天下の四大関所のひとつ、福島関所があったところである。
また、『 山蒼く 暮れて夜霧に 灯をともす 木曽福島は 谷底の町 』 と、詠われた町
でもあった。
宿場跡には時代を語るものが残っていなかったが、木曽川に沿って、懸崖造りの家々が見られた。
平成十五年(2003)九月、須原宿から上松宿を経て、福島宿までいくつもりである。
上松宿のはずれにある十王橋を渡り、登って行くと、国道19号に合流してしまった。
上松から木曽福島までの区間の中山道は、ほとんど残っていない。 大部分が国道に吸収されて
しまい、 一部あっても、途中で消滅するという状況である。 笹沢で、トンネルを抜けてきた
バイパスと合流した。 ここから桟(かけはし)の先までは、鉄道と道路工事で史跡になる
ようなものは全て消滅している。
歩道がないので、歩行用に引かれた白線内を歩くことになるが、カーブと急坂が多い上、
大型トラックが多く走るので、危険極まりない (右写真ー国道の上をトラックが快走していく)
ガードレールの工事がすすめられているので、 終われば危険がなくなるが・・・・・
これまで歩かれた先輩達の体験談を拝見しても、
「 大型トラックの風圧で被っていた帽子が吹き飛んだ。 帽子は深い木曽谷にひらひらと
舞い落ちるのをみて、肝を潰した 」 とあり、完全踏破するのでなければこの間は歩くの
を避けた方がよいだろう。 あるいは対岸を歩き、桟(かけはし)からは国道
にでる、
という選択肢もある。 上松は海抜五百メートル、木曽福島が七百メートルと、約二百メートル
の高低差を登ることになり、高度差と危険度で、この区間が、木曽路一番の難所だった。
右の絵は、昔の桟の姿を描いたものだが、今にも谷底に転落しかねない危険を背に旅
をした姿が、印象深く描かれている。 小生は、残暑の残る木曽路を歩く。
笹沢トンネルの先は、左側の木曽川に道がせり出して付けられているので、怖い。
その先は新茶屋、高度をどんどん上げていく。
万路を過ぎると、桟(かけはし)に到着して、 やれやれである。
「 木曽路の桟の一部が見られる 」 と表示された案内板の近くにはバス停があり、道路の左右
に数台停まれるスペースがあったが、
桟は木曽八景で、 桟の朝霞 (かけはしのあさかすみ)といわれた名所である。
道路標識を見ると、桟は左折となっているので、鉄製の大きな橋を渡ったあたりのようである (右写真)
橋を渡り終えると、左の駐車場の山裾に歌碑があった。 正岡子規と芭蕉の文学碑である。
子規の文学碑には、
『 かけはしや あぶない処に 山つつじ
桟(かけはし)や 水にととかず 五月雨
むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしてそめけん 木曽のからはし 』
と、刻まれていて、「 からはしの記 」の一節を記したものである (右写真)
芭蕉句碑は、木曽代官、山村風兆により、文政十二年に再建されたもので、対岸の中山道
にあったのだが、国道工事により、ここに移転したもので、芭蕉が、貞享五年(1688)に、
更級紀行で善光寺詣をした時に、詠まれた句である。
『 桟や いのちをからむ つたかづら (はせを) 』
桟が駐車場からは見えなかったので、下に降りていき、展望の開いているところから対岸を見た。
国道の下に、石垣積み部分を見付けたが、これが桟だった (右写真)
「 桟は、けわしい岩の間に、丸太と板を組み、藤づる等で結んでいたが、通行人の松明
(たいまつ)で焼失したのを、尾張藩が、慶安元年(1648)に、八百七十五両という大金をかけて、中央部を八(14.5m)の木橋にし、長さ五十六間(102m)の石垣を完成させた。 」 と、いうもので、完成後は、谷底に落ちる人馬がかなり減ったが、明治の鉄道工事の際に、木橋は壊されてしまった、という。
国道改修時に、桟(かけはし)を後世に伝えるため、道
路の中
に全部を埋め込まないで、一部の石組みを残した。 」 と、ある。
上を仰ぐと、国道の上方に、三つのトンネル出口のようなものが見える。
これも、工事技法の展示ということらしい。
道に戻る手前の岩上に、馬頭観音と思われる石仏達が鎮座していた (右写真)
駐車場の近くにも、馬頭観音碑があった。 「 桟の難所で亡くなった馬の供養のためのもの。
対岸の旧中山道から移転した。 」 と、案内にあるので、中山道が道路工事や鉄道敷設で
