京から旅してきた場合、碓氷峠を越えるのは和田峠に次ぐ難事であった。
碓氷峠は、日本武尊が妻を偲び、吾嬬者邪と咏嘆した、と伝えられるところ。
頂上の熊野神社は上州と信州の国境に跨る神社で、それぞれ違う名前で呼ばれている。
峠を越えた先にある坂本宿は江戸時代、関所通過と碓氷峠越えの客で喧騒を極めたとあるが、今は静かな佇まいであった。
平成十八年(2006)六月一日、今日は軽井沢宿から坂本宿を経て横川まで歩いた後、軽井沢に戻り、
沓掛宿から軽井沢宿まで歩く予定である。 前日追分宿まできたので、その後、沓掛宿、
軽井沢宿そして坂本宿に行くのが順序であるが、横川〜軽井沢のバスが一日三便しかない
ため、横川から戻るバスのダイヤに合わせると、先に碓氷峠を越えた方が効率がよいと
思ったのである。 宿泊地の小諸からしなの鉄道で軽井沢へ。 軽井沢駅でおり、北に一直線に歩くと、軽井沢ロータリーに出た。
軽井沢宿は旧軽ともいわれるが、朝が早いので店が閉まり、人影もまばらである。
後で訪れるとして、軽井沢宿は駆け足で通り過ぎた。
軽井沢宿のはずれの矢ヶ崎川には昔遊女と涙で別れたといわれる二手橋がある (右写真)
現在の橋はいつのものかわからないが、橋を渡ると、碓氷峠や見晴台などの大きな案内
板が立っている。 公衆トイレもあり、見晴台へ行くバス停にもなっている。
川に沿った左側の道を少し行くと、川へ少し下った側壁に室生犀星の詩碑があった。
『 我は張りつめたる氷を愛す 斯(かか)る切なき思ひを愛す 我はそれらの輝けるを見たり 斯る花にあらざる花を愛す 我は氷の奥にあるものに同感す 我はつねに狭小なる人生に住めり その人生の荒涼の中に呻吟せり さればこそ張りつめたる氷を愛す 斯る切なき思ひを愛す 』 (右写真)
室生犀星自らが手がけた詩碑とあり、軽井沢という地が氷の詩を選んだということもある
が、 「 この詩の氷は作者の審美的な感覚の表象であり、同時にひとりの生活者の人生的覚悟を表明したもの 」
と、説明文にあった。
先程の公衆トイレまで戻り、折角だから用事をすませて、右の道を歩き始める (右写真)
この地点は標高960mである。
少し歩くと右側に入る道が遊歩道である。 この先車道は危険なのでこちらを歩くようにという注意書がある。
旧中山道はこのまま舗装された道を歩いて、ミラーのついたガードレールが始まるところで右に入ると、林で倒木などがあり、歩きずらいが進むと北聖沢で、沢を越えて進むと遊歩道に合流するはずである。
さてどうするか?? 旧中山道を行くか、この遊歩道で我慢するか??
中山道のくわしい地図を持っていないこととこのあたりが個人の別荘地になっていて迷うとどこにいるか分からないし、所有者に聞いても中山道の知識がない。
時間の制約も考え、冒険はせず遊歩道を行くことにした。
右手に川が流れており、 道の両側に別荘が何軒があったが、やがて吊橋に出た (右写真)
これまでは車で入ることができたが、橋から先は山道に変った。
上から二人連れが降りてきたが、服装と装備からみて中山道歩きではなさそうだ。
道には黄色い花が咲いていたが、それ以外には花は見られなかった (右写真)
根が剥き出しになっているところを通ると、前に青年がゆったりと歩いていた。
そのペースでは遅すぎると思い、追い抜く。
少し歩いたら、大きな木に動くものを見た。 リスである。
予想した以上に敏捷で、カメラのファインダーに捕らえる前に木から木へと渡り消えていっ
てしまった。 岐阜の金華山で見たリスより小さかったが、種類が違うのだろうか??
金網で柵となっているところに横断歩道橋があり、峠まで1.3kmという表示があった。
橋を渡り終え、下方を見ると、車道が見える (右写真)
遊歩道のところで別れた道である。
左側が傾斜している道を歩く。
旧道は、左側のガレ場を登るのじゃなかったかなど、思ったが、表示もなく、確信もなかったので、道なりに歩いた。
林の中に入ると、多いのは何の木だろうと見ると、ズミの木だった。 ズミの花は林檎の花のように白く、咲いてる様はなかなかきれいであるが、まだなのだろうか?
