『 上州路を行く  (2) 松井田宿  』


横川には、江戸幕府の 「 入り鉄砲に出女 」 の取締りのための関所があったため、
女性達はこの道を避けて、守りの緩やかな別の道を利用したらしい。
松井田宿までに幾つかの茶屋本陣があったが、五料茶屋本陣は公開されている。
松井田宿は今でも古い家や神社仏閣は残っているが、本陣などの施設は残っていなかった。




横川から松井田宿へ

横川駅 平成十八年(2006)四月八日。 今日から二日間の予定で、横川から高崎まで歩く予定である。 前日の晩に、東京から移動して高崎に泊まったので、出発が楽である。  信越線の高崎発六時四十分の電車で横川駅に向かう。  早朝一番の電車は土曜日なのに生徒と先生がほとんどであった。 安中そして松井田では生徒と先生と思われる人が降り、次の駅で数名が降ると、車内からは人影が消えた。  六両編成の電車なのに、横川駅で降りたのは、小生を含めわずか数名という寂しさだった (右写真) 
駅の右側にある改札口を出て、通りにでると、角に、おぎのやがあった。 
おぎのや 横川駅の立売りで知られた駅弁の 「 峠の釜飯 」 のおぎのやである。 
国道にある店は観光バスが殺到し大盛況なのに、こちらはしーんとしていた (右写真) 
そのまま左折して横川の関所に向かう。  少し霧雨の風情である、 途中どこにも寄らず上っていくと、十分位で到着した。  横川関所は右側の小高いところにあったので登っていった。  碓氷の関所は、醍醐天皇の昌泰二年(899)、群盗を取締るために、碓氷坂に設けられたのが最初である。  関所はここに移ったのは、元和八年(1622)のことで、幕府の 「 入り鉄砲に出女 」 の取締りを任務とした関所になった。  横川の関所は通称で、正式名称は
横川関所跡 碓氷関所、初代関守は安中藩主の井伊直勝が勤めた。  その後、四百五十年近く続いたが、明治政府により明治二年(1869)に廃関された。   現在の横川関所は昭和三十四年に復元された門だけの施設である。  これには、江戸時代に使われていた門柱と門扉、土台石などを使用した、と案内にあった (右写真)
関所改めは大名といえども緊張したようで、一般庶民ならなおさらである。  幕末近くなると幕府直轄以外の街道は警護も緩やかになったので、中山道を避けて廻り道する人も増えた。  この近くでは、脇街道の藤井関所が臨時の関札(通行手形)を入手すれば通り抜けることができたので、この道を利用するものがいた、とある。  田辺聖子さんの 「 姥ざかり花
の旅笠(小田宅子の東路日記)」では、この時の様子を以下のように描いている。
『 碓氷の関所は横川の関所ともいい、上り下りの女改めがうるさい。 中仙道をゆく旅人は、
  沓掛・軽井沢・松井田・安中と辿るわけだが、その間の碓氷峠にある関所を敬遠して東南
  にカーブして高崎へでて日光街道をめざそうとする。 これは下仁田街道の一部だ。 ・・』 
とあり、この文面から推察すると、軽井沢から和美峠を越え、南下し、初鳥屋(下仁田町西野
辞儀石 牧)と根小屋(同町本宿)を経て、藤井関所に出た、と思われる。 
この推論は、下仁田町のホームページに、「 中仙道の裏街道として栄えていた 」 とある
から、間違いないだろうと思うが・・・ 
その脇には、旅人が手形改めを受けるとき、お辞儀して手をついたというお辞儀石が残って
いた (右写真)
(注) 安中藩は碓氷関の他、杢(もく)の関所の守備も任務とした。
安中藩東門跡 この先の坂本宿は未踏破であるが、軽井沢から坂本経由で横川まで歩く予定をしているので、その部分は後日にまかせて、関所から松井田に向って街道を下る。 
このあたりには古い家が多く残っていた。  左側の木柱に、安中藩東門跡と表示されていたが、安中藩碓氷関所東門跡の方が正しいのでは?? (右写真)
街道の右側に雁金屋と呼ばれた茶屋本陣があったはずだが、今はない。 
木柱の対面に続く、古い家のあたりだろうか、と思った。 
道はカーブし、ゆるい下り坂である。 
横川茶屋本陣 街道から左側の路地を進んだ奥の小高いところに、横川茶屋本陣があった。 
横川茶屋本陣は、矢の沢の家と呼ばれたとあるが、その主の武井家は、代々横川村の名主役を勤め、幕末の頃には坂本駅の助郷総代も兼ねた。  茶屋本陣は、大名や公家達が休憩を取る場所で、このように、名主などの家が充てられることが多かったのである。  今でも生活されている屋敷なので、外からそっと覗いただけで終わった (右写真) 
