北本市本宿は、中山道を開道するまでは宿場町であったが、中山道の開通により、宿場は桶川へ移された。
桶川は紅花(べにばな)や藍(あい)の集散地で、それを扱う豪商が多くいた、という。
桶川にはそれを窺わせる建物や常夜灯が今でも残っていた。
平成十八年(2006)六月二十五日、前日所用で東京に来て、東京のホテルに泊まった。
寝坊をして、宿を出たのは七時半と遅かったが、JR鴻巣駅には九時前に着けた。
前回、勝願寺での時間が足りなかったので、勝願寺に寄り、その後、桶川宿に向かうことにした。
既に鴻巣宿で述べているので、説明はしないが、境内が広く堂々としているので、圧倒される。
前回訪れた時は桜が出迎えてくれたが、梅雨に入っているので、アジサイが似合った。 街道に戻り、今日の旅の始まりは、人形町バス停である (右写真)
鴻巣宿から桶川宿へは一里三十町(約7.3km)の距離である。
人形町バス停の左側には、八幡神社、そして、奥に、金剛院があり、そこを過ぎると、深井二丁目交叉点で、北本市に入った。
街道は車の往来は多い。
平行して国道17号があるのに、ひっきりなしに車が走り、一人分しかない狭い歩道を自転車が行き来するのである。
その度に、道を譲らなければならないのには参った。
左側の民家の大きな木が街道を見下ろし、その先の横断歩道橋には東間とある。
左のマンションの下に、元治元年創業の梅林堂という菓子屋があった (右写真)
この店に立ち寄り、塩豆大福を二個買い、浅間神社の場所を確認した。 右側のがってん
寿司の向こうに、うっそうとした森が見えてきた。 近づくと、幟(のぼり)が建ち、多くの人が
集まっていた。 浅間神社の入口には、小さな社があり、庚申像が祀られていた (右写真)
三猿の上にいるのは、猿田彦(さるたひこ)で、旅の守護神である、と書かれていた。
浅間神社の由来書によると、 「 東間浅間神社が、正式名で、 木花開邪姫命(このはなさく
やひめのみこと)が祭神である。 古来、山火鎮護、農蚕の守護神、安産祈願などで、この
地方の人々の崇敬を集め、東村せんげんの森といわれた神社である。 天神社、八幡社、
弁天社も合祀されている。 」 と、あった。
七月一日が大祭なので、氏子が駆り出されたようで、社務所や広い境内も提灯や電線など
があちこちに置かれ、踏み場もない有様だった。 社殿は、小高い塚の上にあるので、
準備の邪魔をしないように気をつけながら、石段を登った。 ところが、社殿がない!!
昨年六月、不審火で燃やされてしまったという。 燃え残った鳥居でそのことが確認できた。
社殿が建てられるまで、小さな社が代わりを務めるようである (右写真)
氏子の方々が、あれだけ熱心に準備を進めているのに、お気の毒と思いながら、石段を
下りた。 浅間神社の裏側に、江戸時代初期の中山道が一部残っていると聞いたので、
神社横の道を北上すると、鉄道の線路につきあたる。
ここは左折し、東間踏切まで歩いた (右写真)
踏み切りを渡り、右側にある小田急マンションの前の道を右折すると二百メートルほど先に、
原馬室一里塚入口の矢印がある。 神社の横の道が突き当たった線路の向こう側に
一里塚はあるのだが、踏切がないので大回りをしたのである。
案内に従い、農道に入ると、左側に塚があり、下の案内板には、 「 幕府は、慶長六年(1601)に、東海道に伝馬の制を、翌慶長七年(1602)に、中山道各駅に伝馬の制が発せられ、その後、一里塚が築かれていった。 六十間を一町(約110m)、三十六町を一里(約4km)とし、一里毎に、道の両脇に五間(約10m)四方の塚を築き、頂上に榎などの木を植えた。
この一里塚は、慶長十七年(1612)に築かれたが、明治十六年(1883)、高崎線の敷設工事で、東側が壊され、残っているのは西塚である。 」 と、あった (右写真)
旧中山道は、この先の東間踏切を越え、北本駅東口の道を通り、先程の道と合流していた
が、その後、中山道のルートが、浅間神社の前を通る道に変わったもので、古い一里塚は、
