『 中山道を歩く − 旅のフィナーレ 日本橋 』


板橋宿から日本橋までは、二里十八町(約10km)の距離である。 
江戸に帰る人は当然のことながら、日本橋までは行かず、そのまま帰宅になった。 
小生はお上りさんの気持で、近くにある江戸時代を偲べる名所を見ながら、日本橋に向った。 
途中には立場だった巣鴨や前田藩の江戸屋敷だった東京大学などがある。
そして、三年半かかった旅のフィナーレは私の誕生日であった。





板橋宿から立場茶屋・巣鴨へ

板橋駅西口 平成十八年(2006)四月七日(金)、同期会終了後、埼京線で板橋駅に行った (右写真)
旧中山道は、庚申塚を経て巣鴨駅の手前までは残っている。 更に、その先の白山上から追分、現在東大農学部前に至る道も広くはなつているが中山道である。 
今日は、この後、高崎に移動するので、巣鴨がゴールである。 
JR板橋駅の出口付近に新選組隊長近藤勇の墓があると聞いたので、駅を降りて探したが、板橋駅の由来を書いた石碑はあったが、墓は見つからない。 近くのドラッグストアに聞いたが、分からないという。 持ってきた本を見ると、駅の出口が違っていた。 
近藤勇墓所看板 墓があるのは東口だったのである。 埼京線と名が変わった旧赤羽線の踏み切りを越え、
右折して、飲食店などのある路地を抜け、反対側に回る。 駅前のロータリーを越えた道
の反対側に、新選組隊長近藤勇の墓所の看板が見えた (右写真)
慶応四年(1868)四月二十五日、近藤勇は、平尾一里塚付近の刑場で、官軍により斬首
処刑され、首級は京都に送られたが、胴体は少し離れたこの場所に埋葬された。 
新選組隊士供養塔 石柱に囲まれた境内に入り、前に進むと、近藤勇¥ケと土方歳蔵義豊の墓と、書かれた
大きな石柱が建っている。 これは、近藤勇と新選組隊士供養塔と呼ばれるもので、明治九年(1876)、元隊士の長(永)倉新八が建立したものである。 石柱の正面には、近藤勇と函館五稜郭で戦死した土方歳蔵の名が刻まれ、右側と左側には、合計百十名の隊士の名が書かれている。  左側手前には、永倉新八の肖像が刻まれた石碑と新選組永倉新八と書かれた彼自身の墓があった (右写真)
供養塔には、花が生けられ、線香の香りがしたが、新選組が今でも根強い人気があるから
亀の子束子西尾商店 だろう。 なお、近藤勇の墓は、彼の生家の近くの龍源寺(三鷹市大沢6丁目)にもある。 
街道に戻り、滝の川六丁目にあったとされる、江戸から二里目の平尾一里塚跡を探した。 石碑か、なにかが残ると、思って探したが、何の痕跡もない様子だった。  この通りには滝野川銀座と書かれていた。 古い家は一軒だけあったが、それでも戦後の建物だろう。  少し歩くと、左側に、亀の子束子西尾商店の看板を掲げている建物があった (右写真)
亀の子たわしは、棕櫚製で、ポリ製が出来るまでは、家庭主婦は食器を洗うのに大変お世話になった。 今でも、スニーカーを洗う場合には、重宝する。 
明治通り 亀の子たわしは、亀に似ているので、一般的に呼ばれている通称だと思ったが、この会社の創業者が発明し、名前も登録商標になっていた、とは思わなかった。  中山道歩きは、こうした思わぬ出会いがあるので面白い。  その先の堀割交叉点の左右の道は明治通り、それほど広い道ではないのに多くの車が行き来していた (右写真)
これを越えると、北区から豊島区に変り、商店街の表示も、庚申塚商栄会になった。 
短期間に、三つの区を歩くわけである。 右側に、延命地蔵尊があるはずだが、見落としたのか、通り過ぎたようである。 
都電荒川線 その先には、都電荒川線の踏み切りがあり、左右を見ると庚申塚駅があり、立ち止まって
みていると、電車がやってきた (右写真)
都内で唯一残った路面電車で、三ノ輪と早稲田間を走っている。 東京都が建設した都電
