熊谷宿から鴻巣宿の間に熊谷堤といわれる荒川堤があり、歌舞伎でお馴染みの白井権八にゆかりのある
地蔵尊が祀られている。
吹上宿は間の宿だが、小林一茶や池田栄泉、大田南畝など多くの文人や墨客が足をとどめた。
鴻巣宿は鷹狩りを好んだ徳川家康は鴻巣に御殿を建てて通ったというところで、
日光裏街道や
松山街道の追分になっていたこともあり、宿場は賑わっていた。
平成十八年(2006)四月十日、前夜は熊谷駅前に宿泊したので、いつもより早く七時三十分、前回
終了の筑波交叉点からスタートする。
朝から曇空なので、昼頃から小雨が降ると予報あるのが、
少しきがかりだが ・・・・
国道17号の左側のデニーズがある銀座一丁目交叉点を右折する。
ここにある家は、角の看板には手作盆提灯とあり、提灯屋であることが分かった (右写真)
中山道は、ここからから吹上まで残っているのである。
JR高崎線の踏み切りを渡り、新幹線のガードをくぐり、秩父鉄道の踏み切りを越えると、
道はサンルートホテル前で突き当るので左折する。
小生はここで万平公園に寄った。 ホテル右側の道に入り、200m位行ったところで右折したところに、
万平公園はあった (右写真)
公園に植えられた多数の桜は葉桜になりかかっていたが、まだまだ美しさを保っていた。
ここには名勝熊谷堤碑、熊谷裁桜碑そして蚕霊塔などがあった。
もう少し行くと熊谷堤である。 熊谷堤に行くのはあきらめて、街道に戻る。 サンルート
ホテルから百五十メートルほど行くと、左側に曙町公園があり、街道に面して八丁一里塚跡の
表示板があり、
祠が二つあった (右写真)
信号のある交叉点を渡り、しばらく行くと三叉路になった。 右の道を行くと、信号のある
交叉点に出る。 左の道が旧中山道だが、すぐ突き当たるので、右折すると、信号交叉点
の左側にでた。
即ち、右も左も同じ道にでるのである。
交叉点の左の道は元荒川通り。 旧中山道は直進するが、直ぐに小さな橋を渡る。
熊久橋という橋だが、注意しないと気付かないで通り過ぎるだろう (右写真)
川のほとりにムサシトミヨや水草の案内板がある。 水草が茂るこの川は元荒川である。
江戸時代の初期、伊奈備前守忠次が、荒川の改修工事を行い、久下(くげ)に土手を築
いて、東に向って流れる川の水を止め、新たに南に流れる水路を造って、入間川に流す
ようにしたのである。
(注) 伊奈備前守忠次については深谷宿編の巻末参照のこと。
ムサシトミヨは熊谷市内の川にしか生息しない貴重な魚であり、その魚が生息するのだからきれいな水なのだろう。
川はその先からは暗渠化していた。 橋の先が熊久集落、かっては鄙びたところだったらしいが、住宅地になっていた。
少し歩くと、右側の道脇に、二つの石標があり、左側は曹洞宗東竹禅院の石標、右側には、
文化七年建立の千手千眼観世音菩薩大慈悲陀羅尼石碑があった。
入って行くと右奥に久下直光(くげなおみつ)が開基した東竹院があった (右写真)
久下直光は、所領境界(熊久橋あたりといわれる)をめぐり、一の谷の合戦で、平家を破る
活躍した熊谷直実と争い、勝訴した人物である。
熊谷直実が、幼い頃、両親を亡くし、久下直光に育てられたことや公事(くじ)に敗れたこと
が、出家の原因だったとは知らなかった。 境内に、久下直光とその子重光の墓がある。
左手に、荒川の洪水で流れてきたという大きな達磨石がある (右写真)
達磨石は重さ十五トン、高さが三メートルあり、今から三百五十年前の寛文年間に忍城主阿部豊後守
忠秋の命により、筏(いかだ)で運ぶ途中、川に転落した。
その後、大正十四年に、寺の前の河原で、この石は発見されたので、二百六十年の間に、
二キロメートルほど川を遡った、ということになる。
寺の前に、安政五年の庚申塔、馬頭観音碑が二つ、石像が二体祀られていた (右写真)