それはともかく、ズミは湿気を好む木なので、これが多いのは、このあたりは霧や雨が多い
証拠だろう。 突然視界が開けて、大きな道に出た。 見晴台と峠を結ぶ道である。
右折して、見晴台に向って歩くと、入口右側に、碓氷峠万葉集歌碑があった (右写真)
「 日の暮に うすひの山を こえる日は せなのが袖も さやにふらしつ 」(よみ人知らず)
「 ひなくもり うすひの坂をこえしだに いもが恋しく わすらえぬかも 」(他田部子磐前)
この碑は、昭和四十二年に建立されたものである。
左側には、詩聖タゴールの記念像(胸像)があった。
タゴールはアジア最初のノーベル文学賞を受けた人だが、この胸像はタゴール生誕百二十年記念で建立されたもので、背景の壁に彼の言葉 「 人類不戦 」 の文字が刻まれていた。
見晴台というからどんなに素敵なところかと思っていたが、広い空き地というか公園だった。
朝夕の太陽による景色がすばらしくサンセットビュウと外人が賞賛したところと説明にあった。 もやがかかり写真の被写体としては不十分だった (右写真)
このあたりの標高は1180mだから、二手橋との標高差は二百二十メートル程。
距離は二.五キロだろうと思うのだが、歩き方が遅かったせいか、一時間程度かかった。
熊野神社に向かって降りて行くと、峠の集落がある。
江戸時代には、峠町といわれたところで、ここから熊野神社を越え、峠を下るところまで
数軒の茶屋が軒を並べていた。
熊野神社の下に、宗良親王仰歌碑が立っていた (右写真)
宗良親王は後醍醐天皇の皇子で、父・後醍醐天皇とともに吉野の南朝方にあった。
正平六年(1351)には新田義興とともに鎌倉を占領するが、足利尊氏により駆逐される。
征夷大将軍にも任じられ、信濃国(長野県)など関東を流転するが、その後の消息は不明
という人物である。
神社入口の柱の正面に熊野皇太神社、右側には熊野神社と、書かれている (右写真)
実は二つの名前には訳があるのである。 神社は、古(いにしえ)から、上州と信濃から信仰を集め、群馬県では熊野神社、長野県では熊野皇太神社、と呼ばれてきたのである。
同じ神社なのに呼び名が違うため、標柱に二つの名が書いてあったという訳である。
上州は高崎藩、信濃は小諸藩が守護神として庇護したが、中山道が通行容易な入山峠でなく、難路の碓氷峠になったのも、熊野神社を守り神にする両藩が推した、という説があるくらいである。
鳥居の手前に、高浜虚子の句碑があった。 昭和五十年に建立されたもの。
『 剛直の 冬の妙義を 引き寄せる 』
常夜燈は、国の重要文化財指定で古いものである。
新しい狛犬もあったが、古い狛犬は室町時代中期の作である。
狛犬は本来、威嚇を目的としているはずだが、この狛犬は素
朴でほのぼのとしていた (右写真)
かなり急な石段を登る。
登りきったところに、丸い石臼のようなものが左右にあったが、これは、石の風車と言われる
ものである。 軽井沢宿の問屋・佐藤市右衛門と代官・佐藤平八郎の両人が、二世安楽祈願
のため、当社正面石畳を明暦三年(1657)築造した。 息子市右衛門は親が寄進した石畳の
記念にと、元禄六年(1688)、佐藤家の紋章・源氏車を刻んで、二対の石造物の奉納した。
秋から冬にかけて吹く風の強いところから、中山道往来の旅人は、石の風車として親しみ、
『 碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると 』
と、追分節に唄われたことから、有名になったものである (右写真)
石段を登りきったところにある神門をくぐると左側に、「 明治天皇峠御小休所 」 の石柱があった。
傍らの案内板には、 「 日本武尊の吾嬬者邪咏嘆の処」 とあった。
碓井嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて、
吾嬬者邪(あずまはや)と嘆かれたという。
熊野神社由来によると、
「 日本武尊が東国平定の帰路、碓氷峠に差し掛かると濃霧に閉ざされて行く手が分からなくなったが、
八(や)た烏(からす)の道案内により、無事峠を越えることができたので、帰京後、熊野の大神を祀ったと伝えられる 」
と、ある。
神社には三つの本社があった (右写真)
中央にあるのが本宮で、上信国境上にあり、祭神は日本武尊、伊邪那美神、右側は新宮で上州側にあり、祭神は速玉男命、左側は那智宮で、祭神は事解男(ことさかのお)命で、信州側に鎮座している。
熊野神社は、このように二つの県にまたがる珍しい神社なの
である。 なお、社殿は江戸中期以降の建築である。
熊野神社(新宮)には、群馬県の指定文化財になっている古鐘が納められていた。
鎌倉時代の正応五年(1292)、松井田一結衆十二人によって奉納されたもので、上信の国境
に
あった鐘楼から時を告げた、といわれるものである。 その前で、賽銭をあげて旅の祈願と
家族の弥栄(いやさか)を祈ったが、よく見ると、社務所が二つあり、賽銭箱も二つあった。
境内には石碑や小さな社など古そうなものが多くあったが、多重塔もあった。
多重塔は、沙弥法性という人が文和三年 (1354) に建立したものである (右写真)
群馬県側から登ってきたところ(現在は閉鎖)に、 伊達政宗発句 という標板があり、
「 伊達政宗は慶長十九年(1641)四月末に登ってきた。 」 と、あり、その時詠んだのが
『 夏木立 花は薄井の 峠かな 』
である。 碓氷ではなく、薄井と使われているが、一般的だったのであろうか?