は、全部廃止されたのに、都に強制買収された路線だけが残ったというのは、歴史の皮肉
と、いわざるをえない (詳細は巻末参照)
庚申塚 地名の由来になった庚申塚は、踏切を渡った先の庚申塚交叉点を越えた左側にあった。 
小さな石段を登ると、赤い服を着た猿の石像が迎えてくれた。  庚申の使いは猿といわれ、三猿も下に彫られている。 社の中には、明暦三年(1657)と刻まれた猿田彦庚申塔が祀られているだけで、塚そのものはない。 文亀二年(1502)に造られた塔が壊れたので、丈を縮めて造り替えたもので、壊れたところは下に埋めた、 と、傍らの説明板にあるから、巣鴨庚申塚がいかに古く由緒あるかが分る (右写真)
猿田彦庚申塔は、特別公開の時しか、公開されないようで、見られなかった。 
江戸名所図会 このあたりは、江戸時代には、中山道の立場(たてば)として、賑わったところで、江戸名所図会には、茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている旅人もいて、賑わっている様子が描かれている (右写真)
立場には、団子を売る茶店ができて、藤の花が美しく咲くと評判になったが、小林一茶も、 「 ふじだなに 寝て見てもまた お江戸かな 」 と、いう句を残っている。 
この近くに四谷怪談お岩様の寺と呼ばれる寺があるというので行ってみる。 
魚がし供養塔 庚申塚交叉点を左折し、新庚申塚交叉点で国道17号を横切り、巣鴨五丁目の交叉点を
左折し、荒川線の踏切を渡ると、妙行寺がある。 
入口の石碑に、「 明治四十二年四谷より移転 お岩様の寺 長徳山妙行寺 」 と、あった。 
寺に入ると、右側に大きな石塔が建つ (右写真)
手前の塔は、魚がし供養塔で、魚河岸で犠牲になった生類の供養のために建てた。 
その先にあるのは、うなぎ供養塔で、都内のうなぎ商により建てられたものと説明があった。 
墓地の中に入る。 お岩様の墓は一番奥であるが、手前に、浅野家歴世墳墓がある。 
浅野内匠頭長直公夫人、浅野内匠頭長短公夫人、浅野大学長廣公夫人の墓である。 
お岩様の墓 お岩様は、実在の人物で寺の過去帳に記されているといい、今も子孫の方があると聞く。  お岩さんとかかわりがある訳ではないが、墓前でおまいりをした。 
驚くのは、墓を取り囲んで、おびただしい塔婆が立てられていることである。  中村勘三郎や松竹など芝居関係者が、東海道四谷怪談を公演するにあたり、追善供養を行ったものや、お岩怪談を演じた神田紅など講釈師により、奉納されたものである (右写真)
寺の前の通りをお岩通りというのは、この寺に、ちなんでいるのだろう。 
巣鴨地蔵商店街 中山道に戻ると、商店街のアーケードに、巣鴨地蔵商店街と、書れていた。 
ここから商店街がずっと続く。 とげぬき地蔵で有名な高岩寺までは、少し距離があるが、お参りを終えて、庚申塚駅や板橋駅から帰る人が、こちらに流れてくる。  左右にある商店では、甘いものの店やいなりずしなど、テークアウトしやすい店や衣類などを売る店に混じり、カラオケ喫茶が多いのには驚いた (右写真)
ぶらりお参り、ゆったり巣鴨がキャッチフレーズのようだが、それにふさわしい。 
やがて左側に、とげぬき地蔵入口の案内が ・・・・
その案内に導かれるように、中に入った。 
高岩寺 毎月四の日つく日は縁日なので、大変な賑わいであるが、テレビにしばしば登場するので有名になり、最近は普通の日でも、混んでいる。  とげぬき地蔵で、有名なこの寺は、萬頂山高岩寺といい、曹洞宗の寺である (右写真)
中山道の旅人で賑わった江戸時代には、この寺はここにはなく、下谷屏風坂にあった。 ここに移ってきたのは、明治二十四年(1891)で、本尊は、延命地蔵尊(秘仏)である。 頂いたお札は霊驗あらたかで、各種の刺による傷が直ると言われることから、とげぬき地蔵と呼ばれるようになった (詳しくは巻末参照)
