松井田宿から安中宿までは二里十六町(約10km)あるので、途中の八本木と原市に茶屋本陣が設けられた。
安中宿は城下町だった為か、宿場の規模は小さかった。
安中藩の初代藩主は井伊直勝であるが、その後藩主が次々に変ったが、明治維新まで続いた。
板倉勝明が行った安政の遠足(とおあし)は日本で最初のマラソンである。
平成十八年(2006)四月八日。
今日は横川から安中宿まで歩く予定である。 横川から松井田宿までのんびり歩いたこともあり、今日は安中宿へ到着できればというところである。
下町交叉点を越えてしばらく歩き、レストランサミーが右に見えたら、右に分かれる狭い道に入る。
これは、明治天皇道といわれるもので、明治天皇が巡幸されたとき作られたものである。
静かな緑が多い道で歩きやすい。
このあたりは琵琶久保という地名だが、右側が崖になっていて、その下には、碓氷川がカーブを描いて流れていた (右写真)
左側の木立の下に古墓・石塔群が立っているところを過ぎ、道を少し登ったら、国道18
号線と合流した。 合流点には、郷原村戸長役場跡の看板が立っていたが、字がかすんで
読み取りずらかった。
国道を五百メートル程歩くと、セブンイレブンが見えてきて、その前が三叉路になっている。
三叉路の手前に大阪ナンバーの大型バスが止まり、中山道歩きの団体が来るのを待っていた。
また、国道の右側に、常夜燈があるのが見えた (右写真)
近づくと、国道に沿って細い道があり、右側に、常夜燈と道祖神碑や山中貞輔の碑があった。
常夜燈は、妙義講の人達が道標を兼ねて建てたもので、以前は北東五十メートルにあったのだが、昭和三十年の国道開通工事で埋まったのを昭和六十年にここに移設したものである (詳細は巻末参照)
かつては、この常夜燈から妙義山へと、道が続いていた、という。
今は道の入口だけは残っているが、その先は道が失われ行き止まりとなっていた。
三叉路にあるセブンイレブンに寄り、お茶とチョコレートと飴を買った。
中山道は左の道を行くのだが、国道でないので、車の量は大幅に減った。
バスの連中はあそこで乗って何処に行くのだろうか?、と思いながら、しばらくの間、黙々歩いた。
このあたりは、向平というところらしい。 古い家はかなり残っているが、痛みが激しい家が多かった (右写真)
右側に、桐の古木があり、そこに 「 荒木流山中秀次郎道場 」 と書かれた看板があった。
先程の常夜燈の隣に、山中貞輔碑があり、 「 月の入る 西の都を さして行ば 帰らぬ旅
に 迷路もなし 」 と刻まれていたが、江戸時代の剣豪だったようで、山中秀次郎はその子
孫である。 近くにそれらしい建物もないので、旧宅跡なのか??
ここからはだらだらと下り坂が続く。 道の左側に、磯貝雲峰旧宅跡と表示板があった。
磯貝雲峰は明治時代の人で、旧九十九(つくも)村下増田の出身で、同志社を出て、女学校に勤めながら詩作に励んだ。
二十八歳の時渡米し、帰国後も中央文壇で活躍したが、三十二歳で亡くなった。
雲峰の碑は、安中市松井田町下増田にあり、表面に彼と交友があった徳富蘇峰による撰文があり、
裏面には雲峰の 「 早蕨を 折りし昔よ 偲ばれて 恋しくなりぬ ふるさとの山 」 と、いう歌が刻まれている。
きれいな桜が目に入ったので覗くと、原市小郷原分校だった (右写真)
左側の道脇に、安永五年の道祖神と百番供養碑があった。
左に入って行くと、お堂があり、手前には、石仏と石碑が並んで立っていた。
その先の畑の先に、自性寺(じしょうじ)という寺があった。
門前には、双体道祖神像や百番供養碑などが建っていて、満開の桜とバランスよく調和して美しい情景を醸し出していた (右写真)
境内には、宝篋印陀羅尼経を収めた供養塔である宝篋印塔が二基あり、どちらも室町時代のもので、
応永三年(1374)と嘉吉四年(1444)に建てられたものである。
自性寺と日吉神社鳥居の間には、聖徳太子尊、青面金剛塔、庚申供よう塔などがあったが、大きく立派なものだった。
なお、上記庚申供よう塔の「よう」は羊篇に良という字で、塔も今では使われていない文字だった。
馬頭観音碑があり、更に歩くと、道祖神碑と小さな社(やしろ)があった (右写真)
このあたりは諏訪西集落だろうか?!
