『 中山道を歩く − 旅のフィナーレ 日本橋(続き) 』




巣鴨から白山、本郷へ

六義園 平成十八年(2006)十一月二十三日(勤労感謝の日)、中山道の最後日は、巣鴨駅からである。  野辺に残る石仏や道祖神に手を合わせての遍路的な長い旅が、今日で終わるとなると、何か寂しさを感じる (右写真)
中山道は日本橋までの約六キロなので、このまま歩けば、二時間足らずで終わるが、それではもったいない。 周辺にある江戸時代や明治に係わる歴史的遺蹟(街道筋の神社や仏閣など)を訪れながら、ゴールの日本橋に向かいたいと思う。 
JR巣鴨駅から国道17号を歩く。 右側に入って行けば、巣鴨大鳥神社があるが、駅に酉の
市の宣伝があり、今年もそういう時期がきたかと思った。 
六義園 旧中山道は、現在の国道17号、そして、白山通りになっている。 少し歩くと、千石一丁目交差点で、 ここを左折すると、六義園(りくぎえん)がある。  早速、立ち寄ることにした。 
六義園は老中、柳沢吉保が将軍綱吉から与えられた別邸内に築庭したもので、国の名勝に指定されている。  約十万平方メートルの広さを誇るとあり、園内は広い。  入園すると、正面に中の島にある築山、妹山、背山とせきれい石が見えた (右写真)
左に、臥竜石と蓬莱島がある庭園で、専門家には高い評価のある庭園であるが、素人の小生にはスケールの 大きさは分かるが、庭園の美しさは分からなかった。 
六義園 藤代峠と呼ばれる丘からの眺望が、とくにすばらしい、とあるので、上ってみた。  確かに、庭園が一望できる景観なのだが、高層化が進む東京では、ビルが目に入り、江戸時代の情緒に浸る ことは出来なかった。  紅葉の名所にもなっているようで、多くの見物客が訪れていたが、紅葉している樹木は少ない。 紅葉の 雰囲気を味わい、茶屋で一服する姿が見られたのは都心だからだろう (右写真)
全部回ると、一時間では無理なので、池の周りだけを歩いて、四十分ほどで、見学を終え
た。 駒込警察、そして、文京グリーンコートの前を通り、千石一丁目交差点に戻る。 
千石駅前交差点 腹がすいて入ったそば屋の箸袋には、駕篭町という地名が書かれていた。 
蕎麦屋を出て、少し歩くと、千石駅前交差点、その先に、本駒込二丁目の交差点があり、五差路になっている。 直進する道が、旧中山道で、白山通りである (右写真)
右に曲がっていく広い道は、新白山通り、今やこちらの方がメイン道路になってしまった。  右側の本駒込は旧曙町だが、途中で見かけた掲示板の曙町会の文字に、当時の名前が残っていた。  左側の地区も、以前の名は原町であり、今は千石と、名を変えている。 
昭和五十年前後の住所表示制度の導入で、全国の由緒ある地名が、歴史と関係のない
無意味な名前に、変えられてしまった。 今回の平成の大合併で、更に、日本から多くの
吉祥寺 地名が、消え去っていくだろう。 まことに寂しいことである。 
東洋大前交差点の一つ手前で、左折し、三百メートルほど進むと、道路(本郷通り)の対面に、吉祥寺 という大きな寺院がある。  太田道灌が、長禄二年(1458)、江戸城築城の際、井戸の中から、吉祥の金印が発見したので、 城内に一宇を設けて、吉祥寺と称したのが始まりという寺で、その後、水道橋付近に移ったが、 明暦の振袖火事で類焼し、現在の場所に移転した (右写真)
扁額に栴檀林とあるが、曹洞宗の学問所があり、学寮、寮舎をもって、千人余の学僧がいたという 禅寺である(現在の駒澤大学へ発展)。
三つの石碑 境内には、昭和四十一年に、日本紀行文学会によって建てられた、お七吉三比翼塚や二宮尊徳の供養塔、 榎本武揚や川上眉山などの墓があるが、墓地内は広く、古い墓標も多くあったので、榎本武揚の墓は 、見つけられなかった  (詳細は巻末参照)
本郷通りを歩くと、左側の天栄寺の前に、 「 江戸三大青物市場遺蹟 」 、 「 白鳥神社誌 」 と 「 駒込土物店跡 」 と、刻まれた三つの石碑が建っていた (右写真)