慶長十九年には大坂の役があり、その途上での出来事と思うが、この戦いでは、伊達軍は功を焦って、味方の神保相茂隊を同志討ちにして、全滅させる失態を演じた。
神社の石段を下りた鳥居の正面に、茶屋・しげの屋があった (右写真)
元祖力餅の看板を掲げた右側に、信濃国と上野国の国境を書いた立て札があった。
なお、店の案内で隠れて見えないが、道と面したところにある石柱には、信濃国と上野国の国境が書かれていた。 店内に入り、早速力餅を注文する。 力餅は頼光四天王の一人
、強力で知られた碓氷貞光に、ちなんだ餅である。 あんこだけかと思ったら、大根おろし
など、何種類かあった。 1皿四百五十円なり。
注文してから作るというので、しばし休憩となった。 その間にトイレを済ませた。
出された餅はやわらかく、まあまあの味だった。
一人前なので沢山食べたという感じはなかったが、腹持ちは結構良かった (右写真)
店内の柱の一つに、国境の表示があったのは面白かった。 三十分以上いて、十一時を過ぎてしまったので、少しのんびりしすぎたかなあ、と思いながら店を出た。
一つだけ気になっていたのが、熊野神社の境内にあるとされる、み国書石碑である。
もう一度、熊野神社に戻り、境内をくまなく探しだがみつからず、やむなく出発。
左側に茶屋の駐車場が続くが、その一つに、胸像があるので、何気なく近づくと赤門屋敷
跡とあった。 「 赤門屋敷には、加賀藩前田家の御守殿門に倣った門が建てられた。
参勤交代の諸大名は、碓氷峠の熊野神社で、道中安全祈願をした後、この赤門屋敷でし
ばしの休憩をとった。 皇女和宮も休憩されている。 明治になり、碓氷峠の道が廃道に
なり、屋敷もなくなった。」 と、いう説明板があった。 熊野神社と関係の深い曽根家の
屋敷だったといい、茶屋本陣の役割を果たしていた訳である。
探しても見つからなかった、 「 み国書石碑 」 は、しげのや駐車場の奥にあった (右写真)
「 四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四 二三四万六一十 」
と、数字で彫られた数字歌碑で、峠の社家に伝えられていたものを昭和三十年に現地に
移したものである。
「 よしやよし 何は置くとも み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 」
と、読むようである。 いよいよ碓氷峠を下り始める。
中山道の標識がある左側に仁王門跡の説明板があり、
「 江戸時代には熊野神社の別当寺があり、入口の仁王門は元禄時代に再建された。 明治維新時に仁王門は廃棄されたが、仁王像は熊野神社の神楽殿に保管されている。 」とあり、ここにがあり、熊野神社の神宮寺と仁王門は、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、取り壊されてしまったのである。
その脇に、安政四年(1857)に建立された思婦石(おもういし)という石碑が建っていた (右写真)
『 ありし代に かへりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら 』
この歌は、群馬郡室田の国学者・関橋守が詠んだものであるが、これは、日本書紀の
巻第七、景行天皇の項に、 「 日本武尊毎に弟橘媛を顧びたまふ情有ます、故、碓氷嶺
に
登りて三たび嘆きて曰はく「吾嬬はや」とのたまう。 故因りて山の東の諸国を號けて
吾嬬国と曰ふ。 」 と、いうの記述から詠まれたものである。
なお、長野県歌・信濃の国 の歌詞の中でも、 「 吾妻はやとし 日本武(やまとたける)
嘆き給いし 碓氷山 」 として登場する。
日本武尊は、東征の折り、碓氷峠で、弟橘姫
(おとたちばなひめ)を偲び、三たび嘆いて、 「 あつまはや 」 とつぶやいた、というので
ある。 なお、弟橘姫は海神の怒りを鎮める為に海に身を捧げた日本武尊の妾である。
