「 木曽路はすべて山の中である・・・・」という有名な1節から始まる長編歴史小説は、島崎藤村の夜明け前である。
中山道には六十七の宿場があるのに、木曽路の馬籠宿が有名なのは島崎藤村の夜明け前によることが大きいのではないだろうか?
しかし、それだけではない。
江戸時代に旅した人にとって木曽路が一番の難所だったからに相違ない!!
古(いにしえ)に比べれば、往来が容易になった現在でも、電車も車もスピードを落として走っている場所なのである。
私は木曽路を歩き、木曾十一宿の現在の姿を撮影することにした。
そのため、数回に分け、現地を訪れて見よう!! と、思う。
手始めは木曽路の南端の馬籠宿から ・・・・・
平成十五年(2003)七月十五日、私の旅の始めは落合宿の高札場跡からである (右写真)
中山道は、江戸日本橋から京都三条大橋までの百三十五里二十四町八間(約532q)の距離。
参勤交代でも、三十数藩が利用した東海道に次ぐメインの大名行列ルートであった。
また、御茶壺道中や日光東照宮へ御幣を届ける例幣使が利用した道でもある。
難所はあるが、川留めが少なく渡海による海難もないため、姫宮通行のほとんどがこの道を利用していた。
その内、木曽路は馬籠宿から贄川(にえがわ)宿までの十一宿、二十二里余り(約90q)の距離で、それほど長い行程ではなかったが、木曽谷を越えるため中山道一番の難所だったのである。
高札場跡はバス停になっていたが、その脇の小道を下って出発。
車が1台通れる程の小道を数軒過ぎると、川があり、橋が架かっていた (右写真)
落合大橋といっていたらしいが、橋は大橋というほど大きくなかった。
当時はもっと下流に架かっていたと言うから川幅は大きかったのだろう。
木曽路は、ここから登りになる。 橋のたもとの説明文によると、
『 橋が洪水でたびたび流された。 また、橋から医王寺までの登り坂がつづれ折りの難所だったので、道筋は2度替えられた。
明和十一年(1771)につづれ折りの道を廃して、左側に大きく曲がるなだらかな坂道を作った。 』
とあるが、私が歩く道が道筋を変えて造ったなだらかな道なのだろう。
ここは飯田へ通じる伊奈街道の追分(分岐点)で、それを示す石杭が立っていた。
坂を登ると、数軒が並ぶ集落が現れ、その中に医王寺があった (右写真)
別名、山中薬師といい、江戸時代にはキツネ膏薬で有名だったところである。
「 虫封じに御利益がある。 」 と寺の境内に掲示があるので、現在も売られているようである。
境内に、しだれ桜が植えられていたが、二代目とあった。 花が咲くころ、もう1度、こようかなあ!! と思った。
奥に、
『 梅の香に のっと日が出る 山路かな 』
という、芭蕉の句碑があった (右写真)
鬱蒼とした山道をあるいていると、どこかで梅の香りがする。
突然樹の間から朝日が現れた ・・・・
そのような、木曽路ならでは風景を描いたのだろう。
登校途中の小学生に出逢う。
石畳の道を尋ねたら、恥ずかしそうに「 この先!! 」 と答えてくれた。
数百メートルも行くと、落合の石畳があった。
梅雨の最中なため、歩きずらい。
それでも、登りだったので、転ばないで済んだのはよかった。
石畳は、落合宿と馬籠宿間の十曲峠の坂道を歩きやすいように石を敷きつめたもので、現在、約一キロ(正確には840m)の距離が原型復元されている (右写真)
江戸幕府は五街道に一里塚を作り、並木を植え、それらを保護することに力を注いたが、石畳を整備するという発想はなかったらしく、何時の間にか、壊れたまま放置された場所が多く、その後、ほとんどが忘れられたままになったといわれる。
この石畳も、大部分の石が地下に埋もれてしまっていたが、昭和六十三年から八年間
かけて掘り出し、復元されたもので、比較的原型に近い三ヶ所が史跡指定を受けて
いるが、その距離は
驚く程短かった。
中山道は寛永年間に開通したが、石畳が敷かれたのはいつか不明のようだった。
そうした歴史的に価値ある石畳だが、