壊されたとき、馬頭観音などをここに移したものらしい。
断崖絶壁から落ちたり疲れて命を落とした馬も多かったのだろう。 その馬や旅人を
供養する碑や石仏。 今の旅では考えられない姿を想像することができた。
駐車場の先に桟温泉があった。 汗を流すにはよい風呂である。
( 温泉に興味のある方は、【桟温泉】 をクリックください )
対岸に戻り、国道を約七百メートルほど登ると、右側に坂道があった (上松駅から3.3kmの
地点 )
車が1台も通れないほどの細道だが、これが間違いなく、旧中山道で、入るとすぐの右側に、
沓掛一里塚の石碑があるが、気を付けないと、通り過ぎてしまう (右写真)
沓掛一里塚は江戸より七十一里、京へ六十九里の位置にあり、上松宿の入口にあたる。
二つあったうち、山側は明治四十三年(1910)、中央本線が鉄道敷設したとき取り壊されて
しまった。 一里塚の姿は、少し上に登って、線路脇を入っていくと、よく分かる。
塚の上に、 沓掛の馬頭観音堂があった (右写真)
ここには、『 木曽義仲が、
言葉の分かる名馬に乗り、木曽の桟の絶壁に通りかかった折り、目算で、
「 七十三間とべ! 」 と、号令をかけたので、馬は、正確に七十三間をとびましたが、
実際には七十四間あったので、河中に転落してしまいました。 義仲は九死一生を得ましたが、
愛馬は死んでしまいました。 義仲は愛馬を悼み、菩提を弔うため、金の観音像を造らせ、
お堂に祀った 』 という、言い伝えが残っていた。
以前は、ここより少し南の観音坂にあったのだが、鉄道敷設の際、ここに移されたのである。
お堂はかなり傷んでいて、堂内を覗いても、(当然といえば当然かもしれないが) 木造の
仏像があるだけだった。 金の観音像は、本当にあったのか、後世の人々が作り上げた義仲
伝説の一つなのか?、分からないが、 どちらにしてもロマン溢れる話だと思った。
お堂の前には馬頭観音が沢山あったが、これも中山道の道路工事で集められたものかも
知れない。 江戸時代には、このあたりに塚本茶屋本陣があったようだが、その面影は少し
も残っていなかった。 自動車が通り抜けできない狭い中央本線の陸橋をくくりぬけると、
静かな林道が続いた。途中に、 御嶽遙拝所 がある。 御嶽信仰の強い時代だったので、
街道にはこのように拝める場所が数ヶ所あったらしい。この先、旧中山道が一部残っている
ので、そこに入りながら歩くと、木曽福島が見下ろせる場所に到着した。
(ご参考) 桟(かけはし)
桟は、けわしい崖に橋をかけたわずかな通路を開いたもので、木曽の桟(きそのかけはし)は、
古くから歌枕に歌われた。
昔は、けわしい岩の間に丸太と板を組み、藤づる等で結んでいたが、正保四年(1647)に通行人
の松明で焼失した。
尾張藩は、翌慶安元年(1648)に、八百七拾五両という大金をかけて、中央部を八間
(14.5m)の木橋とした、 長さ五十六間(102m)の石垣を完成させた。
寛保元年(1741)には、木橋の下の空間も全て石積みとなった。
残されていた木橋は、明治四十四年(1911)、JR中央線工事のため、取り除かれた。
現在残されている石垣積み部分は、ほぼ完全な姿で残されているものである。
(長野県教育委員会の資料による)
木曽福島は、木曽川を底部とした谷間の町で、 太田空穂が、
『 山蒼く 暮れて夜霧に 灯をともす 木曽福島は 谷底の町 』
と、詠んだのは適切な表現だ!と、思った (右写真)
国道19号は、トンネルで抜けながら、木曽福島の町を通らずに通り過ぎて行ってしまうが、
中山道は、国道を横切り、坂を下っていく。 少し歩くと、散歩道の案内看板が現れるが、
この道は、間違いなく、中山道である。 車道は、これと平行して続いていて、下って行くと、
木曽合同庁舎前に出る。 このあたりは、塩渕という地名だが、その由来には、複数の
意見があるようである。 「 馬が川に転落して、積み荷の塩をまいてしまった 」 というのが
あるが、「 シオという地名は川の曲流部につけられることが多いので、木曽川の曲流部に
できた渕 」 という説の方が的を得てるように思えた。 塩渕一里塚があるはずなので、
探しながら歩く。
探していた一里塚は集会所の前にあったが石碑があるだけ (右写真)
小さな石碑は格好もスマートなので、最近になって建てられたものではないだろうか?