久下熊久のバス停の先の三叉路を右へ進むと、荒川の土手が見えてきた。
左手前のブロック塀の家がみかりや跡で、坂の先が荒川の土手である (右写真)
塀越しに、茶屋みかりや跡の説明板があったが、それには、 『 みかりやは、一般旅人を
相手にした茶屋で、 「 しがらぎごぼうと久下ゆべし 」 と、いうことばがあるようにゆべし
が名物だった。 忍藩の殿様が鷹狩りをすると、ここで休んだので、御狩屋と呼ばれた。 』
と、書かれていた。
偶然であるが、その時、みかりやの子孫である戸森氏が出てこられ、四十年前までは建物が残っていたのだが、
と話していただいた。
荒川の土手を上り、土手を歩く。
「 久下の長土手、深谷の並木、さぞや寒かろ、淋しかろ 」 と、俗謡に歌われた土手は、熊谷八丁堤といわれる荒川堤である。
森川許六は、「 熊谷の堤 あがれば けしの花 」 と、いう句をよんでいる。
けしの花ではないが、菜の花が咲き、曇っているせいか、黄色が幻想的に見えた (右写真)
この堤は熊谷堤と呼ばれ,戦国時代末期に北条氏邦が築いたものである。
少し先に、埼玉県知事による 「 久下渡し、冠水橋跡 」 石碑があり、説明板があった。
ここには平成十五年六月までは、木製のむかでのような長い橋が架かっていた (右写真)
沈下橋という洪水になると沈んでしまう橋だったが、そのより南に、沈まない新久下橋ができたため、
撤去されてしまった。
説明板には、「 この地は、江戸時代初期の荒川改修工事以降から明治の鉄道開設まで、
江戸との舟運の起点、久下新川河岸として栄えた。
舟運が廃れたあと、渡しが対岸との
交通手段となっていたが、昭和三十年に橋が架けられたのが、久下冠水橋である。
巾2.7m、長さ282.4m。 中央部の99.4mの区間には、巾4.5mの待避場が設けられていた。 」 とある。
思い出に残る橋として、地元で保存運動が起きたのは分かる気がした。
その先を見ると、車が多く走る新久下橋が見えた。
その先で堤を下り左へ曲がると、地蔵堂がある (右写真)
歌舞伎でお馴染みの白井権八が、因州鳥取から出て来て、熊谷堤にさしかかる。
ここで旅人を殺して大金を奪った。 見ていた地蔵に、 「 見たか?!誰にも言うな!! 」
と、話かけると、地蔵が 「 わしは言わぬが、ぬしも言うなよ 」 と、答えたところから、
物言い地蔵と呼ばれている権八(ごんぱち)地蔵を祀る。
元禄十一年に造られた等身大の大きなお地蔵様である (右写真)
歌舞伎の悪役で出てくる白井権八であるが、このようなところに話が残るとはおもしろい。
このあたりは久下集落で、この下に、前述の久下氏が館を構えたと伝えられている。
道が合流する対面にある民家の前に、 「 此の街道旧中山道 」 と 「 屋号大鍛冶屋 」 と、
刻まれた石が置かれていた。
他にも、「 久下上宿 」 と、刻まれたものもあり、屋敷の主が独自につくられたものらしかった。
旧久下村は、江戸時代、鍛冶屋が多く、鉄砲や刀を生産していた、という。 地元の歴史を残そうという心意気はよいなあ、と思った。
右折すると、新しい久下橋の鉄筋コンクリート製の橋桁が並んでいる。 橋下を横切って向こうに出た。
大きな蔵と門を持つ旧家の前を通る (右写真は振りかえって写したもの)
小さな子の手を引いた母親が何組か歩いている。
久下農協の先に久下神社があった。 その奥に小学校があり、親子連れはそこに入っていった。 小学校の入学式の日だったのである。
久下神社は、久下直光ゆかりの神社で、もとは、熊久伊奈利社といったが、明治時代に付近にあった、神明社、雷電社、八坂神社等の多くの神社を合祠して、現在の名前になった (右写真)
久下神社の前の三叉路を右へ行くと、右に公民館があり、久下新川村の説明板があった。
そのまま進むと右側に大きな石碑が建つ。
