平成十八年(2006)三月七日(火)、今日で三日目、名古屋に帰らなければならないので、早めに熊谷駅に行った。
名古屋に夕方には帰りたいので、今日は熊谷までになるだろう。
昨日は春一番の風が吹き、暖かく四月中旬の気候になったが、今日は一変、二月中旬の温度で、熊谷駅で待っているとかなり着込んでもがたがた震えがくる。
岡部駅には七時二十五分に着いた (右写真)
ただちに、昨日終わった中山道まで戻り、ここから歩き始める。
右に行くと岡部駅と標示のなる交差点の先の左側に、こんもりとした林があった。
その中に、島護産泰(しまもりさんたい)神社があった。
前述の壬戌紀行に、 「 榛沢郡惣社島護大明神、天津彦火瓊々杵尊としるせり。 」 と、書かれている神社である。
神社の由来ははっきりしないようだが、榛沢郡内の村々の信仰を集め、その鎮守になった、と伝えられる神社で、祭神は瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)と木花咲耶媛(このはなさくやひめ)である (右写真)
島護は、しまもり、あるいは、とうご、と読まれるのは、利根川の氾濫で、深谷北部の島や瀬の地名をもつ地域(四瀬八島)が常に被害を受けたが、その加護にあずかるように信仰されたことから、名が付いた、といわれる。
このあたりは岡下集落であるが、岡上と高さがあまり違わないことを考えると、京に近いの
を上、江戸に近いのを下と付けたようである。
少し歩くと、国道に合流してしまった。
このあたりに、『 原中や 物にもつかず 啼雲雀 』と詠まれた芭蕉句碑があったようだが、探しても見つからなかった。
この先は普済寺(ふさいじ)集落で、国道左側の歩道を歩く。
深谷バイパスができているのでそちらを行く車が多いが、朝の込む時間なので、この道もかなりの通行量があった。
このあたりは農家が残っているようで、白い蔵に隣接して養蚕を営んでいたと思える屋根の屋敷を見ることができた。
普済寺の交叉点の普済寺入口の案内のあるところに、馬頭観音などの石碑群があった (右写真)
また、岡部六弥太旧跡(片面武州榛沢郡岡部)の石柱が建ち、その先に庚申塔などの石
碑が並んでいた。
その先に、普済寺があった (右写真)
普済寺の開基は岡部六弥太忠澄で、本堂は新しく建て替えられているが、本堂前の御影堂に岡部六弥太忠澄の像が安置されている。
猪俣六太夫忠綱が岡部の地に館を構え、岡部氏と称するようになって、三代目にあたるのが、岡部六弥太忠澄で、武勇に優れ、情け深かったと伝えられる人物である。
彼は、治承・寿永の乱(1180〜1185)で、源氏方につき、一の谷の戦いで平忠度(たいらの
たたのり)を討ったことは平家物語に登場する。 忠澄の墓は、寺の裏の畑の中にある小さな公園にあるというので、寺の裏を出て歩いて行くと、新築した家の犬に吠えられた。
公園というようなものではなかったが、畑の先に周りを囲んだ墓所があった (右写真)
中を覗くと五輪塔が見えた。 五輪塔は六基あるようだが、北の三基の中央が、忠澄の墓で、左が夫人、右が父行忠と伝えられる。
五輪塔が削られ変形しているなあ、と思ったら、六弥太の墓石を煎じて飲むと子宝に恵まれる、という伝承があるので、形がこのように変形してしまったのである。
なお、明治六年十月十七日 普済寺本堂に学校が開設され、普済寺学校と称したとある
のが現在の岡部小学校である。 街道に戻り、歩き始める。
岡部交叉点を過ぎると漬物工場が多い。 首都圏に出荷される漬物のシエアでは、関東一
と宣伝していた。 土蔵と白壁の家、そして、立木が聳える広い屋敷が点在していた。
こうして家で、野菜が作られているのだろうか?? (右写真)
岡部北交叉点の手前で左に入ると、源勝院である。
山門は、室町時代の様式を残す江戸時代のものである。
山門の右側にある大きな石碑は、明治天皇が東海北陸行幸したとき、ここで休憩された記念碑である (右写真)
この寺には、岡部藩主の安部氏の歴代の墓がある。
安部氏は、大身旗本五千石で、岡部に陣屋を構えたが、その後、数回にわたり加増を受け、二万石余の大名になった。
加増された所領は、愛知や和泉など数ヶ所に分かれているが、大名であるので、この地名をとって、岡部藩と呼ばれる。