原市幼稚園を越えた先の四差路を右折すると、磯部温泉に行ける (巻末参照)
磯部温泉の東方、磯部4丁目の磯部小学校の近くにある松岸寺には、古い五輪塔が二基あり、
右のは正応六年(1293)四月十日、左のは一部欠落しているが、正応六年三月十二日
とある。 佐々木盛綱の墓と伝えられるものである。 佐々木盛綱は、備前児島で平行盛を
破り、戦功により伊予、越後の守護に任じられたが、正治元年(1199)に出家して西念と号し、
この磯部の地に隠居した、と伝えられる。
旧中山道は真っすぐに行く。
十字路を越えると、八本木集落に入る。
少し歩くと、左側に赤い幟が見えてきた。
満開の桜に彩られたのは八本木延命地蔵堂である (右写真)
酒井家次(慶長九年〜元和三年)は、ある夜、夢のお告げにより御堂を改築し、秘仏の前立ち地蔵尊像を寄進し、信仰を怠らなかった。 参勤交代の為、東海道を往来する諸大名も、下乗下馬(騎乗のまま通れば仏罰により落馬するという)して参詣した、と伝えられる。
地蔵尊の御開帳は百年目ごとで、日本三地蔵(新発田、八本木、壬生)の一つである
(詳細は巻末参照)
その前には、八本木立場茶屋だった家がある。 今も生活している民家で、山田家である。
坂というほどではではないが、少し下り坂になっている (右写真)
道の傍らに二つの小さな祠が祀られていて、 「 安中最古の庚申祠で、寛永十二年の建立である 」 と、説明板にあった。
原市(はらいち)に入ると、二階建ての大きな建物がだんだん多くなり、少しごみごみした感じになった。
倉の持つ家が多いのは、原市という地名と関係があるのだろうか?!
八本木立場茶屋から安中原市郵便局まではかなりの距離があった。
その先の右側の民家の前に、原市高札場跡と書かれた木札があり、玄関前には明治天皇原市小休止所の石碑が建っていた。
この家は、原市茶屋本陣を営んでいた磯貝(五十貝)家の跡である (右写真)
道路の反対側の小高くなっているところに真光寺の鐘がある。
「 安中藩主板倉勝暁により時の鐘として許可され、天明元年(1781)より撞き始めた。
鋳工は信州上田の小嶋文治郎紀弘行で、寄付したのは磯貝氏等である。
天保三年(1832)に本堂と鐘楼は焼失したが、男二人を雇って昼夜時を知らせ続けた。
こうした由緒から戦時中供出を免れた。 」 と、説明板にあった。
その先の建物はこれまでに見た建物とは変わっていた。 屋根に明かり取りがあることを考えると明治に盛んになった養蚕のために建てられたものだろう (右写真)
左側にある立派な塀と屋敷門を持つ家の前には、原市村戸長役場跡と、書かれていた。
なお、戸長役場とは、明治十一年(1878)〜二十一年(1888)まで置かれていた地方の町村役場のことである。
少し歩くと、街道上に大きな杉が数本生えているのが見えてきた。 天然記念物に指定さ
れている原市の杉並木である。 約一キロに亘って続く杉並木で、江戸時代初期に始まった
とされ、天保十五年には七百三十一本もあり、日光の杉並木と並び称されたようである。
その後、次々と枯れてしまい、昭和八年に三百二十一本あったものが、昭和五十二年には
五十七本になり、今や十数本になってしまった (右写真)
交叉点の先にも続いていたようだが、今は植栽が植えられているだけだった。
ぽつりと立っている天然記念物碑がとても寂しげに見えた。 駐車場の対面に青面金剛碑、
名号碑や道祖神碑があった。 安中実業高校前の交差点で、国道18号線と交差するが、
