『 中山道を歩く − 武州路(8)浦和宿  』


大宮宿から浦和宿は、京浜東北線に沿って歩く。 
このあたり一帯は、市街地化が進み、昔の面影は残っていない。
江戸時代の浦和宿は六斉市が立ち、賑わっていたが、慈恵稲荷などに歴史の手がかりが残されているだけである。



大宮宿から浦和宿へ


氷川神社表参道 平成十八年十月二十七日(金)、宮原から大宮宿を経て、浦和宿へ向かう。  前述したように、氷川神社表参道は古代の東山道で、江戸初期の中山道である。  表参道は、十八町(約2km)の長さで、吉敷町の一の鳥居から氷川神社まで続くが、 途中で広い道に分断されたり、中央が車道になっている区間もあるが、緑も多く快適に歩くことができる (右写真) 
二之鳥居は、大宮駅から真っ直ぐきたところにあり、三之鳥居を越えると、氷川神社の
広い境内になる。   二の鳥居の近くにあった常夜燈には、文化十四年 御垣之内村
其外近遠氏子信心中など、と刻み込まれていた。 
蒸気機関車 参道のほぼ中央付近に、文化センターがあり、その一角に、蒸気機関車が置かれていた。 
電化により蒸気機関車が廃止になった時、当時の大宮市が譲り受けたものである。 
傍らには、大宮駅の誘致に活躍した大宮町長の顕彰碑もあった (右写真)
それによると、高崎線が開通した時には大宮には駅がなく停らなかった。 
当時の大宮町は、官民挙げての運動により、東北線開通時に、両鉄道の合流する地点に、
駅を誘致することができたということである。 
庚申神社 道の反対側を少し入ったところに、庚申神社(こうしんじんじゃ)があった (右写真)
宝暦十年(1760)正月、大宮下町講中によって、建立された庚申塔が祀られていて、
石碑の正面に青面金剛像、そして、日月、二鶏、天邪鬼と三猿が、陽刻され、側面には、
「 南方北袋道、西方大宮宿、東方天沼道、北方社中道 」 と、記され、道標にもなっている。 
昼になったので、カツと釜飯の看板をあげていたお店に入った。 
入口はパッとしない感じの店だったが、中には多くの人がいたのには驚き、カツ定食を頼み、
さいたま新都心 しばしの休憩となった。  休憩後、歩き始める。 傘を持っていたのだが、置き忘れてしまった。 雨はやんでいたので、 気が付いたのはかなり歩いてのことだったので、取りに帰ることも出来ず、どじを踏んだ。 一の鳥居をでると、左側からくる中山道と合流し、大宮宿と別れを告げる。  大宮宿から浦和宿は、一里九町なので、約5kmの距離である。 高崎線、宇都宮線、京浜東北線と平行していて、ほぼ南に向かって、街道は伸びている。 
少し歩くと、右側に東横インが見えてくる (右写真)
左側には、イトウヨウカドーや幾つかのショピングセンターが並んで建っていた。 
さいたま新都心 東横インの手前に、陸橋があり、階段を登って行くと、鉄道線路を越えて、反対側に、
出られる。 陸橋の上から見ると、多くの鉄道線路が並んで走っていた 貨物列車が華やか
なりし頃、国鉄の操車場として大活躍したところであるが、操車場の廃止で、さいたまふく
としんとして再開発されたところである。 さいたまスーパーアリーナやさいたま新都心合同
庁舎などが立ち並び、かっての面影はなかった (右写真)
左側のショピングセンターを見ると、カタクラという名前が付いていた。 ホームセンターや
ショピングモールであったが、片倉工業の経営である。 日本の明治の夜明けを演じた、
富岡の官営製糸工場がこの会社の創業である。 富岡製糸工場は、国の文化資産に登録
小さな社 されて、世界遺産に申請する動きであるが、熊谷の工場はシルク博物館になっている。 
国内から工場はなくなり、その不動産を利用してのショピングセンターへの進出なのだろう。  東横インの先には、さいたま新都心駅がある。 その先の高台橋(たかだいばし)に、
周囲の人達が建てた小さな社(やしろ)があり、社の中には二体の石仏があった (右写真)
地元の言い伝えによると、 「 大宮宿柳屋の女郎が、世をはかなんで高台橋から身を投げた のを、哀れに思った村人が地蔵様を彫って備えたが、それ以来、前々からあった不動明王から、夜な夜な火の玉が漂った。 」 と、ある。  
2つの仏 この2つの石仏には、女郎地蔵と火の玉不動という名が付けれている。
左側の石仏が、火の玉不動尊で、下の中央に、為無縁、左側に、天保六(1835)年三月吉日、右側には、施主粂三郎とあり、刑死者の供養のために建立されたもの、と思われる。 
右側のは、お女郎地蔵で、像の両側に、無縁法界菩薩、寛政十二(1800)申二月建立、と、刻まれていて、宿場の飯盛り女の薄倖の死を悼んで建てられたものである (右写真)