もとの位置に残ったのである。 塚に上ると、名は分からないが、大きな木があり、その下
に小さな社と石碑があり、石碑に埼玉県足立郡馬室村大字原馬室と記されていた(右写真)
このまま、古い中山道(東山道)を歩く。
東間踏切を渡り、斜めに行く細い道を歩くと、北本駅東口に出て、その先で、その後の
中山道を合流した。 その先の多聞寺交差点を左折すると、天神社があった。
社殿は、道から少し奥に入ったところにあり、御神体は、菅原道真坐像である (右写真)
神社には、明治二十四年の算額が奉納されている、とあった。 算学は中国から伝来した
数学を関孝和等によって改良発達された学問で、これらを学ぶ人々が問題の解法などを
記録して、神社や仏閣に奉納したものが算額である。 社殿の隣の建物では、笛と太鼓の
合奏が行われていたが、お祭りの練習のようであった。
隣には多聞寺(たもんじ)があった。
万治四年(1661)の開基で、本尊は、毘沙門天立像である (右写真)
本堂は建て変えられているが、鎌倉や室町時代の古い板碑が十数基残されている。
また、境内の樹齢200年以上のムクロジの木は県指定天然記念物である。
ムクロジ(無患子)の実の黒い種は、正月に遊んだ羽根つきの羽の先についている玉
になる。 五百メートルほど行くと、本宿交叉点にでた (右写真)
本宿とあるのは、江戸時代の始めまでここに宿場があったからである。
江戸幕府は、その後、宿場を鴻巣に移してしまったが、立場茶屋として、明治まで続いた。
北本市のホームページによると、「 旧本宿村は、明治初期に、県内に同じ名前がある
のは、煩わしいとして、北本宿村になったが、昭和三十四年に、町に昇格の際、宿を取って、
北本町となり、市昇格で北本市になった。 」 と、ある。
街道を歩いてもその痕跡は見られないが、右側の立派な白壁の立派な家は、時代が違うだろう
が、雰囲気があった。
二ツ家の交差点で、左に天神道、右が松山稲荷道と分かれる (右写真)
松山稲荷道とは、東松山市にある箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)へ向かう道のことである。
和銅五年(712)の創建と伝えられる野久稲荷神社は、源頼信が平忠常を討つ前に戦勝祈願、その後、戦勝報告と同時に社殿を寄進し、現在の名に変えさせた と、
伝えられる。 天神道とは、加納天神に向かう道のことで、加納天神は、国道17号を越
え、左の方角にある氷川天満社のことである。 平安時代、貞観十一年(869)の御創建
と伝えられる古社で、 正徳弐年(1712)に上加納村の鎮守として、菅原道真を祭神とする
加納天神社となったが、明治八年(1875)、上加納村と下加納村が合併した際、下加納村の鎮守である氷川神社も合社したので、氷川天満社と呼ぶようになったというもの。
両村は、現在は桶川市に編入されている。
道の両脇には、最近多い郊外店が軒を並べていた。 北本温泉という日帰りの湯があったので、入ろうかと迷ったが、先があるので諦めた。
そうこうしているうちに、桶川宿に近づいた (右写真)
(ご 参 考) 箭弓稲荷神社
箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)は、埼玉県東松山市箭弓町にある神社である。
『 当神社のご創建は、和銅五年(712年)と伝へられ、規模の大きさ、ご社殿の荘厳さとご霊験のあらたかさで、大勢の方々の信仰を集めている。
社記によると、平安時代の中頃、下総の国の城主、平忠常が謀反を起こし、近隣諸国を切り従へ、ついに、その威を関八州にふるい、大軍をもって、武蔵の国の川越まで押し寄せてきました。
朝廷は、武門の誉れ高き武将源頼信を忠常追討の任に当たらせ、当地、野久ヶ原に本陣を張り、頼信が野久稲荷神社に夜を徹して戦勝祈願をしたところ、明け行く空に箭(矢)の形をした白雲がにわかに現れ、その箭は敵を射るかのように飛んで行った。