神田、千住と共に、江戸三大市場の一つで、幕府の御用市場だった。 農民が野菜を担ぎ、売りにくると、 天栄寺のさいかちの木で、毎朝休むことを例とした。 新鮮な野菜を求め、
白山神社 周辺の住民が集まり、そこから市場が始められた、と伝えられる。 起源は、元和(1615-34)頃だろうと 、傍らの文京区教育委員会の説明にあった。  本駒込1丁目交差点手前の交番前の細い道を右折し、白山通り(旧中山道)に戻ると、白山上交差点で、 五差路になっていた。 このあたりの地名の白山は、西方にある白山神社が名の由来である (右写真)
坂を下り、白山神社に向う。 私立中・高校がいくつかあるので、学生の姿が多い。
白山神社は、天暦年間(947〜957)に、加賀一宮白山神社を本郷1丁目の地に勧請した、と伝えられる 古い神社である。 元和年間(1615〜1624)に、二代将軍秀忠の命で、巣鴨
原(現在の小石川植物園内)に移したが、明歴元年(1655)、五代将軍綱吉が館林藩主
大田南畝の墓 (将軍職につく前)となり、屋敷を造営するため立ち退きになり、現在地に移ったのである。 
この縁で、綱吉と生母、桂昌院から、厚い帰依を受けたとある。 
白山神社の西方、新白山通りを越え、小道を上ったところに、本念寺がある。 日蓮宗の
小さな寺だが、小生がしばしば引用させていただいた、壬戌紀行の著者の大田南畝こと、
大田蜀山人の墓がある。 裏の小さな墓地の中央に、大きな墓石の一面だけに、
「 南畝大田先生之墓 」 と、彫られていた (右写真)
辞世の句は「  生き過ぎて  七十五年  くいつぶし  限り知らぬ 天地の恩   」
ほうろく地蔵 坂のあたりは指ガ谷町という。 道を右に行くと、新しい白山通りの広い道に出て、白山下を経て、 小石川植物園(江戸時代の白山御殿で、薬草園だった)に出られるが、そこまで行く時間はない。    白山上交差点まで戻り、白山通り(国道17号)を少し歩くと、左側に大円寺がある。  正式には、金龍山大円寺といい、曹洞宗の寺院で、 本尊は、聖観世音菩薩である。 寺に入った正面に、ほうろく地蔵と、呼ばれる地蔵が祀られていた (右写真)
この地蔵さんは、八百屋お七が火あぶりの刑に処せられた時、火を被って焦熱を和らげた、ということから、 ほうろく地蔵と呼ばれた。 その後、焦熱を和らげた火傷や首から
高島秋帆墓地 上の病(頭痛、眼病、耳や鼻の病など)に霊験あらたか、ということで、江戸時代には、 女性の信仰を集めたといわれる。 寺の左、道を挟んだ反対にある墓地の奥に、国の史跡 に指定されている高島秋帆(たかしま しゅうはん)の墓があった (右写真ー高島家墓所)
高島秋帆は、名は茂敦、号が秋帆。 長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として 生まれ、自らオランダ語や洋式砲術を学んで高島流砲術を完成させた。 幕府方の江川等 に砲術を伝授していたが、鳥居耀蔵の讒訴により投獄された。 
赦免されて出獄後は、 幕府の鉄砲方、講武所砲術の師範となり、幕府の砲術訓練の指導
円乗寺入口 に尽力した、という人物である。  武州徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で、日本初となる洋式砲術の公開演練を行なったので、 高島平の地名が付いた。  再び、街道に戻る。 
白山一丁目の信号で左折し、坂を下る。 浄心寺坂という坂で、この道は古い。  坂を下った右側に、 「 八百屋お七・・・ 」 と、刻まれた大きな石碑、その脇に、円乗寺の石柱、 左を見ると、南無八百屋お七地蔵尊の赤い幟がひらめき、お堂がある (右写真)
円乗寺は江戸三十三観音札所の第十一番の寺で、御本尊は聖観世音菩薩である。
しかし、それ以上に有名なのが八百屋お七である。 当日も団体で見学というか、御詣に
