大学での学生寮のOB会が東京である日に合わせて、中山道を歩くことにした。
平成十八年十月二十七日(金) 、早朝に家を出て、六時五十三分名古屋発ののぞみで東京へ。
上野で高崎線に乗り換え、宮原駅に到着したのは九時半を過ぎていた (右写真)
平日の通勤時間であったので、久しぶりに東京の通勤地獄を体験した。
宮原駅を出て少し歩いたところで、雨が降りだした。
天気予報は曇りで、雨が降る確率は0%とあったので、雨具の用意をしていないので、
慌てた。 駅近くに戻り、二百円余の傘を買い、前回の旅で終えた中山道まで戻り、
大宮に向かった。 宮原から大宮までは、約一里の距離である。
旧国道であるが、車の通行量は多く、歩道が狭いが、我慢して歩く。
仲屋前のバス停を
過ぎると、東北・上越新幹線、ニューシャトルの高架橋が見えてきた (右写真)
東大成(おおなり)町交叉点で、国道17号を横切り、上記高架橋の下をくぐると、宮原
一丁目バス停がある。 そこから五十メートルほど歩いた右側に、赤い鳥居があり、お堂の中
に、青面金剛像と二鶏、三猿が陽刻された庚申塔があった (右写真)
教育委員会の案内によると、
「 東大成(ひがしおおなり)の庚申塔といわれるもので、高さが百四十二センチ、幅が四十五センチ
の大きさ。 元禄十年(1697)、井上、清水、黒須、吉田、小川などの十四名とおまつ、
お加めなど、二十二名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋、治兵衛に注文
され製作された。 地元では、耳の神さん、眼の神さん、と大事にされている。 」
とあり、長い間、地元で大事にされてきたものである。
少し歩くと、左側にイトウヨウカドーと北区役所がある。
古い手許の地図には、富士重工のバス停が表示されているので、富士重工の跡地だ
ったのだろう。 今は、バス停の名前も変わっていた。
北区役所バス停の先を越えた先の左側の道脇に、享保二年(1802)、下鴨野村と刻み
込まれた、三頭馬頭観音が祀られていた (右写真)
花が活けられているので、今もなお地元の人に信心されているのだろう。
警察学校入口の交叉点を過ぎ、保健センター入口の信号左側手前のビルの前に、
二体の石仏があった。 二つとも歩道の上にあり、一つは、安永六年上尾と刻み込ま
れた地蔵像(右写真右側)で、もう一つは、三界萬霊供養塔(同左側)である。
三界萬霊供養塔は、少し離れてあったが・・・
保健センター入口の信号を右折し、少しは入った左側に石鳥居があり、その下で、園児達が
はしゃいでいたが、私の姿を見つけた先生は、園児達を連れて、その前にある幼稚園に戻っていった。
新しい鳥居の横には、石上(いそのかみ)神社の石柱があった
(右写真)
「 江戸時代の中山道の絵図にも掲載されている古い神社で、疱瘡(ほうそう)の伝染が大変恐れられた時代に、ホウソウの神様として信仰を集めてきた。 昭和三十年代までは、家々からもち米と小豆を持ち寄り、小豆入りの餅を搗きあげ、子供に食べさせた。 」
と、教育委員会の案内があった。
鳥居と石柱は立派だが、社(やしろ)は小さく、貧弱だった。
街道に戻り、右にマルエツのある信号交叉点を左折すると八百姫大明神があるはずと、
探したが、分からないので、通りかかった少女に、 「 八百姫大明神はどこ? 」 と聞いた。
しばらく考えていたので、若い人ではわからないのだろうな! と、思った時、 「 あれかな?? 」
と、小声を出し、四差路を曲がり、住宅の脇にある小さな社(やしろ)を指さした。
小生は大きな神社と思い込んでいたので、一人では探せなかっただろう。
社の中には、八百姫大明神と刻まれた石碑が祀られていた (右写真)
八百姫比丘尼(やおひめびくに)は、人魚の肉を食べて、八百歳まで生きた、といい、ここに
しばらく滞在していた、という伝説が残る。
街道に戻る。
大宮郵便局北交叉点の手前、右側に、COCOSという、ファミレスがある。
その角に、安政七年(1860)に建てられた大山御嶽山道標が建っていた (右写真)
「 大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道 」 と、彫られている、追分道標である。
