中山道の三留野宿から野尻宿間は、牧ヶ沢、与川渡、羅天、清水、沓掛などの難所が多いため、川が増水すると、川留めがたびたび行われたので、旅を急ぐひとのための側道として、山道を行く与川道がつくられた。
野尻宿は三留野宿から二里十八町。 木曾十一宿のなかでも、七曲がりとして知られた宿場で、町並みがくねくね曲がり、桝形の役割を果たしたという。
前半では、歴史の道として整備された与川道を歩いた体験談を、後半は、野尻宿を紹介する。
中山道は三留野(みどの)宿を出ると、金知屋から十二兼(じゅうにかね)
を経てまっすぐ木曽川を北上するコースである。
三留野宿から野尻宿への距離は、二里半(10km弱)しかないのだが、牧ヶ沢、与川渡、羅天、清水、沓掛など、難所が多く、たびたび川止めが行われたのである。
「木曾路名所図会」によると、
「 三留野より野尻までの間、はなはだ危うき道なり。
この間、左は数十間深き木曽川に路の狭き所は木を伐りわたして並べ、藤かづらにてからめ街道の狭きを補ふ。 右はみな山なり。
屏風を立てたるごとくにして、その中より大岩さし出て路を遮る。 この間にかけ橋多し。 いづれも川の上にかけたる橋にはあらず。
岨道(そばみち)の絶えたる所にかけたる橋なり 」 とある。
中山道一番の難所で、江戸時代には木曽川に迫りくる山側に、かろうじて道をつくったという状況だったようである (右写真は十二兼付近)
土木技術がない時代なので、道らしい道がつくれず、山の脇を撫でるように道をつくったが、途絶えた場所では橋を架け、谷を渡し、岩と岩の間を乗り越えていったのである。
「 岨道の絶たる所にかけた橋 」 と書かれているが、橋といっても、丸太を何本か置く程度のものだったのであろう。
現在の木曽川にはダムができ、護岸工事もしっかりしている上、19号国道も二車線になるなど、当時の厳しい旅姿を想像することは難しい。
それでも、至る所で崖崩れの防御工事が行われているのを見ると、当時の厳しさを感じることができた。
旧中山道の大部分が国道になったとあるが、当時の国道は現在とはかなり違っていたのではないだろうか??
現在の国道19号線は2車線なので、当時の街道の道幅では建築不能であり、道脇だったに川が迫っていたので、1車線を確保するのがやっとだったはずである。
その後の土木技術の発達により、川を埋め、山を削りして、場所を確保していったのだろう。
当時の様子の片鱗は、右側の鉄道線路やトンネルの方に多く残っているように感じた。
山にへばりつくように線路があり、短い区間が多くのトンネルで結ばれている。
西洋の最新技術で鉄道を敷設した訳だが、難工事だったことを垣間見ることができる。
というような訳で、旧中山道のこの区間は当時の姿はすっかり消えていた。
私は、平成十五年八月、川留めを回避するために設けられた という与川道を歩いてみた。 約七時間のコースである。
「 与川道は、上の原から与川を通って、野尻に達する道であり、中山道なら二里半で行けるのに対し、一里四町三十一間もの遠回りになるが、川留で足止めされた旅人にとってはありがたい迂回路であった。
享保十六年の 伏見家王女・比宮(なみのみや) が 将軍世子、徳川家重 に嫁した際、尾張藩は延べ五千三百人を動員して、与川道を整備した 」 、と記録に残る道である。
「 昭和五十三年から行われた 歴史の道整備事業 では、木曽川沿いの旧中山道が鉄道や国道により原状を留めていないため、与川道を歴史の道として整備した。 」と、説明板に書かれていた。
与川道に入る前に、三留野本陣の北にある曹洞宗の日星山等覚寺(とうかくじ)に行く。
となりには、東山神社があり、山門をくぐると、正面に本堂、左に円空堂があった。
円空は江戸時代初期の僧侶で、全国を行脚し、各地になた彫りの仏像を数多く残した。
円空堂の戸を開け、百円を供え、右側のガラス箱を覗くと、仏像が三体入っているのが見えた。
ガラスに小生の姿が写ってしまったのは不覚だが、左から天神像、韋駄天像、弁財天十五童子像である。 大きいもので四十九センチしかない。
