東京在住の会社の同期が集まるので出てこないか!!との誘いがあり、中山道を歩くついでに、
という軽い気持で、参加を決めた。 会合は昼からなので、今回は変則になるが、会合前に板橋宿を、
会合が終わった後、巣鴨駅まで歩く計画である。
平成十八年(2006)四月七日(金)、六時五十二分、名古屋発、のぞみで、東京へ。 東京には八時半に到着し、そのまま、地下鉄三田線本蓮池駅へ向かう。 地下鉄三田線に乗ったことはあるが、本蓮池駅は初めてである (右写真)
本蓮池駅を出ると、国道17号、すぐに泉町交叉点である。
右側から首都高が迫ってきて、国道の上を覆った。
中山道は、この先で国道と分かれ、左斜めの一方通行の道に入る (右写真)
入口の右側には、清水町交番があり、警官が立って、外を見ていた。
ここから巣鴨駅の手前までの約五キロの区間が、旧中山道である。
戦災や区画整理で、古い建物も町並も残っていないが、中山道がまがりなりにも残っているのは、
うれしいことである。
道の両脇は四階建てのマンションが多いがどれも小規模。 一軒か二軒の民家をマンションやアパートに変えたような小さなものばかりが続く。 板橋清水郵便局を越えると、前方に白い橋のようなものが見えた。 近づくと、それは環状七号線で、行く手を塞ぐように見えた。 この間、500mくらいか?
牛豚内山肉店とか、富士屋豆腐店の建物には、昭和らしいレトロを感じた (右写真)
環七の下をくぐりぬけ、反対側に出ると、道が続いていた。 ここから先は板橋本町である。 自転車が主要な交通手段なのか、やけに多い。 その上、狭いのに、自動車も平気で入ってくるので、その度に驚いて、道を譲りながら、歩いた。
左側の大きなマンションの先に、縁切り榎(えのき)があるはず、と思い、探しながら歩く。
橙色のマンションの先にはテントが張られて、交通指導の腕章をした人達が詰めていた。
春の交通安全週間の行事だったのであるが、その為、あちこちに人が立ったり、警官も動員されていたのである。
それはよいのだが、縁切り榎の前はテントで覆われ、気が付かずに通り過ぎるところだった (右写真)
江戸時代には、中山道を覆うように樹齢数百年という榎が立っていたようで、いつのころか、離縁を望む者がこの木に触れるか、樹皮を砕いて相手に飲ませると、離婚の希望が
かなえられるという信仰が生まれ、縁切り榎と呼ばれるようになった。
このため、徳川家に降嫁した五十宮、楽宮の行列は、ここを避けて通り、孝明天皇の妹和宮が、徳川家茂に降嫁のときは榎にこもを被せたと、伝えられている。
現在の木は三代目ということだが、数本あり、その下には、榎大六天神と、染め抜いた幟が風にはためいていた。
榎大六天神とあるので、菅原道真公を祀っているのだろうが、祠は大変小さなものである (右写真)
板橋宿は、前野村境(北)から、滝野川村境(南)までの二十町九間(約2.2km)である。
(注)江戸時代の道中案内には、 「 宿内町並南北拾五町四十九間 」 と、あるので、これでは、1.7km程になるが、それでも宿場としては長い町並である。
宿場の入口には、城門のような大きな木戸が設けられ、中山道から江戸に出入りする旅人の 「 入り鉄砲に出女 」 を厳重に警戒していて、時間になると開き、時間になると閉まる門の脇には、貫目改所という役所が置かれていた (右写真ー伝馬制度400年記念石碑)
板橋宿は、お江戸日本橋を出発して最初の宿場町で、平尾、仲宿、上宿の三宿からなっていた。 当初は中宿が主体だったが、上宿に伸び、更に平尾宿に拡張していった。
上宿は、板橋から北の京都寄りだが、環七からとする人もいるが、大木戸からとするのが正しいのではないだろうか?!
(注)江戸時代の道中案内は、大木戸からを採ると思われるが、前述の二十町九間は板橋区の案内板にあったので、環七からが区の見解か??