川越道は、中山道とここで西に別れ、レストランと魚屋の間を通り、大成町2丁目の普門院
の東側へ通じ、与野に至っていた。 大山とは神奈川県伊勢原市にある阿夫利神社のことで、
江戸時代には、 男子が15〜20歳になると、大山にお参りをすると一人前、という風習が
生まれた。 最初は、成人を迎える神事であったが、この頃には娯楽化していたようで、
これを滑稽に描いたのが落語の大山詣である。
大宮警察入口交叉点を越え、JR宇都宮線、東武電車のガードをくぐると、左側に東武野田線東大宮駅がある。 イタリアンレストランサイデリヤの道の反対側(左側)に、 「 官幣大社氷川神社 」 と、刻まれた石柱が建っていた (右写真)
ここを左折すると、氷川神社に通じる、 「 大宮氷川神社裏参道 」 と、呼ばれる道に入る。
この道は、古代の東山道で、中山道が開道した当初はこの道であった。 しかし、寛永五年(1628)に、伊奈備前守忠治により、左折せず、このまま直進する道が作られ、これが中山道になったのである。
折角なので、この道を通り、氷川神社に立ち寄ることにした。
三の鳥居をくぐると、神池があり、朱色の神橋の先には、朱色の楼門が見えた (右写真)
氷川神社は、孝昭天皇三年四月創建という武蔵国足立郡の古い神社で、延喜式でも武蔵一の宮として、また、明治に入っても官幣大社と位置付けられた格式の高い神社である。
武蔵国の国府は、東京都府中市にあり、武蔵国分寺も、府中市の近くにあるのに、武蔵国
の一の宮が大宮というのは、離れ過ぎている気がするが、神社の力が平安時代には既に大きかったのだろう。 楼門をくぐると、舞殿があった (右写真)
源頼朝が、平家討伐の旗挙げの時、氷川神社に祈願し、勝利した後、神領を寄進、徳川家康が江戸に幕府を開くと、朱印地三百石を寄進し、社殿を造営した。
明治天皇は、東京遷都で、明治元年(1868)十月十三日、東京に到着なれたが、四日後の十七日、勅書をもって、氷川神社を勅祭社と定められ、二十八日には自ら行幸され、祭祀を行われている。
これ等の歴史に残る出来事は、この神社が古くから人々の信仰をあつめていて、
為政者もこれを崇めることによって、民衆の支持を得ようとした証拠といえよう。
その奥に拝殿、回廊内に本殿があった (右写真)
赤ちゃんを中心に親子連れの初参りと思われる姿がいくつか見られ、
地元の信仰の厚い神社であると、思った。
なお、神社が置かれている土地は、昔は見沼原と呼ばれ、見沼低地を望む大宮氷川神社(男体宮)、 旧浦和市宮本の氷川女体神社(女躰宮)、大宮中川の中山神社(簸王子宮)の三社が並立していた。 これらの三社で氷川神社一体をなしていた、という説があり、
明治維新の神仏分離で、女体神社が衰退し、氷川神社が、政府の保護でこれらを統合
した、と説明されている (氷川神社の詳細は巻末参照)
氷川神社から中山道に戻る。 このあたりは土手町、江戸時代には立場茶屋があった
ところで、道を直進すると、大宮宿である。
(ご参考) 司馬遼太郎の街道をゆく
司馬遼太郎の街道をゆく 三十三巻 赤坂散歩 二 氷川坂界隈 の中に、大宮氷川神社に関連する記述があるので、
参考までに掲げておく。
「 東京には氷川という地名や氷川神社が多く、関東南部特有の地名といっていい。
氷川という名は、埼玉県の大宮にある氷川大社から出ている。
埼玉県もまた、旧分国では東京都と同様、武蔵の国だった。
武蔵の国という分国ができたのは大化元年(645)で、当時、ほとんどが原野と森林の国だった。
国府は多摩郡の府中におかれた。
府中に、国府の社として、大国魂(おおくにたま)神社ができたが、
大社ながら、七世紀の新設だから、一ノ宮とはいわれなかった。
それ以上の古社として、氷川大社があった。
創祀はよほど古いらしく、出雲の国の杵築大社(現出雲大社)が勧請されたという。
古代に武蔵に入った人々は出雲系だったのかもしれない。
聖武天皇のとき、氷川大社は武蔵国の一ノ宮に列せられ、武蔵の国の地の神神の筆頭になった。
このため、源頼朝が関東で幕府をおこしたときも、社領三千貫を寄進し敬意を表している。
