商店街を過ぎた左側にセブンイレブンがあり、正面に、NTTのマイクロウエーブのアンテナが見える三叉路を右へ行くのが中山道である。
少し先の右がわにある小さな社は、妙見(徳)地蔵である (右写真)
NTTの建物は、無人で閉鎖されていたので、そとの塀の脇に座って、先程の弁当を食べた。
通る人は、なんでこんなところで食べるのという感じで、見ながら通り過ぎていった。
公園も無く、食事やトイレができるところがないのだからしょうがない。 食事を終え、再スタート。
すぐにJRの踏切、踏切を渡り、左折し、しばらくは線路沿いの道を歩いた。
このあたりは住宅地になっていて、車の通行も多いのだが、歩道の整備がなされていない。
歩く人もいないからよいのかと、思いながら、歩いた。
歩くうちに、線路が少しずつ道路から離れていき、道の左側は、住宅、その奥に工場、そして、アピタが見えるようになった。
少し歩くと、前砂交叉点で、右側から多くの車が走ってくる道に合流した。 踏み切りからここまでは七百メートル位か?
道の右側を歩く。 歩道はないが、暗渠を塞ぐプレートが歩道代わりになっているので、それを踏んでいく。
道路を歩くよりクッションになるので楽である。
しばらく歩くと、右側の民家の一角に、一里塚と書かれた標柱が立っていた。 前砂の一里塚跡である (右写真)
心配していた雨がぱらつき始めた。 雨具を着て、折りたたみ傘を広げる。
かなり歩きずらくなった。 追分交叉点で、左に延びている道は、忍へと続く行田道である。
この先の踏み切りを越え、右折すればJR北鴻巣駅である。
右側のブロックで造られた祠の中に、石仏(馬頭観音?)が祀られていた (右写真)
鴻巣市中井を過ぎると、間もなく中宿橋で、その下を流れるのが、利根川の水を荒川に
流す武蔵水路で、東京の重要な水源の一つである。
ここから箕田(みだ)になる。
江戸時代、熊谷宿と鴻巣宿の間が、約四里(約16q強)と長いので、箕田は、間宿になっていた。
箕田は、平安時代の初期、嵯峨天皇の第六皇子融(とおる)の孫、源仕(つこう)が武蔵守になり、箕田に館を立てて勢力を築いたのが、嵯峨源氏の支流、箕田源氏という、古く由緒のある場所である。
左側の木立の中に、氷川八幡神社が見えた (右写真)
氷川八幡神社は、箕田郷二十七ヶ村の鎮守である、綱八幡といわれた八幡社に、龍泉寺にあった氷川社を合祀した神社で、綱八幡といわれるのは、渡辺綱が八幡社のために奉納した神田の地と、されていることに由来するのだろう (詳細は巻末参照)
境内に入ると、神社の社殿の右側に囲われてあるのが、箕田碑である。
箕田碑は、指月の撰文、維項の筆による碑文で、武蔵武士の本源地であることが記され、
箕田氏の由来が刻されている。 裏の碑文は、約二十年後の安永七年(1778)に刻まれた
和文草体のものである (右写真)
初めに、渡辺綱の辞世の句
『 世を経ても わけこし草の ゆかりあらば あとをたづねよ むさしののはら 』
を掲げ、芭蕉、馬酔の句をして、源経基、源仕、渡辺綱の文武の誉れをしのんでいる。
近くの宝持寺は、綱が父と祖父の菩題をともらうために建てたものという。 また、箕田源氏の館は、八幡神社の北側にあったと、伝えられている。
宮前交叉点を右に行くと、東松山、吉見へ至る。 交叉点を越えると、左側にあるのが箕田観音堂である (右写真)
箕田観世音ともいわれるが、正式には吹張山平等院という。
渡辺綱が、永延元年(987)に開基したといわれる寺で、最近まで寂れていたが、平成三年二月に、箕田八幡近くの龍珠院龍昌寺の住職等によって再建された。 本尊の観音菩薩は、一寸八分というから、
6cmたらずの小さな馬頭観音だが、清和天皇を祖とする源経基が、戦の折りに、兜の中に頂いていたと、いうもので、後に嵯峨天皇を祖とする同姓の源任に与えられ、その後、源宛、その子の渡辺綱にと、伝えられた。
太田南畝は、 「 左のかたに新西国第七番吹張山平等院といふ寺ありて、開帳といへる札をたつ。 されど詣づるもの一人だになし。 渡辺綱守本尊なりといふ観世音なり。 」 と、記している。 境内は広く、享保九年(1724)の燈籠があった。 石仏、石碑群が二列あったが、どういうものかは確かめていない (右写真)
雨が小雨になり、十分時間をとろうという気になれない。
また、名古屋に戻るので、時間も気になる。
観音堂を越えると車も多くなり、歩道がないので怖い。
それでも、傘が目印になるのか、車が避けてくれる。