街道に戻り、矢野澤橋を渡る。 
左側の上方に、文久四甲子春四月の建立の 「 御嶽山座王大権現 」 と、刻まれた背丈
石塔群 以上もある大きな石碑が建っていた。 
沢の脇には、庚申塔や二十三夜塔などの石群があった (右写真) 
少し先の左奥に、諏訪神社があり、それを過ぎると先程のおぎのやの前、右折すれば横川
駅である。 これで出発点に戻った訳だが、この間、四十分くらいか?!  
いよいよ今日のゴールである安中に向かう。  今にも雨になりそうなのが心配だが ・・・・
この先、旧中山道はかなり残っている。 
相変わらずだらだら続く下り道を歩くと、少し高いところに線路が見え桜の木があった。 
桜を写そうと土手に上ると、犬に吠えられた。 そのまま無視していると家の人が出てきて
犬を叱り、 「 列車の写真を撮るのか 」 と訊ねられた。 「 桜を写している!! 」 と答え
絶壁上の道 ると、 「 蒸気機関車を撮りにきたのかと思った 」 と言われた。 今日は蒸気機関車が走
る日 だったのである。 時計を見ると、機関車が来るまでに、まだ三時間もある。 
お礼を述べて下に降りた。  しばらくの間、線路の左側に道が続くが、やがて踏切を渡り、車がたくさん走っている国道を渡って、国道の右側に出た。 
ここからは、川沿いの絶壁上の道である。 眼下は崖で、その下に碓氷川の流れが小さく見えた (右写真) 
国道の高崎の標識を確認し、歩き始めた。 
百合若大臣足跡石 国道を少し歩くと、右に入る道があり、国道に向かって磯部茶屋の看板が立っていた。 
ここからは御前平で、右に入る狭い道が旧中山道である。 
入ったところの左側に小さな石祠があり地蔵が祀られていた。 右に目を転じると、胡坐
をかいた石像があり、下方に少しへこんだ石が地面に埋まっていた (右写真)
この石は、 「 百合若大臣が、弓矢で妙義山を射たとき、足で踏みつぶしたので、石がへ
こんだ 」 、と伝えられる、百合若大臣足跡石である。 百合若大臣は日本八大伝説の
一つで、九州地方に今でも多く残る伝説上の人物であるが、室町時代には幸若舞として
脚色され、後には近松門左衛門の浄瑠璃にも影響を与えた  (詳細は巻末参照)
白井小学校の前 こんな所に伝説の足跡が残っているとは驚きである。
中山道の区間は短く、小山沢の信号で再び国道と合流する。   小山沢橋を渡ったところで、右手の道へ入る。   このあたりは古い家が残っていた。 
白井小学校の前を通る (右写真)
少し歩くと、臼井交叉点で、また、国道に合流した。   旧中山道は、国道の向こう側の線路の向うに続いているのだが、線路には踏み切りがないので、仕方なく少し国道を横川方面に引き返し、御所平の交叉点を通り、踏切を渡った。 
碓氷神社鳥居 車を止めうろうろしている人がいた。 中山道歩きの仲間かと思ったら、SL撮影のベスト
ポジェションを探していたのである。 線路に沿って中山道は続くが、道の左側に鳥居が
あり、小高いところに碓氷神社がある (右写真)   
「  創建年時は不明なれど、碓氷峠の熊野神社の分霊を祀り、この地の鎮守として崇敬
され てきた。 建久年間(1190〜1199)、源頼朝が信州浅間の牧狩りで出かけた際、当社
に祈願し御所を置いたことから御所平と呼ぶれるようになった。 正応年間(1288〜1293)、
鎌倉北条氏が碓氷郷総鎮守として崇敬し、光明天皇が碓氷一宮として崇敬参拝された。 
碓氷神社 慶安年間(1648〜1652)に、社殿を改築、明治四十二年に周辺の多くの神社を合祀し、
現在に至る。 」 と、いう由来のある、古い神社である (右写真) 
石段を登りお参りしたが、見た感じでは、慶安年間の建物には思えなかったが・・・・ 
鳥居の近くには、庚申塔と二十三夜塔があり、また、「 此碓氷神社、西高墓、東立野 」
と、刻まれた道標が立っていた。 
線路沿いを進む道は、その先で左に別れ、小さな川を渡るとかなり急な登り坂になった。 
馬頭観音と梅の花 ここから先は旧五料村である。  五料村は江戸時代、碓氷関所要害村の一つで、村の者が余所者を監視する役目を担っていた、という。 
左にカーブする道の左側に馬頭観音碑、右側には白く咲く梅が林立していた。  一時止んでいた小雨が降りだし、少し先に見える桜が幻想的で美しく見えた (右写真)
