倉賀野宿には頼政神社、琴平神社などの立ち寄りながら向かった。
途中に浅間山古墳など幾つかの古墳を見たが、多い時は300以上あったというので、古代から開けていたところと思った。
倉賀野宿には江戸時代の建物はないようだが、明治のものは多く残り、中山道の風情が残っている。
昨年は和田宿から岩村田宿まで終わってしまった。 夏に碓氷峠を越えようとしていたが、
軽井沢の喧騒と例年にない猛暑から先延ばししている内に秋の行楽シーズンに入り、客足が減る十一月末に変更したら今度は積雪となり中止した。
昨年の反省から、順番に行くのを諦め、行けるところからに変更し、雪のない武州路から再出発する。
平成十八年(2006)三月五日(日)、早朝に家を出て、六時半の新幹線に乗り、東京へ。
上野から高崎線で新町への予定だったが、都合が良い電車がない。
仕方が無いので、九時発の特急草津万座口号に乗ったが、熊谷か高崎にしか停まらないのである (右写真)
とりあえず高崎に行くことにした。
高崎から二駅戻ればとよいと思っていたのだが、高崎駅に着き、列車を待っている間に、このまま高崎駅からでいいかという気になり、ここからスタートことにした (右写真)
そんなこともあって出足から迷走気味である。
駅を出て、新田町まで行った時、諏訪神社の存在を思い出し、新町(あらまち)交叉点まで引き返す。 案内書に、 「 交叉点の右方、新町交番の裏に諏訪神社がある。 」 とあったので、探しながら、市役所方向に向かう。
右側にあるはずの交番が見つからず、外堀に高崎城の面影を残す城址公園まで来てしまった (右写真)
散策している夫婦もしらないという。 市営駐車場の係り数人に聞くと、諏訪神社は各地にありますわねえという心細い返事。 本に書いてある部分を示すと、それらしい祠あると思い出してくれた人がいた。
指示通りに行くと諏訪神社はあった。 駅前から市役所に通じる一帯はすっかり変わってしまって、交番はすでになく、隣が交通公社が入るビルになっていた。
想像していたより小さな社で、なまこ壁のある土蔵造りの建物に、龍が絡まる鳥居が張り
付けられていた (右写真)
高崎の度重なる火災から守るため、瓦葺と塗り壁にしたことで今日まで残ったということ
だが、 「 文化四年(1807)の高崎大火の際の焼け痕を残す 」 と、説明文にあった。
中山道を旅した大田南畝は、壬戌紀行の中で、 「 諏訪大明神の社はちいさき土蔵づくりなり 」 と、書いているが、まさにその通りの建物だった (詳細は巻末参照)
街道に戻り、新田町交叉点を右折し、竜広寺の先を右折したところに、頼政神社があった。
その先の高崎公園も高崎城の一角で、形の良い松と石碑があったが、それ以外特に印象に残るものは無かった。
頼政神社は、高崎藩主・松平右京太夫輝貞が元禄十一年(1698)、祖先の源頼政を祀ったのがはじめである (右写真)
大河内松平氏の祖先とされる源頼政は、源頼光の玄孫で、保元・平治の乱で功をたてた
武人であり、また、源三位と称せられた歌人でもあった (詳細は巻末参照)
境内にあった白と黒い石できた記念碑は内村鑑三の碑である。
内村鑑三は、万延2年、高崎藩の江戸の武士長屋に生まれた。
明治から昭和初期を通じて活躍したキリスト教徒で、無教会キリスト教の創始者として知られ、国木田独歩、正宗白鳥、有島武郎、志賀直
哉、小山内薫など、作家や戯曲家に精神的な影響を与えた。
神社の中にキリスト教徒の碑があるのは何故かと思いながらあとにする。
頼政神社脇は国道17号。 国道を少し歩くと、聖石橋の交叉点。
この先、国道に歩道がないので、脇道を下に降ると住宅地で、国道に平行した道が続いている。
やがて野球場やらグランドが現れ、その先の右側に城南小学校がある。
交叉点を右折すると、城南大橋と表示。 その通り歩くと、烏川に出た。
草は枯れているが、河川敷は広く、対岸にはゴルフ場(?)が俯瞰できた (右写真)