安部氏の墓は左奥にあり、屋根付き位牌型で、十二基が並んで建っている。
少し行った右あたりに陣屋があったようで、それを示す石碑と、高嶋
秋帆の幽閉碑が立っている。 なお、陣屋の長屋門が全昌寺に残っているという。
岡部南交叉点を過ぎると、左側に正明寺があり、入口に、十二夜塔や馬観音などと刻まれた石碑が点在していた。
国道を十分ほど歩くと、旧中山道は左側の道なので、国道と別れて行くが、少し歩くと、また、国道に出てしまった。 その手前に滝宮神社がある (右写真)
国道を横断すると、道は弓なりに曲がって行くが、この辺は、萱場集落である。 源平一の谷の戦いで、平忠度を討った岡部六弥太の所領だったところである。
道の左側に、萱場稲荷神社がある (右写真)
社の前の狐の石像がなければお稲荷さんとは気が付かない。
その少し先の右側に、清心(せいしん)寺の案内があったので、
JRの踏み切りを渡ると、清心寺があり、山門の両脇には、石碑群が祀られていた。
庚申碑が多かったが、馬頭尊と刻まれたのも多い。
立派な石柱の下方に、馬持講中と刻まれたものがあったが、馬方にとっては、命の次に馬が大切だったのだろう。
寺に入ってすぐの左手に、平忠度(たいらのただのり)の墓地があった (右写真)
岡部六弥太が、忠度の菩提を弔うため、自領で最も景色の良いこの土地に五輪塔を建て、墓前には忠度桜を植え、その死を惜しんだ、と伝えられる。
墓前に植えられている忠度桜は小さいので、何代目かのものではないか??
その詮索はともかく、源平盛衰記に纏わるこころ暖まる話だった。
ここまで来ると、深谷宿は近い。
(ご 参 考) 岡部六弥太忠澄
岡部六弥太忠澄は武蔵七党のひとつ猪俣党の出身で猪俣野兵衛時範の孫、六太夫忠綱が榛沢郡岡部に居住し、岡部氏と称した。 忠澄は忠綱の孫にあたる。 源義朝の家人として保元平治の乱に活躍した。 熊谷次朗直実、斉藤別当実盛等源氏十七騎の一人として勇名をはせた。 その後源氏の没落と共に岡部にいた。
頼朝の挙兵により出陣し、木曽義仲を追討し、平家を討った。 一の谷の戦いで平忠度(たいらのたたのり)を討ったことは平家物語に登場する。 その恩賞により荘園五ヶ所と伊勢国の地頭職が与えられた。
武勇に優れ、情け深かったと伝えられる人となり、である。
深谷宿は、田所町常夜燈から始まる。 この常夜燈は、天保十一年(1840)、富士講の人々
が建立したもので、丸の中の三は講の印である。
高さは四メートルあって、天下泰平、国土安民、
五穀成就という銘文があり、中山道最大級の常夜燈といえる (右写真)
深谷は、古くから開けていたところで、縄文時代の遺跡があるが、鎌倉、室町時代に入ると
関東管領の上杉氏にとって重要な拠点となった。 十四世紀後半、関東管領・上杉憲顕は、
新田氏や北関東の豪族を押さえるため、六男、憲英(のりふさ)を武州に派遣し、庁鼻和
(こばなわ)城を築かせる。 これが深谷(上杉氏)の始まりである。
道路整備により変ってしまったが、もともとは、宿場の入口のこの場所は、鉤型になっていた。
そういうことから、街道の正面に、呑龍院の赤い鐘楼が見えたのである (右写真)
正面にまわってみると、奥に小さな御堂があるが、河原念仏堂ともいわれるようである。
左側には、石仏や石碑が祀られていた。 深谷宿は、田所町、相生町、本町、仲町、下町、稲荷町からなっていて、中山道の宿場町のなかでも繁盛していたところである。 ここから南のはずれの稲荷町常夜燈までの約1.8kmが、深谷宿で、中山道宿村大概帳によると、宿内人口千九百二十八人、家数五百二十四軒、本陣が一軒、脇本陣四軒、旅籠が
八十軒あった。 街道沿いに、本陣や脇本陣、問屋場があった筈だが、どこにあったかも
分からなくなっていた。 旧寄居道の交差点近くで印刷所を営んでいる飯島家が、江戸時
代
の本陣跡だが、面積はかなり小さくなってしまった (右写真)
深谷は、江戸時代中期から、窯業や養蚕が盛んになり、また、毎月五と十の日に六斎市が
立つようになった。 大田南畝は、壬戌紀行に、市の賑わいを 「 駅舎の道の中に苫、筵、畳、俵のようなもの、又はくだ物青物をつらねて賑わしきさまなれば、輿かくものにとへば、