頼信は、これぞ神のご加護と奮いたち、自ら先頭に立ち、敵陣に攻め入ると、ふいを突かれた忠常軍はあわてふためき、一旦は後退したもののすぐに盛り返し、三日三晩にわたる激戦も、神を信じ戦う頼信軍が勝利した。
帰陣した頼信は、ただちに野久稲荷に戦勝報告を済ませると、この勝利はご神威、ご神徳によるものだとして、ご社殿の建て替えを寄進するとともに、野久稲荷を箭弓稲荷と改めて呼ぶようにと、里人に命じたのでした。
以来、箭弓稲荷神社は松山城主、川越城主をはじめとして、多くの人達等の信仰を集めてきた。 平和な時代を迎へるとともに、前にも増して隆盛を極め、特に江戸時代には、江戸をはじめ、四方遠近からの参拝者で社前市をなしたと、いわれる。
現在も大小百あまりの講社があり、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全の守り神であるとともに、交通安全、厄除、火難除、開運、学業成就、芸能向上等の祈願社として信仰を集めている。
』
(神社の由緒書による)
二ツ家を過ぎると、桶川市に入る。
右側に、スパーのマルエツなどが入っている、マメトウショッピングパークがあった (右写真)
道には、車が数珠繋ぎの上、歩道には自転車が次から次にきて、大変危ない。
歩いているのは小生だけなので、相手から見れば邪魔な爺!と、思ったことだろう。
道交法では、歩行者優先となっているが、彼等にはその規定は通用しない。
マツキヨやつたやなどの店が続く中に、ラーメン店があった。
この先、上尾までラーメン店
の看板を数軒見たが、味噌ラーメンを売り物にしていたのは意外だった。
小生は、トイレ休憩と昼飯を兼ね、その一軒に入り、ねぎ味噌入りを頼んだが、ピリ辛でまあまあの味であった。
市役所前交叉点の左側に建つピンクの家の前に、桶川宿の石柱があったが、中山道開道四百年事業として建てられたものか、最近のもののような気がした。
その先の左側の民家の前に、上の木戸跡碑があった (右写真)
上の木戸とは、江戸時代、桶川宿の京側の入口にあった木戸のことで、ここが、宿場の北
のはずれだった。
対面のヤマト物流とある府川家、隣の茶屋とうどん屋の建物は、古そうである (右写真)
桶川宿は、北の木戸から南の木戸まで、九町三十間(1km強)に、本陣が一軒、脇本陣が二軒、問屋場一軒、そして旅籠三十六軒があった。
宿場の人口は千四百四十四人、家数は三百四十七軒とあるので、中山道の宿場としては大きい方だったようである。
交叉点の右方にあるという、松山稲荷道道標を探したが、見つけられなかった。
その後、中山道宿場館まで行き、宿場に関する資料を貰い、現在増築中の桶川北小学校
の一角にあることを知り、道標に対面することが出来た。
道標は、ここより東側にあったのが、工事でここに移されたように思えた (右写真)
魚の字が図案化され、「 松山 いなり道 本小田原町 」 と、刻まれている道標は、天保
七年(1836)に建立されたものである。
松山稲荷は、江戸時代に大変繁盛したお稲荷様で、多くの講が作られたが、ここに刻まれている本小田原町とは、江戸日本橋たもとの北側にあった魚市場のことで、この道標は魚市場仲間が建てたものである。
なお、松山稲荷道はここから西に折れて下石村(現北本市)を経て、荒川を渡り、松山に
通じていた。
桶川市北一丁目の横断歩道橋の右側に、一里塚の碑があるはずである。
江戸時代、中仙道の両脇に、一里塚があったが、その跡に石碑が建てられていると聴いていたので、時間をかけて探したが、中山道宿場館の係員によると、「 交通事故で碑が倒されたので、
碑がないとすると、処分されたのでしょう。 」 と、いうことだった。 この二つの捜査で、三十分は損をしたと思う。
その先の右側に、大雲寺の石柱があるので、入っていった。
曹洞宗のお寺で、正式には、龍谷山大雲禅寺という (右写真)
本堂に向かって、左側には、子育て地蔵尊の他、馬頭観音などの石仏群があった。
馬頭観音は、国道建設の際取り除かれたものを祀ったように思えたが間違いだろうか??
