上松宿は、江戸時代には、宿場よりも木材の集散地として栄えていた。
今も木曽の材木の半分以上は、ここに集まるといわれる。
寝覚の床は、木曽八景の一つに数えられる景勝地だが、江戸時代、上寝覚に立場茶屋があった。
平成十五年九月、須原宿から上松宿まで歩く。 須原宿から上松宿までは、三里九町と、
木曽路では一番長い距離である。 倉本(駅)、荻原、小野の滝、そして、寝覚を
通過
してやっと上松宿になる。 この間、須原から寝覚までは一部旧道が残っているが、
それ以外は、ほとんどの区間、国道を歩かなければならないのだ。
須原宿のはずれ、
須原駅をすぎると、すぐに国道に合流してしまった。 倉本まではこの道をすすむ。
ウイークデーのせいか、私以外に誰も歩いていない。 曇ってはいるのだが、歩いている
と汗がどんどんでてくる。 これには参る。 倉本駅までもう少しの所で、倉本一里塚跡
の碑を発見した。 一里塚は、もとはこれより二十メートル南にあったそうである (右写真)
上松町には、ここを含め、四つの一里塚があったが、どれも現存していないという。
倉本駅が見えてきたが、須原〜倉本を歩いての感想は、約一時間かけて歩いても途中に
みるべきものがないので、この間は、歩くことはやめた方が良いというものである。
どんな駅かと、覗いてみる。 駅には、線路下の道から入るが、無人駅で、駐車場もない。
地元でも、家人に送ってもらわないと利用できないほど辺鄙なところだが、木曽路を歩く
人にはけっこう利用されているようである。 ここから、寝覚・上松宿方面へ、あるいは
、三留野・妻籠に向かうのに便利だからである。 利用する際は、停まる列車が少ない
ので、注意が必要である。
駅からまっすぐ行くと、木曽古道に入れるが、元の道に戻り
北上した。 登りが続く。
道から少し下がったところに、立町集落がある。 江戸時代
には、立町立場茶屋があった
ところで、国道から降りて行くと、広い庭を持った木曽林業振興組合の施設の前に出たが、
そこの一角で、明治天皇御膳水という石碑を見付けた (右写真)
当時は清水が湧いていたのだろう。 明治天皇は巡行のとき、このあたりで昼食を取った
のであろうか? 立町には、普通の家と町の施設などがあるだけだった。
国道に戻り、歩くと、右手に家があり、道があったので、入って行く。 荻原地区だろう。
数軒続く集落の途中で、廿三夜などの石碑が並んでいた。 江戸時代には、宿場と宿場
との間に、間の宿があったとされるが、この辺りにあったのだろうか? 今や、旅人が
歩いたという形跡は見付からないくらい変わっていた。 歩いていた道もすぐに、国道に
合流してしまった。 右手に小野の滝が見えてきた。 滝から少し離れた左側の社(やしろ)
前には、数台置ける駐車場がある。 小野の滝は木曽八景の一つ・小野の瀑布 で、
木曽路を歩いた旅人はかならず立ち寄ったといわれる名所だったらしい (右写真)
鉄道が開通し、上を通るようになったため、景観が悪くなってしまった。 それでも、水量は
まあまあ、高さがけっこうあるので、この地方では名瀑に違いない。
滝のある河原に降り、
タオルに水を浸けて、顔を拭く。 汗ばんでいたので、少しさわやかになった。
しばらくの間、写真撮影に没入し、けりがついたところで、出発した。
国道を少し歩くと、右に登る道があったので、登っていく。
滑川(なめりかわ)を越えたところ(小野の滝から1.2km)に、右上に上がる小道がある。
旧中山道の名残りで、二十メートルもない短い石畳道である。
登りきると、中学校だが、何気なく学校に入る。
校長室や事務室のある建物は、しっかりした木材で作られていた (右写真)
木材の産地だけのことがあるなあ、と思った。 校庭には、いろいろな石を展示した鉱物標本の岩石園が作られていた。
そこから、二百メートルくらいで、大きな木樹がある集落に入った。 上寝覚地区である。
町で最も大きな桂(かつら)の木がそびえ立っていた。
少し行くと、 江戸時代に、立場茶屋があったところで、民宿 「 たせや 」 と 旅館 「 越前屋 」 と書かれた建物が見えてきた (右写真)
手前に見える建物は越前屋で、国内で三番目に古い蕎麦屋といわれ、江戸時代には、旅籠も兼ねていた。
昭和四十一年まではここで営業していたが、国道19号沿いに移転して現在は蕎麦のみの営業である。
写真奥の建物はたせやで、現在は民宿を営んでいるが、江戸時代は立場茶屋・多瀬屋であり、三百年続く老舗である。
旅館だった旧越前屋の建物は、変わった形のガラス出窓(写真では見えない)など、大変風情のあるものだった。