八百屋お七の墓 来ていた。 門から入って行くと、左側に小さな建物があり、その中央に、八百屋お七の墓があったが、 墓はかなり削られて、彫られた字が見えなくなっていた (右写真)
その右側には、寛政五年(1793)、初代岩井半四郎が建立した百十二回忌供養塔があり、妙栄禅定尼の戒名が 刻まれていた。  左側のは、昭和二十五年に、町内有志が二百七十回忌に建てた供養塔だが、天和三年(1683)三月二十九日寂と刻まれていた。  今は覆い屋根があり、墓碑のまわりに、柵がつくられ、保護されているが、以前は露出していたから、 縁起をかつぐ人々が、石をかいて持ち去った、と思われる。 
西片町教会 街道に戻り、再び、国道を歩く。 ここから東大農学部前までは、道は広くなり、古い建物
はないが、大部分が旧中山道のルートである。 少し先の右側に、日本基督教団西片町
教会 があり、昭和十年(1935)建築の建物が異彩をはなっていた (右写真)
道の両脇には、D17ふれあい通り、と書かれたのぼりが、吊り下げられている。 
道が左にカーブすると、左側の道と合流した。 ここが江戸時代の駒込追分である。 
高崎酒店 このあたりに、中山道の一番目の一里塚があったようである。 一里塚は、日光御成道
(にっこうおなりみち)との分かれ道にあったことから、追分一里塚と呼ばれた。 
交差点角の高崎屋の自動販売機の脇に、その旨を記した説明板があった (右写真)
日光御成道は、交差点を左に行く道で、現在は、本郷通りと、呼ばれている。 
この街道は、将軍が日光を参詣する際に使われたので、その名があるが、道中奉行の管理下におかれていた。 ここから、駒込、王子、そして、岩渕(ここまでが本郷通り)に出て、岩槻街道に合流、荒川を渡り、鳩ケ谷、大門、岩槻を経由、幸手(さって)で、日光街道に
農学部1号館 合流するという道である。 高崎屋は、江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね現金安売りで繁昌した、という。  追分の先、道の右側が旧森川町で、江戸時代には、立場茶屋があったところである。  道の左側の東大農学部は、江戸時代には、水戸藩の下屋敷のあったところである。 明治に入り、下屋敷跡に、第一高等学校が作られたが、昭和十年に、東大農学部と交換して、現在の姿になった。  農学部正門を入ると、構内に植えられている樹木が黄葉していて、紅葉の名所とあった六義園よりきれいだった (右写真)
農学部1号館の裏には、第一高等学校の寄宿舎向陵の碑が、薄暗い中でぽつんと建って
朱舜水先生終焉之地碑 いた。 大正十二年の関東大震災で、焼失後、翌十三年の生徒大会で、寄宿舎の駒場移転
が満場一致で可決、同年九月には、一高と東大間で敷地交換に調印、となった。 
寄宿舎向陵の碑は、昭和十年(1935)、遺跡記念碑として建立されたものである。 正門に戻
ると、右側の庭に、明治時代後期に建てられた、朱舜水先生終焉之地碑があった (右写真)
朱舜水(しゅしゅんすい)は、明の人で、1600年生まれの儒学者。 明朝を建てなおすために、
日本に渡来したが、1661年、明が滅亡したので、日本に帰化した。 水戸光圀に招かれて、
寛文五年(1665)、賓儒となった。 この地(水戸下屋敷)に住み、この地で亡くなった。
弥生式土器発掘之地碑 以後の水戸学に大きな影響を与えた人物のようである。 
農学部の右側の道は、言問(こととい)通りで、本郷弥生交差点から隅田川にかかる言問橋
まで続く。 その道を行くと、右側に、弥生式土器発掘之地の記念碑が建っている (右写真)
明治中期、このあたりで多数の土器が発掘されたが、発掘地の向ヶ丘弥生町から弥生式と
名付けられ、以後、この様式の土器が出土する時代を弥生時代と呼ぶようになった。
案内板によると、右に入る小道を少し行った左側にある東大の設備、武田先端知ビルの