寺の弁天祠棟札に、 「 貞享三年(1686)につくられた 」 と記されているとのことだったが、これ等は円空が当地に滞在したときに彫ったものである。
等覚寺全景 円空堂 円空仏<天神像・韋駄天像・童子像>
国道19号に合流する手前で、右側の坂を登って行く。
左側に神社(?)があり、その先を登る (右写真)
つづら折れの道が続く。
この辺りを上の原というらしいが、妻籠への道と違ってここを通る人は少ないようだ。
廿三夜塔 がある。
廿三夜は、正式には廿三夜講といって、 二十三夜の遅い月を拝み、豊作を祈る という民俗信仰"であるが、江戸後期になると、一種の飲み会みたいになって、お上からたびたび自粛の触れがでていたようである。
廿三夜塔は、私の住んでいた栃木県にも多く、また、福島県の南会津地方に入ると、更に多く見られた。
長野県にも各地にあるようだ。 娯楽のなかった時代のささやかな農民の楽しみだったのだろう。
廿三夜塔を過ぎると、車道に出るが、この車道も1台がやっとという狭さである。
さらにどんどん登って行く。
途中で中学生と思われる若者が道端で休んでいた。 部活の帰りらしい。
林道にでたので、木立の中を歩く(右写真)
正善沢にでる。 沢というほど水があるようには思えなかった。
立て札があり、以下のようなことが書いてあった。
「 ここは江戸時代には与川村と三留野村の境だった。 当時は、山野の芝草が肥料になったので、両村の農民により、しばしば境界争いがあった。 」
登り切ったあたりで、左側に一軒の家を見る (右写真)
下に階段の田があったが、額くらいの土地である。 猿などの被害防止で電流が流されていた。 このようなところで、どの位の作物がとれるのであろうかと思った。
これから先、林道が続いていた。
道の真ん中でなにかを組み立てている若者がいた。
通りずらいのを見て、すこし片づけてくれたが、車が来たらどうするのかと思った。
少し行ったら、今度は道の工事をブルで行っていたので、脇を通り抜けたら、胡散臭そうな目で見られた。
梅雨の中、しかもウイークデーに来たこのおっさんはなにものかという感じだった。
山の中は、梅雨で湿っていることもあり、地面がぬれ、水が流れていた。
車道と共用だが、4WDでないと走りずらいくらい狭く、がたがたの道だった。
下りになり、川が見えてきた。
下山沢川である。 一級河川とある (右写真)
それほど川幅が大きいとは思えなかった。
また、林の中に入って行く。
途中に家が一軒もなく、一人では心細い感じだ。
胡桃田という地名はこのあたりだろうか?
ここまで、約二時間の道のりである。
また登りで森林のように山が深くなってきた。
やっと、小川野平にでた(右写真)
平という名だが、それほど広くない。 山の傾斜を利用して、田畑をつくっている。
十軒あるかどうかの集落である。
家は別として、田畑は狭い土地を利用するため、石を積み上げた段々畑である。
出発してそれほど多くの時間が経過したわけではなかったが、久し振りに民家を見る感じがした。
坂を下る途中に、石を屋根に載せた建物を発見。 昭和三十年代には、この地方ではごく普通に見られた建物だと思うのだが、この附近でも見られないのではないか? (右写真)
地図を見ると、与川道は、ここから山を登り、尾根を通ってほぼ一直線に抜けて行く。
道への入口までやってきたが、梅雨時の今日、これから先の道の状況が分からない。
私一人旅、など・・・を考え、諦めて、車道を歩くことにする(又の機会には歩いてみたいものだ)
車道はこの付近で左にカーブして行くが、そこを行く。
しばらくして、他の車道と交差するあたりに、古典庵・与川の秋月と書れた立て札があった。
「 木曾八景・与川の秋月となっている名所で、仲秋の名月をここから眺めると、周囲の地形とあいまって大きく見事です。 」
と、板には書いてあったが、階段を見上げると、草がうっそうと茂っていて、とてもいけそうになかった。
江戸時代には、僧坊があったようだが、今は仲秋の名月に時に、地元の人が集い、催しを行う程度らしい。
時期がくれば、草を刈り人が入るのだろうと納得し、先を急ぐ。
田毎の月といい、長野県には月を見るところが多いのは、棚田が多いからではないか?
