倉加野から新町宿への途中に、日光例幣使街道の追分があり、
今でも道標と常夜燈が残っている。
新町宿には、古い建物は残っていなかったが、神社仏閣には古の伝えが残っていた。
平成十八年(2006)三月五日(日)、高崎宿から本庄宿に向ったが、
倉賀野宿で予想した以上に時間を費やしたので、今日は新町宿で終わりになりそうである。
それはさておき、先を急ぐと、下町交叉点の先の三叉路に、大きな道標と常夜燈が建っているところにでた (右写真)
常夜燈の前の道標には、 「 従是右江戸道、左日光道 」 と、刻まれていた。
日光道とは、例幣使街道のことで、この三叉路は日光例幣使街道との追分である。
例幣使街道は、利根川を越え、下野(栃木県)に入るコースで、群馬県内には、玉村、
五料、柴、境、木崎、大田と六つ、栃木県には八つの宿場があった。
例幣使とは、東照宮の例祭に御所から金の御幣を届ける使者のことである (巻末参照)
常夜燈には、西面に 「 日光道 」 、南面に 「 中山道 」 、北面に 「 常夜燈 」 、東面に
「 文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書 」 と、刻み付けられている (右写真)
この常夜燈は、上野国五料の高橋光賢が全財産を投げうち、不足分は寄進を受けて、
文化十一年(1814)五月に建てられたものである。 常夜燈の四面には、寄進者の名前
が並び、役者の団十郎や柏戸、雷電為右ヱ門、鬼面山などの力士の他、木村庄之助、
式守鬼一郎という行司の名もあった。
隣にある建物は閻魔堂で、正式には阿弥陀堂。
中を覗くと、御堂の真ん中に、閻魔大王が鎮座していた (右写真)
閻魔大王は、地蔵菩薩の化身といわれ、信仰すれば地獄に落ちず、救われるといわれる。
中山道は右側の道を行く。 工場の間の道をしばらく歩くと、だんだん上りになり、左側の
下に工場が見えた。 高崎線を陸橋で越えると、東京から100kmの道路表示杭があった。
国道17号を横断し、少し歩くと、岩鼻町に入って行った。 小さなY字路で右折するが、
すぐにもとの道と合流してしまった。
十字路の手前を左に入ると、突き当たりの広場が岩鼻陣屋跡で、小高い丘の上には、天神社があった (右写真)
岩鼻陣屋は、寛政五年(1793)、上野国内六郡の天領を統治のため、幕府が建てた役所である。
その後、慶応元年(1865)には、上野、下野、武蔵三国の幕府直轄地五十万石を管理する関東郡代役となった。 明治維新の廃藩置県により、上野国内と武蔵国西北部の旧幕府領、旗本領は岩鼻県となったが、明治四年の群馬県の発足により、岩鼻県は廃止
され、その役目は終わった (詳細は巻末参照)
このあたりは日本化薬の所有地になっているので、至るところに駐車禁止が書いてあるのは興ざめである。
十字路を左へ十分ほど行くと、群馬の森公園に出た (右写真)
ここには県立歴史博物館と近代美術館がある。 また、そのまま行けば、先程別れた例幣使街道へ
抜ける道でもある。
駐車場まで歩いて行ったが、すでに四時になる時間だったので、そのまま引き返すことにした。
右側の観音寺本堂は、明治時代に焼失したが、最近建てられたように思えた。
この寺には、岩鼻陣屋初代代官の吉川栄左右衛門の墓がある。
江戸時代の中山道は、十字路を直進すると、三百メートル位で烏川の土手にぶつかり、
ここから舟で対岸に渡っていた。
現在は、この先の玉村町に住宅地ができているので、大型は駄目だが、普通車はどんどん入って行く (右写真)
柳瀬の渡しの跡を探して歩いてみる。 烏川の土手に上り、少しあるいたが、柳瀬の渡しの跡の表示は
どこにもない。 よく探せばあるのかも知れないが・・・・
十字路へ戻る途中の左側に、北向子育観音(赤城大明神)があった (右写真)
このあたりの集落には、古そうな家が数軒残っていた。
十字路まで戻り、対岸に行く為、柳瀬橋を渡る。
川には水が少ないが、川巾はけっこうあった。
江戸時代、舟渡しで川を越えた旅人は、柳瀬橋の下流に着き、烏川に沿って歩いていったとあるが、
烏川の頻繁な氾濫で、川の形を変え、当時の集落や旧中山道はほとんど残っていなかった。
烏川の土手の道は、最近、高崎伊勢崎サイクリングロードとして、整備されたので、基本的には、