享保九年(1724)の 「 岩郷村家数書上帳」 によると、塩渕の家数は十四軒、とある集落で
あるが、今や福島宿とつながった家並みを形成していた。 このまま、道を辿っていったら
木曽福島駅の下にでた。
駅に登って行くと、御嶽教の建物があった。 御嶽山を信仰する
山岳宗教は江戸時代までは神仏混合だった。 明治に入り神仏分離となり、神道は国家管理に
なる。 山岳宗教は仏教の講という形をとって生き残ったのである。 ここ木曽福島は御嶽山
の入口にあたるので木曽信仰者のメインルートになっていたのだ。 入って水をいただく。
歩いた後なので、うまかった。 木曽福島駅には乗客はほとんど居ない。
駅脇には、太田空穂の前述の「 山蒼く 暮れて夜霧に ・・・ 」の歌碑があった。
駅から下って行くと、江戸時代、高札場があったところに出た。
今あるのは復元された高札場である (右写真)
道が曲がっているので、ここが福島宿の入口だったのだろう。 道を右折して、登って行くと、
上ノ段集落に出た。
袖卯建や堅繁格子のある町家が数軒あり、薬屋や造り酒屋を営んでいる。
なまこ壁の土蔵を備え、裏まで続く広い敷地を持ったお屋敷だった (右写真)
むかし旅人が休んだという水場があった。
「 上の段用水は、木曽家の館に八沢川上流から取水したのが始まりで、昭和初期まで地元住民
の洗い場、社交所として利用された。 」という生活にかかせない用水だったが、水道の普及せ
その使命を終えた。
下水道工事をしていたからか?、水はでていなかった。 少し先の木曽観光会館前に、新たに
小さな水場がつくられていた。
民宿 「 くるみ家 」 は、板屋根の家で昔の木曽の家の姿を残しているが、今は営業していないように思えた。
このままだと、建物が傷んでしまうのではと、少し心配である (右写真)
道のつきあたりには、石が乗っている伝統的な石置板屋根の家があった。 今にも朽ちそうに傷んでいたので、行政が手を差し伸べないと消えてしまうだろうと思う。
こうした家は、全国にも数少ないので、行政の手でぜひ残して欲しいと思う。
復元したものとオリジナルでは違うのだ!!
