上尾宿は、天保十四年編纂の中山道宿村別帳によると、人口七百九十三人、家数百八十二軒で、
大田南畝の壬戌(じんじゅつ)紀行には、 「 上尾の駅舎ひなびたり 」 と、書かれている。
桶川宿の南の木戸跡を過ぎると、道の左側の小さな祠の中に、お地蔵様が祀られていた。
すぐに富士見町交叉点になり、ここが桶川市と上尾市の境である。
上尾市に入ると、市が設けた中山道の標柱が目に入った。
そこから少し歩くと、道の左側に、小さな祠(ほこら)があり、明和六年の庚申塔が祀られていた (右写真)
町屋バス停脇を入ると、線路近くに雷電神社がある。
この神社は、以前は街道脇にあったのだが、明治時代に、ここに移転されたものである。
雷電神社が群馬県と栃木県に多い
のは、北関東や埼玉に雷が多いことと関係があるのだろうか??
その中で、左甚五郎の彫刻がある群馬県板倉町の板倉雷電神社が関東の総本社といわれ、有名である。
やがて、久保西交叉点にでる。 この交叉点を越えた左側に、立派な塀に囲まれた屋敷がある。
このあたりは旧久保村で、この緑に囲まれた御屋敷は、
紅花の仲買問屋であった須田家である (右写真)
左右の通りに、べにばな通りとBS通りとある。 右折していくと、ブリジストン上尾工場があるので、名付けられたのだろう。 そのことから思い出した
ことがある。
昭和四十年代、義兄が工場の嘱託医をしていたので、姉を訪ねて上尾にきたが、工場以外には田畑ばかりの田舎という感じであった。 今回訪れて、
以前雑木林であったのが、今は一面の住宅地になり、東京のベットタウンになっていたのには驚いた。
少し歩くと、北上尾駅入口の交叉点である (右写真)
その時代にこの駅があったという記憶はないので、
帰宅後調べてみたら、JRに民営化後すぐの昭和六十三年に、上尾高校への通学を目的に作られたが、今やベットタウン化が進み、利用者の増加が大きい駅と
あった。 なるほど、なるほど。 ここから先は全て住宅でうめつぶされていた。
上尾車庫のバス停を過ぎ、大きな交差点を渡ると、左側に、彩の国平成の道標と説明板が
あった。 桶川宿から上尾宿は、三十四町(約3.6km)という短い距離だった。
道を渡った左側には、彩の国平成の道標と中山道上尾宿と書かれた標柱が立ち、掲示板には上尾宿に関する表示がある。
これらは、国道を管理する国土交通省の管理事務所が立てたものである (右写真)
写真を撮っていたのを見て出てきた、隣のご主人は、掲示板の内容に過ちがあり、だめだ、と酷評していた。
その中で、大宮宿より上尾宿の方が大きかった
のだ、といっておられたが、旅籠の数は上尾の方が多かったが、人口は大宮の方が多かったのだが ・・・
大宮に東北本線と高崎線の分岐をもって行かれたことについても、憤慨していた。
大宮は地盤が弱く、上尾は台地なので、地盤が固く、鉄道敷設に適していたが、荒川
舟運の要衝であった平方の運輸業者の反対などで、実現しなかった。 それが今日の
大宮と上尾の差であるという。 上尾市がさいたま市にならない理由はそこにあったのか?