真性寺 境内には、水掛け地蔵があり、水を掛けて願い事をすると叶う、といわれ、当日も多くの人が水をかけていた。  地蔵通りの名前は、本尊の延命地蔵尊に由来する。 それはともかく、「 熟年の原宿 」 とか、「 お婆ちゃんの原宿 」 といわれる町で、言葉通りの女性に多く、出会えた。  街道に戻り進むと、白山通り(国道17号)に合流するが、少し先の右側に、真性寺がある。 江戸時代には、江戸六地蔵尊の一つとして、 「 江戸名所図会 」 にも、描かれている名刹で、門前町をなしていた寺である (右写真)
江戸時代、歴代将軍がお成りになった、という記録もあり、巣鴨では、東福寺、西福寺と
地蔵尊 並び、最も古い寺の一つであるが、後からきた、とげぬき地蔵の高岩寺に、お株をとられて、 しまった感がある。 正面の左に鎮座する青銅製の地蔵尊は、正徳四年(1714)、深川の地蔵坊正元が、江戸の街道出入口に建立した、六体の地蔵尊の一つで、像高は、二メートル 六十八センチもあり、約一万一千人の寄進者の名が刻まれている(右写真)
大きな傘をかぶり、杖を持つお地蔵様は、中山道を出入する旅人の旅の安全を見守ってくれたことだろう。  境内左手には、芭蕉の句碑がある。 寛政五年(1793)、芭蕉の
百年忌に当り、採荼庵梅人とその社中により建てられたものである。 
芭蕉句碑 正面には、「 志ら露も 古保連ぬ萩の う禰里哉 」 (白露もこぼれぬ萩のうねりかな) 
という芭蕉の句が、 裏面には、杉風の 「 萩植て ひとり見習ふ 山路かな 」
という句が、刻まれていた  (右写真)
時間が少しあったので、白山通りを反対に歩き、染井墓地に
向かう。 高岩寺の北東を越えた先に、染井墓地がある。 江戸時代は建部家と藤堂家の
下屋敷だったが、明治七年(1874)日本初の公営墓地として誕生した。 
司馬江漢の墓 著名人の墓があることでも有名で、高村光雲・光太郎・智惠子、岡倉天心、水原秋桜子ら
の墓がある。 また、染井墓地を囲んでお寺が多くある。 
慈眼寺には、斉藤鶴磯、芥川龍之介、司馬江漢などの墓があった (右写真)
染井と言えば、ソメイヨシノが頭に浮かぶが、江戸時代、この一帯は染井村で、植木職人
が 多かった。 ソメイヨシノは、オオシマザクラとエドヒガンの雑種だが、ここで、誕生した
ことから、名が付いた。 墓地の中に、約100本ものソメイヨシノが、植えられているが、
訪れた時は、葉桜への途上で、春の雪のように華やかな姿は、見ることができなかった。 
本妙寺は、遠州浜松から、家康の江戸入りに伴い、江戸に移ってきた寺である。 
明暦大火犠牲者供養塔 しかし、江戸城の拡張の都度、移転させられ、また、寛永十三年(1636)出火による全焼後、
本郷丸山に移り、七堂伽藍の整った大寺院として復興したのも、束の間明暦の振袖火事で、
寺から出火し、全焼してしまった、という気の毒な寺である (詳細は巻末参照)
本堂の近くに明暦大火の犠牲者供養塔が祀られている (右写真)
この地に移転してきたのは、明治四十一年。 寺の係わりが深い関宿藩主久世家、作家の
二葉亭四迷〈ふたばていしめい〉、幕末千葉道場で有名な千葉周作や碁の本因坊歴代の墓
がある。 また、テレビでおなじみの遠山の金さんこと、遠山左衛門尉景元の墓もあった。 
日がだいぶ傾いてきた。 白山通り(国道17号)に出て、少し歩くと、旧中山道との
合流地点で、巣鴨駅が見えてきた。 今日は板橋宿から巣鴨を歩いたが、とげぬき地蔵や
荒川線など、中山道とは直接関係ないものに、昭和以前の良さを感じることが出来たので、
これはこれでよいのではないだろうか?! 