その道を歩いていった。
対岸の土手を五百メートルほど歩き、土手を下りると旧道があるので、集落に降り、その中の道を通ったが、
二階建ての家が多く、古い家は見かけなかった。
また、土手の道に戻り歩いていく。 サイクリングロードになっているが、車はこないので、
景色を楽しみながら歩くことができるのは大変よい (右写真)
土手下の道の脇に大きな銭湯を見、温泉なら入るのにと思いながら歩く。
コンクリートの道をさっきまで歩いたので足の負担は軽くなったが、早起きのせいか疲れが出てきた。
右下に、三菱鉛筆の工場があるところまでくると、河川敷は緑地公園として野球やサッカー
などのグラウンドとして、整備されていた。 夏はキャンプ場になると、散歩の人が教えてくれた。
関越自動車道の橋が見える手前で、土手から河川敷に降り、小道をすすむと、左に小さな社
(やしろ)がある。 かって、お伊勢の森と呼ばれていたところである (右写真)
ここは伊勢島村の北端に当たるので、村の鎮守として伊勢大神宮を建立したのである。
明治の神社統合により、強制移転させられ、当時の面影は感じられない (詳細は巻末参照)
旧伊勢島村は、烏川の氾濫で、寛文年間に廃村となり、村は他の村に吸収されたが、住民
の努力で再開発が進められ、天和年間(1681-1684)には、立石新田村として独立したという歴史を持つ。
現在は藤岡市の一部になっていて、地名が字の一部に残るだけである。
また先程の土手の道に戻り、関越自動車道の下をくぐる。 このあたりは、立石新田集落。
三叉路に、中山道の距離を示す木杭が建っていた。
旧中山道は川から離れて、右の道を行く。 左側の奥の方の公民館が見えるところが信迎庵と
いわれたところらしい (右写真)
常夜燈の前に、橋供養搭が二つあった。
仏像が刻まれた供養搭は、宝暦十三年に建立されたものである (右写真)
基壇正面に、 同國緑埜郡阿久津村住
願主沙門寿得
天下太平 宝暦十三
橋建立供養
国土安全 癸未十一月
云々と刻まれ、
基壇左面に、 江戸本所石原 石工吾兵衛 が彫った、とある。
もう1つは、安永二年に建立されたものである。 橋供養搭は、橋が洪水で流されないよう
祈願することや石橋を建てた記念に建てるということから行われたようで、烏川の氾濫や川留めが
地元民に迷惑をかけていたということの証拠である。 中山道では、板鼻宿から高崎宿に向かう途中に、
かねつ橋供養塔があったことは、既にのべた。
両側の常夜燈は、安永二年と明和五年に建てられたもの。 ここには、地蔵(?)像群や
その他石碑が多数あった。
それにしても、これだけの石碑が一ヶ所にあるのは珍しい。
その先の右側に、大きな白壁の土蔵造りの屋敷があった (右写真)
周りを黒い板と白壁の塀で囲っていて、白と黒の調和がばつぐんで大変すばらしい。
漆喰で塗られた家や倉が多数あり、どのような方がお住まいなのか、興味を持った。
(注) 帰宅後調べてみると、この屋敷は、 「 川端家住宅−主屋、別荘、 土蔵五棟を含む
十九棟の建物群 」 として、登録有形文化財に指定されていた。
また、川端家は、豪農で 明治期には絹を扱う貿易商だった、とあった。
少し行くと、左側に伊勢嶋神社の石碑と鳥居があった (右写真)
常夜燈は、天保五年に建立されたもので、この前後左右には、多くの石碑が建っていた。
御嶽山大神、蟲影山大祖、榛名山満行大○○など山岳信仰関係のものや大己貴命、猿田
彦大神、巳待など神を祀るもの、
そして、二十二夜講や庚申講に纏わるもの等、多岐にわ
たる。
寛政四年の道祖神や万延元年の庚申搭などもあった。
奥に歩いていくと伊勢嶋神社があったが、思ったよりこじんまりした神社だった。
周りに小さな社があるのが、明治の神社令により合祀された神社なのだろう。
確認できなかったが、お伊勢の森の伊勢神社も、この中にあるのだろう。
少し歩くと、立石新田の集落は終わりになり、右側の車道と合流すると、橋が見える。
温井川に架かる弁天橋である (右写真)
英泉の木曽街道六十九次の新町宿の絵は、この橋と温井(ぬくい)川を描いたとされるが、
絵にある山や崖は見当たらない。 昭和四十八年に大幅な治水工事をしたというので、その時山が崩され、
今のような平地になったのだろうか?