子育て地蔵尊の隣に、三体の石地蔵があり、中央の地蔵が女郎買い地蔵と呼ばれている。
この寺で有名な女郎買い地蔵である (右写真ー右から2番目の大きな石仏)
この地蔵さんは、夜な夜な、町に、飯盛り女に会いに行くので、困った住職が、背中に鎹
(かすがい)を打ち付け、鎖で繋いでしまったというものである。 この話から想像すると、
江戸時代の桶川宿は飯盛り女が多く、それが有名で近隣から多くの客を集めていた、という
ことだろう。
墓地は大変広く、本陣の府川家や宿場開設当時から家の墓などがあった。
街道に戻ると、右側に東和銀行があるが、江戸時代には市神社があった。
その先の左に行く道が岩槻道で、道の右奥に、桶川稲荷神社がある (右写真)
稲荷神社の敷地は四千uで、祭神は宇迦之御御魂命、創建は長承三年(1134)とも嘉禄
年間(1225〜1227)ともいわれるが、町の鎮守として祀られてきた。
拝殿の前面に立ち並ぶ石燈籠は、安政四年(1857)に、桶川宿を拠点にしていた紅花商
二十四人が、寄進したものである。 燈籠には、紅花商人中と書かれた下に、寄進者の
名前があり、中入村矢部半右衛門や当駅(桶川宿)木嶋屋半兵衛など、当時の豪商たちの
名が、刻まれていた (右写真)
桶川地方は、口紅と食紅の原料になる紅花をさかんに栽培しており、桶川えんじとして、
全国的に知られていたと、教育委員会が立てた案内にあった。
紅花と聞くと山形を想像するが、東京に近いところで栽培されていたとは・・・
また、境内に力石が奉納されていた。
嘉永十五年二月、岩槻の三ノ宮卯之助が持ち上げた大盤石(610kg)である。
当時、江戸では、祭りや見世物で、力石を持ち上げることが興行として行われていた。
岩槻出身の卯之助は、桶川にも呼ばれて興行を行ったのだろうと、説明にあった(右写真)
昨年春、しまなみ海道で尾道を訪れた際、沖仲仕が行った、という力くらべの力石を見たが、
それを興行にしていたとは初耳だった。 そこから街道に戻った。
右側の駐車場の前に、桶川宿の石柱があり、脇に宿場の案内板があった (右写真)
この駐車場は桶川郵便局の跡地か??。
その先に中山道宿場館があり、そこでパンフレットをもらったことなどは先述した。
江戸時代には、この先に、脇本陣と問屋場があったが、すっかり景色を変え、跡形もなく消えていた。 脇本陣は、ほていや化粧品やシマやとあるあたりにあったのではないか?