それはともかく、上尾の歴史は古く、約二万年前の旧石器時代(先土器時代)からの遺跡が
市内あちこちにある。 平安時代末期には、武蔵国にも武士集団が結成され、鎌倉時代
には、源頼朝に仕えた足立氏の勢力下にはいったが、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏の
所領となった。 中山道が開通すると、上尾に宿場が設けられた。 上町のバス停を過ぎ、
図書館西交叉点を越えた左側の歩道に、上町庚申塔があった (右写真)
少し先の上町一丁目の道の左側に、遍照院 (へんしょういん)という寺がある。
日常山秀善寺と号する真言宗智山派の寺院で、本尊は不動明王である (右写真)
徳川家康から、寺領二十石の朱印地を与えられた寺である。 徳川家康が鷹狩りに来ていたことと、関係があるのかも知れないが、
幕府から御朱印を与えられた寺院がここには多い中で、二十石は当地では最高の石高である。
天保九年(1838)の村絵図では、広大な境内地を持ち、参道は旧中山道から山門に直進する形で描かれている、と、上尾市史にある、という。
現在の上尾市は、宿場だった上尾宿と、荒川舟運の要衝として栄えた平方村
や、市場町としての発展をした原市町など、周辺の村が合併したものである。 墓地の中央最北端には、歴代住職の墓石が並ぶが、その近くに、山崎武平治
碩茂(ぶへいじせきも)の墓がある (右写真)
山崎武平治は、氷川鍬神社の隣にあった旅籠の主人で、天明八年(1788)の春、当地を訪れた、当時高名であった学僧雲堂上人に、塾の開設を懇願し、
上人を招いて、聚正義塾を開設し、上人が去った後は同塾を主宰した。 上尾に開いた学舎を二賢堂(にけんどう)と称し、氷川鍬神社には上尾郷二賢堂碑記が残っている。
その対面には、上尾宿本陣を勤めた林家の墓所があった。 また、墓地の中央付近には、戒名が郭室妙顔信女と刻まれた、孝女お玉の墓がある (右写真)
孝女お玉とは何者か?? 「 上尾宿の遊女のお玉は美しく気立ての良い女であった。 参勤交代でやって来た加賀前田藩の小姓に見初められ、江戸に下ったが、
二年後悪病に罹って戻り、二十五歳で亡くなった。 主人や同輩がここに葬ったという。 」 (上尾市教育委員会)
墓はなかなか立派なもので、墓参りに来た女性が線香を手向けていたのは印象的だった。
街道に戻ると、ビル街が目に飛び込んでくる。 少し歩くと、右側奥は上尾駅。
その先に、まるひろデパートがあり、その先に、氷川鍬神社があった (右写真)
氷川鍬神社(ひかわくわじんじゃ)は、明治四十一年(1908)に、周囲の神社が合祀された後の名で、もともとは、江戸初期の万治年間(1658〜1661)に創建された、と伝えられる御鍬太神宮である。
三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざしながら踊り歩き、上尾宿に来た。 童子たちは鍬を残し、いずこにか消え失せてしまった。
残された鍬を祭ったのが、神社の起源と伝えられ、ご神体は小鍬である。 地元では、お鍬さまと呼び親しまれ
ている。 鳥居をくぐった先の右手には、前述した上尾郷二賢堂碑記と雲室上人生祠碑頌
と浅間大神碑が建っていた (右写真)
二賢堂は聚正義塾の正式名で、菅原道真と朱文公という二賢を祭ったことに由来する。
二賢堂はここに建てられていたようで、山崎武平治が亡くなってからもしばらくはあった
ようである。
隣にある浅間大神碑は、明治の神社統合で移されてきたものか否かは、
分からなかった。
境内の手水鉢には、元禄八年(1695)の年号と、上尾町 山崎武右門 と、寄進者の名前が刻まれていて、上尾の地名が残る一番古い石造物といわれる (右写真)
その他、聖徳太子が線刻された碑も祀られていた。