住宅地を少し歩くと、右手に分離する道が現れた。 これは糠田河岸(ぬかだかし)への道で、さらに松山へ続いている。
百五十メートルほど進むと、JR高崎線の線路に出た (右写真)
踏切を渡り、少し行くと加美交差点で、旧国道17号と合流した。
そのまま歩くと左に鴻(こう)神社の鳥居が見え、鴻巣宿到着である。
(ご 参 考) 氷川八幡神社
氷川八幡神社は、明治六年、箕田郷二十七ヶ村の鎮守である八幡社(現在地にあった)に、承平元年(966)に、六孫王源経基(つねもと)が勧請したと言われる氷川社(字龍泉寺にあった)を合祀した神社である。
八幡社は、源仕(みなもとのつこう)が、藤原純友の乱の鎮定後、男山八幡大神をいただいて帰り、箕田の地に鎮祀したものであり、字八幡田は、源仕の孫、渡辺綱が、八幡社のために奉納した神田の地と、されている。
渡辺綱は、幼少にして父母を失い、摂津国渡辺庄に居た叔母に養われて成人したが、羅城門の鬼退治で活躍し、源頼光の四天王の一人といわれるようになった。
(ご 参 考) 六孫王源経基(つねもと)館
鉄道踏み切りを渡って、600m程のところは城山と呼ばれる。
鴻巣高校の校門右側の細い林間の道を登ると、南斜面の薮の中に、六孫王源経基館跡と刻まれた石碑が立っている。
源経基は、清和天皇第六子貞純親王の長男で、六孫王と称し、臣籍に降下し、清和源氏の祖となった人物である。 天慶元年(938)、武蔵介に任じられて、この地に館を築くが、武蔵足立郡司、武蔵武芝との間で争いを起こし、平将門に攻められ、都へ逃げ帰った。
鴻巣は、中山道と日光裏街道、松山街道の追分になっていることに加え、江戸からの初日の泊まりが鴻巣だったことが、宿場の発展に寄与した。
天保十四年の宿村大概帳によると、宿内人口二千二百七十四人、家数五百六十六軒を数え、本陣一軒、脇本陣一軒、問屋場一軒、旅籠は五十八軒と、中山道で最大級の宿場町に発展した。
鴻神社前の交叉点を左折する細い道が、江戸時代の日光裏街道である (右写真)
日光裏街道は、埼玉から群馬にかけてはいくつか存在するが、この道は、鴻巣宿から忍(行田市) を経由し、川俣利根川渡船場(群馬県明和町)を渡り、館林に出るという日光脇
往還で、元和弐年(1616)には、川俣関所が開かれている。
信号を越えると、左側に鴻(こう)神社の鳥居があるので、中に入って行くと、鳥居前の桜がきれいだった (右写真)
鴻巣は大宮台地の北部にあり、旧荒川と荒川の低地に囲まれている扇状地にある。
地名の由来については諸説あるようだが、鴻巣市のホームページでは、
『 古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)の笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、
現在の鴻巣市笠原のあたりに住み、一時この地が武蔵の国府となったことから、
「 国府の州(こくふのす) 」 と、呼ばれたのが始まりとされ、それが、 「 こふのす 」 と
なり、後に、 「 コウノトリ伝説 」 から、鴻巣の字をあてはめるようになったと云われている。 』 と、ある。
鴻神社の社殿は、枝が切り落とされた樹木の中にあった (右写真)
鴻神社の由来を示す説明板には、「 明治六年に、ここにあった竹ノ森雷電社に、近隣の氷川社と熊野社を合祀し、鴻三社と呼んだ。
その後、明治三十五年から四十年にかけて、日枝神社、東照宮、八幡神社なども合祀して、現在の名前の鴻神社に改名した。 」 と、説明されていた。 当時の竹ノ森は、その名の通り、多くの竹林が点在する竹と高木の森だっ
たようで、神社の敷地も広かった。 それぞれの神社の創建に纏わる話はないようだが、
神社に古い扁額が残っている、とあった。 さて、コウノトリ伝説である。
「 木の神と呼ばれる大樹があり、人々に災いをもたらしていたが、コウノトリが住み着いてからは害をなすことがなくなったので、大樹のそばに社を造って、コウノトリを祀った。 」
と、いうもので、祀った社を鴻の宮、この地を鴻巣と呼ぶようになった、とある
(右写真は歩道で見たコウノトリ)
鴻神社の生い立ちを見る限り、伝説の鴻の宮とは思えないなあ!?と、思った。
鴻巣宿は、慶長七年(1602)、江戸幕府が中山道を開設したと同時に設けられた宿場であ
る。 それ以前の東山道の時代には、隣の本宿村(現北本市)にあったのだが、幕府が宿場をここに移したのである。
鷹狩りを好んだ徳川家康が鴻巣に御殿を建てて通ったということも影響したのかも知れない。