東大工学部 一角に、弥生二丁目遺蹟があるようである。  大学構内の入口で、学生に教えてもらい、ビルの脇のうっそうとした林の中に入ると、小さな丘があり、それが遺蹟であった。  元の道に戻り、街道までは戻らず、一つ手前で左折すると、左側に、立原道造記念館や弥生美術館がある。  それらを横目で見ながら、右側の東大工学部構内に入った (右写真)
さすがは東大、いろいろな建物が並んでいる。 しかも、古い建物のままである。
そういう点では建物を近代化しつつある京都大学とは違う。 古いものを良しとするのは大いに結構で、京都大学も見習うべきである。
安田講堂 東京大学は徳川幕府の昌平坂学問所で、加賀百万石前田家の江戸屋敷跡にできたものである。  加賀藩は、江戸城に近い辰口(たつのくち)に敷地を与えられ、江戸屋敷(上屋敷)にしていたが、明暦の大火で焼けたため、筋違橋(神田)近くに移されたが、その屋敷も、天和二年暮の大火で焼失、翌天和三年(1683)から、下屋敷の本郷邸が上屋敷に改められた。  東大のシンボル、安田講堂の眺めも、素晴らしい (右写真)
このあたりが東大本部キャンバスであるが、大学の行政法人化で開放的になったため、中高年の絵画グループとか見学グループとか、多く訪れていた。 
赤門 前田家の庭園の一部が三四郎池として残っている。  小生の青春時代だが、大学の模擬試験が法経教室を借りて行われていたので、それに参加するため、数回訪れた。 休憩時間に過ごした三四郎池は、もっと明るかったように思えるが、樹木に覆われ、静まりかえっていた。  最後に、赤門から出た (右写真)
赤門は、将軍家斉の娘、溶姫(やすひめ)が、文政十年(1827)、前田家に嫁いだ時に建てられた門で、正式には、御守殿門(ごしゅでんもん)といい、歳月を重ねても健在であった。 
通りの右側には何軒も古本屋が並んでいたものだが、古い建物は一層され、そのような店
麟祥院 があるように思えなかった。 
その先は本郷三丁目交差点。 中山道(国道十七号)と交わる通りを春日通りというが、将軍家光の乳母・春日の局から出ている。
交差点を左折し、警察署の先を左に入ると麟祥院という寺があり、その境内に春日局の墓がある (右写真)
湯島天満宮銅製鳥居 春日通りをそのまま行くと、切り通しの坂になるが、右側に、湯島神社と書かれた、大きな 石鳥居が見えてくる。 大鳥居を潜り、歩いて行くと、湯島天満宮と刻まれた銅製の鳥居
が建っている。 これは、寛文七年(1667)に造られた表鳥居で、同十一年(1671)に修理した 銘がある。 下脚部に、唐獅子頭部の装飾があるのは、鳥居では珍しい  (右写真)
湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)は、旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社となっているが、平成十二年までは湯島神社といった。  その名よりも、湯島天神の方が有名である。 学問の神様として知られる菅原道真公を祀っているので、合格祈願の為、多数の受験生が参拝に訪れる他、最近では、修学旅行生の訪問も多いようである。
新派碑 湯島天神を有名にしたのは、新派による泉鏡花作婦系図で、 「 別れるとかきれるとは芸者
の時にいうこと・・・ 」 と、いうお蔦が主税にいうセリフで、ここが有名になり、東京の名所に
なった。 境内の新派碑は、新派劇創立九十年をむかえた昭和三十二年に、新橋演舞場
玄関脇に建てたが、演舞場の改築の時、ここに移された、とあった (右写真)
隣にある梅の木は、昭和三十一年に、新派の名優、花柳章太郎により、贈られたものである。 
ここには講談高座発祥の地碑の他、ガス燈が再現されたものもあった。(詳細は巻末参照)
菊の季節なので境内には菊人形などが飾られていた。 
それを見て、本郷三丁目まで戻った。 

(ご 参 考) 六義園(りくぎえん)