ここで今年初めてのウグイスの声を聞いた。 ベテランなのかしっかりした口調だった。 
道は右にカーブし、頂上付近には十軒前後の家が両側に並んでいた。 
下りになると左側が高く、右側が低い地形で降りたところを左に行くと、前述の道標にあっ
丸山坂 た高墓に行ける。  このあたりは、梅林が一面に広がっていて、花は見ごろだった。  白い花が主体だが、ピンクの花も一部あった。 また、ウグイスの声がした。 
こういう雰囲気だと、歩いていてたのしいものである。 
また、登りになった。 頂上付近に家があったので、夜泣き地蔵の在り処を尋ねると、その先にあるというから、この坂が探していた丸山坂なのだろう  (右写真) 
これまで幾つの坂を越えてきたのだろうか?? 
少し下ると、馬頭観音があった。 更に、下がる。 
4体の石仏 坂が左にカーブするところの右側に、小高くなっている所がある。 
そこに、四体の石仏が建っているが、その中の大きな地蔵が夜泣き地蔵である (右写真)
『 昔、荷を積んできた馬方が、荷物のバランスをとるため、落ちていた地蔵の首を馬の
  背につけて、深谷まで行った。 帰りは不要なので、深谷で捨ててしまったが、首が夜
  になると、 「 五料恋しや 」 と。泣き声を発したので、深谷の人が哀れに思って、
  この首を五料に届け、胴に乗せた。 』 という話が残り、夜泣き地蔵と呼ばれるように
なった、とある。 同じような話は東海道の熱田宿にもあり、温泉探訪で訪れた下呂温泉
にもありましたね!! 下に降りると、道の脇に茶釜石があった。 茶釜石は、丸山坂の
上にあったのをここに移転したもので、叩くとカンカンと茶釜(ちゃがま)のような音が響く
茶釜石 ことから名前が付いたものである。 中山道を旅した蜀山人(大田南畝)は、
   『   五料では   あんまり高い   茶釜石  音打ちを聞いて  通る旅人   』 
という狂歌を残しているが、五両を五料、値打ちを音打ちにかけて、なかなか味のある句
である。 置いてある小石で叩いてみると、予想していた以上にいい音色だった  (右写真)
少し下った左側に石碑群があった。 青面金剛塔や馬頭観音などである。 
坂道を下り、鉄道の踏み切りを越えると国道が正面にあるがそれには入らず、左折して
茶屋本陣 線路沿いに行く。 左側に二軒の古そうな家があり、その先に 五料茶屋本陣の標識があった。  本陣を外から撮りたいなあと、古そうな家の脇から線路脇に移動して写していたら、家の御主人と偶然目があった。  広い庭なので見通しがよいのである。  家まで行き、 「 お宅の建物は古いのでしょうか? 」 と聞いた。  「 二十年くらいになるかなあ!! それまではあそこに住んでいたのですよ!! 」 と、茶屋本陣を指差した。  茶屋本陣の末裔(持主)だったのである (右写真ー五料茶屋本陣お西)
街道に戻り、茶屋本陣に入るため、左折しようとした角の民家の庭先に、 「 安中藩板倉伊豫髪領分五料村高札場跡 」 の木標があった。  
人相覚 線路を越えた正面に、茶屋本陣の駐車場があり、その奥に二軒の建物が並んで建っていた。 両方とも茶屋本陣の建物である。  両家は同じ中島姓だったので、右側をお東、左側をお西と呼んで区別した、という。  現在の建物は、文化三年(1806)の大火後に再建されたもので、持ち主から寄贈を受け、復元修理を行ったものである (詳細は巻末参照)
二階は資料館になっていて街道に関する資料が展示されていた。 
その中で、人相覚はおもしろかった (右写真)
土曜日だが雨が降る天候ということもあり、訪れているのは小生だけ。 係りの女性も手持
お東 ち無沙汰とあって、つきっきりで案内してくれた。 外を見ると雨が強くなったこともあり、小生も小休止となった。  お東の建物に行く途中に、安永八年(1779)建立の馬頭観世音碑があった。  また、万葉集巻十四上野国歌が刻まれた石碑もあった。 
「 ひのくれに うすいのやまを こゆるひは えなのそでも さやにふらしつ 」 と、刻まれているが、万葉仮名というか、漢字なので、これでよいのかは自信はない。
お東の建物は、お西と共通する部分が多いが、茶の間と土間の天井が竹床であることや表側中央に村玄関があるなど、多少の違いがあるようだ (右写真ー五料茶屋本陣お東)