碓氷峠は、碓氷嶺となっているが、記紀(古事記、日本書紀)の時代は、峠を嶺や坂と
書いていたようである。 碑の前の道標には、左は霧積温泉への道、直進が中山道と
あり、左側の道は霧積温泉へ行く道であるが、和宮道と呼ばれ、毎年行われる安政の
遠足では、この道が使われる (右写真)
皇女和宮が御嫁入りした際使われた道で、和宮御降嫁の際、当時の中山道が険しく、
道が荒れていたので、新たに山裾に道を開いたのである。
この下に、一つ家の碑への案内標識があるが、矢印の方向が分かりずらい。
中山道に下ったところで、左側の凹のように窪んだ道がそれのようでる。
あまり歩かれないようで、落葉で道全体が隠れていたが、落葉を踏みがさがさ百メートルほど
下りると、左側にカーブし、道が途絶えたと思えるところに小さな社(やしろ)があった。
源頼光の四天王の一人である碓氷貞光を祭った碓氷貞光神社である (右写真)
その脇にあるのが、一つ家の歌碑である。 弁慶が爪で書いたと云われ、中山道の一つ家
にあったが、天明三年(1783)の浅間山の大噴火により流出してしまった。
この歌碑は、のちに再建されたもののようで、歌は全て漢数字で書かれていた (右写真)
『 八萬三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六 』
「 やまみちは さむくさみしひ ひとつやに よごとみにしむ ももよおくしも 」と読む。
中山道まで戻り、下り始める。
この道は軽井沢の遊歩道というほどではないが、整備されていて歩きやすい。
松井田坂本宿とか、山中茶屋跡など、いくつかの矢印案内があるのを横目でみて下る。
左側には長坂道とあり、中仙道の古い道であると記されていた。
うっそうとした木立の中を下りていくと、右側へカーブするところに谷川があり、小さな橋が
架けられていた。 橋を越えたところに、笹沢施行所跡の案内板がある (右写真)
「 笹沢のほとりに文政十一年、江戸呉服屋の与兵衛が、安中藩から間口十七間、奥行
二十間を借りて、人馬が休める家を作った。 」 と、あり、街道で難儀する人のために、
休憩と湯水の接待したところで、まさにボランテアの先駆者である。 下から登ってきた人
にとって谷川の水で汗を拭い、一服できたのは大変重宝したことだろう。
建てる場所には苦労しただろうと思える場所だった。 笹沢からしばらくは登り坂となるが、
すぐにまた下り坂になった。 その先には化粧水跡の表示があり、 「 峠町に登る旅人が
この水で姿、形を直した 」 と、あるが、今は水は流れていない (右写真)
また登りとなり,すぐに下りとなる。 この先は倒木が道をふさいでいたので、乗り越えて
進むと、水害でできたと思われるくぼ地が何箇所かあるが、道幅は広く歩くのには支障は
なかった。
少し行くと三叉路に出た。
右折すると坂本に下る道だが、左折すると子持山(1108m)や霧積の方に行ける。
左右の道は先程別れた和宮道で、道幅も広く車が一台通れるスペースがある (右写真)
合流する手前に、陣場ヶ原跡の案内板がある。 それには、「 大平記に書かれた新田方と
足利
方のうすい峠の合戦や戦国時代の上杉と武田の合戦は、笹沢から子持山の間は
萱野原であったので、ここで行われた 」 と、書かれていた。 また、正面の小高いところ
には、万葉集第十四巻の東歌(あずまうた)の中に、読人不知だが、子持ち山の題で
『 児持山 若かへるでの もみづまで 寝もと 吾(あ)は思う 汝(な)はあどか思う 』
の歌が詠まれている、と案内があった。 これまで歩いてきても、建物も石仏などもなく、
まったく退屈な風景なのに、松井田町(合併前)観光協会の案内板は要所要所にあり、
しかも懇切丁寧でこれを見ながら歩くと退屈せず、江戸時代の旅人と同じ感覚が持てた。
坂本に行くには和宮道を右折する。 少し下ると、左側に一つ家跡の案内があり、
「 ここには老婆がいて、旅人を苦しめた 」 と、あったが、何故苦しめられたのだろうか??
