熊谷までの途中に、欅や銀杏(いちょう)などの並木が続いていた。
俗謡に歌われた深谷の並木で、その中の1本、見返りの松は、樹齢三百年とも五百年ともいわれる古木である。
熊谷宿は昭和二十年の米軍による空襲で、熊谷市内のほとんどの建物を焼失し、その後の市街整備や道路拡張で、昔の姿は残っていなかった。
平成十八年三月七日(火)、今日は岡部から熊谷宿まで歩く予定である。 深谷宿を離れ、
少し歩くと、国道17号と交差する原郷交叉点に出た。 横断歩道橋を渡り、向こう側に
で
ると、常磐町、高校、小学校そして中学校と続く文教地区である。
道の傍らに、みかえりの松の石碑があった。 江戸時代末期の安政年間には、松と杉を
合わせ、四百本ほどあったといわれるが、今では見返りの松に、昔日の面影が偲ばれる
にすぎない (右写真)
現在の並木は、道路拡張の際、新たに植栽したもので、この先1一キロほど続いていた。
かって、このあたりは幡羅郡で、左側にある中学校の名前にその地名が残っている。
中学の前を右折し、細い道を行くと、国済寺がある (右写真)
この寺は、深谷城の前身の庁鼻和(こばなわ)城址である。
奥州管領の上杉憲英が、
城(というより館のほうがふさわしい)を構えた跡といわれ、境内は広く樹木が多い。
本堂の裏に、上杉憲英なご三代の墓がある (詳細は巻末参照)
寺の正面は、国道側のようで、黒門、そして三門、(山門)があり、三門は深谷市の指定文化財になっていた
街道に戻る途中に、立派な鳥居があり、大きな石碑がいくつかあり、社殿が建っていた。
石碑の一つを見ると、霊場開基盛心行者百年祭とあり、どうやら、御嶽教である。
江戸時代庶民の生活が豊かになると、伊勢神宮や善光寺詣りに加え、富士山や
御嶽山などに講を結成し集団で御参りするようになった。
御嶽山の霊場開基で江戸時代に有名なのは、尾張の覚明行者と武蔵の普寛行者である。
明治の神仏分離で講の存在が否定され、神道として御嶽教が生まれたが、御嶽教の別派が各地に生まれているので、
その内の一つではないだろうか??
ふたたび街道を歩く。 左手に熊野大神社の鳥居と参道が見えてきた (右写真)
一つ手前の左に行く道は中瀬道である。 このあたりは、東京のベットタウン化して、以前
のような雑木林はなくなってしまった。
街道は、国道17号と平行しているので、多くの車が流れ込んできていた (右写真)
道巾が狭いため、歩道は暗渠の上に造られていた。
車が多い上に狭い歩道で、怖い思いをして歩いた。
東方交番交叉点を越えると、上宿、中宿、下宿という地名が続いた。
道の左側は上記の地名であるが、右側は東方町であり。 このあたりのどこかに、東方城
があったのだろう?
民家の庭に、馬頭観音碑が二つ、そして、奥に石の小さな社があった (右写真)
これから先も、各家に小さな社や石碑が祀られていた。
古い土地柄だから、そうした風習が残っているのだろう。
このあたりは、地名が入り組み、この先の籠原は道の左側で、駅の籠原は、新堀など、
地名と施設名が一致しない。 かっての地域の区割りを越える都市化が押し寄せ、乱開
発された結果かもしれない。 それはともかく、新堀北の信号交差点を渡った右側に、
明治天皇の小休所地の石碑があった。
ここは、江戸時代の志がらき茶屋本陣跡である (右写真)
右に入ると、篭原(かごはら)駅で、古い民家が残っていたが、左側は玉井団地で、新しい
家並が続く。
道の左側に、庚申塚が残っていた。 これだけ、周りが変貌すると、庚申塚
などが残るのは奇跡に思えてしまう。
建てられた庚申碑の下部には、玉井邑(たまいむら)の文字が見えた (右写真)
左側に水が流れる集落を過ぎると、国道17号のバイパスに出た。
この道を横断して進むと、その先に筋交橋があるが、江戸時代にはここから川越えをして
いた。 玉井窪川越場の跡で、現在は川はないが、安政二年(1855)に出された五街道細見
に、 「 満水のときは往来を人足で渡す 」 と、あるので、難所の一つだったのであろう。
新島自治会館の先の右側に、忍(おし)藩境界石があった。
忍藩が安永九年(1780) に、
他領との境界を明らかにするために、領内の十六ヶ所に建てられたものの一つで、
「 従是南忍藩 」 と、刻まれている (右写真)
最初は木製であったが、利根川の酒巻河岸から五十人が二日かかって運んだといわれる
石材を使って建替えられた。
その先で、国道17号に合流するが、五十メートルくらい先の試験場前で、陸橋を渡り、反対側に