六義園は、元禄十五年(1702)、武州川越藩主、柳沢出羽守吉保が築造した庭園で、江戸の大名の庭園で、現存する庭園の中で、屈指の名園であり、国の名勝に指定されている。  六義園の名称は、古今集の序にある和歌の分類の六体に由来する。  回遊式築山泉水庭で、吉保自らの設計により、紀州和歌の浦の景勝や万葉集、古今集から名勝を選び、八十八景を写し出す構成になっていた。  このような庭園も、吉保が没した後は荒れる一方だったが、文化七年に整備され、明治十年頃、岩崎弥太郎氏の別邸の一部となるにおよんで、再び昔の美しさを取り戻した。  昭和十三年、岩崎家より東京市に寄贈され、市民に公開された。
(公園でいただいたパンフレットより抜粋)
所在地ー文京区本駒込6−16−3 入園料ー300円(65歳以上150円)
9時〜17時(入園は16時30分まで)、年末年始は休園

(ご 参 考) 吉祥寺
吉祥寺表門 江戸名所図会によると、 「 曹洞の禅宗にして江戸檀林の一なり。 因って栴檀林と号す。 本尊は釈迦如来 ・・・・・ 」 とあり、徳川家康の関東入府により、天正年中、江戸城造営の時、神田の台(御茶ノ水付近) に土地を賜わり、寺が建てられたが、振袖火事により類焼し、明暦三年(1657)に現在の地に移ってきたよう である。 
表門は、亨和二年(1802)の再建で、扁額には、 「栴檀林 」 と書かれている (右写真)
吉祥寺表門 昭和四十一年に日本紀行文学会によって建てられたお七吉三比翼塚が表門をくぐり、少し先の
左側にある (右写真)
また、境内に、二宮尊徳の供養塔、榎本武揚や川上眉山などの墓がある。 
榎本武揚は、幕臣で、天保七年(1836)、江戸に生まれ、晶平黌に学び、海軍伝習生となり、
オランダへ留学、帰国後海軍奉行となる。 明治維新の時、討幕軍の江戸入城に際し、軍艦の
引き渡しを拒否、北海道に渡って五稜郭で抵抗した。 戦い敗れて降伏したが、維新政府は
彼の才能を評価し許し、新政府に参画して数々の要職を歴任した。  ロシア特命全権公使の時、
日露樺太、千島交換条約を明治8年ペテルスブルクに於いて、榎本と露国外務大臣ゴルチャコフ
との間で調印した。 明治十八年十二月、工部省が廃止され、新たに遞信省が設置された時、
初代の逓信大臣を勤め、通信制度の確立に尽くした。 

(ご 参 考) 湯島天満宮(ゆしまてんまんぐう)
湯島天満宮 湯島天満宮は、湯島天神という名で知られる神社であるが、旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社となっている。 また、平成十二年までは湯島神社といった (右写真)
伝承によると、文化四年(1355)、湯島の郷民が霊夢によって老松の下に勧請したといわれる。 その後、文明十年(1478)、太田道潅が社殿を再興し、江戸時代になって、徳川家康を始め、歴代の将軍が、あつく庇護し隆盛をきわめた。  祭神は菅原道真である。 天神さまには梅がつきものだが、ここの梅園は新派演劇人からの献木もあり、シーズンになると、百本以上の梅の木の花が咲き、ほのかな香りが漂う都内有数の梅の名所となっている。 
この地の梅を歌った「湯島の白梅」(1942年)は、戦中時の歌として大ヒットした。  新派では、泉鏡花作婦系図を公演し、ヒロインお蔦と主税が登場する場面として有名である。 なお、境内に、泉鏡花筆塚がある。 
珍しいのは、江戸時代の尋ね人の情報交換の場であった。 社殿の前にある「 奇縁求人石 」は、嘉永三年(1850)十月に建てられたものであり、右側面の「 たづぬるかた 」尋ね事項を書いて貼っておけば、左側面の「 をしふるかた 」に回答が貼られる仕組みである。 昔から人出の多かったところで、御殿女中やそうの密会の場にもなっていたといわれ、男坂・女坂あたりに見える格子窓の長屋などにそのおもかげをとどめる。 
(湯島神社の案内板より)

                                           後半に続く(いよいよゴール)








かうんたぁ。