大木戸跡がどこにあったのか、分らないまま歩くと、桜の花びらが舞う橋に出た (右写真)
板橋の地名の基になった板橋である。
江戸時代には、木製の長さ 九間(16.2m)、巾 三間(5.4m)の緩やかな太鼓橋が、石神井(しゃくじい)川に架かっていた。
この橋は、少なくとも、寛政十年(1798)と天保年間の二度修復が行われた。
大正九年に新しい橋に架け替えられたが、昭和七年にコンクリートの橋になった。 現在の橋は、昭和四十七年に石神井川改修の際、新しくなったものである。
石神井川の両側には桜が植えられているが、散り行く桜が川面を染めていた (左写真)
橋のたもとに橋の経緯を記した案内板と日本橋から距離を書いた大きな木柱が立っていた。
日本橋までは二里二十五町とあるので、10、6キロの距離である。
このあたりに高札場が置かれていたようである。
中山道の宿村大概帳によると、天保十四年の板橋宿は、家数が五百七十三軒、うち、旅籠が五十四軒で、人口は二千四百四十八人で、本陣が一軒、脇本陣が三軒、問屋が一軒である。
橋を渡ったところから、国道17号を横断するところまでが、中(仲)宿で、宿場の中心をなした。
板橋宿は、本陣は一軒しかなかったが、脇本陣は三軒あった。
その内の一つ、上宿の庄屋を勤めた板橋左衛門脇本陣は、現在の橋本酒屋のあたりにあった、とされる (右写真)
道の両脇に並ぶ店は、うなぎ屋や蕎麦屋などで、少し前には、どこにでもあった感じの商
店街である。 街燈には、中宿と表示されていた。 道の左側に、自転車がごちゃごちゃと停められているところがあり、看板を見ると、スーパー 「 ライフ 」 と、書かれていた。
スーパーマーケットトしては小振りであるが、江戸時代に本陣があった跡地である(右写真)
本陣は、飯田新左衛門(仲宿名主の分家)が勤めていた。
問屋は、本陣の近くにあり、本陣と脇本陣の四人が交代で、その役を務めたようである。
道の反対側に、仲宿の名主を務める飯田宇兵衛の脇本陣があり、皇女和宮が泊まられたはずであるが、どこかあったのか分からなかった。
幕末蘭学者の高野長英が隠れていた所だという石神医院も見付けら
れなかった。 斜め前の家はすっかり壊されて、マンション工事が進められていたので、
これと関係がありそうな気がする。
トーカンマンション加賀公園の看板があるので、近く
に加賀公園があるのかと通りかかった人に聞くと、かなりの距離がありますよとのこと。 加賀と聞くとピンとくる人があろうが、江戸時代には、加賀百万石、前田氏の下屋敷があったところである。 その敷地は広大なもので、前述の板橋から東方一帯全てが前田氏に与えられたが、今は加賀一丁目、二丁目や加賀公園にのみ、名が残るだけである。
スーパーライフを左に入ると、文殊院という寺がある (右写真)
本陣の飯田家の菩提寺として、延命地蔵尊のあった境内を広げて、寛永十二年(1625)に、文殊菩薩を本尊として建立された寺だが、天保六年に全焼し、安政以降は住職を置かなかった。
山門の左に、延命地蔵堂があり、境内には閻魔堂や本堂があるが、東京の
大空襲後に建てられたものだろう。 いたばし最中という暖簾をかけ、いたばしと日本橋
までの距離を書いた木柱を立てたお菓子屋さんがあった。
その先左側の弘法大師旧跡石柱を入ると、遍照寺である (右写真)
遍照寺は天台宗の寺であったが明治四年に廃寺になった。 その後、成田山新栄講の
道場になり、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。 板橋宿の馬つなぎ場で、幕府公用
の伝馬に使う囲馬や公文書伝達用の立馬そして通継立馬などが繋がれていたところである。
明治維新で板橋宿が無くなった後も、明治中頃までは、ここで馬市が開かれていた、とある。
境内は狭く、寺院らしくないが、寛政十年(1798)建立の馬頭観音や三猿を彫った庚申塔などが多く残っていた (右写真)
その先の交叉点には、旧中仙道仲宿と地名表示され、左右の道には、王子新道の表示があった。
左折すると、金沢橋南を経て、王子神社に達する道である。
平尾宿の庄屋を勤めた豊田市右衛門が、遍照寺の先で、脇本陣を営んでいた、とあるが、このあたりだったのだろうか?!
