『 中山道を歩く − 上州路(5) 高崎宿  』


板鼻宿から高崎宿へ向かう途中に上野国一社八幡宮がある。 神仏習合時代の名残を留めた神社で、和算家たちが問題が解けたことを感謝し奉納した算額が掲げられている。
また、藤塚一里塚は国道沿いに残っていて、大きな榎が元気に茂っている。
高崎宿には古いものは残っていないが、松平忠長の遺蹟や逸話が残っていた。 




板鼻宿から高崎宿へ

地蔵さんと庚申塔 板鼻宿はずれの三叉路に文化十三年建立の榛名道の道標がある。  正面に、やはたみち、
南面には、 「 榛名 くさつ いかほ 河原湯 かねこ 澤たり 志ぶ川 みち 」 と、ある
ようだが、字が難しいのと消えているので読解できない。 信越線の踏切を渡ると、左側
の入沢製作所の一角に大小のお地蔵さん(?)と庚申塔があった (右写真)
今日は昨日と違い、晴れてしかも暖かい。 板鼻堰(用水)が民家の脇を流れていた。 
のんびりした気持で歩いて行くと、左側の民家の一角に道祖神等が祀られている。
道祖神は信州に多く、群馬県にもあるが、ここから草津や榛名にかけては双体道祖神像を
双体道祖神など 多く見かける。 右に享保二十一年の御神と刻まれた石碑、左に天満宮碑、そして中央に双体道祖神が祀られており、道祖神は男神と女神が瓢と盃を持っていた (右写真)
板鼻川橋を渡ると県道(旧国道18号)と合流し、更に国道18号線と合流した。 
ここからしばらくは国道18号線を歩くことになる。  景色が一変し、高崎市の郊外という感じになってきた。 新興住宅地を意識してか、自動車販売店が多い。 
案内書では、橋を渡ると寒念仏橋(かねつばし)供養塔があるように書かれていたので、交叉点を渡った先の、トヨタネッツ店で聞いたが、全員高崎から通っているとかで、分かるひとがいなかった。 
寒念仏橋供養塔 板鼻川橋まで戻り、蕎麦屋のおばあちゃんに聞いても知らないという。 
しばらくあたりをうろうろしたが見付からず諦めて、国道を歩き始めた。 一キロくらいか、気分的にはかなり歩いた左側のミツウロコの手前に、寒念仏橋供養塔があった (右写真) 
大田南畝は、壬戌紀行(じんじゅうきこう)の中で、 「 板鼻川の橋を渡れば板鼻駅むげに近し。 駅舎をいでて麦畑の中を行けば石橋。 是は新建石橋、木嶋七郎左衛門供養塔といえる碑たてる。 石佛をつくらんよりは橋たてし功徳はまさりけるべし。 」 と、褒めている。 寒念仏の民間信仰は室町中期以降に始まるといわれ、江戸中期以降、各地に講中
八幡宮参道 による寒念仏供養塔が建てられている。 この供養塔は、当時流行した寒念仏講が、この宿場まで伝播していたことを示すものといえよう (詳細は巻末参照)
少し歩くと、高崎市に表示が変ったが、それにしても、安中市は大きいなあと思った。 
今回の町村合併で松井田町と合併したので、坂本からここまでが市域になったのである。
八幡大門交差点の左側に、上野国一社八幡宮参道と書いた大きな看板が見えた。 
交差点を渡ると、馬鹿でかい鳥居があった (右写真)
神社までは七百メートル位、十分ほどの距離なので、寄ることにする。 
八幡宮石段 信越線の線路を越えると御神塔が建ち、神社の門が見えた。 
石段を登る途中に咲く桜は満開で、きれいだった (右写真)
神社は、鬱蒼たる社叢に囲まれ、境内も広々としていた。  
『 祭神は品陀和気命(応神天皇)、並神は息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命。 
天徳元年(957) 、山城の男山八幡を勧請し、一国一社の八幡宮として広く尊崇された古社で、 「 八幡太郎奥州下向の時此所に一宿ありし旧跡 」 と、伝えられ、戦国時代に戦火で焼けたが、幕府の崇敬篤く、元禄時代に、社殿から末社に至るまで建て直された。 』
八幡宮本殿 と、いう神社である。 本殿は、天地権現造りで、宝暦七年(1757)の建立である (右写真)
奉納された絵馬や算額が掲げられていたが、算額は色や字がすっかり消え見えなくなっていた。  江戸時代の寛文年間の頃から和算が発達し、これを研究する人達が数学の問題が解けたことを神仏に感謝し, 更に勉学に励むことを祈願して奉納したのが算額である。  算額は、碓氷峠にもあったし、群馬県全体で七十余りも残っているといい、全国で四位という多さである。  江戸時代、寛文年間の頃から発達した和算だが、当地はそれだけ盛んだったということか?!  