交叉点を渡って直進すると、安中の町に入る。 時間は十七時を過ぎたので、写真を撮り
ながら安中の町を歩くのは無理と判断し、安中駅に直行することにしたが、誤算があった。
駅は安中宿を越えた先にあり、約3kmもあったので更に三十分近くかかった。
雨や晴れと変りやすい天候の一日だったが、予定の横川〜安中を歩くことができたのに
満足し、昨夜泊まった高崎の宿に戻った。
(ご 参 考) 妙義道常夜灯
『 妙義道常夜燈は、郷原を中心とした妙義神社を尊崇する人たちが、原市に仮住いしていた信州伊奈郡手良郷野口村の石工向山民吉に造らせ、文化五(1808)年四月七日に建立したものである。 台座には建立者六十二名の姓名と向山民吉の名が記してある。 露盤と笠に刻まれた八重菊は妙義神社の紋章と同じであり、塔身には 「 白雲山 」 、台座には 「 是より妙義道 」 と刻んである。 常夜燈であるとともに中山道から妙義への入口を示す道しるべとしての役割を果たし、当時の人々の妙義山への深い信仰心を証している。
ここから東へ五十メートルの地点、中山道から妙義道への入口に立っていたものを昭和六十年三月に現在地に移した。 』
(安中市教育委員会説明板)
(ご 参 考) 磯部温泉
国道の磯部温泉入口にある磯部茶屋では、おきり込みうどん(880円)、鴨汁そば(850円)などが食べられる。 国道を横切ってやや下り坂の道を行き、碓氷川にかかる鑛泉橋を渡ると磯部温泉である。
狭い道に旅館のビルが雑然として建っており、 舌切雀のお宿・ホテル磯部ガーデン(1000円11時から16時)や愛妻湯の町磯部温泉郷・恵みの湯(300円10時から21時第2、4火曜日休み)など日帰り温泉利用ができる。
(ご 参 考) 八本木延命地蔵尊
『 地蔵堂の本尊・延命地蔵菩薩像は、大永五年(1525)、松井田小屋城主・安中忠清が、原市に榎下城を築いて移り住むとき、かつての故郷・越後国新発田より近戸明神、米山薬師と共に、城の守護仏として勧請した、と伝えられている。
円頂(剃った坊主頭)の頭に袈裟と衣を着用し、普通の僧侶の姿をしている像は、木造寄木造りで、総高一メートル十五センチの金箔半跏趺坐像で、様式は田舎造りで、素朴の中に威厳と気品を備え、頭頂が偏平になっていることなどから造像された年代は室町時代初期のものとみられる。 秘仏として御開帳を百年目ごとにする定めとなっており、日本三地蔵の一つであるといわれている。 』
(安中市教育委員会説明板と上州原市八本木延命地蔵尊奉讃会説明版より)
平成十八年(2006)四月九日(日)、高崎発七時五十九分発の列車で、安中に向かう。
安中駅からは、安中実業高校までバスで行き、そこから歩けばよいと思ったのであるが、到着して見て失敗だったことに気がついた。
駅でバスの時間を確かめたら、日曜は安中実業高校へのバスだけでなく、市内に走るバスのほとんどが運休だったのである。
地方には、通学と通勤そして病院と市役所に行くだけのバスしか走っていないことはよくある。
しかたがないので、気を取り直して歩き始めた。
駅を出て久芳橋を渡ると、天気がよいので、妙義山の異形な姿がはっきり見えた (右写真)
下野尻交叉点で国道と別れ、旧中山道である県道に入る。 道は上野尻に向かって登り
になっている。 少し歩くと、熊野神社の表示があったので、右折し、その道に入った。
西広寺(?)に上る参道に美しい桜を見た。 満開で花びらがひらひらしていた (右写真)