ここは前述した
一つ家の歌碑があったところである (右写真)
江戸時代には、一つ家という茶屋があった所であるが、何も残っていなかった。
道幅は広いが道は凸凹していて車が走るには危険と思っていたら、道脇に車が一台放置
され、かなり経つのか、朽ちていた。 左側の小高いところに山荘風の家があるが、これも
放置されたままの様子である。 その先に、この先通り抜けはできません、Uターンも
できませんという注意があり、ここから先は車の通行は不可である。 細い山道になり、
下り坂が続く (右写真)
道の脇の案内板には
「 この坂は山中坂といい、陣場が原からこの下の山中茶屋まで続く。 急な坂なので、
坂本宿から登ってきた人は、空腹では登るのはとても無理なので、茶屋で飯を喰って
登った
ことから、飯喰い坂と呼ばれた。 」 と、あった。
十分ほど歩くと、左側に山中村跡があった (右写真)
慶応年中(1648〜)に、碓氷峠の峠町の人が、川水をくみ上げるところに茶屋を開き、
寛政二年(1662)には、十三軒の立場茶屋ができていた、とあり、茶屋は、わらび餅を
名物にしていた。 山中村には、寺もあり、また、茶屋本陣には上段の間が二ヶ所あった、
という。 明治十一年には、山中村落学校に20人の生徒がいたといい、明治天皇北陸
巡幸の際には、生徒一人に一両の下賜金が与えられた、と記録に残る。
しかし、村が続いたのはそれまで、鉄道の開通により、街道が廃止になると、山中村は
廃村になり、今は畑跡と墓が残るだけである。 山中集落を過ぎると、しばらくの間は、
登り坂になるが、その先の下り坂の入口は、入道くぼと呼ばれているところで、右側
(北側)の小高いところにある大きな石には、馬頭観音像が線刻されていた (右写真)
(注) 右写真をクリックすると大きくなり、馬頭観音の線刻がよく見えます。
ここからまごめ坂で、赤土のだらだら下り道となる。 整備した林が続き美しく、
鳥のさえずりも聞えた (右写真)
道が山容に沿って右にカーブすると、石がごろごろと転がるようになった。
この坂がしばらく続き、その後、栗が原にでた。 ここは、明治天皇御巡幸道と中山道が
別れる所で、明治八年の明治天皇北陸巡幸のときに、 群馬県が初の見回り方屯所をここに
設けた。 これが交番の始まりである。
その先の分岐路の右が明治天皇御巡幸道、左が中山道であるが、 屯所は跡形もなく、
御巡幸道も通れなくなってしまっている。
見崎という所を通る。 尾根道なので、両側の谷が見渡せるので、そういう地名が付いた
のだろう。 若葉が日にあたって光っていた (右写真)
「 神社まであと5km 」 という標示があった。 峠を降りたすぐにあった霧積への道との
Y字路に、 「 神社まであと1km 」 という標示があったので、四キロ歩いたことになる。
この間休憩をいれて約1時間である。
坂の傾斜が急になり、岩や石がごろごろしていて、その上赤土なのですべりやすい。
ここは座頭転がしと呼れている難所である (右写真)
壬戌紀行には、 「 ゆきゆきてただちに絶壁にのぞむ。 ここを座頭ころがしというもむべ
なり、目しゐのものはおちいりぬべし 」 と、あるが、改良されたのか、それほどのひどい
坂ではないが、それでも転ばぬように注意して下る。 横川に到着後聞いたところ、五月に
安政遠足が開催されたので、道を手入れしたとのこと。 その恩恵にあずかり、かなり歩き
やすくなっていたのだ。 それにしても、軽井沢遊歩道と違い、碓氷峠を越えた先は山道
なので、山歩きの装備で
歩かないと、いかんなあと、思った。
その先には、一里塚の説明板があり、 「 慶長以前の旧道(東山道)で、道の変更によって
一里塚だけが取り残された 」 と、あった。
ここを下り、東から切り通しを南に出た途端、右側(北西)の岩の上に馬頭観音像が
建っていた。 これは北向馬頭観音と呼ばれるものである (右写真)
文化十五年四月内山庄左衛門、土田庄助が施主となり、坂本世話人三沢屋清力が建立
したものである。
少し歩くと、仏岩という大きな岩があり、その下に南向馬頭観音が建っていた。
昔この付近は山賊が出たところと言われ、また、歩くのに危険な場所だったので、寛政三年
十二月十九日に、坂本宿の七之助が建てたものである (右写真)
