋がかかり、先のもう一つは舟で渡っている。
この絵では、本庄側は橋がかかり、中州から新町側は船渡しだったとなる。
勅使河原の渡しは、右の河原にあったのだろうか??
探していた神流川古戦場跡の石碑は、なんということはない、国道に戻った橋の手前の左側にあった。
どうやら、護岸工事により移転されられたようで、庚申塔やその他のものも集められたのか、雑然としていて、整備状況が良いとはいえない気がした (右写真)
川渡りはできないので、国道の橋を歩く。 神流川は想像していたより川巾が広かった。
大田南畝の壬戌日記に、 「 河原ひろければ仮橋二つばかりわたる。 これ上野国と武蔵国との境なり。 」 と、あるが、今でも群馬県と埼玉県の県境であった (右写真)
(注)帰宅後、上里町のホームページを見たら、常水時は仮土橋を渡り、満水時は渡船で渡っていたとあり、川巾が基準を超えると川留めになった、とあった。
神流川橋の中ほどで埼玉県に入った。
現在の川の流れは、どちらかというと、東京側に近く流れ、高崎側は広大な河川敷になっている、という印象を受けた。
少し歩くと、橋の中程に常夜燈があったが、これもまた、地元の有志で復元されたものの
ようである。
常夜燈横の説明板には、 「 文化十二年(1815)、本庄宿の戸谷半兵衛が川の両側に常夜燈を
建てた。 夜になると火を点して、夜道を往来する旅人の標準にした。 武州側の常夜燈は、見透し灯篭とも呼ばれ、現在は大光寺にある。 」 と、書かれていた (右写真)
橋を渡ったところが、江戸時代の勅使河原村で、当時の家数は、二百八十軒で、橋のあたりに高札場と川高札が並んでいた、という。 大光寺は右折し川の上流に向かい、JR高崎
線の線路を越えたところにあるが、時間の関係で訪れなかった。
橋からやや下ると、信号のある三叉路があり、ここで、旧中山道である左側の道に入った。
民家の一角に、石碑があり、それにより、武蔵国最後の一里塚である勝場一里塚跡であることを知った (右写真)
その先の左の道端に庚申塔と石仏が並んでいた。
その先の土手の脇には、賀美村道路元標の石碑があった。
賀美公民館のあたりが、江戸時代は金久保村で、文政年間の家数は百六十二軒だった、とある。 江戸時代も、今のように、直線の道の両脇に家があったようである。
しばらく歩くと右手に林があり、その中にあるのが、陽雲寺である (右写真)
寺の案内によると、 『 元久弐年(1205)の創建と伝えられる寺で、新田義貞が、幕府打倒を祈願して不動堂を造立した。 天文九年(1540)、金窪城主、斎藤定盛が諸堂を修復し、崇栄寺と名を改めたが、天正十年(1582)の神流川合戦兵火で焼失した。 信玄の甥、武田信俊は、武田氏滅亡後、徳川氏に仕え、天正十九年、川窪与左衛門と名乗って、この地に、八千石が与えられ、養母である信玄夫人を伴って入封した。 夫人は、当寺に居住し、元和四年(1618)に没したので、法号の陽雲院をとって崇栄山陽雲寺と名を改めた。 』
とある。 昔は、大きな寺だったようだが、今回訪れた感じでは、その面影はなかった。
境内に、鞍間太郎坊大神と刻まれた石柱があり、立派な社(やしろ)が建っていた。
参道には、石仏が並んでいるが、その一角に、新田義貞の臣である畑時能(ときよし)の墓所がある。 時能は、義貞が戦死后も南朝のため戦ったが、歴応弐年(1339)、越前国で足利方に討たれたが、従臣の児玉五郎左衛門光信が、首を持って敵陣を脱出し、当地に持ち帰り、ここに墓を建てて、供養した、というものである ( 右写真は畑時能の墓所 )
児玉五郎光信も、彼の死後、時能の墓側に葬られ、二石祠が建立され、畑児塚と呼ばれ
た、と、案内板にあったが、上里町のホームページには、畑時能の墓は、当初は愛宕神社
