本庄宿から深谷へいく途中で小山川を渡るが、その下流には伊奈備前守忠次が削堀した備前堀がある。
岡部の島護産泰神社は洪水で苦しめられた集落の人々が加護にあずかるようにと建立した神社である。
深谷宿は商売で繁盛していた街だったようで、今でも卯辰を掲げた家や土蔵を持つ家が多く残っていた。
平成十八年三月六日(月)、今日は、新町宿から深谷宿まで歩く予定。
本庄宿から深谷宿まで、三里二町(約12km)である。 飛び入りもあって時間を食ったので先を急ぐ。
本庄駅入口交差点の近くにある陶磁器小売の戸谷八商店には、創業永禄三年の看板文字があり、裏手の瓦屋根と土蔵造りの建物が長い歴史を感じさせた (右写真)
中山道交叉点で本庄宿と別れ、旧中山道(県道392号)をいく。 旧中山道には、花の形をした可愛らしい街灯が建ち並んでいた。
東台(東町)には不動坂、日の出(諏訪町)には御堂坂があると、古い絵図にはあるが、歩いている道がそうなのか分からない。
なにせ、車が多く、歩道はあるのだが、家に出入りする部分が削られているため、凸凹していて、大変歩きずらいのが本音である。
この区間の距離はたいしたことないと思っていたが、意外に長く感じた。
諏訪町交叉点で、国道17号を横断し、元小山川にかかる新泉(しんせん)橋を渡ると、三叉路になった。
左から来る道が五料道である。
このあたりが傍示堂の集落で、道の左側に傍示堂集落センターがあった (右写真)
傍示堂は、昔ここが武蔵と上野の境であったころ、傍示堂という国境を示す標識が建てられていたのが地名の由来である。
先程歩いてきた神流川が江戸時代の国境であった
が、それ以前は国境がしばしば変ったようである。
国境とした河川がしばしば流れを変えたのも原因の一つだが、中央の動きに合わせ、武蔵、上野の豪族や武家勢力が常に攻めあっていたことが最大の理由であろう。
木曾名所図会には、 「 ここに大市あり。 人数多群集して交易なすこと多し。 」 とあるが、これは利根川交易が盛んだったころの話で、今はひっそりとした集落だった。
少し歩くと左側に長屋門があるので、農家だろうと思ったが、歯科医院なので、少しびっくりした (右写真)
それにしても立派な門である。
家並みが度切れ、両脇が畑の道を行くこと、二十分くらい、右カーブになるところに小さな祠があった。
ここは牧西(もくさい)集落の入口にあたり、子育地蔵を祀る祠の脇に、庚申塔、西の賽神などの石碑が並んで立っていた (右写真)
少し歩くと商店があり、自動販売機でお茶を買おうとしたら、小学生数名いて、放課後の練習に向かう途中立ち寄ったものらしかった。
これから、部活に行くようで、小銭を握り締め、なにを買うのか、なかなか決まらず迷っていた。 まだまだかわいいものである。
「 小学校はまだかい! 」と聞いたら、 「 少し先にあるよ! 」 といった。
この集落には古い家が残っていた。
右側の小川氏の屋敷門は助郷用長屋門と呼ばれるものらしい (右写真)
長屋門は、江戸時代、身分制度が厳しかったので、武士以外で門を構えることができたのは、郷村武士の家格を持つ家や苗字帯刀を許された富裕な農家や庄屋に限られていた。 それにしても、助郷用長屋門とはどういう性質のものだろうか?