雨も小降りなったので、中山道に戻り歩き始める。 
三叉路 左側にある理髪店の庭に、庚申塔と二十三夜塔があった。 元からここにあったのだろうか?!
上信越自動車道をくぐると、国道にぶつかる。 ここでは道路を横断できないので、高架下
の信号まで移動し、交叉点を渡る。 すぐに、三叉路があり、道の下に常夜灯と二十三夜塔
が建っていた。  国道による工事でかさ上げが行われた結果、常夜灯などが道に埋もれた
ような形になったのではないだろうか?! (右写真)
この先少しのところで,旧街道は失われている。
SLを待つ人 下り坂の入口で直進せず、左に曲がって、国道沿いの道を右へと進む。  踏切に出たら渡り、しばらく線路沿いの道を歩き、右に踏切が見えたらそこを左折する。
(注)中山道は一部が崩壊したため、完全な道は残っていない。  巻末には崩壊地に沿ったルートを紹介してみた。 小生は両方のルートを歩いてみたが、どちらがよいのか分からない。 
最初の踏み切りに話を戻す。  踏切に沿って、五人が三脚を構えて待っていた。 SLを写しにきた人達である (右写真)
宇都宮に単身赴任していた時代、真岡近辺で何度かSLを見たが特に撮ろ
SL通過 うとは思わなかった。 その内の一人に聞くと、九州出身で大阪に就職し
最近群馬に転勤になった。 鉄道フアンで、高校時代にはよく写真を撮りにいったが、
今回は時間がとれたので、写真より音が聞きたくてきたといい、信越線で四月に走る
のは初めてのようだ、と話してくれた。 あと二十分程で来るというので、少し待とうか
という気になった。 遠くからかすかな警笛の音がして小さな姿が現れた。 
除々に近づき、姿も大きくなり、踏み切りに接近すると大きな汽笛を鳴らした (右写真)
大きなゴトンゴトンという音と蒸気の音を残して消えていった。 その間何分だったのだろうか?! 
SLフアンはたった数分のために何時間も待ったのである。
金剛寺を望む 望遠を持ってこなかったので、広角レンズで撮したが、写ったかどうかより機関車の迫力
に圧倒され、坂道での蒸気の白さが妙に印象に残った。 中山道は2つ目の踏切の先を
左折し進む。 これから先は新堀集落である。 道端に、道祖神と字が見えなくなった
石碑がたっていた。 変則な四差路で、左手を見ると、山の上に寺があり、しだれ桜が
咲いているのが見えたので、中山道は直進だが、寄り道をすることにした。 
国道18号を越えると、山門があり、駐車場の周りには、馬頭観音、二十三夜塔や庚申
塔などの石碑が点在していて、金剛寺略縁起も建っていた。 源頼光の四天王の一人、
碓井貞光が開基と伝えられる寺で、正式には碓氷山定光院金剛寺である (右写真)
みつばつつじが見ごろで赤紫色の花がきれいだった。 石段の脇に、湯の澤薬師堂が
あり、石段を登ると、碓井貞光公供よう(羊篇に良という字)之塔と石仏群などがあった。 
補陀寺山門 街道(先程のところ)まで戻り、三叉路を左へ行くと大きな道に出た。 県道33号線、旧国道18号である。  近くに、松井田警察があったので、民家の庭に残るといわれる新堀の一里塚の所在を たずねたが分からなかった。  県道を少し歩くと、左側の石段の脇に補陀寺(ふだでら)の石柱と松井田城主だった 大導寺政繁の墓があったことを示す石柱が建っていた。  その奥には単層四脚柱の山門があり、関東一の道場という意味の 「 関左法窟 」 という門額を掲げられている (右写真)
雨が強くなったので雨宿りをしながら、山門の下で、アンパンを食べた。  雨は降ったり、
補陀寺 止んだりを繰り返している。  小降りになったのを待って境内に入った。  宝暦四年の寒念仏供養碑があったが、静かで落ち着いたなかなかのいい寺であった (右写真)
寺は、大道寺氏の館だった跡ともいわれるが、寺の裏山(国道の向こう)は、 小屋城とも呼ばれた松井田城址である。  安中忠政が、永禄八年の武田信玄の進攻の際、徹底抗戦し、要害の山に聳えていたので、 なかなか落ちなかったという城であるが、その後、北条氏のものになり、 家臣の大道寺政繁が入城して、松井田城と名を改めている。  大道寺政繁は、小田原城陥落後、切腹を言い渡されているが、徳川時代に、 四男が家督を認められたので、ここに大道寺政繁や子孫の墓を設けたのだろう  (詳細は巻末参照)
ここまで来ると松井田宿はすぐである。