それが先例になって、戦国期、小田原北条氏が関東を制したときも礼を厚くし、
また徳川家康が江戸に入部したときも、朱印三百石を寄進した。
武蔵といえば、氷川明神だったのである。 (中略)
徳川家は、江戸城の鎮守神としても、氷川明神を勧請している。
ちょっと余談になるが、明治になって東京に遷都されたとき、
明治天皇は氷川大社に勅使を送り、一代のうちに三度参拝された。
この赤坂の地に氷川神社を鎮めたのは、八代将軍吉宗だった。 」 と書いている。
これは現在の赤坂氷川神社のことであるが、当時の赤坂は他地区に比べると田舎だったが、
大名や旗本の屋敷がふえ、それに従って町屋もふえていた時期で、
赤坂の一ッ木のあたりにあった氷川明神の小さな祠を吉宗が享保十年に現在地に移したという。
大宮は、高鼻の森に鎮座する氷川神社と関係が深く、大宮という地名も、氷川神社の
大いなる宮が起源である。
右側のJA共済ビル手前に、二本の大きな椎の木があるが、
江戸時代には、街道の目印として、よく知られた存在であった (右写真)
宮前四丁目バス停を越えた左側の明治生命ビル脇の細い道が、江戸時代の岩槻街道で、
その道に入ると、左側に東光寺がある。 東光寺は、紀州の僧、東光坊が関東に来て、
黒塚の悪鬼を呪伏し、坊舎を建てたのが始めとされ、曹洞宗の寺である。
建物は順次建替えられたので、古いものは無かった (右写真)
街道に戻る。
大宮宿は、先程訪れた氷川神社の表参道側にあったが、寛永五年(1628)、
中山道が表参道と平行した現在の道に変えられた際に、氷川神社参道にあった民家を
移して、町並をつくり、宿場をととのえたといわれる。
大栄橋交叉点の左右の道は川越街道で、右折したところに御影堂があった (右写真)
道を越えたところからが大宮宿だったようで、宿の長さは九町三十間(約1km)で、
天保十四年の記録では、人口千五百八人、家数三百十九軒とあり、人口は蕨(わらび)宿
や熊谷宿よりは少なかったが、浦和宿よりは多かった。
本陣は一軒、脇本陣九軒、問屋四軒、旅籠二十五軒、と脇本陣が多いことが目立つ。
太田南畝は、武蔵一の宮へ 、「 武蔵一の宮へゆきて見まほしけれど、大宮の駅に入らざ
れば夫馬かふるわづらひあり 」 と、見過ごしたが、 「 大宮の駅舎も又ひなびたり。
商人すくなし。 」 と、記している。
本陣は、臼倉新右衛門がつとめていたが、文政期以降、山崎喜左衛門がつとめた。
右側の岩井ビルが山崎本陣。 キムラヤビルが臼倉本陣の跡である。
高島屋の手前の交叉点を右に曲がると大宮駅がある。
右写真では、岩井ビルは写っていないが、右手前のビルがキムラヤ、その先に高島屋が見える。
高島屋デパートは、寿能城家老北沢家の屋敷跡である。
北沢家は、紀州家の鳥見役として、御鷹場本陣と中山道の脇本陣を兼ねていた。
また、明治二年一月〜八月には、大宮県の仮庁舎になっていたこともあった。
中山道の重要な宿場として栄えた大宮は、明治の一時期、大宮県となったこともあった
が、埼玉県の誕生で県庁が浦和に移った後は、東北線と高崎線の分岐点としての鉄道の
要衝となった。 明治の関東大震災でによる東京からの避難者も定住し、昭和に入ると、
埼玉県下最大の商工業都市として発展を遂げた。 それでも、戦前は駅から離れると田畑
が見えたという。 戦後、大宮駅から氷川神社表参道に向かって、バラックの商店街ができ
たが、一番街などはそれである。 最近では副都心としての与野とともに大きなビルが林立し、
驚くような変化で、駅前の商店街は
何時まで続くか心配である (右写真)
第四銀行南の建物脇に、涙橋(中之橋)の石標がある。 吉敷町一丁目バス停近く、
至誠堂ビル南の細い道を入ると、大きなケヤキの木が二本あり、二つの祠が並んでいる。
左側が塩地蔵で、右側の数体が子育て地蔵である (右写真)
塩地蔵には、
「 昔、浪人が二人の娘と旅をしており、大宮宿で病に倒れてしまった。 二人の娘がお地蔵様に重病の父の病が治るよう、塩断ちをして祈ったところ、全快した。 喜んだ親子はたくさんの塩を奉納し、その後、人々も塩を供えるようになった。 」 という、話が残っている。 願いがかなったときには塩を供えるのだが、子育て地蔵にも塩を供える人もいるようで、 「 塩を供えないでください 」 と、書かれた紙が張られていた。