安中には古代の官道である東山道が通り、野後駅(のじりのうまや)があったところと、
いわれている。
信濃国から入山峠を越え、坂元、松井田を経て、野後(のじり)から上野
国の国府があった群馬駅(くるまのうまや)へと、通じていた。 上野尻や下野尻はその
時代の名残りの名前である。
熊野神社は、安中忠政が安中城の守護神として祀ったのが始まりという神社で、本殿には
彫刻も施されて中々立派であった (右写真)
境内は広く、諏訪神社から移植されたという千年以上の大檜があり、猿田彦大神と
刻まれた碑が建っていた (詳細は巻末参照)
街道に戻る。
地名が知らない間に、伝馬町に変わっていたが、このあたりが安中宿だったところである。
安中宿は、中山道が開設されたときには宿場ではなかった。 元和元年(1615)、井伊直
勝が分家して安中藩三万石を領すると同時に宿場になったのであるが、 城下町であったこ
とが影響してか、宿場の規模は小さかった (右写真ー伝馬町の町並)
宿場の長さは四町とあるので、約四百五十メートルくらいか、天保十四年の宿内人口は三百
四十八人、家数六十四軒、本陣一軒、脇本陣二軒、問屋一軒、旅籠は17軒だった。
旧中山道は、国道工事で拡張されたことなどから、当時の建物は消え、どこにあったかも
はっきりしない。 右側の安中郵便局が安中本陣跡だが、それを示す表示は見つからなか
った。
その先を右折し、細い道を歩くと突き当たりに大泉寺がある (右写真)
ここには安中藩を作った井伊家の夫人等の墓がある。
この道を左折すると、右側に旧碓氷郡役所があった。 明治十一年に法律が公布され、
郡が地理的な名称から行政区画となった。
群馬県では十一の郡役所が設けられたが、碓氷郡役所は旧安中本陣に置かれた。
十年後の明治二十一年に現在地に移転したが、明治四十三年の火災で焼失、翌年建て直されたのが現在の建物である (右写真)
大正十二年に郡制が廃止になり、大正十五年郡役所は廃止になった。
その先の木立の中に、日本キリスト教団安中キリスト教会があった。
礼拝堂は、新島襄を記念して建てられたもので、正式には、 新島襄記念会堂 という。
大谷石造の建物は外観はゴシック様式で、正面玄関の左側に鐘塔があった (右写真)
しーんとして威厳がある雰囲気の教会で、中に入るのがはばかったので、外から覗くというだけで終わった。
安中教会の脇の道を北に向かう。 このあたりが安中城の広小路で、その裏にある双葉幼稚園は大手門入口だった。
その先の空き地には堀跡の表示があった。 安中市は城跡について細かい表示をしているなあと感じた。
このあたりは信濃と上野の要害の地になっていたので、 越後上杉氏、北条氏と武田氏の争奪の的になった。
永禄弐年(1559)、長野氏の箕輪城を守るため、娘婿の安中忠政が、この地に城を築く、
これが安中城であり、地名の始まりでもある。 安中城は碓氷川と九十九川に挟まれた
鞍部にあり、現在の小学校と市文化センターあたりにあったようである (右写真)
安中氏が長篠の戦いで全滅してから、一時は廃城になっていたが、慶長十九年(1596)
井伊直勝が城を再築し移り住んだ。 安中藩の誕生である。 その後、城主の入れ替え
はあったが、明治まで続いている (詳細は巻末参照)
駐車場の先にある一角に、安政の遠足(とおあし)の碑が立っている (右写真)
遠足とはマラソンのことで、安中が日本のマラソンの発祥の地である。