こうこうと輝く月が田に写る姿を上から見るという構図は棚田しかない。
車道は、これから先、与川道の山裾をほぼ平行に進んで行く。
松原御小休所。 案内パンフレットにはトイレのマークがあるが、それ以上の記載はない。
御小休所は、見晴らしの良いところに臨時に設けられ、比宮(なみのみや)の小休止に使われただけようだ。 一般の庶民には縁がない話である。
地元の研究者の 地名考 によると、
「 殿沢を渡って、湿気の多い急坂を屈曲しながら行くと、尾根の先端のややなだらかな処にでるところを松原と呼ぶ。
ここから、中田へ向かってなだらかに下っていたらしいが、地滑りと林鉄工事で破壊された。
享保十六年の比宮(なみのみや)が街道を通った際、尾張藩はここと根の上峠に休憩所を設けた。
根の上峠の方は最近までその痕跡があったが、ここにはその面影はない。 」 と記してあった。
少しいくと、阿弥陀堂に出た(右写真)
地元の研究者は、 地名考 の中で、
「 お堂は江戸時代には臨済禅宗・野尻妙覚寺の説教場として使用され、葬儀用具を保管していた建物だった。 阿弥陀堂という名は、阿弥陀が浄土宗、真宗の本尊なので、臨済禅宗に改宗する以前の信仰の名残りだろう。 」 と、推理しているが、お堂には、阿弥陀如来、薬師如来、弘法大師 などが安置されていて、境内には、庚申碑、馬頭観世音、巡礼参拝碑、南無阿弥陀仏碑などの多くの石造物があった。 もっとも古いのは元禄五年のものである。
この辺りには家が数軒あり、一つの集落を形成しており、須合平という。
与川はこのようなわずかの土地に出来たいくつかの集落の総称のようである。
胡桃田からここまで一時間半以上かかったか?
程なく、向田(むかいだ)集落に到着。
立派な土蔵のある家を発見。 由緒ある家かも知れない(?)
歴史の道として与川道が整備されているのは根の上峠付近まである。 すでに五時間が経過したので、歩くのをギブアップする。
バスは南木曾から与川渡を経由して、向田(むかいだ)まできている(本数はすくないが)が、野尻にでたいので、近くに通りかかった車に載せてもらい移動することにした。
与川道は、この先、らんかん橋を通るが、車はショートカットし、そのまま、根の上峠へ向かう。
らんかん橋の名は姫君が江戸にお輿入れの際、欄干を備えた橋を用意したので、ついた(?)ようである。
根の上峠というから、山の登り下りの境だ、と思っていたが、下ったままで、峠を越したような気がした。
地元の研究者の 地名考 によると、
「 峠は、山の上下とは必ずしも一致せず、村と村との境ということが多かった。
根の上峠も与川村と野尻村との争いでたびたび峠が替わった。 」 と記されていた。
それならば、峠が下る途中にあることも頷けるような気がした。
根の上峠には、石仏道標があるのだが、今回は、確認できなかった。
ほどなく、のぞきど高原の交差路にでた。 後は、林道をくにゃくにゃ下りるだけだった。
前回、与川道経由で、野尻まで行ったが、今回は、旧中山道に沿った道を歩くことにした。
旧中山道は、三留野宿から十二兼までは国道17号や鉄道に吸収されてほとんど残っていない。
また、十二兼から野尻までも、ほんの一部の区間しか、残っていない。
残っている部分も、いたるところで分断されている状態なので、旧中山道を歩くのは不可能なのだ。
従って、旧中山道に沿った道を歩くということは、国道19号を歩く ということにほぼ近い、と考えていただければよい。
三留野から国道に入り、川に沿って設置された歩道を木曽川を見ながら歩く。
以前は、歩道もなく、危険だったようだが、この部分はかなり改善された。
三留野から十二兼までの歩道は、工事中が一部あるが、ほぼ整備されたといってよい。
また、歩道が左側にあり、木曽川を眺めながら歩くことができるので、歩くことに抵抗は少なくなった(?)