出ると、旧中山道に入れる。 しばらく行くと、左にお地蔵さんがあるが、明治期のもの。
この道は車の往来は少なく一.五キロ位の間、のんびり歩けた。
右側に新照寺、 左手に江戸から廿六里の植木(新島)一里塚がある。
一里塚は両側に五間四方の塚が築かれていたが、これは東側に築かれたもので、西側のは残っていなかった (右写真)
宝暦六年(1756)の道中絵図には、熊谷には、久下新田、柳原(現在は曙町)と、この一里塚があったことが描かれ、「 榎(えのき)二本続く 」 とあるが、ここにあるのは何故か?高さ十二米、樹齢三〇〇年以上の欅(けやき)の大木である。
再び、国道17号に合流し、熊谷警察署前交叉点で広い道と交差する。
熊谷市石原北交叉点のあたりは、東武鉄道妻沼線のガードがあった所である。
妻沼線は、熊谷線ともいわれ、戦時中に群馬県太田の中嶋飛行機に資材を輸送するため、建設が進められたが、戦後、妻沼から先の工事が中止され、1983年に赤字で廃線になった。
右側のかめの道とある公園が、鉄道の跡地で、リリーフには鉄道が描かれていた (右写真)
境内には江戸末期に建てられたちゝぶ道、秩父観音順礼道、寶登山(ほどさん)道 と刻まれた三基の道標が立っていた。
左側のは、明和三年(1766)の年号が入っていて、 「 ちゝぶ道志まぶへ十一り 」 とあり、中央は、 「 秩父観音順禮道 」 の下に、 右 「 一ばん四万部寺へ 」 左 「 たいらミち十一里 」 とある。 左側のは、表に 「 宝登山道 」 、裏面に 「 是ヨリ八里十五丁 」 とあり、登山記念に江戸講が建てたものである (右写真)
秩父街道は、ここから右に分かれ、寄居を経て秩父に達する。
これ等の石碑は、以前は秩父街道の入口にあったが、道路拡張により此処に移されたのである。
室町時代から始まった秩父札所の観音信仰は、江戸に入ると盛んになり、最盛期には数万人に達した、といい、その時代を示す貴重なものである。
熊谷は第二次世界大戦までは繊維産業で栄え、この石原集落(旧石原村)にある日本有数
の製糸会社・片倉工業の熊谷工場はピーク時には五百人近い女子工員がいた。
しかし、産業の外地移転で1994年に閉鎖になり、現在は片倉シルク記念館になっている。
この先、中山道は左に入って行くが、熊谷宿は目の前である。
(ご 参 考) 国済寺
十三世紀末、関東管領・上杉憲顕は、新田氏や北関東の豪族を押さえるため、六男、憲
英(のりふさ)を武州に派遣し、庁鼻和(こばなわ)城(館)を築かせる。 憲英はのちに奥州管領を任じられた。 以後、憲光、憲長と、三代続いた。
城(館)は、170m四方の正方形で、敷地は28ヘクタールあったとあるが、今残るのは本堂の裏の築山と土塁のみである。
国済寺は、康応二年に、この館に開基されたものである。 徳川家康から天正十八年(1590)、寺領三十石の朱印状を下付された。
本堂の裏に、応永十一年(1404)八月二日の没年を記した憲英の墓など上杉家の墓所があった (右写真)
熊谷宿は、天保十四年、人口三千二百六十三人、家数百七軒、本陣二軒、脇本陣一軒、旅籠十九軒、江戸から八番目の宿場であった。
石原駅入口の先、石原南交叉点で、左の道に入ると、一番街という商店街にでるが、これが旧中山道である (右写真)
一番街は、戦前から戦後にかけて繁盛したが、駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに客を奪われ、かっての賑わいはなかった。
この道は、そのまま進んで行くと、八木橋百貨店の建物で遮られて、終わっている。 なお、立体駐車場の脇に、旧中山道の石標がある。
百貨店の中をそのまま通り抜け、反対側に出た。
百貨店の外庭の国道に沿ったところに、
旧中山道の石碑と、「 熊谷の 蓮生坊がたてし碑の 旅はこば 泪あふれぬ 賢治 」 と、
刻まれた宮沢賢治の文学碑があった (右写真)
これは、デパートの改築記念に建てたもののようだった。 デパートに入ろうとする車が、
群がるように多い。 今時、都心のデパートにこれだけの車が集まるのは珍しい。
熊谷は、車社会なのだと思った。
熊谷に来たのだから、熊谷直実(くまがやなおざね)の旧跡を訪ねることにした。
デパート前の道を左に行くと、熊谷寺(ゆうこくじ)があった (右写真)
正式には、蓮生山熊谷寺といい、熊谷直実が蓮生坊として出家し、承元元年(1207)に入滅した際、居住していた草庵の跡に、天正十九年、幡随意上人が伽藍を建立し、蓮生山熊谷寺と称したのが始まりという。
