『 中山道を歩く 上州路 (1)坂本宿(続き)  』


坂本宿

国道を歩く 国道から下に浄水場が見え、その先に妙義山の山塊が大きく見えた。  旧中山道は国道を突っ切って浄水場の横を通っていたのだが今は通れないので国道を歩く。  国道のS字カーブを下って行くと、左側に飲食店があり、左側に霧積温泉への道がある (右写真)
そのまま道を進むと、下に遊歩道があるが、これはどうやら旧信越線跡で、トンネルを越えると碓氷湖やめがね橋にいけるらしい。  アベックが歩いているのを見ながら国道を進むと、左側に降り
て行く道があり、坂本宿の表示があった。 
八幡神社 左側に川が流れており、その向かうに峠の湯があるようであった。 
時間の関係から寄らなかったので、場所は不確かだが・・・・  
少しあるくと、左の森に八幡神社がある。 赤い鳥居の奥に、御嶽山座主大権現の石碑が立ち、その先には熊野神社にあったと同じ形の狛犬があった (右写真)
石段をのぼっていくと、森の中に社があった。 八幡神社は伝承によると、
双体道祖神 「 景行天皇四十年、日本武尊の勧請による。 延喜年間に、ここより東北の小高い丘に社殿を建立し、八十二戸の氏子の神として祭っていた。  江戸時代、坂本に宿場が設けられるとここに移され、明治時代に周囲の神社を集めて合祀した。」 と、ある。
双体道祖神が二体祀られていた (右写真)
並んで立っていたが、もともとここにあったのか、よそからきたのかは分からなかった。
八幡神社を過ぎると、中山道坂本宿の木柱がある。  江戸時代、ここには、上の木戸と、呼ばれ
芭蕉句碑 た木戸があり、坂本宿の京方の入口であった。  手前の角に、芭蕉の句碑があった (右写真)
  『  ひとつ脱て  うしろにおひぬ  衣かへ   芭蕉翁  』
碑の文字は、春秋庵白雄の手で、寛政二年(1790)秋とある。 坂本宿の俳人連が依頼したもの。
書体は、ちくら様、この句は、元禄年間の 「 曠野 」 にあり、内容は木曽路下りのものである。 
碓氷峠の刎石坂にあったものを明治の廃道の時に当地に移転した、という。 
その先の道の両脇には、常夜燈の標石があり、左側には、文政五年の橋供養塔があった。 
中山道の浮世絵 いよいよ坂本宿である。  坂本宿は江戸時代に計画的に作られた宿場で、英泉が描いた木曽街道の浮世絵には、 浅間山と刎石山を背景に道の中央を用水が流れ、その両側を人が歩き、家並みが続く構図が描かれている (右写真)
宿場の長さは六町十九間(約713m)、天保十四年で、人口七百三十二人、家数百六十二軒、本陣二軒、脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒と、 旅籠は多かった。 宿場内の各家に屋号の看板(標札?)がかけられていて、なかや、港屋となどの名があったが、江戸時代の職業を示す
旅籠たかさごや跡 ものなのだろうか??  いつの時代の建物かわからないが、古いものがけっこう残っていた。 
右側の民家の前に、小林一茶の 定宿たかさごや と書いた、説明板があった (右写真)
小林一茶は信濃と江戸を往復していたが、その際に使用した旅籠の跡である。
寛政年間には俳諧や短歌が隆盛で、宿場の旦那衆はもちろん、馬子や飯盛り女まで指を折って創作に励んだ、と説明板にはあった。  小林一茶が宿をとると、添削を受けに殺到した、という。 
江戸時代には碓氷峠越えをする人、碓氷関所を抜けなければならない人がここで一夜の宿をとる
旅籠つたや跡 人が多かったので、旅籠は大繁盛をしていたので、俳諧や短歌に興じることができた。 
しかし、そうしたよき時代は、長く続かなかった。  碓氷峠にアプト式鉄道が開通すると、坂本宿はすっかり見る影を失い、すたれてしまったからである。 
その先の古そうな家には、若山牧水とつたやの案内板があった (右写真)
