『 中山道を歩く − 武州路(7)大宮宿 』


途中の宮原には、渓斎英泉が木曽街道上尾宿で描いた加茂神社がある。 
大宮という地名は、氷川神社の大いなる宮が起源であるので、氷川神社を抜きにしては語れないだろう。 
大宮宿は、寛永五年(1628)に、中山道が表参道から道を付け替えた後、住民も又移転させられている。 





上尾宿から宮原まで

愛宕神社 平成十八年六月二十五日(日)、鴻巣から上尾まで歩いてきた。  今日は、大宮宿まで歩く予定だったが、すでに四時を回ったので、宮原で終わろうと思う。  上尾宿を出て、少し歩くと、右手に高い木が見えてきた。 その中に愛宕神社があった (右写真) 
明治四十三年(1910)に東町から移築されてきたとある神社で、境内は駐車場になってい
て、子供達が遊ぶ姿が見られた。 左側の道との境の鳥居近くに、庚申様が祀られていた。  庚申信仰は、神道、仏教、道教、陰陽五行などが融合して出来た民間信仰であるが、 長野県や群馬県では、庚申等の文字が刻まれたものの他、青面金剛という文字や
青面金剛 青面金剛像が刻まれたものも多い。 仏教による庚申の御本尊は、青面金剛とされ、ここに
あるものは、三猿と二鳥の上に、青面金剛が乗っているという図柄であった (右写真)
青面金剛は、庚申様と道祖神とが一体となって信仰されてきた土着の神である。 
道祖神は、夫婦(めおと)神で、村の外れで外界から邪悪なものが侵入してくるのを防ぐ役目
をしている。 二人の仲を邪魔するものは追い出すことから、村の守り神になったというもの
である。 神道では、庚申の祭神は、猿田彦(さるたひこ)神とされる。 
猿田彦は、天宇受売神(あめのうずめのかみ)と、夫婦になった神である。 天孫降臨の時、
邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内をしたとされる神であることから、 道中の神 → 旅の神
→ 道祖神 と、なった訳である。  このあたりは現代の我々には分かり難い話である。 
庚申塔・道標 中山道を歩いてくると、碓氷峠を越えたあたりまでは道祖神があるが、その後、武州(埼玉県)
に入ると、道祖神は消え、庚申塔に変るのである。 
上尾陸橋交叉点を左折すると、緑の多い上尾運動公園、その先にさいたま水上公園がある。 
街道は、右側に横浜ゴム物流センター、左側にコーセー化粧品の工場が続く。 
下上尾バス停を過ぎ、次の馬喰新田バス停の右側にも、庚申塔があった (右写真)
青面金剛像が描かれた下の台座には、 「 足立郡馬喰新田 講中二十名 」 とあり、
碑の右側面には、 「 寛政十二年十二月 」、左側には、 「 是より秋葉へ壱里十二町、
ひら方へ壱里八町、川越へ三里 」 と、地名と距離が刻みこまれて、庚申塔は、道標を兼
南方神社 ねていたのである。 三叉路の右側の狭い道が、川越道であり、平方河岸を越えて川越へ続いていた。  街道の追分の面影がないので、気を付けないと通り過ぎてしまうほどだった。 少し歩くと、さいたま市になった。  右側に、魂霊神社という石柱があり、社(やしろ)の中には、石像が祀られていた。  つつじヶ丘公園(西)交叉点付近は、自動車も人も多かった。  交叉点を越えた左側に、赤い鳥居の南方(みなみかた)神社があった (右写真)
江戸時代の五街道細見独案内に、諏訪神社として、登場する神社で、旧吉野村の鎮守で、諏訪社とも呼ばれたが、 明治四十年、近隣にあった九つの神社を合祀して、現在の名前に
加茂神社 なったのである。  なお、右折し、JR高崎線を越えると、鎌倉街道があり、馬頭観音や庚申堂などが残っている。  しばらく歩くと、左手に宮原小学校で、ここには、市指定文化財のセンダンの大木がある。  右側の常夜燈の奥にある小さな社は、金山権現社である。 
国道17号バイパスをくぐると、左側にある神社は、木曾路名所図会に、 「 賀茂村に賀茂祠あり 」 と、書かれた加茂神社で (右写真)
京都上賀茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の鎮守で、 御祭神は、別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)
中山道の浮世絵 と菅原道真である。  中山道の浮世絵で、渓斎英泉の描いた木曽街道上尾宿の画は、何故だか、加茂神社前の農家が、一家総出で籾の精選作業を行っている構図である (右写真)
境内には、本殿の脇に、三峰神社や天王様を祀る神輿殿があった。 
神社の創建はさだかではないが、文政七年、幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にもあることから、かなり古い神社であることは間違いない。
文政十年石灯篭 宝暦三年(1753)、弘化二年(1845)と、刻まれたもの、文政十年(1827)御屯宮と、刻まれた 石灯篭があった (右写真)
街道に戻り、300m歩いた先が、天神橋である。 この付近が、加茂宮村の中心で、
集落には、立場茶屋が置かれ、島屋と福島屋の二軒が有名だった。 
島屋は、加賀前田家の参勤交代時の休憩所に使われた、と資料にある。 
太田南畝の壬戌日記にも、「 左に社あり、人家あり。天神橋の立場といふ 」 と、記されて
天満宮 いる。 天神橋は現在は暗渠になり、水の流れは見えないが、左に入った道脇に、天神橋
の名が刻まれた石の欄干が残られていたが、いくつかに割れていたのは残念だった。 
今や、立場茶屋があった面影は無く、バス停に、天神橋の名が残るだけである。 
右側の石鳥居の奥にある木造の小さな祠は菅原道真を祭った天満宮である (右写真)
その右側に高い住宅団地が聳えている。 数十年前には考えられない光景であった。
その方角に宮原駅がある。 まだ五時なので歩けなくもないが、七時には東京のホテルに
戻ると、家内に言って出たきたので、ここで終えることにした。


                                           後半に続く






かうんたぁ。