あたりにあったが、その後、現在地に移転した、とある。
境内の銅鐘は、元禄時代に、天命鋳物として栄えた下野国の佐野宿の鋳物師、井上元峰により造られたものであるが、天命鋳物は、現在も、茶道の茶釜で、富山県の高岡市と共に、有名である。
道の左側に、金窪城跡の案内があったので、訪問しようと左折して行ったが、その先に案内がなく戸惑った。
運よく通りかかった耕運機に乗ったおじさんに聞いて分かった。
幼稚園の先で左折すると到着できた (右写真)
金窪城は、武蔵七党の一党が築いた城を新田義貞が改修して、家臣畑時能に守らせたと
いう。
その後、斉藤氏の居城になったが、神流川の合戦で破れ、斉藤氏の一族が全滅し、城も廃城になった。
そこには、土塁が残るだけであった (詳細は巻末
)
街道に戻り、その先を歩く。
金下公会堂(公会堂とは珍しい名前)を過ぎ、数百メートル行くと、キムラヤ乳業があり、道の反対の空き地に、小さな社(やしろ)があり、その両脇に、薬師像、二世安楽塔、庚申塔、二十二夜塔などのおびただしい石碑群があった (右写真)
その先で国道と交差する。
国道を越え、信号のある三叉路を左折する。 このあたり一帯は、上里町神保原(じんぼはら)町である。
神保原は、旧石神村、忍保村、八町河原村が合併した際、一文字づつを取って神保原村となったが、その後の合併で、上里町の一部になっている。
国道と平行しているせいか、車の通行が多く、歩道が凸凹していたり、片側にしかないなど、とても歩きやすい道とはいえない。
しばらく歩き、陣場川にかかる小さな橋を渡った (右写真)
この区間は旧石神村で、本庄宿から一里、新町宿からも一里のところにあったので、江戸時代には立場茶屋が置かれた。 木曽名所図会にも、 「 石神より左の方に赤木(赤城)見ゆる、 富士峰に似たり。 此所立場也。 』 と、紹介されているところである。
(ご参考) 上里町の資料によると、
『 石神村は養善寺前(現一丁目交差点付近)の土橋が入口で、右側に忍保村へ通じる道があり、入りずらくするため鍵形に曲げられていた。 街中には水路が道の片側に設けていて、村の中央に酒屋や髪結いがあり、村の端にかけて茶屋、一ぜんめし屋、菓子、とうふ、紙、わらじなどを商う家があった。 楠森橋のたもとには、立場が設けられていた。 出口も鉤型になっていた。 ここには、江戸時代、高札場が二ヶ所あった。 』
とある。
道は、左側にカーブし、最近できたと思われる大きな道を越え、更に歩き続ける。
古い民家は見渡らないが、庭には雪見灯篭など石灯篭をおいている家が多い。
少しづつ住宅地から離れていくようで、住宅の間に畑が見えるようになってきた。
かなり歩いたと思ったころ、右手に木の茂った小山があり、赤い鳥居が見えた (右写真)
この小山は、浅間山古墳で、赤い鳥居と社殿は、富士浅間神社で、江戸時代にはその前に茶屋があったという。
なお、道の反対側にある路地を入ると、この地区の人々が伝馬役(助郷)に苦しみ、涙を流した、という泪橋跡の石碑がある。 現在は、川はないが、橋の
跡と石碑、庚申塔が建つ。
少し歩くと、本庄市に入り、地名も小島○丁目に変ったが、昔の小島村である (右写真)
このあたりに一里塚があった筈だが、跡形もなかった。
昼になったので、産地直送を売り物にしているショップに入る。 食堂を併設し、ミニチュアの水車が回り、十割蕎麦とあったので、野菜天つきのザル蕎麦を頼んだが、
見事に裏切られた。 蕎麦に香りなく、てんぷらはただ大きいだけ。 値段から見ればこんなものかと思い直し、店を出た。
このあたりは現代風の住宅地に変貌しており、昔の街道がどうだったかを想像できない。