大宮宿には、各地から集められた飯盛り女が大勢いたと思われるので、彼女等の薄倖の死を美化した話が作り出されたのだろう。 なお、前述の氷川神社表参道の庚申塔に書かれていた北袋は、このあたりである。高台橋は、鴻沼用水に架かる橋であるが、街道の 
東側は、暗渠になってしまっているので、歩いていると橋と気付かず通り過ぎてしまう。 
欅並木 鴻沼用水は、八代将軍、徳川吉宗が、享保十三年(1728)、見沼台用水の掘削したときに掘られものた。 V字型に掘られた用水路で、現在のさいたま新都心や与野市方面への灌漑用水に使われた (詳細は巻末参照)
このあたりから、一.五キロ続く欅(けやき)並木になっている (右写真)
ケヤキ並木は、昭和四十二年(1967)の埼玉国体開催を記念して、中山道の松並木の跡に植えたもので、約200本ある。 左側の三菱マテリアル研究所周辺が江戸時代の刑場跡で、前述の火の玉不動尊がその霊を慰めるもの、と言われる。 
欅並木 その先の左側は上木崎。 英泉による浮世絵、 「 支蘇路ノ驛 ・浦和宿 」 、 即ち、
中山道の浦和宿はここから浅間山を見た姿が描かれている。  ここは、六国見(ろっこくけん)といわれ、六国が見晴らせる場所だったのである。 周りか囲まれて何も見えないが、駅の反対側の中央郵便局や隣の高いビルからは見えるのだろうか?? (右写真)
当時の旅行案内、木曽路名所図会にも、「 富士(駿河)、浅間(信州)、甲斐(甲州)、
武蔵、日光(下野)、伊香保(上州)など、あざやかに見えたり 」と書かれている。 
一本の欅 与野駅前バス停を過ぎたところにスクランブル交差点がある。 
交差点の左側に大きな一本の欅(けやき)が立っていた (右写真)
半里塚の跡と伝えられるが、威風堂々としてそれを避けて車が走っている。 
左側に廓稲荷の旗がひるがえって小さな神社があった。 
高力河内守清長は、岩槻城主であったが、この地針ヶ谷に陣屋を設け、陣屋内に稲荷を
祭り、出世神として崇めて、岩槻から参拝にきていたという、屋敷稲荷である。 
高力清長は、仏の高力といわれた人物で、徳川家康の関東入国により、岩槻三万石を
庚申塔 与えられ、浦和郷一万石を預けられた。 その先の右側の一本杉と刻まれた石柱がある
ところが、文久四年(1864)正月の朝、水戸家家臣宮本鹿太郎など四名が千葉周作門下の
河西祐之助を仇討ちしたところなのだが、そを示す石柱は見つけられなかった。 
大原陸橋東交叉点の左手前に、正徳4年の猿田彦が彫られた庚申塔があった (右写真)
針ヶ谷を過ぎ、公民館前バス停の交叉点を過ぎる。
旧浦和市の交叉点には、何故か、住所表示が記されていない。 
それを目当てに歩く小生ととっては、これは困る。 
廓信寺 右側の廓信(かくしん)寺は、浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が、旧主、高力河内守清長(岩槻城主)追悼のため、建立した寺と伝えられる寺である (右写真)
地蔵堂、鐘楼と正面に本堂があり、木造阿弥陀仏如来坐像は、鎌倉時代頃の造像、といわれる。  中村弥右衛門は、浦和郷の代官として任じられたが、その後、幕臣となり、引き続き、浦和郷の代官を務めた。 その際に設けられたのが、ここから東方にあたる、針ヶ谷陣屋である。 但し、遺構は残っていない。 
寺の境内には、「 サツマイモの女王、紅赤通称金時は、北浦和(旧木崎村針ヶ谷)で、
北浦和駅前 明治三十一年(1898)に、山田いちにより発見された。 」 とあり、墓のある寺に顕彰のため記した、とあった。  田舎者は、川越のいも、と、冷やかされたが、いもの種を普及させたのが、川越であることを知った。 
少しあるくと、人の通りが多くなってきた。 右は北浦和駅で、交叉点の左の道は、岩槻道である (右写真)
このあたりは歩道も広く、歩きやすかった。  やがて、右からJRの線路が近づいてきて、少し上りになる。 道は右にカーブする。 
浦和橋交叉点を左折して5km程行くと大宮宿の項で述べた氷川女体神社がある。 
笹岡稲荷 崇神天皇の時代に、出雲から勧請して創建された古社で、大宮の氷川神社を男体宮とし、
当社を女体宮とする神社である。 興味はあるが、歩くには少し遠いので断念した。
中山道は、JR宇都宮線、高崎線、京浜東北線を陸橋で渡るが、橋の手前を左に入った
ところに 笹岡稲荷があった (右写真)
二箇所に社があり、驚いたが・・・・・・・・・
街道に戻り、JRの陸橋を渡る。
新浦和橋有料道路(R463)の下をくぐると、常磐町局前になり、浦和宿に到着である。