八幡宮鐘楼 江戸時代までは神仏習合で、神徳寺もあったようで、明治維新までは、神宮寺の神徳寺を中心に、社家、社僧二十八家が祭祀を司った、とある (詳細は巻末参照)
境内に立派な鐘楼が残っているのは神仏習合時代の名残り(証拠?)であろう (右写真)
国道に戻り、少し歩くと、左手に群馬八幡駅、右手には達磨寺がある (巻末参照) 
一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのが達磨寺の始まりといわれ、元禄十年(1696)、前橋城主酒井氏が帰化僧・東皐心越禅師を迎え、寺を建立した。 
有名な張子の達磨は九代東獄和尚の時に作り始めた、と伝えられている。 
藤塚一里塚 しばらくは国道を歩く。 車が多く歩きやすいとはいえないが、我慢して歩くと、
右手に藤塚一里塚が見えてくる。  江戸から二十八里目の一里塚である (右写真)
群馬県で唯一残る一里塚で、右側(南塚)は、一辺約九メートル、角が丸い正方形をしていたが、旧状をよくとどめている。   その上には、推定樹齢二百年の見事な榎が元気に茂っていた。  左側(北塚)は、道路拡幅工事の際、左側の歩道の脇に移転されたので、塚の形は壊され、富士塚として小さな社(富士浅間神社)が祀られていた。 
その先にある上豊岡町の交差点は、左に行く道(高崎環状線?)、直進する道、そして、
上豊岡茶屋本陣 直進し左斜めに入る道という風に、道が三つに分かれていた。  左斜めに入る道を選び、更にこの道の左にある狭い道が旧中山道だった。  対向車がすれ違うのはやっという道なので、車もなく静かに歩けた。  後日分かったのだが、旧中山道は、前述の富士浅間神社の裏の細い道で、そこから高崎環状線を越えると、先程の狭い道につながるようである。
ここからは上豊岡の集落である。 少し歩くと、右側に白壁の蔵と昔のままの門構えの家がある。  江戸時代、上豊岡茶屋本陣だった飯野家である (右写真)
だるまや 茶屋本陣とは江戸時代の上級武士あるいは公卿の休憩場所として設けられたもの。 
現在も、子孫の方が住居として使われているが、昔の面影を残っていて、県の史跡に指定
されている。   その先にはだるまを作る松本商店がある (右写真)
店先には、型から取り出し、赤く塗られた小さなだるまが干されていた。 
さすがにここはだるまの町、高崎である。
集落の中程まで歩くと、右側に、若宮八幡宮があった。 
永承六年(1051)源頼義、義家父子が、奥州の安倍氏の叛乱を鎮圧する途次、豊岡の地
若宮八幡宮 に、仮陣屋を設け、しばらく逗留し、軍勢を集めると共に当社を建立し、戦勝後、立ち寄り、戦勝報告をするとともに、額を奉納した、といういわれがある神社である (右写真)
寛文二年(1662)に、社殿を大修築している。 大田南畝の壬戌紀行には、 「 鐘楼ありて木立物ふりたり 」 と、書かれたところで、わりと広い境内を保ち、 物ふりたり、という雰囲気は今でもある。 かってあったといわれる鐘楼もなくなっていた。
諸国道中旅鏡に、「 八幡太郎腰掛け石の旧跡なり 」 と紹介されていて、案内板にも義家の腰掛石があるとあったが、表示がないので、探せなかった。  
 烏川 少し歩くと、左からの道と、合流した。 ここは、榛名道の追分で、 「 はるな くさつ道 」 と彫られた草津道標が建っている筈だが、見つけられなかった。 右折すると旧18号が右から合流してくる。 君が代橋西の交差点では、国道18号と合流した。  少しややこしいが、高崎方面に向かって道の左側を歩くと、烏川にぶつかる。  広重の 「 木曽街道六拾九次之内高崎 」 の絵は、このあたりが描かれている。 右に榛名山を望むのどかな渡し場の風景が描かれ、今でも赤城山、榛名山の展望が良いところである (右写真)
烏川は、最初は舟渡しだったが、明和七年(1770)に、橋が架けられ、以後、旅人一人五文、荷駄一駄五文、冬季は八文の橋銭が課せられた。
 万日堂 橋の手前に下に降りられる道があり、降りて行くと 万日堂がある (右写真)
説明板には、 「 元は国道十八号南側にあったものを、国道拡幅工事のため反対側の現在地に移動した。 本尊としてみかえり阿弥陀像が安置されている。 これは、顔が左向きやや下方を見ているため、寝釈迦(涅槃像)ではないかという説もある。 みかえり阿弥陀は日本全国でも五体しかわかっていない。 」 と、書かれていた。  烏川に架かる君ガ代橋は、明治天皇が行幸された時にこの橋を利用したことから名が付いた、という。 
橋を渡れば、高崎宿はすぐ目の前である。