街道に戻ろうと少し歩くと、上信電鉄の線路を越えたところで、左に降りると、鎌倉街道
記念碑を見付けた。 鎌倉街道が通っていたことを示す記念碑で、 「 高崎から藤岡、児玉、寄居を経て、笛吹峠を越え、入間川を渡り、所沢、藤沢を経て、鎌倉入りをしていた。 」 と、記されていた。
道路の下をくぐり抜けると、琴平神社があった (右写真)
琴平神社は、多仲金比羅とも呼ばれる。
琴平は海の神と思っていたので、海のない高崎にあることに興味を持ち訪れたのである。
傍らにあった案内板に、 「 古来、お稲荷様が祀られていたが、文化年間、高崎藩士・寺田宗有が一昼夜で讃岐から勧請した伝えられる。 」 と、あった。 本殿脇には絵馬の他、商店主が送った大きな掲額があった。
それにしても一夜でお稲荷さんから讃岐金比羅さんに変えられた参拝者は驚いただろう。
地元の人の話では、商売の神様として信仰を集め、縁日には参詣人が多く屋台の店が並ぶということだが、当日は閑散としていた。
この神社で面白いのは仁王門があることである。 表側には、神官像が祀られ、裏側には、仁王像が収められていた (右写真)
かっては神仏混淆だったという名残りであろう。
隣にある飯玉山荘厳寺と関係があったのかも知れない。 寺の前に庚申塔や地蔵像が建っていた。
街道に戻るため、上越新幹線のガートをくぐり、和田多中町の交叉点まで行く (右写真)
これで、高崎宿と別れ、倉賀野宿に向う。 一里十九町、約五キロ強の距離である。
この辺りは上佐野で、謡曲 「 鉢の木 」 で有名な佐野源左衛門常世が、所領(下野・栃木県なのかどうか不明のようだ)を横領されて後、住みついた所と言われる。
佐野船橋歌碑は、文政十年(1727)、供養と道しるべのために建てられたもので、万葉集十四東歌上野国の歌の一首、
『 かみ津けの 佐野の舩はし とりはなし 親はさくれと わハさかるかへ 』
というの歌が刻まれている。 碑面上には舩木観音とあり、下に馬頭観音像が陰刻されて
いる。 江戸時代の旅行案内、木曾名所図会には、 「 佐野むらにあり。 むかし烏川を船橋
にて渡せし、その橋をつなぎし榎の大樹今にあり、木かげに舟木の観音の石仏あり 」 と
記されている。 烏川は、現在はもっと西を流れているが、昔はこのあたりが川岸だったよう
で、ここから降りて、佐野の渡しで、舟を繋いだ橋を渡ったのであろう。
右に行く道は佐野道で、その先には、定家神社があった。
学問の神として崇敬されると、
あったが、新古今集の藤原定家の歌
『 駒とめて 袖打はらふ かげもなし さののわたりの 雪の夕暮 』
と関係あるのか、分からなかった。
その先の佐野窪町の上越新幹線の線路の下に、佐野常世神社があったが、佐野常世の屋敷跡といわれる (詳細は巻末参照)
街道に戻り、歩き始める。 道に旧中山道と表示されていた (右写真)
しばらく歩くと、高崎宿2km、倉賀野宿1.3kmと記された木柱があったが、少し少なすぎないかと思った。
腹が空いてきたので、右側の石臼びき、更科、十割そば、うちだと表示されたお店に入る。
野菜天付きのざるそばを頼んだが、なかなかうまかった。 しかし、客がいたこともあり、一時間位かかってしまった。
粕沢の道は残っていないため、そのまま旧国道を行く。
少し歩くと、左側にホンダと日産のデーラーがあり、右側はマルエドラッグがある。
マルエドラッグの裏側に回ると田圃の先に小丘が見える。 浅間山(せんげんやま)古墳である(右写真)
前方後円墳で全長百七十六メートル。 木が茂り薮が深いので上に登るのは難しく外形を見るだけ。
以前は街道からよく見えたようだが、家が建って気が付かないと通りすぎてしまうところだった。
この奥に、十分ほど歩くと、大鶴巻古墳(全長137メートル)、隣に小鶴巻古墳があった。
街道に戻り少し行ったところに上町西の交叉点があり、松の木が貧相にあったのが、松並木のあったところか??