柿其橋で左に入り、右側の十二兼駅(無人)を横目でみて、歩いて行くと、また、国道に合流し、国道を歩くことになる (右写真)
十二兼〜野尻間の歩道はおおむね整備されているが、ほとんどの部分が山側にあるため、この道を真夏に歩くのはこれまた大変のことなのだ。
歩いている脇を大型トラックがブンブンと飛ばして行く。 その風圧がすごい。
今や、国道19号は、中津川と塩尻間の高速道路のコストを節約(削減)する道になっているのである。
排気ガスが直接顔に吹き付けられ、暑い中本当に参りました。
歩道は山側の右側に変わる。 やがて、左にダムが見えてきた。
左に分かれる道があるので、その道を行く。 鉄道と国道に挟まれた道である。
踏切を渡り、しばらく川沿いに行く。 対岸は阿寺。
再び、踏切を越えると、平地にでて、対岸への道を分けた先に、野尻一里塚跡があり、この先が野尻宿である。
暑いなかをひたすら歩いた という実感と、少なくとも夏は国道を歩くのはやめたほうがよい というのが、国道を歩いての感想である。
野尻宿は、国道19号から左に入ったところにある木曽川に育まれた段丘上にある集落で、三留野宿とは八人石で、須原宿とは関山をもって、境としていた。
木曽路名所図会には、「 野路里 」 と表記されているが、 「 慶長六年(1601)に中山道宿駅が制定されたときからの宿場で、宿場の全長は六町三間(700m強)で、元禄年間の家数は百八軒。 上町、本町、横町、荒田の四つの町で構成され、千人近い人が住んでいたといい、旅籠の数は最盛期には三十数軒で繁盛していた。 」とあるから、木曽路の中では、中規模の宿場だったのだろう。 森家が本陣(問屋)を、木戸家が脇本陣(庄屋)を務めていた。
京方からの入口は荒田(現在の地名は新田)であるが、家がずらりと建っているので、どこからかが分かりづらい。
歩いていくうち、家の右端に説明板がある家を見付けた。
「はづれ」という家号をもつ吉村家である (右写真)
「 この家が宿場の端だったので、西のはずれと呼ばれた。 また、木曽福島側の上町にも、東のはずれがある。 」 と書かれていたが、その手前にも家が建っているので、すでに はずれ ではなくなっていた。
野尻宿は、七曲がりとして知られた宿場である。
本町と横町が底部で、上町と新田に向って坂道になっている上に、左右にくねくねと曲げて、
人の出入りが難しい設計になっていたのである。
多くの宿場では、出入口に 「枡形」 を築いたが、この宿では七曲がりがその役を果たしていた訳で、現在も道幅も狭く、左右に曲がっているので早く走れない。 国道からほんの少し入ったところなのに、車がほとんど入ってこないし、入ってきた車もスピードを落として、走りずらそうに走っていた。
森家が務めた本陣跡には、民間施設が建っていた。
建物の前に柵があり、明治天皇御小休所碑があったので、本陣跡と、かろうじて確認できたのである (右写真)
野尻駅を中心に商店や旅館(実は民宿)があり、街の中心になっているが、駐車できる
ところが少なく、車が入りずらい構造では、衰退の一途を辿っていくのではないか?と、
少し心配である。
その先には、常夜塔がある。 更に、行くと、高札場跡にでた (右写真)
このあたりが東のはずれらしいのだが、表示が見付けられなかったのは残念だった。
この村(大桑村)は、隣の南木曾町と違い、古いものには関心がないらしく、史跡保存やその説明に力を入れる様子はない。 従って、どこに何があるのかは、自分の足で確認するしか方法がない。
この宿もご多分に漏れず、江戸時代に何回も大火の経験をしている。
明治二十七年の大火では、宿は全焼したので、今残る建物は古くてもそれ以降のものである。
それでも、比較的古い建物の桟や二階のてすりなどには昔の宿場のおもかげを見ることができた (右写真)
野尻駅を中心に、約一時間半歩いたので、狭い町はほぼ歩いたが、ところどころで七曲がりの光景が見られた。
食事を取りたくて道を変え、駅の方に引き返した
が、そば屋などの飲食店は見付けることはできなかった。
しかたがないので、国道にあるコンビニ(タイムリー野尻店)に行き、おにぎりと御茶を買って食べた。
その後、国道沿いにある妙覚寺(みょうかくじ)に行った (右写真)
寺は、法雲山妙覚禅寺といい、当初は、天台宗だったが、臨済宗に改宗し、初屋(しょおく)和尚により開山。
寛永元年(1624)再建。 享保五年、須原の定勝寺の末寺になり、弘道法嗣秀峰和尚を請して中興の祖としたという寺院である。
予想していた以上に素晴らしい寺だった。
入口脇にあった石柱は立派のもの (右写真)
正面には阿弥陀仏石碑や石仏が並んでいた。
なぜ、こんな場所(寺から少し離れた)に、多くの石仏や石碑が並んでいるのだろうか? と、思った。
五〜六人の小学生が、その周りを掃除していた。
学校行事か、子供会の行事だろうか?