若山牧水は、明治四十一年八月六日、軽井沢から碓氷峠を越えて、ただ一軒残っていた旅籠のつたやに頼んで泊めてもらった。
はすかいの建物    『  秋風や  碓氷のふもと  荒れ寂し  坂本宿の  糸繰りの唄   』
月下の石ころ道を歩きながら、ふと耳にした糸繰りの唄に、一層の寂寞感を覚えて詠んだ歌である。  その先の数軒続きの家の一角に、 「 はすかいの建物 」 との表示があり、この辺り一帯の家が道路に対し斜めに建てられていた、という説明があった (右写真)
はすかいに建てられたのは鬼門除けとする説と江戸城防衛のため、イザというとき、三角屋敷が建てられるスペースを確保するためという説があるが、 はっきりしないらしい。
かぎ屋 その先左側のかぎ屋は昔の旅籠で、坂本宿の面影を残す代表的な建物である (右写真)
三百七十年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけた、とあり、屋根看板には家紋の 「 丸に結び雁金 」 の下に、 「 かきや 」 と書かれている。  かたかなで書かれていたので、見やすく旅人に好評だった、と説明にあった。 
この時代の看板は、片方は漢字が普通なので、両方ともかたかなというのはめずらしいのではないか??
永井脇本陣 その先の左側の酒屋脇本陣跡は公民館になっていた。  更に、永井脇本陣と永楽屋脇本陣が並んでいたが、永楽屋脇本陣はすっかり建替えられているが、隣の永井脇本陣も、建物は建替えられているが、 門は当時のままらしく、面積も広いので、当時の面影が多少残っていた (右写真)
坂本宿の道巾は、街道としては広い方で、一間一尺(約14.8m)あり、中央に四尺(約1.3m)の用水が流れていたが、 自動車の時代の現在は中央に車が走り、両側の溝にふたをした所を人が歩
佐藤本陣跡 くこと破目になった。  その先の右側に、上の本陣といわれた佐藤本陣だった家があり、その前に、坂本小学校発祥の地の石柱が建っていた (右写真) 
その先にも、下の本陣といわれた金井家があるのだが、これもすっかり姿を消していた。
佐藤本陣の向かいに、みよがや脇本陣、佐藤本陣と金井本陣の間に、八郎兵衛脇本陣の表示があった。 合計すると五つの脇本陣である。  天保十四年の中山道宿村大概帳では、脇本陣は二軒となっているので、帳尻が合わない。 美濃路を訪れたとき、加納宿で当分本陣というのに出逢った。  幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の妻子の自由帰国を許可された。 
火の見櫓と妙義山 その結果、中山道の通行が増え、本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったので、臨時に増やし
た本陣を当分本陣と呼んでいたが、坂本宿では臨時に脇本陣が増やされたのか??
加賀藩や尾張藩など大藩の参勤交代が重なることはままあったようで、さばききれない場合は旅籠を貸しきってしのいだとある。  利用された旅籠の中から当分脇本陣になったことは考えられる。  その先には、今は珍しくなった火の見櫓があり、右に妙義山が被さるように近づいてきた (右写真) 
やがて柵のようなものが見えてきたので、近づいて説明を見ると、木戸の一部を復元したもの
下の木戸跡 だった。  ここは下の木戸といわれたところで、坂本宿の江戸側の入口だった (右写真)
明け六つと暮れ六つの間だけ木戸は開かれた。  明け六つは午前六時、暮れ六つは午後の六時であるが、時計を持つ時代ではないので、太陽の運行により、長くなったり、短くなったりした。 
坂本宿を歩いて感じたのは、古い建物や昔の建物を改装して使っている家が多いことである。 
また、お寺を見なかったことと営業している商店がないことであった。  人は住んでいるのだが、見かけることがなく、江戸時代のまま町全体が沈黙しているような気がした。