  (ご 参 考) 碓氷関所
『 醍醐天皇の昌泰二(899)年に群盗を取締まるために、碓氷坂に設けられたのが関所である。  この地に関所が移ったのは、元和年間(1615-1623)といわれ、幕藩体制を中心とした徳川幕府の確立・安定という政治的意味をもつものとなり、いわゆる 「 入鉄砲に出女 」 の取締まりをねらいとしたものになり、明治二年(1869)廃関されるまで、中山道の要所となった。 
門柱および門扉は、当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。 ほかに、屋根材六点と台石も当時のもので、昭和三十四年一月、東京大学教授工学博士藤島亥治郎氏の設計により復元された。  この位置は番所跡にあたり、復元された門は東門である。 』
( 松井田町教育委員会 説明版より )

(ご 参 考) 百合若大臣伝説
  松井田から妙義山のふもとの村々にかけて伝えられてきたという話で、
『 昔、百合若大臣は東山道を旅して横川村小山沢まで来て、妙義山を目の前にしていた。 もともと、力があったが、川向こうの妙義山に向け、 「 よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう 」 と思い付き、満身の力を込めて豪弓を放ったところ、見事に矢は刺さり、穴を開けた。 これを見た家来の一人が負けじと、腰にぶら下げていた弁当の握り飯を力一杯山に投げつけたため、山には二つの穴が開いた。 その穴は妙義山の峰に今でもあるといい、土地ではそれを 「 星穴 」 とよんでいる。 また、山を射ぬいた矢が山の向う側に落ちたので、その川を矢川川とよんでいる。  』
百合若大臣足跡石はその時足場にした石が足跡状にへこんだものという訳である。 たわいないといえばたわいない話ではあるが面白い。 なお、百合若がこのとき使った弓矢が妙義神社奉納されているという。 
百合若は伝説上の人物であるが、 「 平安時代嵯峨天皇の時、四条左大臣公光の子で、十七歳で右大臣になり、蒙古征伐に出かける 」という類の話が、九州に多く残っていて、遠くは沖縄にもあるのである。 