橋を渡った先の左側下にある弁天社は、天明三年頃は川の中島に祀られていたが、治水工事の際、現在地に移された、
という (右写真)
境内には、弁財天を祭る小さな祠とその周りに庚申碑二つと道祖神石碑が一つあった。
また、安政弐年(1855)に建立された芭蕉句碑がある。
清水が湧き、旅人の喉を潤したことを詠んだもので、
「むすぶより はや歯にひびく しみずかな」
と、詠まれている句碑である。
祠の前にある傷んでいて刻んだ字がうまく読めない石碑がそれだと検討をつけたが、間違いだろうか? (右写真)
橋の手前までが立石新田(藤岡市)、橋を渡ると新町(今回の町村合併で高崎市に編入)になる。
高崎の出発時間が遅かったり、倉賀野でかなりの時間を取ったので、日が暮れて薄暗くなってきたので、
今日は、ここで終わることにして、熊谷に宿泊するため、新町駅に向かった。
(ご 参 考) 日光例幣使街道
例幣使街道というのは、朝廷が、日光東照宮へ参詣の勅使がつかわした時に使用された道で、
京都から中山道を下り、倉賀野で別れ、玉村、五料、木崎、太田を経て下野(栃木県)に入り、
八木、佐野、栃木から楡木で日光壬生街道に合し、今市に達し、日光に至る道である。
幕府は、重要な街道の一つとして、道中奉行の管理になっていた。
例幣使が通る時の街道筋の気の使い方は、上は役人から、宿場の関係者、下は周辺の百姓に至るまで
大変なものだったらしく、また、島崎藤村が小説・夜明け前の中で、
「 お肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かってこの街道を通行したためしがない
のも日光への例幣使であった。 」 と、書いているように、例幣使側にも、かなりの我儘、
狼藉など行き過ぎがあったようである。
(関連リンク) 例幣使街道 が書かれています。
(ご 参 考) 岩鼻陣屋
江戸幕府は、上野国内六郡の天領を統治のため、代官所(初代代官は吉川栄左右衛門、近藤和四郎)を設け、
寛政五年(1793)四月に陣屋を建てた。 陣屋では、博徒や無宿人の取締り、年貢徴収、訴訟事務などを
行うほか、幕府の関東取締出役の活動拠点ともなった。 慶応元年(1865)、木村甲斐守勝教は
関東郡代役となり、岩鼻陣屋で、上野、下野、武蔵の三カ国の幕府直轄地五十万石を管理し、
生糸改印制の実施、農民による猟師鉄砲隊を編成して一揆の鎮圧を行った。 しかし、郡代の木村甲斐守は、
慶応四年2月、東山道総督府の進軍を期に、罷免され、同年三月、高崎藩が陣屋を接収し、
業務を引き継いた。 明治政府の発足により、上野国内と武蔵国西北部の旧幕府領、旗本領は、
岩鼻県となったが、明治四年の群馬県の発足により岩鼻県は廃止された。
(ご 参 考) お伊勢の森
『 このあたりは昔伊勢島村と言い、村の北端に当たるこの地に伊勢大神宮を建立し、村の鎮守とした。
寛文年間(1661-1673)の初頭、洪水のため廃村となり、立石村に合併したが、再開発し天和年間(1681-1684)に分村して、立石新田村となり、現在に至った。 中山道は、以前は神宮の北側を通っていたが、文化九年(1812)頃から、南側を通るようになった。 三百坪程の境内には、巨大な御神木の杉、榎、欅などが生茂り、道中の目安ともなった。 広重の中山道六十九次の絵の倉賀野宿は、この付近を描いたものとも言われている。 神社は、明治四十二年(1909)、立石新田の伊勢嶋神社に合祀された。 』 (説明板より)
平成十八年(2006)三月六日(月)、昨夜は熊谷駅前のホテルに泊まった。
高崎か本庄にと思ったが、宿が取れなかったので熊谷にしたのである。
