平成十五年(2003)七月から平成十八年(2006)十一月まで中山道を歩いた紀行文です。
中山道を歩く人の大多数は、街道を踏破なさることを目的とされ、周りの風景は二の次という感じで、足早に歩かれている。
小生の場合、始めた当初の目的が写真撮影だったので、歩くことより周囲の風物や歴史探求に力点が置かれ、普通の人の二倍〜三倍の時間が掛かってしまっています。 また、ホームページもそれに沿った内容になっているため、資料が多すぎるかも知れませんが、じっくり見て回りたい方を念頭に置いて作成しました。
中山道には、まだまだ古い建物や寺、神社が残っています。 道端では、道祖神や庚申塔や石仏群が我々の歩きを迎えてくれます。 また、古い道が断片的ではありますが残っていて、江戸時代にはこう状況だったのだろうなあ、と空想にふけることも可能です。
更に、伝説や古い民話が多く残り、これらは遠い過去を越えて身近な存在になり、ほのぼのとした気分になれることうけあいです。 東海道には、残念ながら、こうしたものはほとんどありません。
中山道を完全踏破するという目的だけで歩く人にとっては何日で歩けたかということが重要でしょうが、小生のように、多目的だと時間が経つのはあまり苦にならないのは不思議です。 皆様も出来るだけ江戸時代の雰囲気を味わっていただきたいと思います。
ハンデとなったのは、キャノン10Dというかなり重い一眼レフの存在で、歩きにブレーキをかけていましたが、それがホームページに生きていればよいと思うのですが・・・
これから歩かれる皆様の楽しい旅に、お先に歩いた小生の経験が少しでも役立てればうれしいと思います。 よい旅になること祈っています。
会社生活の最後の十二年を単身赴任で、土日には帰宅できないところで過ごしたことから、山に入り風景写真を撮るようになりました。 リタイア後、愛知県の自宅に戻りましたが、その生活が忘れられなく、奥三河や南信州に出かけていました。
その中で出あったのが妻籠宿でした。
娘に案内されての始めての妻籠宿でしたが、宿場の人との触れ合いも良く、古い建物にも惹かれました。 娘が毎年祭に参加していたことも宿場の人の心を開いたという側面はあったと思います
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宿場の人から、同じ雰囲気の奈良井宿のことを知り、また、木曽路を歩く人が多いのも知りました。
暇を持て余しているのなら、木曽路を歩いてみたらの娘の一言から小生の歩きが始まったのです。
家内も同行する気持はあったようですが、写真を撮りだすと我を忘れる小生の性分から一人の方がよいのではということになりました。
交通手段は自家用車で目的地に行き、五キロ程度歩いては車を取りに帰り、また歩いては車を取りに帰るというようにしました。 また、古道を忠実に歩くため、図書館の資料やホームページなどで情報を調べ、同じところに、再び、訪れるなどしていたため、かなりの時間をとりました。
そうしているうちに、車を取りに戻る手段に、鉄道を利用することを覚え、四ヶ月後の十月に木曽路を歩き終えたのです。 併せて、ホームページに連載を始めました。
この段階では、中山道を歩くことは頭になかったし、写真を撮りに木曽路を訪れるという気持だったのです。
その後、紅葉シーズンに入り、各地に出かけ写真の撮影に興じていましたが、その時期も終わると、また歩きたくなってきました。 とりあえず、京都まで歩こうと、平成15年11月から、美濃路の旅が始まりました。
この頃になると、写真撮影より歩くことに力点が変わってきていたような気がします。
中津川宿から御嵩宿間は、自家用車で近くまで行き、歩いて取りに帰るという方法を採りましたが、御嵩から伏見宿までは名鉄、その先はJRと、公共交通手段をとるように変わりました。
大変だったのは、恵那から御嵩までの山道の区間でした。 細久手宿で宿泊すればよいのですが、名古屋からの日帰り区間なため、前回終わったところまで戻るのに多くの時間を費やし、非効率でした。 美濃路を終了したのは、平成16年3月です。
近江路は順調でした。 四月は桜や新緑の撮影で休止、三月、五月と歩き、平成十六年六月には京都三條大橋に到着しました。
近江路は近江鉄道を利用しましたが、この鉄道は本数が少ない上、JRとの接続が悪く、かなりの時間の無駄がでました。
在来線を利用しましたので、大垣から米原までの区間の便数が少ないのは、困りました。
平成十五年七月、落合宿から始まった旅は、平成十六年六月の京都到着で、一応の終結を迎えました。
洗場宿から京都まで終了しましたが、この後、どうするか??
日本橋から歩くか、それとも、日本橋に向かって歩くか? これまで、一方の方向を向いて歩いていなかったので、どうせなら、日本橋をゴールにしたいと思いました。
しかし、日本橋に向かおうとすると、和田峠を越えなければならない。 上諏訪から和田宿までの公共交通機関はない。 以前あった国鉄バスは民営化で廃止となり、この区間は自力で和田宿まで上りきるか、JRで上田市まで行き、バスで和田宿まで行き、峠を下るかの選択しかないことが分かりました。
この年の夏は暑かった。 しばらく様子を見ることにしました。
思案の末、歩いては車を移動させながら上る方法で和田峠を登ることにして、平成十六年十一月に旅を再開し、和田宿まで歩いたところで冬に入りました。 今考えると、和田峠を越える区間が一番の難関でした。
この年は雪が多かったこともあり、家族の反対で、旅は翌年の六月まで中断しました。 名古屋方面からは、和田宿から岩村田宿までの交通手段が見つからなかったのです。 和田宿に車を置いて、歩いた後、バスで受け取るようにして、平成17年6月と7月に和田宿から長久保宿、八幡宿を経由して岩村田宿まで行きました。
東京からだと、長野新幹線で佐久平まで、1時間ちょっとであり、利用できるバスもあるので、小生のような苦労はしないで済むのはうらやましい。 この区間はほんとに参りました。
平成十七年の後半は、キャノンの写真教室に入ってしまったので、秋の歩きはお預けになり、このまま平成十七年は終ってしまいました。
平成十八年に入り、このままでは何時終わるか分らないと、少しあせりがでてきた時、会社の同期の会合が、三月に東京で開かれるという連絡を受け、出席のついでに、高崎へ行き、上州路を先に歩くことにして、2泊3日で出かけました。 これが旅の突破口になったのです。
この経験から数日宿泊して歩く方が効率的であることを知り、新幹線を利用し、上州路は三月、四月で終了、武州路も熊谷宿までは四月に終えることができました。
残された信濃路の岩村田宿から軽井沢宿と碓氷峠越えは、気候のよい五月、六月に車で出かけ、無事終了することができました。
熊谷宿から大宮宿までは、六月に用事で松戸に出かけた翌日に歩きました。
その先の大宮宿〜板橋が十月になったのは、名古屋からの往復の交通費は二万円かかるので、同窓会だけの出席ではもったいないと、先送りしたためです。
日本橋のゴールが十一月二十三日になったのも、小生の誕生日に家族が迎えてくれるというセレモニーが企画されたので伸ばされただけで、本来であれば7月に終了できたのです。
最初から中山道を歩くと決めていたら、日本橋から京都に向って歩いたと思いますが、小生の場合は、京都と日本橋の両方がゴール地点となりました。 中断もあり、3年4ヶ月かかった計算になりますが、大変楽しく歩き終えることができました。
平成18年12月吉日