坂本宿から横川へ

上信越自動車道 坂本宿と別れ、国道18号を歩き、ゴールの横川に向かう。 ゴールの意味は、横川から先はすでに歩き終えているので、 これで京都から鴻巣までつながるからである。  下の木戸から見えていた上信越自動車道をくぐったが、ここで時間計算を間違えた (右写真)
横川から軽井沢に戻るバスの時間は二時四十分なのだが、坂本宿から横川までの距離が分からないので、遅れると困るとペースを上げたのである。 
水神宮 上信越自動車道をくぐると、小さな石の祠があり、水神宮とあった (右写真)
脇の大きな案内板には、「 もとは、やや東の原村のはずれにあったもので、用水の確保を祈願して祀られてきた。・・・・ 」 とあり、 『  清き水 掬(すく)して のどを潤うへり 峠越えゆく 気のみなぎけり 』 という古歌が書かれていた。
地名表示を見ると原とあるが、原村は坂本宿が整備される前からあったようで、松井田町が誕生
原集落 して時、現在の名前になったようである。 
妙義山が正面に大きく見えるようになってきたが、のんびり景色を楽しむゆとりがない (右写真)
国道が右へカーブするあたりに左に道があるので、国道と別れて進む。 
道端にはキンポウゲのような黄色の花と周りが白く、真中が黄色い花が咲いていた。
下り坂になると、薬師清水と彫られたものがあった。
薬師堂 更に降りると、右側の民家の一角といったところに、薬師堂があった (右写真)
この坂は薬師坂といい、元和九年(1623)、碓氷関所が開設されると、通行の取り締まりが厳しくなり、 更に碓氷峠越えを間近にひかえているため、無事通過の願いを込めて、薬師堂が建設された、といわれる。  薬師如来は近く湧水で洗顔すると眼病に霊験あらたかといわれ、近郊の客が多く参拝した。  近くに清澄な清水があることから、心太(ところてん)を出す茶屋があり、旅人でにぎわい、心太坂といわれ親しまれた、と案内にあった。 
霧積川 中山道は、霧積川に架かる霧積橋の手前で国道に合流してしまう (右写真)
江戸時代には、現在の橋よりやや上流に川久保橋が架けられていた。 正しくは、碓氷御関所橋と呼ばれ、中山道と関所を結んでいた。  土橋のため、増水により度々流されたが、流失すると復旧するまでは川止めが行われた。  このため、関所には大綱一筋、麻綱一筋が常備され、宿継ぎ御用綱として使われ、御用書状を対岸に渡すことに使われた、とある。 
土橋だったのは、江戸への侵入を阻止するという幕府の政策だったというが、庶民にとっては迷
霧積橋を渡る 惑だったことだろう。 橋を渡ると、国道は左からくる軽井沢バイパスと合流する。 
旧中山道は合流する手前で左の道に入る (右写真)
少し登ると元信越線の踏み切り。 その先の左側は横川関所跡でそこから下ると、横川駅である。  坂本宿からは二十分で到着。 距離として2km程度だっただろうか?! 
時間の読み違いをしたので、四十分以上、時間が余った。
これだけの待ち時間があるのなら、途中で温泉に入ってきたのに思うが後の祭りである。
バスターミナル バスターミナルは、信越線の廃線になったところにあった (右写真)
廃線の線路は遊歩道になっていて、峠の湯を通り、碓氷湖まで続いている。  そば屋があったので、入ろうとしたらお休みで、残念!!  しかたなく、時間つぶしも兼ねて、峠の釜飯で有名なおぎのやには入った。  釜飯だけかと思ったら、うどんそばやおにぎりにいたるまで、いろいろある。  夕食のこともあるので、ざるそばを注文。 やることもなくなってテレビをぼけーと見ていた。 
そばは特段にうまいというものではなかったが、時間つぶしにはなった。 お店の人の話では、
鉄道文化村 六月が一年で一番暇とのこと、おにぎり類はけっこうテークアウトが多いなど、話を伺い、時計を見て店を出た。  バスターミナルのとなりは碓氷峠鉄道文化村になっていて、いろいろな電車が展示されている。  残り二十分では中に入って見るのは無理だろうと思い、小高いところから見下ろした (右写真)
バス乗り場に戻ると二人の先客がいた。 一人は中山道歩きの仲間のようで、もう一人は軽井沢から知り合いの家に見舞いにきたという人だった。  やがて、バスがきて乗客にな
り、軽井沢に戻った。 碓氷峠越えは小生の中山道歩きの最大の山場であった訳であるが、
バスはあっというまに軽井沢に到着し、江戸時代との文明の違いを感じさせたのである。 

平成18年6月


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かうんたぁ。