(ご 参 考) 五料村茶屋本陣
五料村茶屋本陣は参勤交代などで中山道を通行する大名や公家などが休憩や昼食あるいは 他の大名行列が関所にかかっているときの時間待ちなどに利用された。 そのため、部屋数は 少ないが、上座(かみざ)と呼ばれる書院造りの上段の間、下(次)の間、式台(玄関)、 通り(入側)などを備えていた。 家族は勝手、茶の間、中の間、納戸などで生活していた が、茶の間の続きの広い座敷は名主役宅として村役所の機能を果たしていた。 
五料村茶屋本陣は、両家は同じ中島姓なので、地元では 「 お西 」 「 お 」 と呼ばれており、両家は天保七年(1836)から明治五年(1872)まで一年交代で、この村の名主と茶屋本陣を勤めてきた。  両家の建物は、文化三年(1806)の大火で焼失し、同年中に再建されたもので、 松と杉が主だが大黒柱などには欅を使用している。 
明治天皇上座 お西の建物は間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、家族居住部分は二階になっている が、上座は平屋である(二階はなく、天井も高く、天井に入れない工夫もしていた)  現在の建物は寄贈を受けて、江戸時代の再建当時の図面通りに復元したが、上座(かみざ)部分は明治十一年九月六日に明治天皇が北陸東海道御巡幸の折「御小休所」として使われたので、明治十一年に大改修された状態のままに保存されている (右写真)
お東は平成四年(1992)に寄贈を受け、建築当初の姿に復元された。  建物は間口十三間、奥行七間、総二階切妻造りで、上座は式台と表の間、次の間、上段の間、 これに鍵の手の入側(畳敷きの通路)が付いている(これらは建築当初のまま)  便所は旧位置にそれぞれ三ヶ所復元されていた。
両建物とも、東西に土蔵を配し、鼓山を眺める南面の借景庭園はすばらしかった。 
なお、板葺きであった大屋根は、防火上の配慮から板葺風のスレート瓦葺になっていると いう。
( 入館料210円、9時〜17時、休館日 月曜日(祭日の場合は翌日) )

(ご 参 考) 旧中山道の五料と新堀上本町を結ぶルートは??
五料と新堀上本町を結ぶ旧中山道は国道18号を越えた先にある三叉路を右行く妙義道を 少し行き、坂上の地域センターあたりから道がついていたと思われるが、 崖崩れで通行不能になっている。 途中に石上の地蔵があった。 
従って、道に拘らず、前述した線路沿いの道を行くのが楽で時間のロスも少ないが、中山道に拘って歩くのなら、次の方法がある。
三叉路 常夜塔の右の道を行く。 右に妙義山の勇姿が見える。 坂の途中の右側に地域センターがあり、そこを過ぎると急斜面で降りていく。 ほぼ降りかけたところの左側に細い道(農道だが電柱が立つ)がある。 
 (右写真は農道から振り返って写したもの。 雨に煙った妙義山が見える)
坂を下った道はそのまま行くと妙義神社に至る妙義道である。
 (この坂は松の木坂というのかなあ?)
崩れた崖と平行していている道を田の中に辿ると、反対側に登り道があるので、急坂を登ると集落に出る。 そのまま進むと、前述の2番目の踏み切りのところに出てくる。 
踏み切りを渡ると上記の左折する場所で合流する。

(ご 参 考) 金剛寺略縁起
『 源頼光に従い、四天王として武勇のほまれ高い碓氷定光は、碓氷山中毒蛇が跋扈し 村民が難渋しているのを見て、弘法大師自作の護持佛十一面観音に祈願し、峠に登ると 毒蛇に襲われたが、十一面観音の庇護により大蛇を調伏させた。  この時、守り本尊を祀り、蛇骨を納めるために開基したのが当寺である。  その後、寺は荒れたが、応永元年に中興するも寛文年間に焼失。 貞享三年に再建するも また焼失。 享和三年に落慶した。 』 