東京に向かう電車は、十分毎にあるのに、下りは二十分の間隔で、ホームに下りると、出たばかりだった。
熊谷が、意外に寒いのには驚いた。
待っていると底冷えがしたのである。
来た電車に乗り、三十分かけて、新町駅に到着。 駅前にはなぜかライオンの彫刻があった (右写真)
昨日の終わりの弁天社からスタートすることにして、国道17号で、左折し、しばらく行き、
右折し細い道に入る。 左側に、カネボウの工場があり、その先には八幡神社があった。
ここには八幡絵馬というのがあるが、文久三年(1863)、高橋屋、丸富楼、絹屋の遊女達が
奉納したものである。
また、寛政五年(1793)の宿場の大火で燃失した神輿を享和元年(1801)に復元したものも保管されている。
神輿は、宮本、仲町、橋場の町内に、御旅所を設け、落合宿の年番の町内が奉仕した、とある
(右写真ー八幡神社)
隣の宝勝寺は、敷地も広く、建物もかなり大きい。 宝暦十一年の大きな鐘楼門があり、山門脇には、
安永四年の百番巡拝供養搭と六地蔵があった。
そのようなところを立ち寄りながら、前回終了した弁天橋に到着した。 すでに先客が一人。
ご婦人である。 挨拶しようとしたら、倉賀野の方へ歩いていってしまった。
新町宿は、道は広くなっていて、古い建物は殆ど残っていないが、町並は面影を残している。
少し歩くと、右側の民家の脇に小林本陣跡の木杭があった (右写真)
中山道が開設された時は、倉賀野宿から本庄宿までは、対岸の玉村宿を経るルートであった。
新町宿を構成する落合村と笛木村は、寂しい寒村だったが、正保年間(1644〜1648)に、
中山道最大の大名の加賀前田家が、倉賀野から新町を通るルートを開拓し、
加賀街道となったことで、変わった。 中山道開通五十年後の慶安四年(1651)、両村に伝馬役が課せられ、
翌年、両村が合併し、新町になり、承久三年(1654)には、この道が中山道になり、亨保九年(1724)、
新町が正式な中山道の宿場になったのである。
そのようにしてできたため、新町宿は、落合新町と笛木新町と、それぞれ分かれた行政であったらしい。
特に、笛木村は強制移動がなされ、ここに居住させられた、というから、当時の庶民は哀れである (右写真は落合新町の現在)
街道や宿場を変えるそれくらい、加賀百万石の力があった、ということか?!
貞享乙丑(1685)、木曾路を旅した貝原益軒は、 「 新町の民家は二百ばかり。 町の出口に橋あり 」 と、
記録しているのをみると、江戸中期には、かなりの町並になっていたようである。
少し歩くと、右側に石碑を発見。
碑文から見ると、旅篭高瀬屋の跡らしい。
俳人小林一茶が、文化七年(1810)五月十一日に、中山道を下ってきて宿泊した旅籠で、一茶七番日記に、
ここに泊まったことが記されている (右写真)
川留で逗留していると、夜更けに突然起こされ、専福寺の者に、 「 川渡りの助けのための
灯籠を立てるため 」 と、神流川岸に建てる石灯籠の寄進を強要され、幾度と断わったが、根負けして
、懐のさびしいところを十二文寄付したとあり、
『 手枕や 小言いふても 来る蛍 』 という句を詠んでいる (詳細は巻末参照)
その先を右に行くと、四百メートルほどで新町駅である。
左側に、休憩所のような公園があり、新町道路元標の石碑があった。
奥に、塀で囲まれた日本家屋が見えた (右写真)
歩いて行くと、明治天皇新町行在所の石碑が建っていた。
説明板には、「 明治十一年、北陸・
東海地方巡幸の折、明治天皇はここに泊まられた。
木造瓦葺平屋建ての本屋と付属家2棟で、周囲は、九尺の総板塀で、囲まれていた。 」 と、あった。
資料も説明もないので分からないが、明治天皇が泊まったとあるので、本陣だった跡と思うが如何??