そうだとすると、ここに一里塚があったはずだが
その形跡は無かった。
(ご 参 考) 諏訪神社
この地は度重なる火災を受けたところで、特に風下の新町等の氏子は火災から社を守るため、この瓦葺と塗り壁という土蔵づくりに工夫をしたものと思われる。 この社(やしろ)は、箕輪にあった頃、真田氏によって招請されたもので、真田氏が、慶長四年(1599)に、城を高崎に移した際、一緒に持ってきたものだ、という。
(ご 参 考) 頼政神社
元禄八年(1695)松平(長沢・大河内)右京太夫輝貞が高崎藩主となり、元禄十一年(1698)、大河内家の祖先としている源頼政を城東の石上寺境内(現在東京電力営業所)に祀ったのがはじまり。 その後、宝永七年(1710)、輝貞が越後村上に転封されると、神社も村上に移転。 ところが、享保二年(1717)、輝貞は再び高崎城主に返り咲くと、神社は高崎の現在地に移された。
なお、源頼政は、源頼光の玄孫で、保元・平治の乱で功をたて、平清盛の奏請によって、従三位に叙せられたので、源三位と称せられた。 後年、清盛に不満を抱き、以仁王を奉じて平氏の追討を図るが破れ、治承四年(1180)、宇治平等院で自刃した。
(ご 参 考) 謡曲 「 鉢 木 」
佐野源左衛門常世は訴訟で負けて所領を没収され、この地に移って貧しい暮らしをしていた。 ある寒い雪の夜、一人の旅僧が一夜の宿を求めたが、源左衛門にはもてなすものもなく、大切にしていた盆栽を火にくべてもてなした。 その時、旅僧に 「 今はこんなにうらぶれているが、いざと言う時には真っ先に鎌倉に駆けつける 」 と言った。 その後、鎌倉幕府から御家人の召集が届くと、源左衛門は言葉どおりに真っ先に鎌倉へ駆けつけた。 対面したのは執権北条時頼。 一夜の宿を借りた旅僧は執権北条時頼だったのである。 対面した源左衛門には褒美として松井田(松)、梅田(梅)、桜井(桜)の土地が与えられた。
以上が謡曲の鉢木であるが、佐野市のホームページでは佐野氏が住んだという事実はないとあった。
横領されたのは栃木県葛生という説もあるが、群馬県だろうという説もあり、それ以外にも、佐野氏そのものがは架空の人物という説もあり定かではないようである。
倉賀野宿の上の木戸(京側の木戸)は、倉賀野神社入口交叉点あたりにあり、江戸側の下の木戸は、下町交叉点のあたりにあったようであるが、木戸跡の手前の左側にあるのは安楽寺である。 入口の右側に、馬頭尊と刻まれた石碑があり、山門には、瑠璃光殿の額があったが、これはお薬師さまが祀られていることをしめすものである (右写真)
倉賀野宿は、十一町三十八間(1200m)の長さで、その間に上町、仲町、下町の三町があり、天保十四年の人口は二千三十二人、家の数は二百九十七軒で、本陣が一軒、脇本陣は二で、旅籠が三十二軒あった。 なお、現地で戴いた倉賀野めぐりでは、享和(きょうわ)
三年(1803)に、宿場の家数は四百五十三軒、人口は二千百五十六人、旅籠六十四軒、とある。 その間に、家数や人口などが増えていた。
安楽寺の本堂は、七世紀後半に造られた古墳(円墳)の南半分に建てられているのであるが、石室の壁に、仏像七体が彫られているのが、寺のご本尊で、七仏薬師如来と呼ばれ、奈良時代天平九年(737)、行基作と伝えられるもので、十二年に一度(巳年)に開帳される秘仏である。
(右写真は本堂裏側と安楽寺古墳)
本堂前に、常夜燈と安永四年(1775)と刻まれた大きな庚申塔が建っていた。
左側の囲いの中には、異形板碑二基が保管されていた。
異形板碑は、将棋の駒型をした天引石(砂岩)に、梵字で阿弥陀三尊に天蓋、花瓶二つが付けられている (右写真)
風化が激しくて、年号が読めないが、高崎市教育委員会は、南北朝時代を下るものではない、との見解である。