そこには、斉藤茂吉の句が、紙に書かれて貼ってあった。
『 清き水 わきかえるそばに 米とぐを 木曽路のまちに たまたま見たり 』
上ノ段は二百メートルほどの短い距離だったが、 福島宿で唯一、宿場時代の情緒深い面影を
残しているような気がした。
近くにある大通寺にも寄った。 智勝山大通寺といい、木曽代官山村良勝によって建立された寺で、柱山和尚を開山とする。 鐘楼門は安永七年(1778)の建立で、当町で一番古い建造物である (右写真)
道を下って、町の中心の本町にでる。
本町から上町が福島宿の中心だったが、昭和二年の木曽福島大火で、約八百軒の家が火災に遭い、古い建物は消えてしまったので、宿場のおもかげは残っていない。
本町の一角で、川の対岸から、崖屋づくりと呼ばれる家並みを見ることができた。
木曽川に床を張り出すことで、狭い土地を有効活用しよう、とした生活の知恵と言われるもので
ある (右写真)
白木本陣だったところには、木曽福島町役場が建っていた。 この付近に、脇本陣や問屋など
宿場の機能をなす施設があったはずだが、どこにあったかなどの資料がない上、現地には
いっさいの説明がないので、これ以上探しても無駄であった。
木曽福島には今も旅館が多くある。 しかも、ホテル形式ではない和風旅館ばかり。
旅籠だった 岩屋旅館は建て替えられて、今も営業をしている。
和菓子屋も創業300年を誇る店がある。 木曽漆器がここが発祥の地といわれ、江戸時代
には繁盛したが、その後、楢川に地位を奪われてしまった。 今も、数軒の漆器店がある。
やはり歴史のある町なのである。 七笑で有名な木曽酒造が大きいのには正直驚いた。
昼飯は蕎麦がうまいと人気の高いくるまやでとる。
有名になりすぎて、静かに食べられ
ない
のが玉にきずであるが、何時来ても満足する美味である。 もり、二枚千円なり(右写真)
食事後、関所跡に向かう。 道はなだらかな上りで、そのまま行くと国道と合流する。
福島関所は明治二年に廃止されたが、最近復元されて、公開されている。
道脇にある薬屋の奇應丸の石碑を見ながら、石段を登って行く。
福島関所は、東海道の箱根、新居、中山道の碓氷とともに、天下の四大関所と呼ばれて、
街道を往来する旅人を監視していた。 関所跡は、昭和五十年に学術調査が行われて、五十四年
に國の史跡に指定された (右写真)
これまでも新居関などを見てきたので、関所には特に感慨はなかった。 それよりも、代官を
続けた山村家の方に関心を持った。
山村氏は、家康の 「 福島を幕府直轄にする 」 という方針により、所領の木曽福島を取り上
げられたが、同時に、福島代官になり、旗本になった人物である。 その後、木曽地区は
尾張藩の所領になったが、尾張藩は山村氏に福島代官職をそのまま続けさせた。
山村氏は、江戸と名古屋に屋敷を持ち、
幕府と尾張藩に仕えたのだから、かなりしたたかな人物だったのだろう。
他の関所の代官は、交代で務めたのに対し、木曽代官を山村一族で明治になるまで続け、
木曽谷を支配した。 その権限は強大で、その屋敷も豪壮を極め、庭園が二十あったと
いう。 関所の隣には、関所に勤める役人の家々が連なっていた。
今も残る高瀬家も
その一軒である。
高瀬家は、大阪冬の陣ごろ、福島に来て、高瀬八右衛門武声が、代官山村氏に仕え、御側役、
鉄砲術指南役、勘定役を務めた家柄で、藤村の姉(園)の嫁ぎ先として、有名である。
園(その)は、藤村の作品 「 家 」 に登場するお種、「 夜明け前 」 のお粂のモデルに
なった人物である。 そのような格式を持つ家だが、大火に遭い土蔵と庭園の一部が残って
いるだけだった (右写真)
石段を下りると、中山道(国道19号)にでるが、道を横切って反対側に行き、橋を渡る。
国道19号はバイパスが出来てからは、福島には入らず、山をくりぬいたトンネルを抜けていく
が、その前はここを通っていたのである。 この場所は、右側に山がせり出して行く手を阻み、
左側に川が流れる隘路なので、関所がここに設けられたのは納得できた。
川に架かる橋は関所橋で、橋の欄干のプレートには、七月二十二、二十三日に行われる、
水無(すいむ)神社の祭礼で、みこしまくりといわれるものの絵であった (右写真)
重さ370kgもある木造のみこしをころがし、ころがして、最後には壊してしまうという