安政弐年(1855)、藩主の板倉勝明が、藩士の心身鍛錬のために始めたもので、今でも
毎年五月第二日曜日に、ここを出発点として、碓氷峠の熊野権現まで、七里余りを走る
「遠足マラソン 」 が実施されている (巻末に補足あり)
そこから武家屋敷に向かう。 通りかかった人に道を聞き云われた通りに歩いた。
まずあったのが、安中藩郡奉行屋敷(猪狩家)である (右写真)
猪狩幾右衛門懐忠が、幕末から明治初期まで郡奉行を勤め、住んでいた家で、その
子孫から寄贈され、復元されたものである。 長屋門の奥にある母屋は、この地方では
珍しい曲屋で、上段の間、土間、式台付きの玄関などを備えていて、茅葺きの立派な
建物である。
家の北側の道には、大名小路という名が付いていた。
道の向う側に、武家長屋があった (右写真)
安中城西門のすぐ東にあった四軒長屋で、その東隣には、五軒長屋があった、とある。
四軒長屋は、間口八間、六間、六間、六間の長屋である。
これらの奉行屋敷と武家
長屋は、安中藩の右筆の残した図面をもとに復元したものとあったが、当時の様子が
窺えて、貴重なものに思えた。
街道に戻り、谷津坂を上る。 左側に便覧舎跡の石柱があった。 便覧舎は、明治五年
(1872)に創設された日本最初の私設図書館であったが、明治二十八年(1893)に火災で
全焼してしまった、と書かれていた。
市役所入口交叉点の先を左折すると、妙義道で、
磯部温泉に行くことができる。 その先の上野尻郵便局の前に、安中大木戸跡の石柱が
あったので、このあたりが京方の入口だったのだろう (右写真)
道の反対側の奥に愛宕神社があり、その前の桜がきれいに咲いていたので、立ち寄った。
その先の交叉点を越えたところに、新島襄の旧宅の案内があったので、左折し、正田病院前を通り、指示通りに進むと、小公園があり、そこには新島襄の顕彰碑などがあった。
その裏側にある藁葺き屋根の屋敷が、新島襄の旧宅だった (右写真)
桜が丁度満開で、茅葺き屋根とマッチして、美しかった。
彼が生まれたのは江戸の神田にあった安中藩の江戸屋敷であり、安中ではない。二十一歳の時、日本を脱国し、米国ボストンで
学び、十年後帰国した時に父母姉妹と再会した家である。 この家は廃藩置県により江戸藩邸が引き払いに伴い、この南東
百メートルの地建てられたもので、昭和三十九年、安中市が有志とはかり、ここに移し修理復元したものである。
以上で安中市内をほぼ1周したことになる。
安中は宿場の古い町並はすっかり影をひそめ
ていたが、城下町としての遺跡と新島襄の痕跡がわずかであったが残っていた。
街道に戻り、昨日歩いた中山道をもう一度歩いて、次の宿場である板鼻宿に向かった。
(ご 参 考) 熊野神社
『 熊野神社は、永禄二年(1559)、安中忠政が、安中城を築いたとき、城の鬼門の守護神として、熊野三社を勧請したのが始まりとされる。 明治までは熊野権現と呼ばれたが、廃仏毀釈により現在の名前に変えた。
本殿は、切妻造り妻入で、桁行三間、梁間二間の大きさで、前面に千鳥破風をつけ、そこから向拝に、流れ屋根をかけた春日造りに似た造りになっている。 また、七面の板羽目に、鳳凰や梅、楓などの樹木と霞のような雲を配した彫刻を施している。
境内には1000年を越す大檜が残るが、雷害により3分の1になってしまった。 』
と、案内板にあった。
(ご 参 考) 安中城
長野業政は、上杉憲政の重臣として関東管領を支え、十二人の娘を近隣の諸侯に嫁がせる など、血縁をもって西上州周辺の盟主となった 。