岩の上にとあったのだが、どうやら下に下ろされたようである。
林の中の坂道をしばらく下ると、谷間をわたる細い径にさしかかる。
道の両側が崖となって下っている。 堀切という地名がある。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、前田、上杉の北国勢を松井田城主、
大導寺駿河守政繁が、この地形を利用してくい止めようとしたところで、道の両脇は狭く
掘り切られていた (右写真)
ここからはかなりの登り坂になる。
この先はしばらくの間、登りと下りが繰り返す道となった。
やがて右側に新しい建物が見えてきた。 休憩所である。
昌秦二年(899)に、碓氷の坂に関所が設けられたのは、このあたりといわれる (右写真)
この関所は東山道のもので、江戸時代の碓氷関所とは別のものであるが・・・
休憩所からの展望はいいとは言いがたいが、木立の間から妙義山が霞んでみえた。
お腹がすいたので、コンビニで買っておいたおにぎりとペットボトルのお茶で、昼飯とした。
食事を終え、出発。 ここからは登り坂である。
登りきった所は平らになっており、四軒茶屋跡の案内板が建っていた。
「 ここは刎石(はねいし)山の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があったので、刎石立場とか、
刎石四軒茶屋と呼ばれた。 力餅やわらび餅などが名物だった。 」 とある (右写真)
左側の空き地の奥に石垣があり、墓も残っていた。
ここから再び急坂を下る。 すると、左側に井戸が見えてきた。 弘法の井戸である。
刎石茶屋には水が無いので、弘法大師が、ここに井戸を掘ればよいと教えた、と伝えられる
霊水で、今もきれいな水が涌いていた。 少し歩くと、覗きという所に出た。
覗きという名の通り、すばらしい景観が木の間から見渡せる。 大田南畝は、壬戌紀行で、この風景を 「 妙義の山也といふ。 これまで岩山をみしかど、かかる険しき岩の色黒きが雲をしのぎてたてるをみず。 唐画にかける山のごとし。 」 と、書いている。
眼下に道が一直線に延びているが、その先の両側に並んだ家が坂本宿である。
その前を高速道路が横断し、右前方には妙義山の威容が迫っていた (右写真)
人に威圧感を与える妙義山や眼下に見える坂本の風景にしばらく見入った。
小林一茶も、坂本宿を見下ろしながら、
『 坂本や 袂の下の 夕ひばり 』
という句を詠んでいる。
覗きを過ぎると、崩れてきた石がごろごろしていて、歩くのが困難になった。
刎石坂という坂だが、碓氷峠で一番の難所だったようで、十返舎一九は、「 たび人の 身のこをはたく なんじょみち 石のうすいの とうげなりけり 」 と、詠んでいる。
刎石ごろごろの道を注意しながら下ると、左側に刎石石仏群があった。 南無阿弥陀仏、大日尊石碑、馬頭観世音の大きな石碑があり、坂本にある芭蕉句碑も以前はここにあったのである。 (右写真)
このあたりは、刎石の名前の由来となった柱状節理の石が多く見られる。
溶岩が冷えた時亀裂が生じ、柱状になったものだが、柱岩が幾重にもなって連なっていた。
ごろごろした急坂を下ると、左側に堂峰番所跡にでた。
「 碓氷関所の出先として、山を越えて関所を破ろうとする者を見張っていたところである。 堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に、番所を構え、中山道をはさんだ西側に、定附同心の住宅が二軒あった。 関門は、両方の谷が迫っている場所をさらに掘り切り、道幅だけとした。 」 と、説明板にあった。 今でも、石垣の一部が残っていた (右写真)
急坂を更に下りる。
左手下にゴルフ場が見えると、長かった碓氷峠越えもついに終わった (右写真)
下りきった所は国道18号線G9地点で、標高は五百十二メートルである。 碓氷峠が千百八十八メートルだから
標高差六百七十六メートルを下ったことになる。 碓氷峠からここまで私の足で、三時間、約九キロ、
登りなら、それ以上の時間をみておく必要があるだろう。 安中藩が行った安政の遠足
(とおあし)は、ここを駆け登るのだから、大変苦痛の伴うマラソンだった訳である。