荒っぽい祭を描いたものだった。 橋を渡るとすぐ、興禅寺に到着した (右写真)
興禅寺は、臨済宗妙心寺派万松山興禅寺といい、木曽三大寺の一つで、木曽氏と山村氏の菩
提寺である。
木曽義仲を追善供養するため、木曽氏十二代信道が荒れた寺を修理改築し、太華和尚を呼んで
復興させた古い寺で、信道がこの寺の開基、太華和尚が開山となっている。 本堂や諸堂は
昭和弐年の木曽福島の大火で全焼したので、古いものはない。
再建された室町様式の勅使門を入ると、正面に大悲殿(御影観音堂)があり、その前には、
義仲公お手植えの桜 ( 但し、二代目 )があった。 その傍らに、山頭火の句碑があった。
『 たまたま 詣でて木曽は 花まつり 』
裏手に歩いて行くと、墓地の正面に、太い柱で囲まれた墓があった。
中央に、木曽義仲、右側は信道(木曽氏第十二代、寺開基)、左は義康(第十八代福島城を
築いた)の墓である。 義仲の墓には、彼の遺髪が埋められている (右写真)
墓の前の大きな自然石には、 『 さくら ちりをへたるところ 旭将軍の墓 』
という山頭火の歌が刻みこまれていた。 その奥に、木曽家歴代の墓もあったが、これは
質素なもの。
それに対し、山村家のは立派だった。
庭園は、重森三鈴(しげもりみすず)氏による枯山水、石庭看雲庭がある(入園料500円)
少し先には、長福寺があったが、これも立派な寺。 面談謝絶とあり、中には入れなかった。
境内に庚申の中心神である3体の猿の石仏があり、文政五年(1822)につくられた傑作と書かれて
いた。 少し歩くと、山村代官屋敷跡である (右写真)
山村家の敷地面積は、下屋敷の数倍もあり、隣の、福島小学校の敷地も屋敷の一部だった、
というが、残っているのは、山村代官下屋敷のみで、享保八年(1723)に建てられたものである。 泉水庭園が見事とあるが、手入れが悪いのか、それほどのものとは思えなかった。
山村家ゆかりのものが展示されていた。 おまつしゃさまなる、山村家の守り神の
お稲荷様の使いのキツネを祀っているが、そのキツネのミイラが発見されたと紹介されていた。 建物も古いという意味では価値があるのだろうが、どちらかというと質素なものだった。 屋敷入口脇には、地方役所(木曽地方を管理する役所ー代官の仕事場)があったが、空き地になっていた。
屋敷の東門跡の石垣に、横井世有(せゆう)の紀行文 「 岐岨路紀行 」 の一節が彫り込まれ
ている (右写真)
『 俎(まないた)の なる日はきかず かんこ鳥 ( 世有 ) 』
延享(えんきょう)弐年(1745)、尾張藩主徳川宗勝(むねかつ)が帰国の途中、山村邸に
1泊した。
このとき従ってきたのが重臣であり、学者の横井世有(せゆう)だった。 この時書
いたのが 「 岐岨路紀行 」 である。 下部の碑文は、二年後に、埋めこまれた、という。
(注)彫り込まれた文章の部分は省略。
石垣の前には、代官清水という水場が作られていた (右写真)
冷たい水がながれ、一時の暑さを忘れさせる風情があった。
代官屋敷の奥部には、福島城趾があるのだが、町の観光案内にも一言も触れられていない。
それほどまでに、この町では 山村氏 の存在は絶対だったのだろう。 あるいは、前住者の木曽
氏を持ち出すのはタブーだったのかも ・・・など思った。
大手橋を渡ると、本陣のあった町役場前にでて、木曽福島の探訪は終了した。
木曽福島は、宿場町というよりも、山と関所を支配した山村氏の統治部分が強かったのでは!!
と、感じた旅だった。
(ご参考) 代官を続けた山村家
山村氏は大江匡衡(ただひら)の一族を祖とした家系である。
木曽家の食客になり、その後、武功をあげ、木曽家の重臣として活躍した。
主人の木曽義昌は、秀吉により下総網戸1万石に移封されてしまうが、家臣の山村氏は主人に付いて行かず、木曽に留まった。
関ヶ原の戦いで、中山道を西に向かう徳川秀忠から木曽地区を平定するよう命じられ、一族と木曽衆を使って、勝利を収めた。
恩賞として、木曽福島を統治することが認められた。
徳川家康は、 木曽谷の美林と戦略上重要拠点 として、福島を幕府の直轄とすることにしたが、山村氏は、それを応諾し、土地を返上。
家康は、美濃に代わりの土地を与えると共に、木曽代官を命じた。 即ち、 旗本 となった訳である。
その後、木曽が尾張藩になると尾張藩の重臣にもなり、名古屋に屋敷が与えられた。
平成15年9月