『 中山道を歩く − 木曽路 (8)宮ノ越宿  』


宮ノ越宿は、中山道の丁度中間に位置し、脇街道の伊奈路にぬける権兵衛街道と の追分になっていた。 
最盛期には旅籠も二十一軒を数えたというが、往時の面影はほとんどない。 
木曾義仲が育ったところとして有名で、義仲のゆかりも多い。




福島宿から宮越宿へ

木曽福島駅 平成十五年九月、今日は福島宿から宮越宿へ歩く。 この区間は、二里二十八町三十間の距離 なので、十キロ強の距離である (右写真はJR木曽福島駅)
旧中山道は、国道19号に殆どが吸収されてしまっているので、対岸の道を行くことにした。   関所橋を渡り、興禅寺の前を過ぎ、少し行くと、黒川ダムがある黒川渡に出た。 
ここは、江戸時代には、尾州藩の黒川裏番所があった場所で、木曽五木の取り締まりをする 役所だったところである。 
道が二股になっていて、左に行くと、開田高原を経て、高山へ行く道である。 
道祖神 開田高原の手前にある黒川集落には、道祖神や野仏が多く残されている (右写真)
             『 野辺の石  人に出会って 道祖神 』 
という 山頭火の句、そのままである。 
右に道を取る。 頭上には木曽大橋が架かり、先程の高山への道に合流している。
矢崎橋は渡らず、そのまま進む。 車もほとんど通らず、大変歩きよい道である。 
30分ほど歩いたところで、左手に石仏群を見付けた。 
馬頭観音などの石仏と石碑で ある。 
荒神社 二股になった所に、荒神社(こうじんじゃ)があった。 
この神社は、須佐之男命を祀り、熊沢の谷奥の岩戸様にあったのをここに移設した、 といわれるものであるが、幼名、駒王丸と言われ、元服して木曽次郎義仲と名乗った、 朝日将軍・源義仲と縁(ゆかり)のある神社である (右写真)
左に行くと、幸沢自然村に行ってしまうので、このまま直進し、荒神橋を渡った。 
鉄道線路を越え、左折したあたりが上田集落である。  義仲を育てた中原義遠の館があったといわれるところで、集落の中央に手習天神があった。  手習天神は、木曾義仲の義父、
手習天神 中原義遠が、一族の学問向上のために、京都の北野天満宮にあやかって建てたもので、
古くは、山下天神と呼ばれていた。 源平盛衰記には、「 義仲を木曽の山下に隠し、養育した 」 と記されているが、山下は上田の古名である。  手習天神は、丘の上にあり、石段を登ると、江戸時代末期に、宮大工、武居仙右衛門によって 建てられた社殿がある。 
社殿は小さいけど、しっかりとした建物だった (右写真は下から見上げたもの)
社殿の横にあるイチイの大木は樹齢千年という。  街道の傍らには、馬頭観音などの石仏や阿弥陀仏石碑が散在していた。  江戸時代、街道を通る人々がお堂の前で旅の無事をいのった と伝えられる薬師堂は最近 再建されたものだった。  道を進むと、栗本交差点
中間地点 にでた。  手前に立派な相撲場 があった。 こんなところに何故こんな立派な設備が? という感じが した。  道は国道に合流したので、国道を歩いた。 正沢川に架かる七笑橋を渡る。 木曽の銘酒に 挙げられる七笑は、この地名による。  この端を渡ると、日義(ひよし)村である。  明治初期に、宮ノ越村と原野村が合併してできた村で、この地にゆかりの深い朝日将軍木曽義仲 から、二字をとって命名された。  国道から左に入る道を進む。 突然、道の脇に、 「 中山道東西中間之地 」 と表示した掲示板 が現れた (右写真)
「 江戸、京都双方から六十七里三十八丁(約268キロ) 」 と表示があり、中山道の中間地点
原野集落 である。 このあたりが原野集落で、古そうな家が数軒並んでいたが、商店が建ち並ぶ訳でも なく、静かなただずまいだった (右写真)
原野駅は少し奥まったところ。 旧中山道は素通りして道なりに行けばよい。 
ここで寄り道。 右折すると、国道に出て、木曽駒高原への入口。  道の駅日義木曽駒高原が近くにあり、そこには「中山道東西中間之地」の石碑が建っている。  ここでコーヒーを飲んで暫しの休憩を取った。 なお、 国道沿いにある林昌寺は立派な建物で、木曾義仲を支えた中原義遠の墓がある。  街道に戻り、鉄道線路を渡り、2kmくらい行くと、宮の越の町並が見えてきた。