『 皇女和宮の嫁入りと明治天皇の行幸の際には、石の上に砂が撒かれ、馬が
すべらないようにした』 と、案内板に記されていた。
この道と平行する車道は、石畳の周りを緩やかにカーブしながら登っていく。
車道の途中には、開拓組合が立てた碑があった (右写真)
そこには、
『 桃の花は おのずから少女に ふさわしい 』
と、刻みこまれていて、島崎藤村の「 桃 」 からと記されていた。
このあたりを、桃の産地しようと整備した開拓区の記念碑のようだ。
畑の桃はまだ固そうだった。
石畳は、ほぼまっすぐ十曲峠に向かって伸びている。
石畳の道が途切れたところに、休憩する場所があったので、一服。
ここには石畳について細かい説明板があった。
そこから十分ほどで、新茶屋の一里塚跡に到着した (右写真)
傍らの説明板には、 「 一里塚は方五間(約9m四方)の塚で、 天保〜安政年間につくら
れたものである。 右側の塚には松が植えられていたが、左側にはなにも植えられなかった
ので、今回、一里塚を改修した時、榎(えのき)を植えた。」
とあったが、「敢えて植えることもないのに!!」 と思った。
茶屋とは、街道の宿場と宿場の中間に休憩できるように置かれた施設である。
少し南にあった茶屋を江戸時代に現在の場所に移したことから、新茶屋と呼ばれるようになった、とあり、茶屋の跡地には民宿が建っていた (右写真)
また、信濃と美濃の国境の石柱が建っていた。
美濃と木曾との分岐点なので、ここ
から先が正式には木曽路である。 傍らには、芭蕉句碑と「 是より北は木曽路 」
と、刻まれた石碑があった。 石碑は、五十才過ぎた藤村が地元から頼まれて、揮毫した
ものらしいが、設置されたのは、比較的新しいようである (右写真)
芭蕉句碑の句碑もあり、
『 送られつ 送りつ果ては 木曾の龝(あき) 』
と刻み込まれていた。
芭蕉は越智越人を伴い、信州姥捨山の月見と善光寺詣りを兼ねて中山道を旅した。
この旅を基に更級紀行を発表したのだが、 この句は、その旅で詠まれたものである。
美濃は俳諧が盛んな処で、美濃派 と呼ばれる芭蕉を師とするグループがあったらしい。
この石碑は、「 芭蕉の死後百年経ってからのもので、 かれらが芭蕉を偲んで天保年間に立てた。 」 と、記されていた。
新茶屋からは、先程の坂道と違い、比較的なだらかな道である (右写真)
途中にはトレーキング客が休憩できるよう用意された場所があった。
晴れた日には恵那山が見えるようだが、あいにく曇っていたので見ることはできなかった。
一年前、馬籠宿で写真を撮っていたら、良いアングルがあると紹介され、 後をついていったら、恵那山がなんとか見える場所だった。
「 馬籠の人は、恵那山に愛着が強いのではないか? 」 と、 ふと思った。
山深い場所なので、視野が広くとれる景色は珍しいので、恵那山を見ると開放的な気分に
なるのだろう。 バス停を横目に見ながら、のんびり歩くと道祖神に出逢った (右写真)
道祖神は、信州と甲州、そして、駿河と上州の一部にしか見られないもの。
花が手向けられ夫婦像は、ほのぼのとしていて、良い雰囲気。
すこし先の諏訪神社入口には、島崎正樹(青山半蔵のモデル)の碑があった。
顕彰碑とあるが、字が擦り減ってなにが書いてあるのか、分からなかった。
更に歩を進めると、馬籠城趾脇にでた。
こんもりした林になった丘で、この坂道を円山坂というらしい。
馬籠城は、
「 戦国時代、この辺りは木曾義昌の配下にあり、小牧長久手の戦いの際には、豊臣側として島崎氏(藤村の祖)が守った 」
と、立札には書いてあった (右写真)
この規模では、砦の類の小さなものだったのだろう。
もう少しで馬籠宿に到着できる。
坂道を登りきると、最近出来た凄い建物の蕎麦屋がありその脇を通り過ぎると、馬籠宿に到着した。
馬籠好きの人には申し訳ないが、小生は馬籠(まごめ)は今ひとつ好きになれない。
一度来られた方なら、お分かりになるだろう。
多人数が収容できる大型バス駐車場と土産物屋が現れ、バスから降りる団体観光客の列、列・・・
