『 中山道を歩く − 上州路(4) 板鼻宿  』


安中宿と板鼻宿は3.3km程度しか離れていないが、その間に碓氷川が流れていて、徒歩(かち)渡しだったため、川止めが多く、板鼻宿はそのための宿として繁盛したようである。 
中宿の蓮華寺は、世良田長楽寺を開いた栄朝が開いたもので、板鼻にある聞名寺は一遍上人の開創である。 
狭いところにしては、寺も多いところだなあ、と思った。 




 

安中宿から板鼻宿へ

安中駅と東邦亜鉛精錬所 平成十八年四月九日(日)、安中宿から高崎宿に向う。  安中宿と板鼻宿は三十町と、三.三キロほどの短い区間である。  安中宿を出ると、下野尻交差点で国道18号線と合流。 旧中山道は、交差点を越えた先のグランドあたりまであり、ここから舟渡しで碓氷川を渡っていたが、今は道がなくなっていた。 そのため、久芳橋の右側にある歩道専用橋を渡るが、この橋は右側にあるため、左側の中山道に入るには不便である。  JR安中駅の右側に不気味な建物群が現れたが、東邦亜鉛の精錬所の奇怪な構造物である  (右写真)
かって、安中公害訴訟で新聞などに賑わしたという会社だと、人に教えられた。 
庚申塔 小生は昼飯を取るため、駅の手前のラーメン屋に入った。 食事を終え、駅前の道路手前
の左側の道に入る。  旧中山道は、先程の川を渡って、対岸に出ていたので、その先のT字路で左折すると、対岸に出た。 ここから江戸時代の中山道が始まり、鷹の巣の対岸まで続いている。 ここには馬頭観音があった。 右にカーブすると、年号不詳の蚕養神と宝暦三年の道祖神と、少しはなれて寛政十年の寒念仏供養搭がある。  先程のT字路を過ぎ、少し歩くと、右側に大きな字で庚申塔と書かれた石柱が目に入った (右写真)
高龍書にて、 「 従是一宮大日街道 」 と、彫られていて、富岡市一の宮にある貫前神社
中宿集落 (ぬきさきじんじゃ)への道しるべを兼ねた庚申塔である。 享和二年(1802)に建立された
ものである。 ここはよく見ると、三叉路になっているのだが、一の宮に向かう道が小さいので、ここにこうしたものが置かれているのに違和感を感じたが、江戸時代はこの道幅が普通だったのだろう。 
中宿集落には、古い家が多く残っているが、傷むのに任せている感じがする (右写真)
この先の左側に一里塚跡があるのだが、どこにあったのか確認できなかった。 
そのまま歩いて行くと、家が途切れて、碓氷川に突き当った。 
諏訪神社 江戸時代には、ここから舟渡しで対岸に渡っていた。 ここで折りたたみ式の自転車に乗った人に遭った。 途中まで車で来て、その先は自転車で中山道を見て周るという。 
彼は碓氷峠に向うというので、ここで別れた。  道を戻り、左折し、県道に出ると、交叉点の向こうに、諏訪神社が見えた (右写真)
「 明治天皇小休止所 」 の石碑があると、なにかで読んだので横断歩道橋を渡って向かった。  諏訪神社には、近隣の神社を合祀したのか、小さな社が並んで建っていた。 また、三寒供養石祠があったが、明治天皇小休止所碑は見付けられない。 通りかかった人にも聞いたが、地の人ではないから分からない、といわれた。 
蓮華寺 その隣の桜が咲いていた寺は蓮華寺である。  蓮華寺は、栄朝禅師が中宿で仮寝をした時の夢によって建てられたといわれ、鎌倉時代の栄朝禅師木像がある (右写真)
栄朝は上野団那波郡に生まれ、臨済宗の開祖、栄西の門に入り、徳川義李の招きで世良田長楽寺を開いた僧である。  また、当寺には文化四年の読誦供養搭がある。
近くの広場(?)には大きな御嶽山座主大権現などの山岳信仰の碑と庚申塔碑などが祀られていた。
県道に戻り、鷹の巣橋を渡る。 この道は、国道18号のバイパスができたため、県道に
鷹の巣橋を渡る なっているが、以前は国道である。 対岸の山が崖になっているのも、国道を拡張するために削られたと思われ、痛々しい感じがした (右写真)
江戸時代には道に塞がるように迫り出していたのだろう。  その山には鷹の巣城があったといわれる。 文献をあたっても余りはっきりしたことが分からなかったが、武田信玄が永禄年間に築き、依田肥前守に守らせた板鼻城の出城(出丸)が鷹の巣城というのが正しそうである。  橋を渡り終え、左側の川岸を歩くと、渡船場跡と書かれた紙がビニールの袋に入れられ貼られていた。 その先には橋脚の跡が残っていた。  煉瓦の上にコンクリートで補強されていたことを考えると、明治か大正に橋が架けられたたものと考える。 
国道の改修により現在の鷹の巣橋が造られた後、廃橋になったのだろう。
旧中山道は橋を渡ると県道とすぐ別れ、右へ入って行くと、板鼻宿はすぐである。