本尊は阿弥陀如来で、両脇に観世音菩薩が脇侍し、本堂屋根の四隅に逆さ獅子が配され、熊谷家の家紋 「 ほやに向かい鳩 」、徳川家家紋 「 三つ葉葵 」 、浄土宗宗紋 「 月影杏葉 」 が付けられている。 三つ葉葵が付いているの
は、徳川家康から御朱印三十石を賜わっていたことによる。 江戸中期には本堂、十王堂
等多くの建物があったが、安政元年の火災で焼失した。
本堂は大正四年(1914)に再建された、高さ十一間(21m)、間口十四間(25.5m)、奥行き十六間(29m)の堂々たる建物で、総檜造りである。
本堂の西側には、熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔がある。
なお、明治維新による廃藩置県の際、熊谷県が誕生した時は県庁として使われたこともある。
寺の近くに煉瓦造りの熊谷聖パウロ教会があった (右写真)
総煉瓦造りの礼拝堂は、大正九年(1919)、アメリカ人ウイルソンの設計監督によって、建てられたものである。
大通りに戻る。
昭和二十年の米軍による空襲で、熊谷市内のほとんどの建物が焼失し、中山道だった道は、戦後の市街地整備や道路拡張工事で広げられた。 近代的な建物が立つ現在の姿になってしまった結果、本陣や脇本陣は勿論、旅籠などもすっかり姿を消してしまった (右写真)
大通り(国道17号)の右側の歩道を歩いていくと、鎌倉町交叉点を過ぎた八木橋バス停の先で、石標を見つけた。
対面には、足利銀行があった。
石標には本陣と書かれていて、ここは竹井本陣のあったところである (右写真)
嘉永二年(1849)に、一条忠良の娘、寿明姫(あわひめ)が、宿泊の折、道中奉行に出された
本陣絵図によると、間口は十四間五尺(約27m)で、奥は、星川まで至り、上手の御入門、
下手の御用門があり、中山道でも大きな本陣だったようである。
しかし、明治十七年(1884)の火災と昭和二十年(1945)の戦災で焼失し、跡形もなくなった。
その先の市営駐車場入口交叉点を越えたところに、札の辻跡の石標があった。
札の辻とは、高札場があるところという意味で、竹井家には、今でも高札が一部残っている、
という。 熊谷直実の氏神だったという高城神社に向かう。
本町バス停の先に、高城神社の入口を示す鳥居があり、少し行くと、神社に到着した。
高城神社は、大里郡の総鎮守で、平安時代の延喜式にも記載されている古い神社である。
社殿は、石田三成による忍城攻めの際に兵火で類焼し、消滅したが、忍城主になった阿部播磨守正能が、寛文十一年(1671)に再建したのが現在の本殿である (右写真)
入口の高いところにある青銅製の常夜灯は、天保十二年(1841)に、百五十人ほどの紺屋により奉納されたもので、高さ2.75mもあり、かなり大きい。
奉納者名を見ると、県内は
もとより江戸、川崎、桐生、高崎、京都など、広範囲に及んでいた。
境内の左側にある祠は天神社で、祭神は少名産名大神で、
古来から、医療と子育ての神として崇敬され、玉垣内の赤石を拝借し赤子のお喰い初めで祈願すると立派な歯になると信じられていて、儀式後倍にして返す風習が続いている、とあった。
近くの広場(駐車場?)は、江戸時代の陣屋跡で、明治天皇に関する石柱が建っていた (右写真)
「 熊谷宿は、忍(おし)藩の領地であったので、ここに陣屋が置かれていたようであるが、規模など詳細なことは分かっていない。
中山道からここまでの通りは、陣屋通りといい、
この付近を陣屋町と呼ぶ人もいる。 」
と、説明板に書かれていた。
大通りに戻り、道を横断して進むと、星川シンボルロードに出た。
右折し、シンボルロードに沿って進み、星渓園を訪れた (右写真)
星渓園は星川の源流である玉の池と呼ばれる湧き水に造られた回遊式庭園である。
竹井本陣の別邸として、慶応年間から明治初年にかけてつくられたもので、皇室をはじめ著名人が利用した、とあり、持ち主から委譲を受けて、市の管理になっていた。
星渓園を出たところにあるのが国道407号で、右に行くと東松山へ向かう。
左折して、百メートルほど行くと大通り(国道17号)で、そこを右折して熊谷駅に向かう。
まだ十五時だが、十九時前に名古屋に着きたいので、急ぎ足で歩き、筑波交叉点で右折すると熊谷駅が見えてきた (右写真)
今回の3日間の旅は、高崎〜鴻巣宿として計画したが、
終わった。 当初はこれでより先まで行くことで計画を組んだが、倉賀野と本庄の見学で多くの時間をとり、また、今日は十五時で止めたので、計画未達で終わったが、十分楽しめたので、よしとするか!!
平成18年3月