観光客相手に大声を上げて、客引きをするという京都の三年坂と同じ情景が展開するのである。
これまで歩いてきた中山道ののんびりした風景とは異質で、まさに騒がしいかぎりである (右写真)
また、馬籠宿に江戸時代の古い建物を求めてくるとがっかりする。
明治二十八年と大正四年の大火で、ほとんどの建物が焼失してしまったので、古いものが
残っていないのである。 一部には、百年前(明治以降)の建物を修築しているものがあるようだが、ほとんどが昭和生まれの建物である。
そういう意味では、江戸時代の宿場町を模したテーマパークといってもよいだろう。
馬籠宿のもう一つの観光の目玉は、島崎藤村である。 夜明け前や破戒を書いた島崎藤村は、教科書に出るので、誰でも知っている人物で、ここの出身である。
右写真は、紫陽花が美しいので写したものだが、見事だった。
(馬籠宿がどのようにして今日の姿になったことについては巻末をご覧ください )
私は団体客で賑わう所を離れ、藤村とその一族の墓がある、永昌寺に向った。
永昌寺は、藤村の夜明け前では、「 万福寺 」 という名前で出てくる。
石段を上がった山門脇に、石仏群がひっそり並び、鐘楼や本堂のたたずまいがいかにも禅寺らしい (右写真)
門前から左に入った暗い木立の中に島崎家代々の墓が並んで立っていたが、質素な造りである。
島崎家の墓には戒名がなく、藤村の墓に藤村の本名の春樹と記されていたのには、少し驚いた。
「 この墓には藤村の遺髪と爪が埋葬されている。 」 とあったが、
藤村の墓は、亡くなった大磯の地福寺にある。
墓のまわりの紫陽花がひっそり咲いていた
のが印象深かった。 島崎藤村を目当てに訪問する人が多い馬籠宿だが、 永昌寺 までは足を伸ばす人は少ない。
当日も、同窓会で里帰りしたついでに墓参りという一組の老夫婦にしか出逢わなかった。 藤村好きでも藤村の墓には興味はないのだろう。
宿場に戻ると、とたんに喧噪である。
宿場内は端から端まで歩いても、六百メートル程度しかない。 その中で、馬籠茶屋のあたりが観光客が多いところである (右写真)
江戸時代の馬籠宿は、三町三十三間(400mほど)の長さに六十九軒、七百十七人の人が住んでいた。
本陣が一、脇本陣も一、問屋は二、旅籠は十八軒だったという。 それらのこと
は販売至上主義のこの町ではどこにも記されない。 かっては、民宿だったところも、ほとんどが茶店、喫茶店や食べもの屋になっている。
それより上に登って行くと、藤村記念館あたりまでで、その先は少なくなる。
訪問客は藤村記念館の前で入るべきか否かを思案する。 そして、一部の人だけが意を決したように入って行く (右写真)
島崎藤村は、現在の藤村記念館の場所にあった馬籠宿本陣で生まれたが、父、正樹が明治政府と木曾自由林の没収で争い、破れてしまったので、九才の時東京に移り、銀座の泰明小学校に入り、三田英学校などで学び、明治学院を卒業した。 東京に移って五年後の明治
十九年(1886)、父正樹は郷里にて狂死した。
小説 「 夜明け前 」 は、明治政府と争そった父
の生涯を青山半蔵という名前で描いた私小説であるが、家産が傾き、父が狂死するという不幸に遭ってことが、彼の人生観に色濃く反映していったのだろう、と思われる。
記念館の隣にある大黒屋は、藤村が幼い胸にほのかな初恋の燈をともしたおゆうさんの家である。 大黒屋十一代目の大脇兵右衛門が四十四年間記しつづけた日記が、夜明け前の構想のもとになったといわれ、大黒屋は 「 伏見屋 」 という名で登場する (右写真)
資料館になっている清水屋は、宿役人を勤め、島崎家と親交が深かった家で、
八代目の一平氏は藤村の小説「 家 」で、「 森さん の名前で登場する。
脇本陣だったところは、脇本陣資料館になっている (右写真)
その前にある山口誓子の句碑には、
『 街道の 坂に熟れ柿 灯を点す 』
とあるが、この句で詠まれた柿は、市田柿などの大きな柿ではなく、
この辺りに多い山柿の小さな鈴なりなった姿ではないだろうか?