(ご 参 考) 寒念仏橋供養塔
『 板鼻宿の念仏講の人達が、寒念仏供養で得た報謝金を蓄積して、石橋を改修し旅人の利便に供した。 年数が経って、橋が破損したため、享和二年(1802)、木嶋七郎左衛門が、亡父の遺志を継ぎ、堅固な石に改修し、その近くに、供養記念塔を建てて後世に残した。 地元では かねつばし と呼んでいる。  正面に、 「 坂東 秩父 西国 橋供養 」 、右側面に、 「 享和二年壬戌春三月 木嶋七郎左衛門昆頼 」、裏面に、 「 信州伊那郡橋嶋村 石工 三澤染右衛門吉徳 」 とあり、左側面には、 「 奉若先考遺命夙夜欽念不敢・・・・・ 」 と、建立の趣旨が刻まれている。 国道十八号の拡幅工事のため、板鼻堰用水路沿いにあったものをわずかに現在地に移動した。 』  (傍らの説明文による)

寒念仏講は、室町中期以降に始まるとみられ、江戸中期以降、各地に寒念仏供養塔が造塔されている。
寒念仏(かんねんぶつ)とは、寒中三十日間、寒夜に諸所を巡りながら鉦をたたき念仏を唱える行で、元来、僧侶の修行のひとつであるが、温暖な時節の念仏行より功徳が大と信じられて、民間でも行われるようになった。 その他、講中が村のお堂に集まって浄土和讃(ご詠歌)や念仏を唱えるという方法もあった。

(ご 参 考) 上野国一社八幡宮
八幡宮の祭神は。品陀和気命(応神天皇)、並神は息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命。 江戸時代よりの神仏習合様式を残し、本殿は天地権現造り、宝暦七年(1757)の建立、天満宮は、旧本地堂である。 
「 天徳元年(957)に山城の男山八幡(石清水八幡宮の分霊)を勧請す。 当社は、一国一社の八幡宮として広く尊崇され、源頼義、義家が奥州征伐にあたり当社に祈願し、その報賽として社殿を修築した。 源頼朝が義仲を追討した時、社殿を修復し、神田一百町を寄進した。 武田信玄が、上州攻略に成功した時も、お参りしている。 戦国期に兵火で焼失したが、徳川家光が、社領一百石諸役御免の朱印状を与えた。 幕府の崇敬篤く、社殿から末社に至るまで建て直された。 明治維新まで神宮寺の神徳寺を中心に社家、社僧28家が祭祀を司った。 」と、由緒書にあった。
 
(ご 参 考) 少林山達磨寺
碓氷川の橋を渡り左折してしばらく行くと、寺の下に着く。 門をくぐり急な石段をやっとの思いで登ると大達磨を並べたお堂が目に入る。 少林山達磨寺といい、黄檗宗の寺院である。  昔、大洪水で流れて来た大木で、一了行者が達磨大師の像を彫ってお堂に安置したのがこの寺の始まり、といわれる。 元禄十年(1696)、前橋城主酒井氏が水戸光国に懇願し、帰化僧・東皐心越禅師を迎え、黄檗宗の寺になった。  本尊は、一了居士が彫った達磨大師像が焼けた後、再彫されたもの。 
寺には、心越禅師の達磨の張紙を出していたが、九代東獄和尚の時、和尚の伝授で、山県友五郎が張子の達磨を作り始めた、と伝えられている。  少林山周辺では七十軒ほどの家で、年間百五十万個ものだるまが作られていて、正月六日から七日にかけての縁日には、境内に達磨店が並び、関東一円の参詣人で賑わう。 また、選挙が近づくと全国から大きなだろまの注文が殺到する。
境内の東にある洗心亭は、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが一時住んでいたところだが、黄檗宗特有の普茶料理がいただける。