ここは五・十の日に市たちてにぎはゝし、けふは五日なればかくつどえりといふもおかし 」
と記述している。
深谷には造り酒屋が多い。 宿場に入ってすぐにあった滝澤酒造は菊泉(きくいずみ)と
いう銘柄の酒を造っているが、文久三年(1863)の創業である。
滝澤酒造では、明治期に
レンガを使用して建てられた煙突や建物が今でも使用されていた (右写真)
明治の実業家、渋沢栄一は、深谷の豪農の出で、第一国立銀行など多くの企業を誕生させ
たが、明治二十年(1887)、日本煉瓦製造株式会社を設立している。 ドイツから輸入した
ホフマン釜を用い、質の良いレンガを生産したといい、その煉瓦は東京駅や赤坂離宮などに使用されていた。
深谷駅が東京駅にそっくりなのは、平成八年の立体交差事業により駅が再開発される際、東京駅に使われた煉瓦が深谷市で作られ深谷駅から送り出されたことに因んで、作成したからである。
そのさきにも、東白菊の藤橋藤三郎商店や、七ツ梅の田中藤左衛門商店などの造り酒屋があった (右写真ー田中藤左衛門商店)
深谷には新潟から来た人や近江から来た商人が店をだしたとあるが、杜氏は新潟から呼ばれてくる人が多かったので、それと関係があるのではないか?と思った。
左側にある、きん籘旅館の前には、明治天皇御小休息地という案内柱が立っていた。
近江の人が創業した旅館で、明治十一年九月二日、北陸、東海へ行幸のおり、明治天皇はここで休息された、とある (右写真)
ここまで歩いてくる間、卯辰を掲げた家や土蔵を持つ家などが多く残っていた。
江戸時代からの建物かどうかはわからないが、当時からの商売を続けている店が多いというからすごいなあと思った。
その先の左側を入ったところが、深谷城址である。
深谷城は、庁鼻和城主だった上杉氏房憲が、康正弐年(1456)に築城したと、伝えられる。
徳川家康が関東入国後も使用されたが、寛永四年(1627)に廃城となり、寛永十一年(1634)
に取り壊された。 現在は、城址公園になっているが、当時の痕跡はほとんど残っていない
(詳細は巻末参照)
やがて行人橋。 唐沢川にかかる小さな橋である。
右側に、だいまさ(米店)のある信号交叉点を左折すると、東源寺(とうげんじ)がある。
左手の山門前に、「 死ぬ事を 知って死ぬ日や としのくれ 」と刻まれた歌碑は、加賀の
俳人・菊図坊祖英のものである。 その先にある稲荷町常夜燈は、明治初期に建てられた
もので、田所町常夜燈と同じ4mの高さがある (右写真)
深谷宿はこの常夜燈で終わる。
(ご 参 考) 深谷城
深谷は、古くから開けていたところで縄文時代の遺跡があるが、鎌倉、室町時代に入ると関東管領の上杉氏にとって重要な拠点となった。
十四世紀後半、関東管領・上杉憲顕は新田氏や北関東の豪族を押さえるため、六男、憲英(のりふさ)を武州に派遣し、庁鼻和(こばなわ)城を築かせる。 これが深谷上杉氏の始まりである。
五代目上杉房憲(ふさのり)は康正弐年(1456)、古河公方の足利成氏に防戦するため、より要害の地に深谷城(現在の城址公園から深谷小学校周辺)を築き、移転した。 これが深谷城である。
本家である山内上杉氏が滅亡した後、深谷上杉氏は、北条氏政の娘を娶り、小田原北条家と和を結んだが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、深谷城は落城。
徳川家康が江戸に入ると、深谷城と東方城に1万石の大名が配置され、深谷には、松平康直が入城したが、その後、松平忠輝、松平忠重が居城し、酒井忠勝が元和八年(1622)に入城したが、寛永四年(1627)に、武蔵忍五万石に転封となり、寛永十一年(1634)、深谷城は取り壊された。
現在の城址公園として整備されているものは当時とは異なっている。 公園に隣接する富士浅間神社をめぐる水路や部分的に残る高まりなどに堀や土塁のこん跡を留めるのみとなっている。
上杉房憲、実盛をはじめ、上杉氏累代の墓は、鉄道の陸橋を渡り、2kmほど行き、新幹線の手前、仙元山下にある昌福寺にある。
なお、途中の道路から左に入った住宅地に縄文時代の桜ヶ丘組石遺跡がある。
平成18年3月