娘婿の安中忠政は、武田信玄の西上野進出に備え、長野氏の居城箕輪城の防御として、永禄弐年(1559)、安中に城を築城し、嫡子忠成を安中城に入れ信玄に備えた。 永禄七年、信玄軍は碓氷峠を越え、松井田城、安中城を攻め、両城とも落城した。 安中忠政は、最後まで抵抗したので殺されたが、息子の忠成は、抵抗することなく、城を明け渡したので、武田の配下となり、城代となり生き延びた。 しかし、安中忠成は、武田勝頼に付いて長篠の戦いに出て、全員が戦死し、城は廃城同然になった。
徳川家康の関東入りにより、井伊直政は上野箕輪に配置され、和田の地を城地に選んで高崎と名付け、高崎藩ができ、安中領も領地となった。 関ヶ原勝利後、井伊直政は近江国佐和山に移る。 直政死後、長男の直勝は彦根城に着手するが、病弱なために大坂の陣に参陣できなかった。 家康は、代わって参陣し活躍した井伊直勝の弟の直孝に、彦根藩を継がせ、本家とした。 長男の井伊直勝には、井伊氏の別家として、かっての領地の一部、安中に三万石を与え、安中藩として存続させた。 慶長十九年(1596)、井伊直勝が安中城を再築し移り住んだが、二代目の直好の時に三河西尾に転封になり、その後は陣屋造りで、水野、堀田、坂倉、内藤、坂倉と城主の入れ替えはあったが、明治まで続いている。
(ご 参 考) 安政の遠足
安政の遠足は、とおあしという。 えんそく( 歩く)ではなく、マラソン(走る)なのである。
安中藩主・板倉勝明が安政弐年(1855)、藩士の心身鍛錬のために始めたもので、一時中断はあったが、今でも毎年実施されている。
オリンピックのマラソン競技が最初に行われたのは、1896年であり、安政の遠足はそれよりも四十年も早い。 安中城の跡に建てられた市文化センター前を出発し、松井田、横川、坂本を経て、碓井峠の熊野権現まで走るもので、日本のマラソンとしては現存する最古のコースである。 毎年五月の第二日曜日に行われる。
(ご 参 考) 新島襄
新島襄は、天保十四年一月十四日(1843年2月12日)に安中藩江戸屋敷の一隅で生まれた。
安中藩江戸屋敷は、神田錦町にある学士会館の建っているあたりにあった。
十四才の時、藩から選抜されて蘭学を学ぶようになったが、元治元年(1864)の二十一歳の時、函館から脱国して米国へ渡った。
ボストンでフイリップス高校、アーマスト大学、アンドーウア神学校を卒業し、明治七年(1874)十一月二十六日横浜着、
同二十九日朝、十年余待ちわびた父母をこの家に訪れ喜びできわまる。 滞在は約三週間、家人郷党に西洋文化とキリスト教を
語り、龍昌寺を借りて演説し、上州キリスト伝道の基礎を築く。かくして安中は当時開港場を除き国内キリスト教初伝の地
となる。 賛成は安中を去り、京都で布教を始め、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立、その後、安中でもキリスト
教の伝道を行った。 本名は七五三太であったが、アメリカへの密航した船の船長ホレイス・S・テイラーにJoe(ジョー)と
呼ばれたことから、帰国後は、譲或いは襄と名乗った。 明治二十三年(1890)一月二十三日に、神奈川県の大磯で
四十七歳で亡くなった。 この家はもと廃藩置県により江戸藩邸の引き払いに伴いこの南東百メートルに地に建てられたもので、
昭和三十九年、安中市と有志がここに移設し、修理復元したものである。
平成18年4月