板碑とは、板仏(いたほとけ)または平仏といい、正式には板石卒塔婆と呼ばれる。
寺の境内には、小さな御堂もあり、勝軍地蔵尊とか観音堂と表示されていたが、この観音堂は、
二十二夜堂ともいわれ、
国定忠治一家の代貸空ツ風(小山)長四郎が、幻の火伏の名号一巻を授与されたところである。
街道に戻り、倉賀野神社入口で右に入ると、倉賀野の総鎭守である倉賀野神社があった。
旧社名は、飯玉宮(いいだまぐう)といい、あるいは飯玉大明神、飯玉社と呼ばれていた
ようである。
その後、大国魂(玉)神社と呼ばれた時代を経て、明治四十三年の神社合併令により、近郷の諸社を合祀して
現在の名前になった (右写真ー倉賀野神社)
社伝によると、 「 創建は崇神天皇四十八年、皇子豊城入彦命が東国経営に当たり、斎場を設けて、
松の木を植えて亀形の石を祀ったことから始まる。 日本書紀によれば、豊城入彦命は上野国の一大豪族上毛野君の祖である。 」 とある (詳細は巻末参照)
大和時代より、上毛野国を安堵するために建立されたという古い神社で、御祭神の大国魂
大神は、大国主命(おおくぬしのみこと)の荒魂(あらみたま)といわれる。
なお、古には、同じ神
を荒々しく神威さかんな側面を荒魂、柔和な徳を備えた側面を和魂(にぎみたま)と称え、
異なる神名で呼び分ける習わしがあった。
本殿の建物は、一間流れ造り、銅板葺き、元治弐年(1865)に上棟したもので、
社殿は、総ケヤキ造りで、数多くの彫り物があり、それに彩色をせず、彫物師の腕をみせている。
拝殿正面の向拝にある彫刻は、飯玉縁起を描いているようで、三代目喜代松の作とされる (右写真)
北村喜代松は、信州鬼無里(きなさ)村に、彫刻屋台の名品を多数残していることで知られる人物である。
神社には、天明七年(1787)、狩野探雲が六十三歳のときの作画で、大板
四枚を繋ぐ大作の厄除雲龍図もある。 また、飯玉縁起が残っている (巻末参照)
倉賀野宿には寛保弐年(1742)、宿場女郎屋の鑑札が許可され、六十四軒の旅籠ができ、二百人ほどの
飯盛り女がいたという。 旅籠一軒に飯盛り女は二人という定めがあったが、それ以上いた計算になる。
女郎奉公に出された彼女達が信心したのが冠稲荷(三光寺稲荷)で、江戸時代には太鼓橋の近くにあったが、
明治の神社統合のとき、この境内に移されたのである (右写真)
社殿は、前橋川曲の諏訪神社に売られていき、常夜灯と玉垣は当神社と養報寺に移された。
本殿前の常夜灯は、太鼓橋近くから移されたもので、文久三年(1863)、飯盛り女の三国屋
つねが寄進したものである (右写真)
飯盛り女が一番多かった頃で、その数が多すぎて弊害があったとみられ、享和3年(1803)
には手入れが行われ、刑に処せられた者が出ている。 十返舎一九も、
『 乗こころ よさそふこそ 見ゆるなり 馬のくらがの しゅくのめしもり 』
と、狂歌を詠んでいる。
玉垣には、 「 金沢屋内りつ・ひろ・ぎん 」 や 「 升屋内はま・やす・ふじ 」 など、
数多くの宿場で働いていた飯盛り女たちの名前が刻まれていた (右写真)
境内を歩くと、飯塚久敏の橘(たちばな)物語の石碑があった。
飯塚久敏は、倉賀野宿出身の文人で、越後の歌人、良寛の非凡さに着目し、没後十二年に良寛初の伝記を
書いた。
それが橘物語である。
碑文には、橘物語の書き出しの部分が以下のように刻まれている。
『 いまはむかしゑちごの国に良寛とゐふ禅師あり 梅さかりなる頃人のもとに
こころあれバ たづねてきませ うぐいすの こづたひちらす うめの花見に
天保十とせせまりよとせというとし 』
橘物語が書かれたのは、天保十とせせまりよとせというとし、即ち、天保十四年のことである。
北向道祖神の幟がはためく先に、小さな祠があり、 「 上町惣子供 施主大島三右衛門 」