(ご 参 考) 松井田城
長野業正の娘婿であった安中忠政は、永禄八年(1565)武田信玄の進攻に遭い、 徹底抗戦する。 武田軍は要害の山に聳えていたこの城を容易に落とせなかったが、 苦戦の上になんとか勝利し、安中忠政を斬首し、城は武田のものになった。  武田氏が滅んだ後は、北条氏政の城となり、家臣・大道寺政繁が入城して大改修工事を行い、 城の領域も四倍以上の大きさにして、名を松井田城と改めた。  しかし、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城し、その後は廃城となった。


松井田(まついだ)宿

新堀森崎 昼飯をと思い、西松井田駅前の交叉点を右折して西松井田駅に行ったが、食堂やお店といった店は一軒もない。  駅の後に見える妙義山が人を威圧するようにそそり立っているのが印象的だった。  しかたなく、街道に戻り、旅を続ける。 道はゆるい下り坂になり、地名も中宿に変った。 新堀の交差点を過ぎると、地名が森崎に変り家数が増え古い家も残っていた (右写真)
群馬銀行そして松井田郵便局を通り過ぎると、左奥に本照寺や松井田小学校がある。 
江戸時代には、京側の入口である松井田宿の上木戸があったとされるところである。
松井田宿は、天保十四年の中山道宿村大概帳によると、宿内人口千九人、家数二百五十
二軒、本陣二軒、脇本陣二軒、旅籠は十四軒だった。  木曽路名所図会に、 「 此の駅を
上町 松枝ともいふ 」 とあるが、中山道の中では大きな町で、壬戌紀行にも、 「 松井田の駅にぎはえり 」 と書かれている。 しかし、一方では、日があるうちに面倒な関所は越しておきたいと、松井田に泊まらず通過する大名や旅人が多かったといい、 「 雨が降りゃこそ 松井田泊まり 降らじゃ こしましょ さかもとへ 」 と、馬子唄に歌われている。
上町に入ると古そうな家や商店が多いのだが、土曜日のせいか、シャッターを閉めている店もあり、開けている店にも客の姿はなかった (右写真)
本陣や旅籠などはないかと探しながら歩いた。
仲町 左側にあった松本本陣は跡形もなく、ヨロズや書店などのお店に変っていた。 
その先に、辻中医院と書かれた、古い建物があった。  対面には同じ苗字の辻中薬局が伊勢屋の看板をかかげていた (右写真は辻中医院付近)
仲町交叉点は、左が榛名道で、右が妙義道である。 江戸時代の後半になると、山岳詣でが盛んになり、妙義山や妙義神社には多くの人が訪れた。 前述の東路日記の小田宅子さん一行も日光に行く途中寄っている(詳細は巻末参照)
金井本陣は、仲町交叉点を越えた右側にあったが、現在は群馬県信用組合と下駄屋にな
大きな古い家 っていて、今は痕跡もない。 対面にある山城屋酒店は、外郎陣道斉の店跡である。 
更に、道を下る。  右側にかんべやと書かれた古い看板が張り出されている古い家屋が
あり、妙義山登山口と書かれていた。 ここにも狭いが道があり、妙義道である。 
道を越えた先の大きな古い家には、字が汚れて見えなくなっているが、昔の講のような
名前が書かれていたので、旅籠を営んでいた家に思えるが、どうだろうか?? (右写真)
それにしても、街道に車が通るようになったせいか、古い建物だけでなく、商店もなくなって
しまったのは、過疎化の問題が近づいている兆候に思えた。 
蔵のある古い家 かんべやの向かいあたりに、伝右衛門脇本陣があったとされるが、蔵のある古い家が建っていた。 これが脇本陣跡なのかは、分らなかった (右写真)
その先に下町交差点があり、道はその先で。左にカーブしていた。 松井田宿の下木戸は、後藤建具店の前あたりにあったとされる。 ここが松井田宿の終わりである。
松井田宿は宿場に関係するものは何も残っていないので、それだけならあっという間に通り過ぎてしまうが、 江戸時代初期の神社、仏閣があるので、寄るのもよいだろう。 
街道の左側にある松井田八幡宮の本殿は江戸初期の建築で県の重要文化財。 
そこを少し東へ行った所にある不動寺の不動明王像は、鎌倉時代の作といわれ、県の重要
文化財である。  参道には異形板碑の石塔婆が残っている (巻末参照)