左側に銭湯があり、屋根の形が面白い。 戦災に遭っているはずなので、戦後に建てら
れたものだが、現役で活躍しているのがうれしかった。 その先の左側の観明寺は、
明治に入り、成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請したので、出世不動といわれる。
境内にある稲荷神社は、加賀藩下屋敷に祀られていた三社のうちの一つである。
門前の庚申塔は、寛文元年(1661)に建立されたもので、区教育委員会によると、青面金剛
像が彫られた庚申塔としては都内最古とあり、屋根と板囲いで、保護されていた
(右写真)
少し歩くと、国道17号線と交差し、中宿は終わる。
江戸時代には本陣や脇本陣があり、宿場の中心だった中宿だが、古い家は一つも残って
いなかった。
都心回帰の影響もあってか、家を壊してミニマンションへの建設ラッシュになっている感がした。
それでも、車に邪魔されないため、商店街がなんとか営業できているのは良いように思えた。
国道の左側にあるスカイラークの先を左に入ったところに東光寺がある (右写真)
正式な名称は、丹船山薬王樹院東光寺といい、開山は、芝増上寺第五世天誉了聞上人、江戸初期までは船山の地にあったが、前田家下屋敷が開設されるため、現在地に移転させられた、という。 江戸時代には、中山道に面した広い敷地だったが、関東大震災や
戦災などによる区画整理で、現在の大きさに縮小した。
門内に入ると、黒い犬に吠えられたが、縄につながれていたので、安心。
左側に案内板があり、その脇に幾つかの石仏と石碑が並んでいた (右写真)
左から二つ目にあるのは、青面金剛像を刻んだ庚申塔。 東光寺の僧と宿場の旅籠の
主人達が、寛文二年(1661)に建立した高さが2メートル近くある大きな石塔である。
塔には、日像、月像、二童子、四夜叉、一猿一鶏、ニ鬼のすべてが、刻まれていた。
境内にある全高三メートルの六道利生の地蔵尊(通称、平尾追分地蔵)は、享保四年(1719)に
建立されたもので、平尾追分に安置されていたが、明治に入り、ここに移された。
寄進者の名前(礎石部分)には、板橋宿や加賀下屋敷関係者の名が見られる。
宇喜多秀家の供養塔は、慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された秀家の子孫が建立したものである (詳細は巻末参照)
街道に戻り、交叉点で国道17号を横断すると、平尾宿に入る (右写真)
交叉点は、江戸時代の川越街道の追分跡である。 川越街道は、所々分断されているが、大山への道が残っていて、この先、下赤塚までは旧道が残り、成増からまた旧道があり、白子、膝折まで続いている。
板橋一丁目交叉点の桜は、見ごろであった (右写真)
江戸を出ると、最初の宿場は、東海道は品川、甲州街道は内藤新宿、陸羽街道(奥州街道)は千住、そして中山道はこの板橋である。
江戸から旅立ちで、日本橋からは出ることは少なかったようで、旅人は自宅から直接板橋に向かい、送る人も板橋に行き、別れを告げた。 宿場には飯盛り女がいたので、送った後、飯盛り女と遊ぶのを楽しみに送りにきた、という輩もいたようである。 即ち、江戸の追分である板橋宿は、宿場としての機能だけでなく歓楽街としても繁盛したのである。
(注)天保14年の板橋宿の人口は男1053人、女1395人と女子の方が多いのはいわゆる飯盛り女、宿場女郎を多く抱えていたからである。
江戸時代の娼妓のランクは品川が1番、2番が内藤新宿、3番が千住、4番が板橋と格が低かったのは、江戸音羽町の茶屋が倒産し抱えていた娼妓が平尾に流れ込んだ時、旅籠1軒に飯盛り女2人というルールがあったのを、幕府も特例として認めたので、多くの飯盛り女を置くことができたことが影響したようである。
このあたりが江戸時代、多くの飯盛り女をかかえていた旅籠があった元平尾宿である。 明治十七年の大火で、上宿と仲宿の殆どの建物が焼失した後、旅籠の多くが平尾に移り、売春防止法の施行された昭和三十二年まで板橋遊郭として繁栄した。
国道からJR板橋駅に至る元平尾宿の通りはマンションと近代的な商店街として私の前に現れ、宿場や遊郭があった片鱗も見せなかった (右写真)
少し歩くとJR板橋駅前に着いた。 ここは、平尾宿の追分で、板橋宿の江戸側の入口である。 ここで、板橋宿は終わる。
(ご 参 考) 宇喜多秀家の供養塔
宇喜多秀家は、秀吉が存命の時、徳川家康、前田利家、加藤清正とともに五大老の一人であったが、関ヶ原のでは西軍の将として戦い、家康に敗れ、薩摩に逃れたが、その後、八丈島に流された。
八丈島では妻の実家である前田家の仕送りを受け、不自由な島の生活のもと、島にあること50年、明暦元年(1655)八十三才という長い生涯を閉じた。
秀家の子孫はその後長く八丈島を出ることを許されず、明治二年になってようやく赦免され、前田家の縁をたどってこの近くの加賀藩下屋敷に移り住んだ。 この墓は子孫が伝えて来た遺髪を埋め建てたもので正面に「秀家卿」と刻まれている。
(蕨宿〜板橋宿) 平成18年10月
( 板橋宿 ) 平成18年04月