それにしても、今時、子供がお寺の境内を清掃するとは珍しい。
山門もなかなか立派である。 また、山門前の植え込みがきれいだった。
石段を登って、入ったら本堂があった。
禅寺らしい作りであった。
享保十一年(1726)に建てられたものだという。
裏庭には、小さな石室があり、その中に小さな石仏が納められていた (右写真)
これが、この寺で有名なマリア観音である。
一見千手観音風の石仏だ!!
裏には、天保三辰年(1832)とあった。
脇の木札には、
「 左手に高くかかげているのは、まぎれもなく十字架。 切支丹禁制のきびしい時代にひそかに作られ安置されたものである。」
とあった。
確かに十字架らしく見えた。
(右の写真では分かりずらいかもしれないが、右上の手が持つのは十字にも見える)
石仏は寺にあったものではなく、昭和四十六年、川の対岸の野尻川向から移置したものである。
江戸時代には地元民がこの石仏をどのようにして守ったのだろうか?
これで、今日見たいと思っていたところが終わったので、温泉に入って汗を流すことにした。
国道19号を突っ切り、野尻に戻り、家並みを抜けて、木曽川に下りていくと、水を満々にたたえたダムがあり、対岸に阿寺温泉の施設が見えてきた。
阿寺温泉恋路の湯という大桑村の日帰り温泉で、最近出来たもので、のんびり風呂に入り、リラックスした気分で宿場を後にすることができた。
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最後に、三留野宿から野尻宿への結論は、
中山道を早く歩きたい人は、国道を、 のんびり自然を愛でながらのトレッキング目的の人は川西古道を、
足に自信のある健脚の人なら、与川道を選択すればよいのではないか?!
また、これまで木曽路を歩いた人のコースどりを見ると、三留野〜十二兼間を省略し、JR十二兼駅(無人)を起点にしている人がけっこう多いのも、今回国道を歩いてみて、頷けるような気がした。
(ご参考) 川 西 古 道
三留野から十二兼に抜けるルートとして、国道対岸歩くコースがある。 東山道より古い 川西古道である。
自然歩道として整備されていて、ハイカーに愛用されているコースである。
自然が残る道で、排気ガスを吸わないでのんびり歩ける点では、国道を歩くより良いが、アップダウンも多少あり、道もくねくねしているので、時間が余計かかる。 また、 途中に立ち寄ってみる場所や史跡がないので、中山道を踏破したい人には、利用価値はないように思えた。
とはいえ、トレッキングとして歩くには良いコースである。
三留野駅から桃介橋を渡って、桃介記念館や読書発電所を見学、その後、川西古道を歩いて、十二兼へ出るコースである。
そこからは、柿其渓谷を奥まで入るという選択肢もあるが、滝を観瀑台から見た後、恋路峠を越えて、阿寺に出る、というコースが、ベストではないか?
柿其(かきぞれ)渓谷の雄大な滝は、すばらしい!! (右写真)
紅葉もよいが若葉の萌えるころもよいので、一度訪れでは如何でしょう!?
「 野尻のラッポ 」
昭和五十二年交通公社発行のポケットガイド「木曽路」には、野尻のラッポ という行事が紹介されている。
『 8月14日から17日までの夜、子供たちが2つのラッポ山という禿げ山で、たいまつとお墓の古い竹の花筒を燃やす。
京都の大文字と似た行事で、一夜ずつ、一、十、士、上と供養の文字を書く。』
と、ある。
この行事は、今でも行われているのでしょうか?
平成15年8月