細かい字でびっしり書かれているが、明治四十五年建立の久下堤碑である。
荒川の流れを人工的に変えたため無理があり、堤は何度か決壊したが、明治四十三年八月十日の長雨と
暴風雨ではなんとか防ぐことができた。 その後、官民が一帯となって堤の修復につとめ、
無事完成することができた記念碑がこの大きな石碑である。
堤は川から村々を守るため重要な役割を果たしていたのである (詳細は巻末参照)
堤に上るあたりは江戸時代には輪型の坂といわれた (右写真)
中山道はここからは堤の上を歩く。
堤から見ると、左下に前述した元荒川の小さな流れ、右は広大な河原というより殆どが農地である。
遠くに荒川の流れがあるのだが曇っていることもあって見えない。 その先の秩父の山々はかすんで見えた。
農地の一角を囲む林は、屋敷森と呼ばれ、江戸時代には、久下新川村があったところだが、
洪水の被害や川運の衰退により、廃村になり、今は人が住んでいない。
よく見ると、電柱のようなものが残っていた (右写真)
また、狐の嫁入りが見られたとあるので、霧が出ると不思議な風景が出現したのだろう (詳細は巻末参照)。
しばらく間、堤の上を歩く。 今日は肌寒く、下着を一枚余分に着ても、暖かくならない。 困ったもんだ。
堤の道は上下二つあるが、車が時々走ってくるので、真中を歩くことはできない。
やがて堤の左にマンション群が見えてきた。 この間、二.五キロで、三十分の距離。
下を見ながら歩くと、左下に鳥居が見えた (右写真)
大きなマンションの前で土手を降りると、中腹に天保十四年と刻まれた馬頭観世尊石柱があった。
更に、下に降り、道に沿って右折すると、数十m先に鳥居があり、奥に小さな社があった。 稲荷神社である。
実はここが久下新川の一里塚の跡である。
それを示す板が立っていた。
ここは北側の一里塚の跡で、江戸より十四里目、 川柳の
柳たるに、 「 くたびれた 奴が見つける 一里塚 」 と、あったが、
まさに至言である。
手前の道を降りて行くと、JR行田駅で、行田市には一里山町という地名がある。
このあたりは境界線が複雑で、マンション群は行田市清水町、もとは北埼玉郡。
土手の右下は、熊谷市新川で、大里郡。 そして少し行くと、鴻巣市榎戸、北足立郡になる。
ここは、領地の境界線が入り組んでいた地区だったので、争いも多かっただろう。
少し行くと、「海まで71km」 という木柱があった。 このあたりが大曲というところで、熊谷市のはずれになる。
その先の桜の木の下に、決壊跡の碑があった (右写真)
(足立郡については巻末参照)
大曲は名の通り左にカーブしていた。 やがて、左に柳と桜の木が見えてくると、中山道は堤の道と別れる。
道を左にユーターンするように下ると、荊原権八延命地蔵(ばらはら ごんぱちえんめいじぞう)が
祀られるお堂があった (右写真)
名前は少し違うが、ここにも権八地蔵が祀られているので、権八地蔵は二つあるわけである。
少し変なの?! お堂の脇に、勢至菩薩石碑があった。
このあたりは榎戸2丁目、かっては吹上町だったが、今回の町村合併で、鴻巣市に変った。
ふきあげという地名の由来は、晩秋から春先にかけての季節風が砂塵を激しく吹き上げる
ところより生まれた、とも言われる。
ここからは、右へ左へとカーブが続いた後、直線の道になる。
左側にJRの線路があり、道は線路に沿ってあるのだが、住宅がぎっしり建ち、すっかり見えなくなっていた。
首都圏のベットタウンになっているのだ。
空いているところも建設中だった。 やがて線路にぶつかり、少しの間平行して歩く。
線路を渡るため、JR跨線橋に上がり反対側で左側に降りると、そこに、 「 吹上間(あい)の宿 」 の説明板があった (右写真)
ここは忍(おし)道と松山道との追分で、立場茶屋があった所である。