高崎(たかさき) 宿

 山田文庫 君ガ代橋を渡る。 道は国道17号と立体交差になっていて、橋を渡った先で、旧中山道はこの道と別れるのだが、中山道に入るところが分かりずらいのである。 
広い通りから右の細い道(旧中山道)に入り、公民館前を歩く。 このあたりは並榎町で、江戸時代は並榎村であった。  少し歩くと歌川町。 このあたりは旧中山道の雰囲気がわずかながら残っている。  細い道をしばらくいくと、三叉路の常盤町交叉点。 角には、レンガ造りの塀に囲まれた山田文庫がある (右写真)
この交差点を左折すると、赤坂町に入る。 直進した先には、すぐ左に、岡醤油醸造の明
 長松寺 治時代の煉瓦の煙突や建物が塀越しに見えた。 週3日しか営業していないようで当日は中に入れなかった。 
街道に戻り、赤坂を登ると、左側にある寺は赤坂山長松寺である (右写真)
かなり大きな寺院で、本堂は火災で焼失したものを寛政元年(1789)に再建したと伝えられている。  本堂の天井に描かれた二つの絵はその時描かれたもので、一点は龍、もう一点は天女である。   作者の狩野探雲(かのうたんうん)は、野上村(現富岡市野上)の出で、狩野派の狩野探林の弟子として、江戸城西の丸普請の際、障壁画の製作に従事した。 
天井画が描かれたのは六十五歳〜六十七歳とあったので晩年の作と思ったが、八十八歳
まで生き長寿を全うしていた。 涅槃図はその晩年(八十一歳)の作である。
この寺には松平忠長切腹の間がある。 松平忠長は二代将軍徳川秀忠の二男で、駿河、
遠江、甲斐の三国五十五万石を与えられ駿河大納言に任じられたが、将軍となった家光
 高崎神社 に切腹を言い渡され、廿八歳という若さでなくなった。  老中職、酒井氏の前橋藩に預けられたとあったので、前橋で死んだと思っていたが違っていた (詳細は巻末参照)
道の反対側の奥に、高崎神社があった (右写真)
由緒が書かれた表示板はあったが、傍らに立つ会館か結婚式場のビルが立派なので、神社はまるで結婚式場の付属施設のような感じである。  それよりも、隣の恵徳禅寺の入口にあった由緒を書いた石碑の方が興味を引いた。  徳禅寺を開山した大光普照禅師が、井伊直政より 「 和田の名称を松崎と変えたいが 」 との問に、 「 松は枯れることがあるが高さには限りない。  高崎はいかがか 」 と進言したところ、直政は大いに喜び、高崎と命
 本町一丁目 名した、 というものである。 長松寺の前を過ぎると、右にカーブし、本町(もとまち)一丁目の交差点に出ると、一気に道幅が広がった。 三国街道との分かれである。  左に行くと、渋川、沼田を経て三国峠を越え、長岡から出雲崎に出て、佐渡へ渡る。 江戸と佐渡金山を結ぶ重要な道だった (右写真)
高崎宿ができた頃は、徳川譜代大名でも武門の誉れ高い井伊家の城下町であったので、参勤交代で往来する大名は恐れをなして、高崎宿に泊まることを避けた。 本陣や脇本陣は商売が成り立たず、すぐに廃業してしまったため、高崎宿には本陣や脇本陣がなく、旅
 本町三丁目 籠もわずか十五軒だった。 旧中山道は、本町、椿町、九蔵町、北通町、元紺屋町、白銀町、通町(安国寺・大信寺前通り)、新町、南町、新喜町(現在の和田町)を通っていたが、その後の道路改修で現在の広い道に吸収されてしまっている。  少し行くとまた、十字路で、本町三丁目の交叉点で右折する。 左に行く道は前橋道である (右写真)
田町の信号からは、アーケードが続く商店街となった。  江戸時代には、問屋場が本町、田町、新町に一カ所づつあり、交易の市がそれぞれ月に六回開かれ、近郊の産物である絹、真綿、たばこなどが売られた、とある。  独占販売権が与えられた田町には、西上州全域
で生産された絹が集まり、高崎絹と呼ばれていた。 「 お江戸見たけりゃ高崎田町、紺の