小島四丁目交叉点を越え、少し歩くと、道は左に大きくカーブし、そこは三叉路になっていた。 中山道は、直進する狭い道である (右写真)
車が通らない静かな住宅地を歩くと、藤岡道(R462)に突きあたった。
道の先には、うっそうとした森が茂み、左右の藤岡道には、多くの車が往来していた。
藤岡道を陸橋で越えると、本庄宿に到着である。
(ご 参 考) 神流川の戦い
滝川一益は、天正十年(1582)三月、武田氏勝利の功労で、織田信長から上野国を与えられ、厩橋城へ入城した。 ところが、僅か3ヶ月後の六月二日、織田信長が、明智光秀の叛乱により、京都本能寺で不虚の死を遂げたため、情勢が一変。
北条氏直は、好機至れりと旧領の上野国の奪回を目的に、五万人の大軍を侵攻させた。
滝川一益は、一万六千人を率いて厩橋城から出陣し、ここ神流川で六月十八日に両軍が戦った。 最初は士気に勝る滝川軍が圧勝したが、翌十九日、滝川軍が勝ちに乗じて深入りしたところを北条軍に包囲され、形勢が逆転し敗退。
滝川一益は、箕輪城 に入った後、信濃路を経由し本領の伊勢長島へ逃げ帰った。
この戦いで、北条軍は数百人の戦死者を出し、武将の一人、斎藤定利とその一族は金窪城とともに兵火に焼かれ滅亡したが、滝川軍の首級三千七百六十余を挙げ、上野国の奪還に成功した。
(ご 参 考) 金窪城
平安末期の治承年間(1177〜1181)に武蔵七党の一党である丹党から加治家治の構築と伝えられ、元弘年間(1331〜1334)に、新田義貞が修復して、家臣の畑時能に守らせたという。 室町中期、寛政年間(1460〜1466)に、斉藤実盛の子孫といわれる斉藤盛光が居城した。 天正十年(1582)六月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦において、一族ことごとく討ち死にし、城も兵火にかかって燃失し、斉藤家は没落した。 その後、徳川家康の関東入国に伴い、川窪氏の所領となり、陣屋がおかれたという。 川窪氏は元禄元年(1698)丹波国に天封となり、陣屋も廃された。
横断歩道橋を渡り、道の反対側に降りる。 左側に仏母寺がある (右写真)
本庄は、縄文の頃から人が住みついた古い土地で、平安時代になると、荘園を管理する武士集団が登場し、武蔵七党の児玉党一派の荘氏本宗家がこの土地を管理し、本荘と名乗ったのが地名の由来である。
室町時代に本庄実忠により、本庄城が築かれた。 本庄氏が秀吉の小田原攻めで落城した後も、徳川家康の家臣、小笠原信嶺が城主となり、城下町として発展したが、慶長十七年(1612)、小笠原氏が下総古河へ移封された後は廃城となり、その後は、利根川の水運を活用した商業の発展と中山道の宿場町として栄えた。
本庄は、秩父方面から陸路で運ばれてくる物資と群馬方面から小船で運ばれてくる物資の集散地のため、江戸から大きな船が出入りできる山王堂河岸は宿場の繁栄に大きく貢献したのである。 本庄の歴史はともかく、陸橋を降りたところで、右折し、道に沿って歩き、その先で左折すると、旧中山道に入る。
街道の左側に、金鑽(かなさな)神社があり、入口の鳥居は屋根のようなものが付いた珍しいものである (右写真)
入ったところにある天にも届けといわんばかりの二本の木は、県指定文化財の大クスノキである。 寛永十六年(1639)、本庄城主小笠原信嶺の孫・忠貴が神社改修に際し献木した
ものと伝えられ、樹齢三百五十年といわれる。
社殿は、本殿、拝殿、弊殿が一体になっていて、本殿は享保九年(1724)、拜殿は安永七年(1778)、弊殿は嘉永三年(1850)に建立されたものである (右写真)
幕に書かれた紋は最後の城主小笠原家のものだが、極彩色の彫刻で飾られ朱塗りの社
殿は美しかった。 ここは、金鑽神社の遙拝所として建てられたもので、本宮はここから