小さな柿がろうそくのように浮き出してくるとの表現は秀逸。
赤く熟してもだれも取らない道脇の柿に思いを込めて、木曽路の秋をしみじみとうたっている句である。
誓子の詠う秋はすばらしいが、雨が降った後のしっとりした坂の情景を見ると、
「 馬籠宿は、梅雨、紫陽花がよく似合う街 」、と思ったのである (右写真)
この近くの右側に、木曽の酒を扱っている酒屋がある。
この先の福島宿や奈良井宿などに銘酒があるが、それらがここで買えるので重宝している。
馬籠宿はこのあたりで終わりになる。
『 馬 籠 宿 の 昨 今 』
この写真をご覧ください。
どこの風景と思われますか ?
これは、昭和三十六年〜四十年頃の馬籠宿の姿を撮った貴重な写真である。
臼井薫さん(俳優、故”天知茂さん”の兄さん) という、
名古屋のプロカメラマンが主に信州の街道を撮影し、 発表された 写真集「 街道 」 から、
一枚借用させていただいたもの。
「 馬籠宿は、南北に貫通しているのだが、急な山の尾根に設けていたので、急斜面で、
その両側に石垣を築いて家を建てた坂のある宿場であった。 このような状態なので、
火災が発生すると、手の施しようがなく、大火事になってしまう。 記録によると、
1830年〜1915年の八十五年の間に、実に6回も起きて、延べ二百五十戸が消失している。
特に、明治二十八年と大正四年の大火では、古い町並みの全ての建物が焼失してしまった。
更に、明治維新により、この宿場を大きく変える出来事が起きる。
中山道が廃止され、新たに出来た国道が木曽川に沿って行くようになった。 更に、
1912年、中央線が開通したが、馬籠は通らなかった。
これらの結果、人の往来は絶えて、馬籠宿と妻籠宿は、陸の孤島化していったのである。
藤村が村を出た明治時代はまだ良かったが、 村にはこれといった産業もない為、大正、
昭和と進むに連れ、貧困化がすすみ、その日の生活もままならない状況が続いた。 」 と、
山口村の資料にある。
臼井さんが撮された写真には、壊れた民家や鄙びた水車小屋などが
描かれているものもあって、上記の事実を裏付けるものである。
そのような村が今日のような馬籠に変貌したのはなぜか?
馬籠宿 但馬屋
昭和四十三年、長野県は、明治百年記念事業の一貫として、江戸末期のままの宿場風景を再現しようと、 馬籠宿に焦点をあて、二十九戸に改築を進めた。 その後、残る六十戸も姿を変えた。
即ち、馬籠宿は、昭和の高度成長期に作られた、江戸の宿場町を再現したテーマパークなのである。
一部には100年前の建物を修築しているものがあるようだが、大部分が昭和生まれの建物である。
しかし、これが馬鹿受けし、ここが木曽路十一宿のうち、もっとも人気のある観光地になったのである。
隣の妻籠宿は江戸時代から建物が残っているが、観光化へ一歩距離を置いたため、集客力が弱く苦戦しているようである。
平成の大合併ではそうした長野県への恩義を捨て、馬籠は中津川市への統合を決めた。 そういう意味でこの宿場の住民はしたたかなのだろう??
平成15年7月