この地蔵は、埼玉新都心付近の鉄道敷地(操作場)内にあったのだが、大正十年(1921)に、ここに移されたのである。
吉敷町の交叉点を20メートルほど行ったところに、古い門構えの家がある。
これは加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けた門という。
交叉点を越えた左側に、安藤橋の石碑があるはずだが、工事中のためか、見つけられなかった。
バス停一の鳥居の前で、氷川神社の表参道と中山道は合流した (右写真)
一の鳥居の脇には、武蔵一ノ宮の石塔があった。
大宮宿は旧中山道と新中山道が合流したあたりで、終わる。 大宮宿には、古いものは
残っていなかったが、
信心の心が残っていたのはうれしかった。
(ご 参 考) 氷川神社
創建ははっきりしないが、社伝によると、「 第五代孝昭天皇の御世三年四月中の未の日の創建、素盞嗚尊、稲田姫命、大己貴命(おおなむちのみこと)の三神を祀った。 次いで、景行天皇の皇子、日本武尊東征の折り、当社を祈願所にした。 成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命が朝命により、武蔵国造となり、当社を奉崇し、善政を布かしてから益々輝き、聖武天皇の御世武蔵一宮と定められた。 醍醐天皇の御世に制定された延喜式神名帳に名神大社として月次新嘗案上の官幣に叙り、又、臨時祭にて奉幣を預かっている。。。。。。。。」とある (右の写真は氷川神社拝殿)
江戸時代までは、男躰社である当社に、須佐之男命を、女躰社である氷川女体神社に、
稲田媛命、奥の簸王子社である大宮中川の中山神社に、大己貴命というように、各祭神を
別々の社殿に祀っていた。 明治維新の神仏分離で女体神社が衰退し、氷川神社が政府
の保護で、これら三つを統合したので、今日は同じ社殿に祀られている。
氷川神社は、出雲肥河(斐伊川)の川上に鎮座する杵築大社(出雲大社)からの勧請によるもので、
氷川の名は、 「 新編武蔵風土記稿 」 によると、 「 当社は孝昭帝の御宇、勅願として出雲肥河(斐伊川)上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜われり 」 と、ある。 氷川神社の分社や関連社は武蔵全域に多く、特に埼玉県に集中しているが、武蔵国以外には極めて少なく、合わせても五本の指で数えられる。
(右写真は、氷川神社表参道、即ち、最初の中山道である)
見沼は、埼玉県東南部に広がる広大な沼沢地で、川口から大宮東北部に伸びていた。 前述の土手町の地名も、沼に対する土手から命名されたのだろう。
江戸初期に、関東郡代、伊奈半十郎忠治により、川口河口がせき止められ(俗にいう八丁
堤がつくられ)、見沼は、浦和、大宮、上尾に及ぶ大きな池となり、新田開発も行われている。 この東北部に拡がる見沼たんぼはその当時のものである。
先日NHKが「新日本紀行ふたたび』で、見沼たんぼの歴史と現在の姿を放映していたが、なかなか面白かった。
前述の女体神社では、現在でも御船祭が行われるが、当時は女体神社の前に見沼が広がっていたというし、氷川神社周辺も見沼の一部だったというから、神池は見沼が一部残ったものかも知れないと思った (右写真)
当神社は、幕府の保護を受け、広大な敷地を有していたが、明治時代にその一部を市に寄贈して誕生したのが現在の大宮公園である。
大宮宿とは直接関係はないが、大宮公園の東にある寿能公園は寿能城跡である。
戦国時代末期、永禄三年(1560)、太田道灌の曾孫、岩槻城主、太田資正が、小田原
北条
氏の攻撃に備え築城したもので、資正の四男、塩田資忠を城主にしたが、北条氏に降った。
その後、秀吉の北条攻めの時、落城したので、三十年余りの短い城である。
寿能公園の塚は、物見櫓の跡だといい、城主潮田出羽守資忠の碑が建っている。
(上尾宿〜宮原) 平成18年 6月
(宮原〜大宮宿) 平成18年10月