(ご 参 考) 見沼代用水
寛永六年(1629)、代官頭、伊奈備前守忠次の次男、関東郡代、伊奈備前守忠治によって、八丁堤が築かれ、見沼溜井がつくられた。 溜井の完成により、溜井の南側の新田開発は進んだが、見沼沿岸の地域では、水没田が生じたり、上流が無くなったため、恒常的な水不足になるなど、いろいろな問題がおきてきた。  江戸中頃、徳川吉宗は、財政建て直しのため、各地で新田開発を押し進め、見沼も開発されることとなった。  工事は、幕府勘定方(後に勘定吟味役)井沢弥惣兵衛為永の手で行われた。  八丁堤を切り、中央にある芝川の旧河道を使って排水を進め、新田造成を行った。 新たな用水は、利根川から水をひくこととし、延べ60Kmにわたる用水路を完成させた。  工事は、翌享保十三年(1728)の春に完成し、見沼に代わる用水という意味で、見沼代用水と呼ばれた。  これらの新田造成工事は、村請けや町人請けという方法で進められ、代用水縁辺の各村に新田が割り当てられ、その年から新田に植え付けが行われた。
(見沼通船堀の案内板を参考にしました)

浦和(うらわ) 宿

常磐町 浦和宿は、十町四十二間(約1.2km)の長さで、現在の常磐町、仲町、高砂町がそれにあたる。 常磐町郵便局付近を歩くと、右側に古そうな家が一軒残っていた (右写真)
渓斎英泉の浮世絵 「 支蘓路ノ駅 浦和宿 浅間山遠望 」 では、浦和台地の中央に街道、右側に、けやきと数軒の民家、左奥に煙りたなびく浅間山が描かれている。 
浦和は、台地の上にある平坦な土地で、周囲に山などはないので、当時は遠くまで景色が見えただろう。  浦和の名は、応永三年(1396)の記録に登場する。 
戦国時代には、岩槻城主太田氏の支配を受けたが、北条氏の進出により、両者の抗争
慈恵稲荷 に巻き込まれ、北条氏の支配するところとなった。 江戸時代に入ると、幕府直轄地の天領になり、その他、玉蔵院領が十石あった。 
常磐2丁目バス停を右に入ったところに、慈恵稲荷神社がある (右写真)
袖鏡に、 「 宿の内、左にいなり社あり 」 と、書かれている神社で、鳥居の手前右に、庚申塔の石柱が建っていた。 狐の石像がなぜか、金網に入れられて、祀られていた。 
浦和宿は、天保十四年の中山道宿町大概帳によると、家数二百七十三軒、人口千二百三十人、本陣一軒、脇本陣三軒、旅籠十五軒で、その規模は、武州にある九宿の中で
御免毎月二七市場定杭 七番目であり、決して大きくなかったのである。 隣の蕨宿の方が繁盛していたし、氷川
女体神社があるとはいえ、大宮の氷川神社とは比べるまでもなかったので、浦和宿は
ぱっとしなかったようである。  慈恵稲荷の鳥居を入った右側に、御免毎月二七市場定杭、
と刻まれた標柱があった (右写真)
室町時代の天正十八年から、毎月二と七の付く日に、六斉市(二七市)が立つようになり、
宿場の三つの町(下町、中町、上町)が、交互に市を立てた。 市は、昭和まで続いていた
ブロンズ像 といわれ、市の立つ日は大いに賑わった、という。 その先の右の細い道を入ったところにあるのが、市場の神である市神社である。 市神社は、六斉市が行われたところにはあった神社であるが、残っているところは珍しい。  市神社と慈恵稲荷の間に、市が立ち、賑わっていていたのだろう。 地元では、この小道を市場通りと名付け、入口に野菜を売る女性のブロンズ像を設置していた (右写真)
少し古い雰囲気があったのはここまでで、常磐1丁目を過ぎて仲町に入ると現代の風景に変った。
仲町公園 仲町交叉点の右手前の道を入ると、左側に仲町公園がある (右写真)
ここは、仲町にあった本陣の跡地で、明治天皇行在所址の碑が建っていた。 浦和宿の本陣は、代々、星野家が務めた。 本陣の敷地は千二百坪、母屋は約二百十坪、他に表門、土蔵、番所、物置などがあった。 また、その脇には高札場があった。  明治天皇が、明治元年(1868)、大宮氷川神社へ行幸された時と明治三年の二回、浦和宿本陣に宿泊なさっておられる。  星野家が没落後、家は解体されたが、本陣表門は、大間木の
大熊家に移築され、現存する、と説明板にあった。 
玉蔵院地蔵堂 脇本陣は、中町と上町にあったようであるが、跡地は確認できなかった。 
市民会館うらわの近くに玉蔵院がある。  玉蔵院は、平安時代に、弘法大師により開かれた古刹で、本堂には、藤原時代末期の木造地蔵菩薩が祀られている。 
地蔵堂は、三間四方、入母屋造り、一間向拝付き、桟瓦葺きとあるので、間口奥行とも、八メートル二十八センチの建物で、 内陣蟇股墨書銘により、安永九年(1780)の建立であることが分かる (右写真)
地蔵堂の前の二体の石仏も、江戸期のものであった (詳細は巻末参照)
浦和宿石碑 地蔵堂を出たところに明治天皇行在所記念碑が建っていた。
浦和駅西口交叉点まで出ると、右側に浦和宿石碑が建っていた (右写真)
浦和宿はここで終わりになる。  明治に入り、県庁の所在地をどこにするかで大変もめたが、明治四年(1871)の埼玉県の誕生により、浦和は県庁の所在地になった。  関東大震災を期に、東京からの人口の流入もあり、更に、周囲の村を吸収し、浦和市となり、大きくなっていった。  浦和宿は、戦災に遭わなかったはずだが、市街整備と道路拡張で、昔の面影は少しも残っていなかった。 
まだ三時半前であるが、大学時代に同じ釜の飯を食べた連中との同窓会が夜あるので、
その前に、ホテルでシャワーを浴びたかったので、本日はここで終了し、浦和駅から東京
に向かった。 