池田英泉の「岐岨街道鴻巣吹上富士遠景」は、富士山をバックに、虚無僧と飛脚や旅人が行き交う姿を描いている (右写真)
説明板によると、 「 吹上が重視されたのは、日光東照宮を警護する武士達の日光火の番道(忍道、松山道)と中山道が町の中央で交差したこと、そして、熊谷宿と鴻巣宿の距離が長かったため、中間に休憩する芭蕉として立場を設置することが必要だった。 」 と、ある。
吹上宿には、小林一茶や池田栄泉、大田南畝など、多くの文人や墨客が足をとどめている。
なお、忍(おし)は、現在は行田市になっているが、ここから四キロほど北にあり、江戸時代
には老中職の大名の居城である忍城があった (詳細は巻末参照)
文政十年(1827)版の中山道商家高名録の吹上宿には、うんどんそばかばやきの埼玉屋
七郎右衛門や足袋股引太物小間物類の武蔵屋喜平治などが書かれていて、吹上の名物は荒川のうなぎ、榎戸の目薬にさし足袋であった。
このあたりは、忍の刺足袋として全国に名を知られた足袋の産地で、木曾名所図会には、 「 吹上の茶屋にて忍ぶさし足袋を商ふ。
左に忍の城への道あり、一里余りなり。 」 と、紹介されている (詳細は巻末参照)
右折しそのまま行くと、左側に吹上神社がある (右写真)
「 吹上神社の祭神は、大山咋命、倉稲魂命、大物主命、菅原道真で、前身は、近江国大津の日枝大社(山王社)を奉奏する日枝社である。
宝暦六年七月火災により焼失。
その後再建年月不詳。 明治四十年、稲荷社、八坂社、氷川社、琴平社、天神社の五社を合祀し、現在の名前になった。 」 と、神社の由来にはあった。
吹上神社を過ぎると鳥正の前で三叉路、直進すると吹上本町交差点で国道17号線にでた。
国道17号はバイパスができたので、自動車の通行量が以前より減ったようであるがそれでも多かった。
右折して、商店街になっている街道を歩く。 ここもご多聞に洩れず元気がない (右写真)
古い家は少なく、区画整理が行われている様子だった。 吹上に入れば食事ができると、
多寡をくくっていたので、少しあわてる。
駅前の商店街に入っても、食べもの屋やコンビニ
もなかった。
少し歩くと十字路に出た。 右折すると、JR高崎線吹上駅である。 ここも、大規模な区画整理が行われていた。
右角にセブンイレブン、そして、左折したところに手作り弁当の店があった。
あたたかいものの方がよいと思い、弁当屋で焼肉弁当と暖かいお茶を買った。
これで一安心である。
このあたりの右側に、林茶屋本陣があったとされるが、それらしい家は残っていない。
吹上駅入口交叉点の右側にあった家(米糧商)がやや古そうに思えた (右写真)
現在の吹上の町には、昔の建物は残っていなかった。
(ご 参 考) 久下堤碑
江戸時代に荒川の流れを人工的に変えたので、元の流路に戻ろうとする自然の力でしばしば川が荒れ決壊したのである。 安政六年七月二十五日に東竹院の堤が決壊し民家十七戸、溺死者二十一人を出した。 元治元年八月九日にも同じ堤が崩れ、東竹院と民家十三戸が流された。
明治四十三年八月十日、長雨と暴風雨で危険な状態になったが、なんとか防ぐことができた。 その後、官民が一帯になって堤の修復につとめ、無事完成することができたが、その記念碑が久下新田の堤に上るところにある大きな石碑(久下堤碑)である。
しかし、昭和二十二年九月八日のキャサリーン台風により輪型から大曲にかけて土手を越えた水があふれだし、堤に電柱があったことも災いし、ついに2ヶ所が決壊した。 九月十五日午後七時三十分のことである。 決壊碑が建つところが決壊跡である。 なお、土手下に大きな池が出来ていたが、その後、行田市により埋め立てられ、住宅地になっている。
(ご 参 考) 久下新川村
公民館前の説明板によると、