 大信寺 暖簾がひらひらと 」 と、歌われ、大田南畝の壬戌紀行にも、 「 江戸にかえりし心地ぞする 」 と、書かれている。  京から近江、美濃、木曽、信濃と旅をして来て、最も華やいた町が高崎だったのだろう。 また、本町は三国街道や富岡、下仁田への追分でもあったので、交通の要地としても栄えていた。  田町交叉点を左折し、少し行ったところに大信寺がある。  この寺は、江戸時代には朱印領地百七石という城下第一の寺であった (右写真)
前述の忠長が幽閉され、自刃したのはこの寺であり、忠長の墓がある。 
(注)前述の自刃した部屋は、後年に長松寺に移設されたのである。
 高崎市役所 もとの道に戻り、次の連雀町の交差点から右を見ると、高崎城の石垣が見える。 
史跡公園があり、隣は群馬音楽センター。  そして、高崎市役所や高崎シテイギャラリーなどがある (右写真は高崎市役所と手前は高崎城堀跡)
高崎は、古くは赤坂の荘といわれ、鎌倉時代には、和田氏によって和田城が築かれ、鎌倉街道の宿駅として栄えていた。  小田原北条氏の滅亡とともに、和田氏も滅び、慶長三年(1598)、井伊直政が箕輪から城を移し、高崎と名付けた。  井伊が彦根に移り、以後藩主の交代は目まぐるしかったが、吉宗の時代になり、松平(長沢、大河内)家が支配することになり、幕末まで続いた。  明治維新後、高崎城の県庁ができる予定だったが、軍が駐屯
 諏訪神社 したため、紆余曲折の結果、前橋城に県庁ができた。 高崎と前橋のライバル意識は、そのときからと地元の友人から聞いたことがある。  少し歩くと、新町(あらまち)交叉点である。  交叉点の右方に諏訪神社がある。 文化十一年(1814)に造られた、なまこ壁のある土蔵造りの小さな神社で、建物に龍が絡まる鳥居が張り付けられている (右写真)
大田南畝は、壬戌紀行で、 「 諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくりなり 」 と、書いているが、まさにその通りの小さいなものだった。 上州は空風で有名で、江戸時代の寛政十年(1798)の大火は本町から出火し、千四百六十軒が燃失したとあるので、町内のほとんどが
 高崎駅 燃え尽きたものと思われる。 その中で残った神社には価値があると思った。 
また、その後の道路拡張や都市化により、このあたりには古い建物は残っていなかった。
ここから先は、前月(高崎〜倉賀野宿として)歩いているので、高崎宿はこれで終わりにする。  今日は安中から高崎なので楽なスケジュールだったのだが、安中に昼近くまでいたので、 高崎到着は夕暮れになった。 ここから十分ほどで高崎駅に着いた (右写真)
二日間の予定で計画した横川から高崎の旅は、桜の歓迎を受け、大変満足した気持で、今夜の宿の熊谷に向かった。

(ご 参 考) 松平忠長
松平忠長は、二代将軍・徳川秀忠の二男で幼少より利発とうわさされ、両親の愛情を一身に集め育った。 その為、将軍職は彼に譲られるのではないかとの噂が流れ、家光の乳母・春日局が駿府の家康に直訴したという話は有名である。
家光が西の丸に入った後、忠長は、駿河、遠江、甲斐の三国五十五万石を与えられ、駿河大納言に任じられたが、大阪城を欲しがったり、百万石の加増を願ったりしたので、幕府は困りはてた。 更に、家臣を手打ちにするなどの行為も重なり、将軍・秀忠は、苦闘、熟考の末、彼を甲州に転封。 秀忠の死後、将軍職を継いた家光は、寛永九年(1632)十月、忠長の領地を没収し、高崎藩の酒井氏に預け、監禁した。 更に、翌十年十二月、忠長に切腹させた。 廿八歳という若さだった。

 

平成18年4月


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かうんたぁ。