また、民宿 たせや の脇に積まれた薪と白い障子窓のコントラストも
絶妙であり、家前に立つ赤いポストは時代を感じさせてくれた。
中山道はまっすぐ行くのだが、昼飯と寝覚の床を見るため、寄り道をすることにした。
たせやと越前屋の間の小道を下って行く。
江戸時代、中山道から臨川寺への参道として
作られたものだという道を下ると、寝覚の床の入口にでた。
寝覚の床は、木曽八景の一つで、大正十三年(1923)に史跡名勝天然記念物 に指定された。
木曽八景・寝覚の夜雨として有名なので、多くの文人や画家などの著名人も訪れているところで、昔は中山道を歩く旅人の憩いの場として、現在は観光スポットとしてにぎわいを見せている。 約1.5kmに渡って象岩や烏帽子岩といった岩が連なり、エメラルドグリーンの水と白い岩、それに周囲の山の緑が見事に調和する。 木曽川の源流が長い時間をかけて作り上げた、一種の芸術品である (右写真)
「 竜宮城から戻った浦島太郎が旅の最中に通りかかり、風景を気に入って毎日釣りを楽し
んだ 」 という伝説が残る。 入口にある臨川寺、正式には寝覺山臨川禅寺には、「 浦島太郎の釣り竿や硯などの遺品 」を収蔵した宝物館があったが、眉つばものに思えたし、後はがらくたの類だった (入場料200円)
展望台からは、眼下に列車の線路が見え、その先に寝覚の床が展望できた。
境内の一角に、弁財天堂があった (右写真)
尾張藩徳川吉通が正徳元年(1771)に立ち寄った折りに、母堂の長寿を祈願して上松の役人に命じて建てさせたもので、 「 大工は名古屋から、石屋は高遠から連れてきた 」という。
翌年の正徳弐年の完成したもので、この町で一番古い建築である。
境内には、「 明治天皇寝覺御小休所 」 の石碑があり、巡行の時、しばしの休憩をお取りに
なったのだろう。
ここには、芭蕉や子規などの句碑があった。 芭蕉の句碑には
『 飛流(ひる)顔に ひる寝しよもの 床の山 』
とあり、貝原益軒の歌碑には
『 岩の松 ひびきは 波にたちかわり 旅の寝覚の 床ぞさびしき』
と刻まれていた。 寝覚の床をじっくり見学するには、小道を下りて行く必要があった。
急斜面を下り、岩場を越えて川辺に近づくと、その巨大さに圧倒された。 岩の先端には、
若いカップルが楽しそうに座っていた。 深淵に吸い込まれそうな気分になるのだが、平気のようである。
少しの間、風景を楽しんだ後、来た道を引きかえした。
腹が空いてきたので、食事をとることにした。
当然のことながら、臨川寺と国道17号をへだてて向かい合う、創業三百年という老舗の蕎麦屋・越前屋である (右写真)
島崎藤村は、小説「夜明け前」で、
『 (前略)
木曽の寝覚で昼、とはよく言われる。 半蔵等のやうに福島から立ってきたものでも、
あるひは西から来たものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曽路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。 そこに名物の蕎麦がある。
春とは言ひながら石を載せた板屋根に残った雪、街道の側み繋いである駄馬、壁を泄れる煙 −
寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬籠りの状態から完全に抜けきらないやうに見えてゐた。 半蔵は福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めやうと思ふ頃には、そろそろ食事を終って出発するやうな伊勢参宮の講中もある。
黒の半合羽を着たまま奥の方に腰掛け、膳を前にして、供の男を相
手にしきりに箸を動かしてゐる客もいる。 その人が中津川の景蔵だった。
(以下 略)』(原文のまま)
と、この蕎麦屋を書いている。
寿命そばとは、この店が付けた商品名で、寝覚そばとともに商標登録をしている。
十返舎一九は、「 木曾街道膝栗毛 」 の中で、五色 「 そばは白く、薬味は青く、いれものは赤いせいろに、黄なる黒もじ 」 と、書いていて、街道筋は勿論、江戸でも有名な蕎麦屋だったのである。
小生はもり二枚千円を注文したが、入れ物は十返舎一九が書いた 赤いせいろに入っていた。 地元産の粉を使い、石臼で引いたものを使用していた (右写真)
寝覚の床で目を癒し、越前屋で腹を満たして、旅人の疲れをいやした光景が、今でも
ここにある、と思った。
腹が満ちたので、出発。 先程の道を登り、たせやの脇に立つ (右写真)
この建物を見ていると、江戸時代の旅人の姿が浮かんできた。