『 江戸時代におこなわれた荒川の瀬替え(流路変更)により、新たに開削された荒川と堤の間に久下新川村があった。 明治二十年頃の人口は五百三十二人、九十四戸の家があり、四十九隻の舟を持っていて、川運と漁業、そして養蚕で生計を立てていた。 保全寺、木村将監屋敷や太田回船問屋などがあり、新川河岸には行田の忍藩の船が繋がれていた。
しかし、川運の衰退や洪水による川岸改修などにより人口は減り、村は廃村になった(昭和50年頃までは人が住んでいたとある)
現在残るのは屋敷森(旧新川村上分)と河川敷の土砂に半分埋まった三島神社の鳥居のみである。 』 と、ある。
(ご 参 考) 足立郡
吹上から南の地区はすべて足立郡だったが、明治維新で府県制になり、埼玉県と東京府ができた時埼玉県側は北足立郡、東京府側は南足立郡となり、その後、東京都足立区となった。
北足立郡は、東京都の境まで続く南北に長い郡で、大体において荒川左岸の微高地である。 吹上町は、平成17年10月1日、鴻巣市と合併したなど、殆どが市になっている。
なお、荒川右岸の朝霞、志木、和光、新座の各市は、市になる前は北足立郡に属していたが、江戸時代には新座郡だったのである。 ご参考まで!!
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(ご 参 考) 忍(おし)城
忍(行田市)の一帯は、室町時代から戦国時代にかけて、山内上杉氏と扇谷上杉氏との抗争が続き、戦略上重要な位置にあったので、数回の戦いを演じたところである。
忍城は、延徳元年(1489)、成田親泰が、太田道灌の縁戚、忍大丞の館を襲い、一族を滅ぼし、その翌年、築城を開始し、二年がかりで完成したと伝えられる城である。
難攻不落な城だったようで、天文二十二年(1553)、北条氏康が攻めたが陥ちなかったし、天正十八年(1590)の小田原の役では、小田原城に籠城した城主成田氏長がいなかったのだが、残った兵士と農民三千人が立て籠もり、石田三成による力攻めや水攻めに耐え、城は落ちなかった。
小田原城が陥落後、城主氏長が秀吉軍に内通した功により、城兵の助命嘆願を受け入れる形で、開城。
江戸時代には、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋等の譜代大名が配置され、佐倉、古河、川越とともに、老中の居城となった。 元禄十四年(1701)、幕府は阿部正武に、三重櫓、二重櫓と帯郭の造営を許可した。 文政六年(1823)、松平忠堯が入城し、その四代後に、明治維新を迎え、廃城となった。
なお、忍は古来から開かれた土地のようで、埼玉(さきたま)古墳群があり、さきたま風土記の丘史跡公園として整備されている。 古墳群は稲荷山古墳で、9基の大型古墳からなり、ここから鉄剣に115字からなる金文字が発見された。
資料館もあり、発掘された遺物を展示されている。 歩く場合は吹上駅から行田への真っすぐの道を行き、国道17号熊谷バイパスを越えて、1kmほどの所を右折、武蔵水路を越えるとすぐ。 バスの便もある。
(ご 参 考) 行田足袋
足袋が、いつ頃から吹上で作られたかはっきりしないが、文化文政年間(1804ー30)にはかなり作られ、当時の旅行案内である五街道細見に、忍のさし足袋として出てくるので、すでに街道の名物だったのだろう。
大正から昭和にかけて、その最盛期を迎える。 吹上で生産された足袋は、吹上足袋とはいわれず、行田足袋と呼ばれた。 行田足袋は、行田を中心に羽生、加須、吹上で生産された足袋の総称であるが、行田の生産量が多かったからというわけではないようである。 昭和初期から昭和十六年までは、吹上地区の生産が他地区をしのいでいたのである。
しかし、足袋は戦後の洋装化などの生活様式の変化し、需要が減り、足袋作りは少なくなってしまった。