鴻神社の道の反対側に、商家風の古い家があった (右写真)
江戸時代の人は健脚だったので、男子は十里(40q)、女子でも六里〜七里歩いたといわれ、板橋宿を早朝に発つと、途中に泊まらないでここまで来たので、この宿場が繁昌
したのである。
街道を歩くと古い家はいくつかあったが、このあたりにあったとされる問屋場の所在は分からなかった (右写真)
鴻巣駅入口の交叉点を右折して、百メートルほど行くと鴻巣駅である。
交叉点を越え二百メートルほどのところにあるタカノ薬局(店は閉まっていた)が、本陣の跡のようである。
(注)鴻巣市は、中山道には関心がなさそうで、説明の類は皆無である。
このあたりに、脇本陣もあったようだが、その跡を確認する手段がないのである。
本町交叉点を右折すると、壇林勝願寺と刻まれた大きな石柱と山門が見えてくる (右写真)
この寺は、鎌倉時代に、良忠という僧が登戸の地に堂宇を建立したことが始まりとされる、
淨土宗の寺であるが、清厳上人が、天正元年(1573)に、現在の地に再興した、と伝えられ
る。 徳川家康は、文禄弐年(1593)、鴻巣で鷹狩りを行った際、この寺を訪れ、二世住職の
円誉不残上人に感銘を受け、宝物を寄進したと、言われているが、幾度かの災厄により、
宝物は殆ど失われてしまった。 山門には、仁王像が収まっていた (右写真)
広い境内には樹木が多く、伽藍は立派で、本堂の屋根には徳川家の葵の紋瓦があり、徳川
家康の御朱印をいただいていたことを示す。
本堂の前には、人形塚があり、右手の墓地には、大きな宝篋印塔が並んでいる。
本堂の左には、芭蕉忌千句塚の碑が建っていて、その奥に、戦国時代の武将仙石秀久や、
信州松代藩主真田信重夫妻や真田小松姫の墓が並んで建っていた (右写真)
仙石秀久は小諸の城主で、慶長十九年(1614)、参勤交代で帰国の途中発病し、当地で亡く
なったが、小諸の他、ここにも分骨建墓された。 その隣に、真田信重夫妻の墓がある。
真田信重は、真田信之の三男で、慶安元年(1648)二月、鴻巣宿で病没したが、母の縁で、
当山に葬られた。 彼の妻も、翌年、亡くなり、ここに葬られている。
その隣の墓は、真田小松姫である。 小松姫は、本多忠勝の女(むすめ)で、家康の養女
となり、信州藩主真田信之に嫁し、元和六年(1620)に没した。 生前、当山の円誉不残
上人に、帰依していたので、娘が一周忌に分骨造塔した。 夫の真田信之は、真田昌幸の
嫡男で、真田幸村の兄である。 徳川四天王の一人と言われた、本多忠勝の娘婿だった
こともあり、関ヶ原合戦では、徳川方についた。
一方、石田三成と関係の深かった大谷吉継の娘を妻としていた真田幸村と父昌幸は、西軍に組した。
関ヶ原の戦いの悲劇である。
裏の墓地にある大きな宝篋印塔四基は、関東郡代、伊奈忠次一族の墓である (右写真)
一番左が忠次の墓、その隣が子の忠治の墓である。
伊奈忠次は、家康の小姓から始まり、鴻巣小室一万石が与えられ、関東代官として、利根川の治水や知行米の検量法などで活躍。 その子忠治も親の跡を継ぎ、関東代官として善政を行った、といわれる。
街道に戻り、先に進むと人形町で、雛人形の産地で人形店が並んでいるところである。
江戸時代に、京都の伏見人形師が移り住み、作り始めたというのが起源で、以来四百年の
伝統をもち、江戸の十間店、武州越谷とともに、関東三大雛市の一つとして繁盛し、
戦前の最盛期には、二百軒の製造業者があったが、大量生産の岩槻雛人形に押され、最近ではわずか十数軒に減少している、といわれる。
吉見屋人形店は、江戸時代創業で、三百年余り続く古いひな人形店の一つで、
十年程前に店を改造して、雛屋歴史資料館を開いている(入場料 500円 10時〜17時。木曜は休み。) (右写真)
古い鴻巣雛が展示されているが、これは、この地方独特の裃雛(かみしもびな)で、養蚕が
盛んだったこの地で祀られる、お繭(まゆ)さまに供える人形である。
店内には、雛人形以外の大きな人形が展示されていた (右写真)
今回訪れた吹上や鴻巣の青春時代の思い出は、ここにあったドライブインで、トイレ休憩したこと。
当時の長野県や群馬県へ向うスキーや登山ツアーの夜行貸切バスは、東京を出るとかならず
ここに立ち寄ったものである。 関越自動車道が開通して、ここを通らなくなり、ドライブインはすべて消えてしまった。
今回の中山道の歩きはそうした青春時代の一齣が頭によぎった旅だった。
平成18年4月