その先の右側に、牧西八幡大神社という神社があった。
建久年間(1195)、児玉党の一派、牧西四郎広末が鎌倉鶴岡八幡宮から奉遷し建立したものだが、文明三年(1471)の兵火で消失、廃社になったが、慶弔十七年に再興されたという歴史をもつ神社で、
この神社には金鑽神楽宮崎組が伝えられる (右写真)
神楽に使われる面は正徳年間(1711〜1715)以前の作といわれるので、それ以前からこの地では神楽が行われてきたことになる。 江戸時代には、信州の上諏訪などに出かけ奉納してきた、とあった。
藤田小学校を過ぎ、少し行くと、道は二つに分かれる。 左側の民家の片隅に庚申石碑が
あった。 道標を兼ねていたとあるが、見たところではそのようには思えなかった。
道を直進すると、県道45号に合流。 妻沼を経て熊谷へ抜ける道で、両脇は畑で、道巾は
広かった。 しかし、十メートル程歩くと、頭上の道路標示に、右旧中山道とある (右写真)
指示通り、三叉路で右折し農道のような道に入る。
まさに畑の中を歩くのんびりした道だったが、少しで小山川の川岸に出た。
(注) 旧中山道は上記の二つに分かれる道で右の道を行き、県道45号を横切って、そのまま直進すると
小山川の川岸に出る。 それが正規の道のようだ。 また、その先も、土手
が歩けるようになっていたので、小生は土手を歩いたが、旧中山道は土手に沿って続く下の道を行き、堀田集落途中で細い三叉路を右に上り、小山川の堤防に出るのが正しい歩き方のようである。
それはともかく、河岸のススキはすでに枯れてはいたが美しく、うす曇の空は夕日が刻々と落ちるなんとなくわびしい風情を醸し出していた (右写真)
このあたりに滝岡の渡しがあり、旅人は渡しにより対岸に渡り、岡の八坂神社に向かっていた、というが、渡し場の跡や二十二夜塔の石碑は、夕闇が迫っているので、確認できな
いまま先を急ぐ。 渡しは残っていないので、その先に架かる滝岡橋を渡った (右写真)
慶長九年(1604)に関東代官頭となった伊奈備前守忠次は、徳川幕府が力を入れた利根川の氾濫を防ぐ土木事業に活躍した人物である。
利根川の支流烏川から取水し、この橋の南方にある砂田橋の下方で小山川に流し込み、それから分水して下流の妻沼まで用水を造り、福川に至る備前堀(びぜんぼり)の開削を行ない、大里郡から北埼玉郡にかけての広大な地域を潤し、新田開発に多大の効果を発揮したのである。
橋を渡る途中で川面を見ても、その様子は見ることはできなかったが、機械が発達しない時代にすごいことを
やったもんだと感心した。 橋を渡り終え、国道17号が見える方に歩いていく。 江戸時代に渡し場から岡までは旧道は残っていないので、道なりに歩くと岡交叉点に出た。
ここで、国道を越え、向こう側に渡ると、坂道が見えた (右写真)
交叉点を渡ったら、この坂道の道より少し右下にある狭い道に入る。 左側にある八坂神社に向かう道が旧中山道である。 この坂が豊見坂で、途中におびただしい庚申塔が立ち並んでいたが、これは百四十年前に作られた百庚申で、現在六十基が残っている。
上りきったら、左折し、少し行くと、三叉路で、先程分かれた大きな道に合流する。
馬頭観音碑があるとことろである。 坂の上の集落は岡上で、その右側に入ったあたりには農家だったのだろうと思うが、古い大きな家が残っていた。 それはともかく、この大きな道を進む。 当初、深谷宿まで行く計画であったが、とても行けそうにないので、岡部で終了することにした。
平坦になったと思えるところで右折し、進んでいくと、国道に出る手前に岡上屋台庫があり、その奥に、岡廼宮(おかのみや)神社があった (右写真)
江戸時代、大田南畝が壬戌紀行に、 『 岡村の人家すぐ。 右に聖天あり。又寺あり。又社あり。 』 と書いている聖天宮はこれであり、明治時代に周辺の神社を合祀して、現在
の名前になったのである。
こじんまりとした建物だが、美しい彫刻を残していた。
岡部駅に行くため、国道を越え、真っ直ぐ行くと、右側に古墳が見えてきた。
お手長山古墳である。 この二日で幾つかの古墳を見たが、これだけ中山道で古墳が残るのはこの地区だけである (右写真)
このあたりは首都圏のベットタウンとして開発されているようなので、もう十年もすればかなり景色が変るなあと思った。
ほどなく駅に着いたので、昨晩泊まった熊谷の宿に帰った。
(ご 参 考) 備前堀(びぜんぼり)
伊奈備前守忠次は、慶長九年(1604)、利根川の支流烏川(本庄市久久宇)から取水し、その南方を流れる小山川に引き入れ、それから分水して下流の妻沼まで用水を造り、福川に至る用水の開削を行なった。 用水は羽生領、忍領などを流れ、多くの田の 灌漑用水となったもので、備前堀といわれる。
また、備前堀用水の末流である北河原用水は羽生領用水の水源となっていて、大里郡から北埼玉郡にかけての広大な地域を潤し、新田開発に多大の効果を発揮した。
旧小山川への流入口を見るには、産泰社の角を左折し北へ約2kmほど行き、小山川にかかる砂田橋を渡ると
すぐ北にあるのが備前渠で小山川と同じくらいの流れがある。
なお、伊奈備前守忠次は利根川水系の大改修工事を行った際、栗橋から川の流れを東に変え、銚子沖に注ぐようにした。 また、岩槻、越谷を経由し利根川に合流していた荒川をせきとめ、現在の荒川に変える大改修も行っている。