「 文化二年乙丑正月吉日 」 と、刻まれた、一体の双体道祖神が祀られている (右写真)
安政三年(1858)の倉賀野の大火の時、延焼をくい止めた火伏の神とされ、倉賀野城跡に
あったのを昭和十二年に移転した、とある。
境内には、太々神楽の舞台や脇本陣須賀庄兵衛家の妻、円が浪速から買い付けたという天明神輿があり、倉賀野宿の繁栄振りをかいま見ることができた。
庚申塔など多くの石碑も見たが、街道の道路工事などでここに集められたではないか、と思った。
ゆっくり見てまわったので、かなりの時間が経過してしまった。
街道に戻ると、すぐ上町で、左側の敷地前に、復元された高札場があった。
その先の連子格子の家が、脇本陣だった須賀家である (右写真)
須賀家は、河岸問屋で脇本陣を営んでいた。
主屋は明治二十年代の築造といわれるが、連子格子と深い軒、大きな屋根が重厚な趣を醸し出していた(右写真)
裏手の薬医門や桁行十間の土蔵、味噌倉は江戸期と伝えられる。
戸が閉まっているので、外から推察するしかないが、すごいなあと思った。
向かいの民家の前に脇本陣跡の石碑が建っている。 もう一軒の脇本陣だったところである。
その先の交叉点は上町で、右折すると井戸八幡宮である。 正保三年(1646)、倉賀野城三の廓跡に、一夜にして出現した井戸が起源と、伝えられる。 井戸は今も残り、その上に
神輿が保管されている。
井戸は十年に一度開帳されるとあった。
その隣にある雁(かりがね)児童公園が倉賀野城址である。
倉賀野城は、鎌倉時代に、
この地に落ち着いた武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名乗り、南北朝の頃、築城された
城である。 戦国時代には、上杉、武田、北条氏の勢力争いに巻き込まれ、天正十八年
(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落し、廃城になった。 今は公園に石碑がある
だけである。 街道に戻ると、中町に入り、右に入る小道が牛街道である。 倉賀野河岸と
問屋場を結ぶ道の一つで、荷を運ぶ牛車が頻繁に通ることから名が付いた。
倉賀野駅入口の右側の山車倉の前に、御伝馬人馬継立場跡の石碑があった (右写真)
本陣跡はどこだろうと、うろうろしていると、理容店からご主人が出てきて、倉賀野宿
のパンフレットをくれた。 小生が行ったり来たりしているのを見て、出てきたようだった。 お礼を述べて、その先の右側にあるスーパー丸幸の前に行くと、勅使河原本陣があったことを示す石碑が建っていて、隣の家の庭に常夜灯があったが、それ以外にはなにもなかった (右写真)
左折すると、九品寺(くほんじ)。 倉賀野五郎行信の開基の寺である。
その先の中町交叉点を右折する道は、山名道といわれ、阿久津町や山名町に通じる。
烏川(からすがわ)にかかる共栄橋の手前あたりが、江戸時代に倉賀野河岸があったところである。
倉賀野河岸は烏川と利根川を利用した江戸通いの通船の最上流の河岸だった。
栄泉の描いた木曽街道六十九次・倉賀野宿烏川之番では、積荷を載せた川舟と水遊びをする子供の風景が
描かれているが、現在の川の姿からは水運盛んな様を想像するのは無理である (右写真)
倉賀野河岸からは、信州や越後の大名や旗本四十二家の回米(かいまい)が江戸に運ばれた
他、西上州や信濃、越後から集まった煙草、織物、木材などの産物を江戸に運び、
帰り舟で油、茶、砂糖や行徳(千葉県)の干鰯や塩などを持ち帰った。
「 烏川が逆さに流れない限り、お天道様と米の飯はついてまわる 」 と、いわれた位、繁盛していたが、明治十七年(1884)の高崎〜上野間の鉄道開通により、急速に衰えていった。