もう一軒の脇本陣があった場所ははっきりしないが、道の反対側(左側)に残る本陣跡の近くかも知れない。
宿場館から道を反対側に渡ると、左側に木の柵のような大きな門がある。
入って行くと、本陣の門があり、その前に「明治天皇桶川行在所」の石碑があった (右写真)
桶川本陣は、代々府川家が勤め、加賀前田家を始めとする参勤交代の大名たちを迎え、文久元年(1861)、皇女和宮の江戸下向の時にも宿泊された。
門から中を覗くと、近代的な家に代わってしまっているが、庭は広々としていた。
毎年秋、桶川本陣かがり火狂言が、本陣遺構で行われるとあるので、家の奥に本陣の遺構があるのだろう。
右側の問屋場があったと思われる建物の先の狭い道を越えると、材木が立てかけられた家がある。
この家は、国の登録有形文化財に指定されている小林家住宅である。
江戸時代、三十数軒あった旅籠の一つで、桶川大火の後の建築なので、棟札の子の字から、天保十一年か嘉永五年の建築と思われる、と説明にあった (右写真)
皇女和宮御降嫁の際、随員十数名が泊まった、と記録が残っているそうである。
大正初期に、小林家初代がこの建物を購入し、大改造して、材木商を営んできた。
この先左側に蔵造りの家がある。 幾つもの堅固な蔵でできた矢部家である (右写真)
桶川稲荷神社の石燈籠にあった紅花商人の寄進者の一人、屋号を木半といった木嶋屋
半七の家だったところである。
明治初期に建てられた重厚な建物で、川越の商家、亀屋と同じ棟梁により建てられた。
このあたりには、その他にも古い家が残っていた。
埼玉県信用組合の先に、日本茶を売っている店(喫茶もしている)があるが、江戸時代、
旅籠を営んでいた建物である (右写真)
その先のビルの裏側にあるのは、島村家の土蔵倉である。
島村家は、前述した木嶋屋の総本家にあたる家柄で、この土蔵倉は
、桁間六間、梁間三間の木造三階建ての建物で、屋根の両端にある鬼板には、当時の屋号の一字を採った木という字が刻まれている。
天保七年(1836)に建てられたもので、国の登録有形文化財に指定されている。
この土蔵建築工事は、天保の大飢饉で飢えにあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの人々の飢えから救った、といわれる (右写真)
この先は、大きく変わっている。 大きな建物の間に、小さな家がある、という按配である。
桶川名物べに花まんじゅう、と看板を出した家の前を過ぎると、右手に桶川駅がある。
駅の反対側は住宅公団が分譲した大住宅団地で、弟一家が住んでいる場所である。
駅を中心に、駅のむこうとこっちでは、歴史に大きな隔たりがあるのを感じた。
この通りを越すと右手奥にあるのが淨念寺で、赤い鐘楼門の奥が、本堂である (右写真)
天文十五年(1546)の開基と伝えられる寺で、境内には、京都紅花商人、吉文字屋彦市ゆかりの墓がある。
その先の右側に、江戸時代、旅籠紙屋を営んでいたといわれる武村旅館がある。
明治時代に、板橋宿で旅館をやっていた先代が、紙屋を買って始めた旅館で、
一部寄棟の切妻造りの二階建てで、嘉永五年(1852)に建てられたもので、国の有形文化財に指定された (右写真)
二階の三部屋は、旅籠時代のままのようだが、現在は、旅館の建物は泊まることはできない。 営業は、別棟のビジネスホテルで行われているのでご安心を。
駅を過ぎたあたりから、カラオケ屋やこじゃこじゃした店が増えた。
左側にある看板も無くなった二階家の瓦屋根の頂上に、何か小さなものを見つけた。
よく見ないと分からないが、煉瓦造りの小さな鐘馗(しょうき)が乗っている。 鬼門を守る屋根神に一種で、珍しいなあと思った。 この先の川越街道と分かれる交差点の先の右側に、南(江戸側)の木戸を示す史跡木戸跡の石柱があった(右写真)
人情屋台という看板の架かっている家の手前で、気を付かないと見落とすところである。
ある意味では、今後の桶川宿を象徴しているのでは、と思った。
桶川宿は、道路拡張や建て替えなどで、かなり変っているものの、古い家も残り、埼玉県の中山道では、昔の風情が残る数少ないところであるが、この姿は、後何年残るであろうか??、と思いながら、
桶川宿を後にした。
平成18年6月