(ご 参 考) 一之宮貫前神社
  一之宮貫前神社は、安閑天皇元年(531年)に鷺宮(安中市)の豪族、物部姓磯部氏が鷺宮の南方の当地・蓬ヶ丘綾女谷(当時の名前)に、社(やしろ)を定めたのが創建とされ、延喜式の神名帳にも記載されている古い神社である。  祭神は、経津主神(ふつぬしのかみ)と姫大神(ひめおおかみ)であり、上野国の一之宮である。   現在の社殿は、三代将軍・徳川家光の命によって建てられたもので、国の重要文化財に指定されている。

板鼻宿

鷹巣神社石柱 県道171号と、鷹の巣橋東の交叉点で別れ、右の道に入ると、左側に鷹巣神社と依田六郎○○(城址か)と書かれている石柱が建ち、その脇には太々神楽講中の常夜燈や御神燈や聖徳太子碑などがあり、その奥には川がないのに石橋が架けられていた (右写真)
その奥は県道で車が走り、更に鷹の巣山が見えた。  詳しい説明が無いので推測だが、江戸時代にはここから山頂に向かう参道があり、鷹巣神社に行くことができたのであろう。  あるいは、山まで行かなくても、ここで参拝していたのかも知れない。 
(鷹巣神社については巻末参照)
板鼻集落 両脇に続く家は、先程の中宿とは違い、古い家は少ないが、手入れはきちんとされていた (右写真)
碓氷川と九十九川がこの少し上流で合流し、鷹巣の川岸にぶつかるので、水量が多いところだった。  その川を徒歩(かち)渡しでわたるため、増水すると川止めになった。  
そうなると、旅人は川止めが終わるまで、宿場に何日も逗留せざるを得なかった。
板鼻宿には旅籠が五十四軒もあったが、隣の安中と三キロ強しか離れていないのにこれだけの宿場があるのは、異常である。  これは、川止め待ちの宿場という説明しかない。
庚申塔 また、お寺も多かった。 県道の左側の山の斜面に南窓寺、実相寺、聞名寺と続く。
街道を左折し、南窓寺に向かう途中の石の階段の両脇には大きな庚申塔があり、二匹の
猿が左右に描かれていた (右写真) 
猿は庚申の使いで、三猿(見ざる聞かざる話さざる)も同じ意味である 
(庚申については巻末参照)
庚申塔の周りに欠けた庚申塔や道祖神があったが、これらは道路工事後ここに集められた
のかも知れないと思った。
その他の寺にも行ってみる。 
聞名寺 実相寺に登る参道の入口に朽ちた神社があり、寛政時代の巳待塔や庚申塔があり、坂東・西国・秩父供養塔と一つで三つの巡礼を兼ねたものや馬頭観音碑があった。 
これらを見ると、幕末以降この地はゆとりある生活をしていたように思えた。 
聞名寺は時宗の寺で、この寺には弘安三年(1280)に、当寺を創建した一遍上人が什宝として残した笈がある (右写真) 
街道に戻る途中に用水が流れていた。 この用水は板鼻堰(せき)といい、九十九川と碓氷川の合流地点から水を取り、安中東部と高崎西部に配水し烏川に流している。 
板鼻堰 延べ15kmに及ぶ用水であるが、慶長年間中期から後期に開窄されたとあるので、四百年前から水が流れ続けているのである (右写真)
各家に引き込まれているので、昔は野菜などを洗ったり洗濯したりと、生活に使われていたことが分かった。  板鼻宿は家数三百十二軒、千四百二十二人が住み、本陣一軒、脇本陣も一軒、問屋場は二軒あった。 宿場の長さは、十町三十間とあるので、約千二百メートルの長さである。  その中に旅籠が五十四軒もあったのは前述したように碓井川のせいである。 
板鼻宿には案内板はないので、どこから宿場なのかが分からない。 
牛宿跡 街道に戻ると、二人の男性が桜の下にご馳走を並べ酒を飲んでいた。 飲むというよりおしゃべりを楽しんでいるという方が正解である。  案内書によると、十一屋酒造店が牛宿跡である。  牛宿跡を探して路上をうろうろした。 右側の家にはそれらしいものが見当たらない。  あったと思われるところには空き地というか公園があり、後は新しい住宅地になっている (右写真) 
花見の二人のところまで戻り、 「 牛宿跡は聞く? 」 と、 「 牛宿など知らない 」 という返事である。 
「 それなら十一屋、元酒造所!! 」 というと、なんだというような顔をして、 「 バブルで倒
双体道祖神 産してしまい、土地、建物は処分された 」 と、一人が答えてくれた。 あの公園のよう
なところにあったのである。 彼らの話では、煉瓦造りの煙突を備えた酒倉で今でも印象に
残っているという。 牛宿とは荷物の継ぎ立て所の役割を果したもので、公儀、乗馬役人の
定宿でもあった。 帳付場や宰領部屋にその名残を示していて、裏手には牛小屋があったと
ある。 牛宿前にあったという道祖神について伺うと、目の前の一角を指差しあれと違うの
かと言われた。 その先には、双体道祖神の他、猿田彦、青面金剛碑があった (右写真) 
なんということはない、私が探していたものはすべて彼らの花見場所のまわりにあったので
ある。 
  桜は咲き誇る下で二人だけで花見とは都会では考えられない。 うらやましい限りである。 
ちょうちんや 少し先の左側に白い壁の家があった。 花屋と聞いたが、日曜日のせいか普通の民家に見えた。  江戸末期に建てられた土蔵造りの家で、ちょうちんやと呼ばれていた家である。 
戸が土で出来ていて、昔は火事の時、6枚の戸の隙間に味噌を塗り防火したという。 
上部はそのままなのだろうが、下はアルミサッシだった (右写真)
隣の板鼻公民館が木島本陣だったところで、幕末には、皇女和宮の降嫁の折の宿泊所に
なった。 当時の本陣書院が敷地の裏手に残されている。 
板鼻館 見学はできるのだが、当日は休館日で残念ながら、見られなかった。 
カツ丼の老舗板鼻館という店は、江戸時代には、
角菱屋という名で旅籠を営んでいたという (右写真)
中に入ってみたい気もしたが、食事済みなのでパス。
饅頭屋の前で左に曲がり、中山道から外れ そのまま進み、県道を渡ると称名寺がある。 
称名寺 門の脇の左側には石仏が並び、小さなお堂があった (右写真) 
右側の茂みには、法華経千部読誦供養搭、庚申搭、念仏供養搭や川島蘭洲書の馬頭観世音などが建っていた。  鐘楼に吊るされた梵鐘は宝永五年(1708)、地元の鋳物師合井兵部重久の手によるもので、戦時中の供出を免かれている。 
鐘楼前には佐野源左衛門が手植えした紅葉は枯れたが、その三代目という楓があった。 
境内には江戸時代や明治の古い墓石が所狭しと並べられていて、その中にはいろいろな石碑や石仏も混ざっていた。  これを見ても古い寺であることが分かった。
板鼻宿 古来、板鼻は関東と信濃の境で多くの武将や軍馬が往来したところで、源義経が金売吉次と奥州に下るとき、伊勢三郎と出合った場所という伝説があり、この寺の裏あたりに伊勢三郎屋敷があったと伝えられている。 
中山道に戻る。 右側に福田副本陣があったとされるが、その跡は確認はできなかった。  板鼻宿は道路が広げられたこともあり、古い建物はほとんどなかった (右写真)
昔の宿場町の雰囲気は急速になくなりつつあるなあ と、思った。