昔の水運と荷駄の施設があったはずだが、時の経過とともに消滅してしまっている。 今は、橋のたもとに倉賀野河岸跡の石碑があるだけである (右写真)
街道に戻る途中で、古い家を見た。 主屋は、屋根に三つの天窓(てんそう)が載った切妻造りで、瓦葺き、総二階の典型的な養蚕農家である。
明治初期の建物のようであるが、
清塚ヨシ家である。
その先に、新酒を表示する杉玉を吊るした家があったので、撮影した (右写真)
街道に戻ると、仲町と下町の境には五貫堀が流れ、昔は石の太鼓橋が架かっていた。 当時、ちょっとした増水でも流られてしまう粗末な板橋があり、それを見かねた飯盛り女たちが、享和弐年(1802)、二百両を寄進し、江戸の石工に依頼し、翌年八月に完成させた、という伝聞が残る中山道で、有名な橋だった。 今はコンクリートの橋になって、昔の面影はない。 彼女たちは金で売られてきたので、一生ここで住み、水泡のように消えたことを思うと、彼女等の善行には頭がさがる。 少し歩くと、下町交叉点。 江戸時代には下の木戸
(江戸側の入口)があったところで、倉賀野宿は終わる。
(ご 参 考) 倉賀野神社
倉賀野神社由来略記には、以下のように記されていた。
『 御祭神は、大国魂大神(おおくにたまのおおかみ)。
第十代崇神天皇の御代、皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、父帝から東国平定を命じられ、出立のとき、帝から御愛石の亀石を授けられた。 豊城入彦命はこの地に斎場を設け、松の木を手植えされ、都から捧持してきた亀石を御魂代として祀ったことから始まる。 日本書紀によれば、豊城入彦命は上野国の一大豪族上毛野君の祖である。
大同二年(807)、坂上田村麻呂が東征凱旋の途次、この地で造営舞楽を奏上。 上野国神名帳には正五位上大国明神とある。
建長五年(1253)倉賀野氏の始祖、倉賀野三郎高俊が社殿を造営し、以後倉賀野の氏神になる。 その後も、倉賀野城主により社殿の建替え、修復が行われた。
江戸時代に入り、延享四年(1747)に御本社造営、寛政元年(1789)に御本社、幣殿、拝殿修覆。
天明七年(1787)狩野探雲が雲龍図を描く。
元治二年(1865)本殿の上棟式(倉賀野宿と近隣七ヶ郷村々で造営)。
明治十年、大国魂神社と改称。 同四十三年、倉賀野神社と改称された。 』
(ご 参 考) 飯玉(いいだま)縁起
光仁天皇(771-780)の御代、群馬郡の地頭、群馬大夫満行には八人の子がいた。 末子の八郎満胤は、芸能弓馬の道にすぐれていたのだが、兄たちは八郎を夜討ちにして、鳥啄池の岩屋に押し込めてしまった。 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとその妻子眷属まで食い殺し、さらに、その害は国中の人々まで及ぶようになった。 帝(みかど)はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
生贄の順番になった小幡権守宗岡は、十六歳の娘、海津姫との別れを嘆き悲しんでいた。
都から旅して立ち寄った奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入り、頭を振り尾をたたく大蛇に向かって、一心に観世音菩薩を唱名、琴を弾いた。
すると、大蛇は黄色の涙を流して悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空に飛び上ったのである。
そして、烏川の辺へ移り、 「 吾が名は飯玉 」 と託宣し、消え失せた。
これを見ていた倉賀野の住人、高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが飯玉大明神である。
平成18年3月