(ご 参 考) JR赤羽線
赤羽線は、東京でも古いもので、明治時代(1885)に、日本鉄道が東海道本線との連絡線として、赤羽駅〜新宿駅〜品川駅まで敷設した。 当時の東京の郊外のバイパス線として建設されたもので、赤羽駅の路線(品川線)が起源である。 現在の山手線のもとになるが、池袋田端間は、その後、かなり経ってから建設された。 現在、池袋駅では山手線のほうが東にカーブを描いているのはそのためである。   昭和四十七年(1972)、線路区間表示等が変更された際に、池袋駅〜田端駅間の方が山手線の本線となり、池袋駅〜赤羽駅間を山手線から分離し、それまで通称として使われてきた 、赤羽線が、正式の線名になった。 たった5.5kmの区間である。  昭和六十年(1985)に、東北本線の別線(赤羽駅〜武蔵浦和駅〜大宮駅)が開業し、赤羽線、山手貨物線との直通運転をするようになった。 この直通運転列車が埼京線である。 

(ご 参 考) 都電荒川線(とでんあらかわせん)
三ノ輪橋駅から早稲田駅までの間を運行する都営の路面電車である。 最初は、王子電気軌道が三ノ輪から王子を経て岩渕に至る線と、王子から早稲田までの線を営業していた。 戦時中に、東京都(当時は東京市)により、強制買収された。 東京市が建設し営業してきた市電が全部廃止された現在、都電の唯一の生き残り路線である。 路線の大半が専用軌道であること、代替バスの運転が難しいことや住民と都民からの存続要望が強かったことから、王子駅前駅〜赤羽駅間だけを廃止し、残りを荒川線という形にして存続された。 それにしても、強制買収された路線だけが残ったというのは、都にとって、皮肉といわざるをえない。 

(ご 参 考) どげぬき地蔵尊(高岩寺)
どげぬき地蔵尊の名で親しまれる萬頂山高岩寺は、曹洞宗の寺である。 約400年前の慶長元年(1596)、江戸湯島に開基されたが、六十年後に下谷屏風坂に移り、明治二十四年(1891)、現在地の巣鴨に移った。  本尊は、延命地蔵尊(秘仏)で、本尊の御影(おみかげ)の護符を身体の痛むところに貼るか、水に溶かしてのむと、痛みがトゲを抜くように引くといわれるようになり、とげぬき地蔵として、人気が出た。 護符は、タテ4cm、ヨコ1.5cmの和紙の中央に、高さ2.3cmの尊像が描かれている。  毎月4日、14日、24日が縁日で、商店街は特別サービスをするほか、参詣路に二百もの露店が並び、昔ながらの門前町の風情が楽しめる。

(ご 参 考) 江戸六地蔵
江戸六地蔵というのは、江戸の出口に造られた大きな地蔵尊で、東海道の品川宿の品川寺、甲州街道の内藤新宿の太宗寺、奥州街道の浅草の東禅寺、水戸街道の深川の霊巖寺、及び千葉街道の永代寺(今はない)と、中山道の巣鴨の真性寺である。 
真性寺では、毎年六月二十四日には、江戸六地蔵の供養のため、境内で百万遍大念珠廻わしが行われる。 この寺は、真言宗豊山派の寺で、寺がいつからあるのかは分からないが、元和元年(1615)、祐遍法印が中興の開基となる。 江戸名所図会にも描かれている江戸六地蔵の一つで、巣鴨では東福寺、西福寺と並び最も古い寺である。 

(ご 参 考) 本妙寺
徳栄山本妙寺は法華宗の寺で、徳川家に仕えた久世広宣、大久保忠勝、大久保康忠、大久保忠俊、阿部忠政等が元亀二年(1572) に、遠州曳馬(現在の浜松市)に開基した寺であるが、天正十八年(1590)、家康の江戸入城に伴い、江戸城清水御門内の礫川町へ移建された。  その後、江戸城域の拡張の都度、飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと、移動させられている。 寛永十三年(1636)、出火のため、寺は全焼したが、久世大和守広之の尽力により、本郷丸山(文京区本郷五丁目)に替地をうけ、 約六千坪の境内に、九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、 山門等を建設し、塔頭寺院も十二と、七堂伽藍の整った大寺院として復興したが、二十年後の明暦三年(1657)正月十八日、 明暦の大火によって、悉く焼失してしまった。 大火から三年後に、客殿と庫裏を、六年後には本堂を復興した。  明治四十三年(1910)に現在地へ移ってきた。 
なお、本郷には、本妙寺坂という地名が残されている。 

(ご 参 考) 振袖火事
明暦三年(1657)正月十八日に出火した振袖火事は、七日間も江戸市内を火の海にして、燃え続け、十万八千人の焼死者をだした。  振袖火事という名が付いたのには、以下のような話がある。 
「 明暦元年から三年にかけて、一枚の振袖をめぐって、これを着た三人の娘があいついて病死するという不幸があり、いずれも十六歳であったことから、娘をなくした三家は驚いて、本妙寺で供養してもらうことにした。 供養も終わり、振袖を焼き始めたところ、火のついた振袖が生き物のように舞い上がり、寺の本堂に火を移し、そのまま江戸中に焼け広がったのである。 」
それにしても、若い女の怨念が振袖に込められたいたとは、コワイですねエ・・・・



                                           後半(巣鴨から本郷)に続く






かうんたぁ。