(ご 参 考) 東路日記の妙義山詣で
松井田駅から車で20分のところに妙義神社(西松井田)がある。 妙義山の主峰、白雲山(はくうんさん)の山麓に建つ神社で、創建は宣化天皇の二年(537)なので、約千五百年の歴史を持ち、妙義山信仰の霊地として、明治初期までは神仏習合であった。 徳川家にも深く信仰され、建物に施された龍や鳳凰などの精巧で見事な彫刻は、江戸の彫刻師の手によるものと伝えられている。 宝暦六年(1756)に建てられた黒漆塗銅葺入母屋造の本殿と銅葺平入の唐門、総門は、国の重要文化財に指定されている。 祭神は大和武尊、豊受大神、菅原道真公である。  
妙義山 妙義山は一種独特の姿で、強烈なインパクトを与えられる。 このような山塊は全国でもないだろう。 
今回の旅では、右側にはづーと妙義山が見られた (右写真ー西松井田駅駐車場より)
田辺聖子さんが書かれた 「 姥ざかり花の旅笠 」 の主人公、小田宅子さんも妙義山詣を行っている。
「 ねご屋(下仁田町根小屋)から、うるしがやといふにつく 」(原文) とあるので、前述の藤井関所を出てから、中小坂で左折し北上し、漆萱(下仁田町西牧)に出た。 
(注)彼女等の行き先が日光東照宮だったこともあったろうが、妙義神社が徳川幕府の庇護を受けていたので、寄ろうということになったのだろう。
その先、 「 近くに聳える峰を中尾岳と教えられる。 」とか、 「 半里のぼって中尾岳の大黒天に詣った。 」、 「 ここから更に一里行って妙義山権現に着いた。(中略)妙義詣りの人でにぎわっていた。 参詣者はここの名物、御夢想の薬という妙薬などを買う 」 と書いているが、(小田宅子さんの記憶違いだと思うが、)中尾岳ではなく中之岳だろう。 彼女等は中之嶽神社の参道入口にある大国神社にお詣りをして妙義神社の宿に着いた。
(注)妙義山は多くの山の総称で、その中央にある白雲山(1104m)、相馬岳、金洞山(1081m)、金鶏山(1105m)のことを登山家の間では中之岳と呼ばれているようである。 小田宅子さんが歩いたルートに中の岳登山口がある。 また、金洞山の麓にある中之嶽神社の参道と小田宅子さんらが歩いた道が交差するところに大国神社がある。 
それにしても、女主人主体の旅の一行が、中山道の追分宿から妙義山の宿まで八里の山道を一日で歩いたとは驚きである。 昔の人の健脚ぶりは凄いですね!!

(ご 参 考) 不動寺
仁王門は江戸初期の建築とされており、間口6.05m、奥行3.5mの三間二間の柿葺単層切妻造りの門で、蟇股・欄間などに桃山時代の作風をよく残しているが、江戸時代初期の改築と推定される。
前参道西側にある覆い屋根で保護された石塔婆は異形板碑である。 安山岩の自然石に板碑様式の仏種子や文字を刻んだもので、一石に一種と限らず二及至三の別様式を刻んでいる。 文字は観応三(1352)年円観・見性・敬白等があり、北朝年号を刻んでいる。 観応三年壬辰(1352)八月廿日とあるので今から六百年前のものである。
不動堂の不動明王像は鎌倉時代の作といわれ、県の重要文化財に指定されている。

平成18年4月


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かうんたぁ。