上尾宿は、天保十四年編纂の中山道宿村別帳によると、宿場の長さは十町十間(約1200m)で、宿内人口は七百九十三人、家数は百八十二軒であった。 大田南畝の壬戌(じんじゅつ)紀行には、 「 上尾の駅舎ひなびたり 」 とあるが、本陣が一軒、脇本陣は三軒、旅籠は四十一軒あり、宿場女郎が大勢いたことや市がしばしば開かれたので、川越藩士たちも
よく遊ぶに訪れたとあり、近隣の人で宿場は繁盛していたようである。
神社を出たところに、上尾市が作った上尾宿の案内板があった (右写真)
上部の、文化三年(1806)の中山道分間延絵図には、 中山道の右側が大宮、左が桶川方面、
画面下側の中央の鳥居が鍬大神宮で、その正面に本陣、その両側に脇本陣が二軒あり、
脇本陣の右に問屋場、さらに右の道の両側には一里塚があり、鍬大神宮の右側隣に、
もう一軒の脇本陣が、描かれていた。
上尾宿は、江戸時代末期の安政七年(1860)の大火で、ほとんどが焼け、遺構は残っていない。
明治以降の建物も、昭和六十年以降の都市化の進展でほとんどなく、氷川鍬神社の道の反対側にあったとされる、井上脇本陣(井上五郎右衛門)は眼鏡屋が入っているビル、林本陣(林八郎右衛門)はパチンコ屋のビル、白石脇本陣(白石長左衛門)と問屋場は藤村病院に変った、とされる (右写真)
というのも、説明がないので、違っているかも知れないが、ここに立ち並ぶ大小のビルのどれかであることは間違いない。
もうひとつの脇本陣、細井脇本陣(細井弥一郎)は、神社の先の埼玉りそな銀行あたりにあったようである (右写真)
その先の原嶋眼科付近に、一里塚があったようである。
四差路の右は、川越道で、南に向うと川越に通じる。 左は岩槻道で、ここから北へ、岩槻を経て、日光街道へいたる。
江戸時代、上尾宿の江戸側の木戸があったのは、上尾原市新道付近で、ここで上尾宿は終わりになる。
それにしても、中山道の宿場の中で、神社仏閣も含め、これだけ古い施設が残っていないところのには驚いた。
(ご 参 考) 上尾市の歴史
現在の上尾市域は、中世まで農村地帯であったが、用水の確保が困難なため、水田よりも麦などの畑作が行われていた。
江戸時代に、上尾宿ができたが、人口が千人にも満たない宿場町で、周囲の宿場と比べ規模が小さかった。 上尾市に属する平方地区は、上尾宿の西に位置し、川運の町であった。 江戸時代には大きな穀物問屋があり、農作物などの集積地だった。
藩米や付近の特産品を江戸に送るには、荒川を利用した方が有利だったため、江戸との交通は、荒川を利用した川運が中心になっていて、船着場のあった平方は、上尾宿より賑わい、上尾宿の倍の千三百人もいた、という。
明治に入り、製糸工場やレンガ工場などが創業すると、造られた物資は舟運にて東京へ運ばれたが、鉄道や車の普及により、舟運は衰退の一途をたどった。
上尾宿の南東にある原市は、戦国時代には既にあった町である。
中世末期に原村といわれた吉野原村(現在の大宮市吉野町)から、宿場の部分が分かれて、原宿の名が生じ、後に、市場が立ち、原市になった。 原市には、三と八の付く日に市が立ち、街道に二百三十五軒の家々が軒を並べるほどの活況ぶりだったといい、道と家の建物までの間に、庭と呼ばれる約三間ほどの空間を設け、市の立つ日には、そこが出店の場所となり、主に穀物や前裁(木、草花)などを取り扱った。
また、原市は中山道の脇往還としても機能していた。
このように栄華を誇った平方も、荒川水運の衰退により町が衰退し、原市もまた、上尾の繁栄から引き離されてしまったのである。
現在の上尾市は、江戸時代、上尾宿の輸送を負う助郷として連帯していた周囲の町村(上尾のまわりは天領、旗本領、寺社領、近隣の大名の所領が入り組んでいた)が、明治以降数度の合併により、上尾町となり市域を広げながら、上尾市となってきた。
特に、高度成長期の工場の進出と、平成に入ってのは東京のベットタウン化により、今日の姿になった。
平成18年6月