そんな錯覚を起こさせる風景だった。
旧中山道は国道19号からそれた裏通りになってしまったが、何時までも今の姿を留めて欲しいと思った。
寝覚を後にして中山道を歩く。
車が通れる道でありながら、ほとんど通らない静かな道。
郵便配達のおじさんに聞く。
「 この先、古いものがありますか? 」 おじさんが答える 「 とくにないですね!!」
両脇には、民家が建ち並んでいるが、古いものは全然ない。
道は、山の高いところを通って行く。 地名表示には、見帰とあり、更に歩みを進めると、
北見帰になった。 寝覚の床を見て帰る場所という意味なのだろう。
しばらくすると、下におりる道があったが、右手の住宅街に足を踏み入れて行く。
やがて右手に上松小学校のグランドが見えてきた。
道脇に、尾張藩材木役所御陣屋跡という石碑がある (右写真)
「 上松は木曾五木の産地であるが、江戸時代に尾張藩の領地になる。
寛文五年(1665)、
藩直属の材木役所が設けられ、木曾五木は山林奉行の厳しい監視下に置かれた。
役所は、南北百十八メートル、東西百メートル、敷地面積は一万u強あって、その中に、奉行所、奥長屋などがあり、「 上松の御陣屋 」 とも呼ばれたが、明治に入り、廃藩置県により、廃止された。 」 とあり、その跡の一部が上松小学校になっているのである。
手前に、諏訪神社の鳥居があり、そこを登って行くと、学校のグランド。 その先に神社がある。 正面が、諏訪神社で、左側が、五社神社である (右写真)
五社神社は、江戸時代には、中山道沿いに建っていた材木役所の中庭にあったが、明治四年、役所が廃止された時、諏訪神社境内に移されたものである。 天明年間に、時の材木奉行が、木曽山川の安全と働く人々の事故無しを願って建立したもので、木材役所の名残りといえるものである。 過去に想いを寄せて、黙礼。
小学校に藤村の石碑があると聞いてきたのに、見付からない。
隣に建っていた立派な公民館で聞く。 「 校門近くにある 」 という。 一旦道まで下りて、
校門に向かうと、校門から少し登った右側にあった。
藤村が愛誦していた芭蕉の西落堂の記の一節を自ら書いた 、といわれる文学碑で
『 山は静かにして性をやしない、水は動いて情をなぐさむ 』 と、刻まれていた。
学校を去ろうとして右手を見たら、斉藤茂吉文学碑を発見 (右写真)
『 駒ヶ嶽見て そめけゐを背後にし 小さき汽車は 峡に入りゆく 』
という歌が刻まれていた。
右に行くと、駒ヶ岳神社。 駒ヶ岳神社の里宮のことで、本宮は駒ヶ岳山頂にある。
更に、歩を進める。
右側の道脇には阿弥陀仏石碑群があった。 また駒嶽道石碑や駒ヶ岳への入口案内などがあり、駒ヶ岳参拝を目的とする、江戸時代の山岳宗教の結びつきを強く感じた。
このあたりは道幅も狭く、片側が斜面になっている。
やがて、下り坂になり、桝形にでた (右写真)
上松宿の入口に到着したのである。
上松宿は、木曽十一宿で、ちょうど真ん中の宿場で、江戸時代には、宿場よりも材木の集散地として栄えたところである。
しかし、木材産出の町の宿命というか、これまでに多くの大火を経験しており、昭和二十五年の大火では、町役場を含め六百軒以上が類焼している。
上松宿は五町三十一間(約540m)の長さであるが、火事で宿場だった本町、仲町、下町も被害を受け、原脇本陣や塚本脇本陣を始め、ほとんどの建物が燃えてしまった。
木曽義元の二子、玉林が天正十年に創建したと伝えられる古刹も、建物などは焼けてしまったが、山門だけはかろうじて残った (右写真)
一里塚跡石碑は本町の民家の脇にあるが、実際の一里塚はもっと北にあったらしい(右写真)
上松駅の裏には、切り出された木材が高く積まれ、製材工場が立ち並んでいる。
上松は江戸時代、木材で発展したが、今も、材木の街だばあ、と印象付けられた。
赤沢自然休養林は日本三大美林の一つといわれ、伊勢神宮の遷宮(二十年毎に建て替え
られる際)に使用される御神木が産出される。
町は、観光の目玉として寝覚の床とともに赤沢自然休養林の売り込みに積極的だった。
上町(かんまち)には、大火の際、奇跡的にやけ残った家があった。
短い区間ながら道の両側に古い住宅が並んでいて、上松宿の面影を残している (右写真)
上町を過ぎると、十王橋で、宿の終りになった。
宿場跡を見ながら歩いたが、三十分もしないで、歩き終えてしまった。
平成十年に、国道19号のバイパスが完成し、車はトンネルを通りぬけてしまうので、上松町は、よその人の目に触れることがなくなった。 これは吉か凶か? 地元の人達はどのように考えているのだろうか?
平成15年9月