数十km離れた児玉郡神川村にある (詳細は巻末参照)
境内には幾つかの社が祀られていて、その前の常夜灯に文久三年と刻まれていた。
横にある総欅造りの大門は、別当寺だった威徳院(白蓮寺?)の総門である。
寺は神仏分離で廃寺になったが、門だけが残されたのである (右写真)
太々神楽の舞台もあった。 免許を持つ神楽として有名で、一社相伝の本庄組の
神楽は、
今でも神社の氏子によって継承されている。
本庄宿は、十七町三十五間(約1800m)の間に、本町、仲町、上町があった。
壬戌(じんじゅつ)紀行には、 「 本庄の駅舎にぎははし 」 と、書かれているように、天保
十四年(1843)の人口は四千五百五十四人、家数は千二百十二軒と、中山道では一番
多い。 旅籠は七十軒もあり、飯盛り女が百人以上もいたので、それを目当てに近在の若者達も多く集まり、大変な賑わいを見せた、とある。
また、寛文三年(1663)から、宿場の東西に市神が祀られ、二と七の日に市が立ったのである。
街道に戻り、その跡を確認しようと歩いていったが、市立図書館入り口付近に、西の市神があったはずだが、何の痕跡も、また表示すらなかった。
右側に、赤煉瓦造りの建物があり、ローヤル洋菓子屋の看板が出ていた (右写真)
説明板には、 「 明治二十七年に設立された本庄商業銀行が所有していた繭保管倉庫を
取得して、店舗兼工場にしている。 」 と、書かれていた。 赤煉瓦はイギリス積みで、セメントが貴重品だったので、漆喰を混ぜたものを使用して造ったようである。
本庄には、周囲から集められた生繭を扱う市場が設けられ、
経済が活発であったことから設立された銀行だが、銀行が繭を保管する倉庫を持っていた、とはおもしろい。
道路を反対側に渡り、路地に入ると、本庄市立歴史民俗資料館があった (右写真)
明治時代に建てられた洋風建築の建物で、かっての本庄警察署である。 入ろうと思ったが、休館だった。
北本陣の田村本陣は、埼玉りそな銀行の北西にあったとされるが、
本陣にあった門がこの一角に移され、保存されていた。
民俗資料館から少し戻ると、纏(まとい)を作る店があった。 今どき珍しい。
覗いてみると、人影はなく、作りかけのものが無造作に置かれていた。
境内の墓地に面白いものがあるという安養院(普寛堂)に立ち寄る。
安養院は、文明七年(1475)の創建といわれ、徳川家光から二十五石を拝領した寺で、大田南畝の壬戌紀行には、 「 大きなる寺ありて楼門たてり 」 と、書かれている (右写真)
墓地のなかをうろついていると、帽子をかぶった紳士に声を掛けられた。 小倉家の墓を探しているのだというと、今行ってきたばかりと云う。 それは好都合と案内を請うた。
加賀千代女や芭蕉、其角などの句碑が林立していて、形もいろいろ、どれも粋をこらして
いる。 墓の主の小倉紅於は江戸末期当地で料理屋を営んでいたというが、自分の顔入
りのもあった (右写真)
案内してくれた紳士は東京で大学教授をしていたが退官後故郷の本庄に戻ったといい、
自分の墓はどういうデザインがよいかの検討の為墓を見に来た、と話した。 ぜひ見せ
たいものがあると云って、自転車を引いて先頭に立った。
案内されたのは結婚式場で、
その庭に、五州山荘碑があった。
彼の説明によると、 「 かってこのあたりは見晴らしが
よく、常陸、下野、上野、相模、武州の5ヶ国が見えたことを説明している漢文である。 」
という。 確かに、下野などの文字は読めたが、その後は続かないので、読むのはやめた。
お茶を誘われたが、先を急ぐので断った。 それにしても、見ず知らずの私に親切にしていただいたのはうれしかった。