(ご 参 考) 鷹巣神社(たかのすじんじゃ)
鷹巣神社は、鷹巣山に鎮座する板鼻の鎮守で、もともとは金比羅宮だったが、明治四十二年、本町八坂神社、神明宮、愛宕神社、管沢稲荷等を合祀して、鷹巣神社と改称された。 祭神は大物主命、火産霊命、伊勢三郎義盛である。  依田氏の鷹巣城跡に祀られていた石神を母体に、慶長年間、旧別当本山派修験三宝院鷹巣寺祐善により、境内の造営がなされ、二世祐尊の時代に、酒井雅楽頭祈願所となり、額殿、神楽殿、神門が整備され、中山道の板鼻宿の発展と共に栄えたとある。  取勝明神は、伊勢三郎義盛公を祀り、神明宮は伊勢殿と呼ばれている。  なお、源義経の家来、伊勢三郎義盛は上野国板鼻の出身といわれるが、付近に屋敷跡といわれるところが残る。

(ご 参 考) 庚 申(こうしん)
庚申とは、干支(えと) 即ち、庚(かのえ)申(さる)の日を意味するが、道教の伝説に、 「 庚申の夜に人間の体の中にいる三尺の虫が寝ている間に体から脱け出して、天帝にその人間の行った悪行を告げ口に行く。 天帝は寿命を司る神であるから悪いことをした人に罰として寿命を縮める。 」というのがあり、 「 三尺の虫は人間が寝ている間にしか体から脱け出ることができないので、庚申日は徹夜をする 」 という行事が行われるようになった。 
この日、睡眠をささげて、一晩一心に願い続ければ如何なる願いも叶うともされたので、仲間を集めて行われることが多く、庚申講(こうしんこう)とか、庚申待、宵庚申とも呼ばれていた。  庚申待のためにさまざまなことを行って徹夜していたが、江戸後期には信仰より娯楽の要素を強めていったようである。 
青面金剛は、三尺の虫を喰ってしまうといわれ、いつの頃からか、庚申待ちには、青面金剛を本尊として拝むようになった。 仏教では青面金剛や帝釈天、神道では猿田彦神が本尊とされ、猿が庚申の使いとされ山王信仰もここから生まれたとされる。
各地に残る庚申碑、猿田彦大神、青面金剛碑は、庚申講による記念行事碑といったものだったのだろう。

平成18年4月


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かうんたぁ。