(ご 参 考) 玉蔵院
地蔵堂の欄間の彫刻 玉蔵院は、平安時代に弘法大師により創建されたと伝えられる古い寺で、真言宗豊山派に属す。 天正十九年、徳川家康より寺領十石の寄進を受け、江戸時代に入ると、豊山長谷寺の移転寺(由緒ある寺院)として出世した。 元禄十二年十二月、一宇も残さず焼失したので、現在の堂宇は江戸期以降に再建されたもの。  地蔵堂は、内陣蟇股墨書銘により、安永九年(1780)の建立であることが分かる。 内陣の天井は花鳥などを描く格天井となっていて、欄間の彫刻や外陣天井の天女像など装飾が多かった(右写真は地蔵堂の欄間の彫刻)
玉蔵院の施餓鬼(せがき)の起源は、1800年頃と言われ、関東三大施餓鬼の一つと称される。  昭和二十年代に区画整理が行われ、墓地は市内他所に移転しているが、 境内は広く、緑豊かだった。 

(ご 参 考) 埼玉県の誕生
埼玉県庁 埼玉県庁は浦和駅から近いので、覗いてきた (右写真)
 。  明治時代の始め、埼玉県の行政区画は、何度も変更された。 最初は、岩鼻県、忍県(おし)、岩槻県、川越県、半原県、大宮県、入間県など、大名の領地を基に多くの県ができたが、その後、何回も統廃合された後、埼玉県と熊谷県という二つの県になった。 明治九年八月、埼玉県と熊谷県が統合され、現在の埼玉県となった。 県庁を熊谷に置く予定もあったが、暫定で浦和に置くことでスタート。 その後、両地区の政治上の対立があり、県庁も熊谷か浦和でもめた。 明治二十二年、明治政府の勅令により、
浦和を県庁とすることにされた。 当時の大きさから見ると、大宮か熊谷が妥当に思えるの で、何故浦和になったのか、疑問が残る。 
大宮や熊谷は政治結社などの活躍が あったと思われ、それに対し、浦和は政治的に未熟な土地であったような気がするので、 政府はここを選んだのではないか?! 

平成18年10月


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