彼と別れて、街道に戻ると、十字路。 ここは変則な十字路であるが、右、大宮(秩父)道、左、伊勢崎道である。
左側にある本庄仲町郵便局は、秩父セメントの創始者、諸井恒平が昭和九年に建築したもの (右写真)
木造二階建であるが、外観はタイル張りで 当時世界的に流行したアールデコ調に仕上げられている。
その先の右側にある足利銀行、東和銀行が内田本陣跡で、左側の埼玉県信用金庫と埼玉りそな銀行が、田村本陣だったところである。 なお、脇本陣は本町に二軒あったが、今残るものは一軒もない。 埼玉りそな銀行の裏にある開善寺は、天正十
九年(1591)、本庄城主の小笠原信嶺が開基し、家光より十五石の朱印地が下された寺であるが、数度の火災で、古い建物は残っていなかった (右写真)
境内の古墳上に、小笠原信嶺夫婦の墓がある。
信嶺は、慶長三年(1598)に死去し、その後を養嗣子の信之(酒井忠次の三男)が継いだが、慶長十七年(1612)、下総国古河藩へ移封になり、これで本庄藩は廃藩となり、幕府の天領として、代官・伊丹播磨守の支配するところとなった。
壬戌紀行にも、 「 御代官榊原小兵衛支配所なり 」 と、記述されている。
十字路を右折すると、JR高崎線本庄駅である。 街道に戻り、左に入る細い道を行くと、
円心寺がある。 本尊阿弥陀仏、本堂は天正四年(1573)の建立、山門は天明年間に作ら
れた。 その先に市役所があり、その裏に城山稲荷が祀られていたが、この一帯が、江戸
時代に廃城となった本庄城の跡で、北側は城下公園になっていた (詳細は巻末参照)
本庄宿は、その先の中山道交叉点で終わる。
(ご 参 考) 金鑽神社
埼玉県児玉郡神川村にある金鑽神社には以下の案内板があった。
『 金鑚神社は、旧官幣中社で、延喜式神名帳にも名を残す古社である。 むかしは武蔵国二の宮とも称された。 地名の二の宮はこれによっている。
社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母の倭姫命より賜った火打石を御霊代として、この地の御室山(御岳山)に奉納し、天照大神と素盞嗚命を祀ったのが始まりとされている。
鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉党の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。 江戸時代には徳川幕府から御朱印三〇石を賜り、別当の一乗院とともに栄えた。
境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説の遺跡 「駒つなぎ石」 「旗掛杉」 「義家橋」 などがある。
なお、この神社にはとくに本殿をおかず、背後の山全体を御神体としている。 旧官・国幣社の中で、本殿がないのはここのほか、全国でも、大神神社(奈良県)と諏訪神社(長野県)だけである。 』
本庄市にある金鑽神社は、上記の遙拝所として建立されたもので、極彩色の彫刻で飾られ朱塗りの社殿は美しい。
本殿は享保九年(1724)、拜殿は安永七年(1778)、弊殿は嘉永三年(1850)に建立されたものである。
(ご 参 考) 本庄城
室町時代、弘治弐年(1556)に本庄実忠が本庄城を築いた。 本庄氏は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏に攻められ、北条方となった。
その子、隼人正の時代、天正十八年(1590)、羽柴秀吉が小田原を攻めた時、この城も攻められ落城。
徳川家康の関東入国により、天正十八年(1590)、家の臣小笠原信嶺が城主となり、城下町となったが、慶長十七年(1612)、小笠原氏が下総古河へ移封された後に廃城となった。
平成18年3月