(右写真)
以前は郵便局が建っていたが、今はその先に移転していて、その後に行在所公園ができたということである。
新町宿は、天保十四年に編纂された中山道宿村大概帳によると、宿場の長さは十一町三十八間(約1200m)
で、宿内に四百七軒、人口は千四百三十七人が住んでいた、とある。 本陣は、落合新町に二軒、脇本陣は、
落合本町に一軒、旅籠は
四十三軒あった。 その奥の右側に、於菊稲荷神社がある。
嘉永四年の鳥居の脇に、道祖神と庚申尊の石碑が建っていた (右写真)
双体道祖神もあったが、寄進が平成とあるので、最近彫られたものではと思った。
宝暦年間(1751〜63)、宿場の於菊という美女と白狐の結び付きで誕生した稲荷は、病気が治るという
信仰のもと、大変賑わったといわれる (神社の由来は巻末参照)
境内には、太々神楽の舞殿があったが、訪れた印象では、江戸時代の賑わいは想像できなかった。
街道に戻ると、左側にある笠原氏宅の庭隅に、高札場があったことを示す杭が立っていた。 ここが、
落合村と笛木村両村の境であったのである (右写真)
両村は、明治二十二年の町村制実施で、合併して新町となったが、平成の合併で、新町も高崎市に
編入されてしまった。
十字路を右に行くのが藤岡道で、左に行くと、例幣使街道に通じている。
古い時代のものはないかと、淨泉寺を訪れた。 経石塔が立ち、その下に、二十二夜待供養塔や仏像が
描かれた石碑が数体あり、下に女人講と書かれている。 いちょうの木は大木だった。
街道を進むと、専福寺の入口、更に進むと左側に諏訪神社の入口を示す鳥居があった。
入って行くと、更に鳥居があり、その手前の右側には神明威赫、左に政清人和と刻まれた石柱が建っていた (右写真)
神社の祭神は、建御名方命と八坂刀売命で、元正の頃、笛木村の鎮守として本屋敷に奉祀されたが、
慶安四年(1651)、室賀下総守による検地と区画整理による笛木村の移転により、宝永五年(1708)に、
現在地に移された、とある。
元禄十五年(1702)には、石鳥居が建立され、建物は、江戸時代数回の火災に遭い、その
度に建替えられた、という。 明治三十九年の失火で、全焼したので、拝殿は明治期、本殿は昭和のものである。 拝殿には、彫刻が施されている (右写真)
拝殿前の常夜燈は文化十二年の銘があった。 また、神社の奥に、元禄の石鳥居の一部が保存されていた。
なお、ここに伝えられる獅子舞いは、無形文化財に指定されている。
諏訪神社の隣の専福寺の山門脇に、元文五年と寛政十二年の庚申塔があり、その隣には四国・秩父・
坂東供養搭と馬頭観音が祀られている。
その先の左側にある土蔵造りの小さな社(やしろ)は、八坂神社である (右写真)
昔は大きな柳があって、旅人が休む茶屋があったところである。
今は大きなけやきの下に、寛政年間(1789〜1801)に建てられた芭蕉の句碑が建っている。 句碑には、
『 傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな 』 と、刻まれていた。
道は、その先で右側からくる国道と合流した。 そこが新町宿の出口で、復元された見通し灯篭があった。
ここで新町宿ともお別れである。
(ご 参 考) 旅篭高瀬屋の石碑
旅篭高瀬屋跡の石碑には、一茶七番日記が刻まれていた。
『 きのふよりの雨に烏川留る かかることのおそれを思へばこそ 彼是日を費して門出はしつれ
いまは中々災ひの日をよりたるやう也 道急ぐ心を折れて日は斜ならざれど 新町高瀬屋五兵衛に泊(る)
雨の疲れにすやすや寝たりけるに夜五更のころ專泉寺をふとく染めなしたる提灯さらして枕おどろかして
いふやう 爰のかんな川に灯篭立てヽ夜のゆききを介けんことを願ふ
全く少きをいとはず 旅立に連れとかたる かく並々ならぬ うき旅一人見おとしたらん迄さのみば
さちのとがの給ふにもあらじ ゆるし給へどわぶれどせちにせがむ さながら罪ありて閻王の前に蹲
るもかくあらんと思ふ
十二文きしんす
手枕や 小言いふても 来る蛍
述べ帰らんとすれば神奈川の橋なく 前に進んと思へは烏川舟なし ただ篭鳥の空を覗ふばかり也
とぶ蛍 うはの空 呼したりけり
山伏の 気に喰はぬやら 行蛍 』
(ご 参 考) 於菊稲荷神社
戦国時代(天正十年)神流川合戦の際、白いキツネが現れ、北条氏が勝利を収めたのを感謝して、
社を構えたと伝えられるが、 「 於菊稲荷 」 と名付けられたのは、江戸時代の宝暦年間のことである。
神社の由来によると、
『 新町に住む於菊という美しい娘が重病にかかり、医者にも見放されため、稲荷に救いを求めたところ、
病はすっかり治った。 その後、於菊に夢で、 「 今後は人々の為に尽くすように 」 という神託があり、
神社の巫女となり、人の吉凶、なくし物のありかまでさまざまな事を言い当てた。 ここから 、
「 困ったことがあったら於菊に聞け、稲荷の於菊に聞け 」 と、言われるようになり、誰いうともなく
「 於菊稲荷 」 と呼ぶようになった。 』
とある。 新町の名所として、遠くは江戸、相模、長崎からも、参詣人が集まり、大いに賑わったと言う
ことである。
神社には、村上義光を題材にした武者絵などの絵馬が掲げれ、境内には、文政六年(1823)、町人の浄財
で作られた水屋がある。
平成18年3月