宮ノ越(みやのこし)宿

明治天皇御膳水 宮ノ越宿は四町三十四間(450m)ほどの長さだったが、そこには百三十七軒の家があり、 五百八十五人が住んでいた。  下町には、明治天皇御膳水石碑と井戸があった。
明治天皇が明治十三年(1880)の御巡行の際、旧本陣で小休みしたとき、この水で御茶を献上さ れたというものである。  江戸時代末期に町内の飲用水のため掘られ、昭和初期まで近隣随一の名水として、生活を ささえてきた井戸である (右写真)
宮ノ越宿は天保十四年の宿村大概帳によると、本陣一、脇本陣一、問屋場二、旅籠二十一軒 だった。  隣の薮原宿が十軒、奈良井宿は五軒と比べると旅籠の数は多い。 
本陣跡 駅に向かって家並みは続くが、明治十六年(1883)の宮の越の大火で宿場は全焼したため、江戸時代の 建物は残っていない。  本陣は、百九十四坪の敷地で、間口九間、奥行き十八間の建物と十六坪の中庭などがあったが、 宮の越の大火で全焼してしまった。  奥の方にある建物はそれ以降に建てられたもののようである (右写真)
「本陣跡」の標識があるところに、「中山道宮ノ越宿」の木柱と「明治天皇御小休所跡」の 石碑が立っていた。  脇本陣は、道路の右側の草むらの中に、木札で、「脇本陣跡」と表示されているだけ
元・旅籠? だった。 脇本陣前にある家は、元は旅籠だったと思えるのだが、造りが大変立派である。  聞くところによると、 「 宮ノ越は、木曽大工の故郷で、細かな細工を施したものが得意だ った 」  というが、家の内部が分からないので、なんともいえないが、この家はすっきり していて、現在でも、十分存在感がある建物だった (右写真) 
その先を歩いて行くと、右側に宮ノ越駅があるが、宮ノ越宿もこのあたりで終わりになる。  明治十六年の宮の越の大火で、宿場は全焼したこともあり、宿場の入口も出口も分からない ままだった。

木曾義仲のゆかりを訪ねて

義仲館 木曾義仲が育ったところなので、義仲館や徳音寺などゆかりの場所が多い。 宿場探訪は、
あったいう間に終わったので、夕方まで間がある。  義仲のゆかりを訪れることにした。
宮の越駅の反対側の川の対岸に、最近つくられた義仲館がある (右写真)
木曾義仲は、武蔵国の生まれで、源義仲が正式名、源頼朝や義経とは従兄弟にあたる。 
二才の時、父、義賢(よしかね)が 悪源太義平によって討たれた。  斉藤実盛のはからいで、母、小枝御前とともに、木曽に落ち、上田集落に住んだ中原義遠の 屋敷でかくまわれて生育。 
元服の後、館をこの宮の越に建てて、移り住む。 以仁王の平家追討の令旨を受け、平家
徳音寺 打倒で決起、北陸より京に攻め入り、平家を追討。  後白河法皇より朝日将軍と、称号を贈られた。 しかし、部下が狼藉をはたらいたため、 京の都の人気を落とし、また、法皇とも対立するようになった。 後白河法皇は、源頼朝に 義仲追討を命じ、義仲は征夷大将軍となって迎え討ったが、 義経の軍勢に宇治川の合戦で 大敗し、ついに、近江の粟津浜で討死。 木曽で旗揚げしてわずか4年、よわい31才だった。 
その先には、木曽八景の一つ、徳音寺の暁鐘で、知られた徳音寺がある (右写真)
この寺はよかった。
義仲墓所 義仲が母小枝御前のために建てた と言われる寺院で、秋の夕方に聞く鐘の音が、しみじみと 心に沁みる風情がある。  寺には義仲の位牌がおさめており、老杉に囲まれた境内の奥まった墓所に、 義仲の墓が、 小枝御前、巴御前、家臣の今井兼平の墓に囲まれて、ひっそりと苔むしていた (右写真)
境内の一隅に義仲の守り本尊と伝えられる兜観音や彼の愛蔵品などが展示された宣公郷土館が あった。  徳音寺から百島集落に出て、川の縁にある集落を通り抜けると、青い色をした淵に出た。 
巴が淵 この場所は巴が淵と呼ばれ、新緑と紅葉時は特に美しいというところである (右写真)
地名の由来については、巴御前の屋敷があった所という説や巴御前が水浴びをしたところと 伝えられる、など、諸説があり、どれが正しいのか分からない。 
地元の観光協会は、 「 川が巴状に渦巻くことから、巴が淵という名が付いて、その地名を採って巴御前という名 が付いた。 」 という見解だった。
もう一つの義仲ゆかりの場所、旗揚げ八幡はこの近くと思い、地元の人に場所を伺う。 
指示通り、鉄道の反対側に出、畑の中の道を歩く。
旗揚げ欅 旗揚げ八幡は、義仲の居館跡とされ、治承四年(1180)、平家追討の旗揚げをした所である。 
道の道脇に、大きなケヤキがあるところが、旗揚げ八幡である。 別名、 「 旗揚げ欅 」
というもので、樹齢八百年。 義仲の元服の時期と合致し、その記念に植えられたものと
されている (右写真)
残念ながら、真ん中で折れていた。 台風や落雷に何度も遭い、折れてしまったらしい。 
威厳のある堂々とした樹だったのに、鉄鎖などをはめられてしまい、かわいそうな気がした。 
隣には、二代目の欅が植えられていたが、これも百年以上経過したものである。
人も多くない、このように辺鄙なところに館を建て、居住しながら、京を制圧している平家を
八幡神社 倒そう!! とは、かなり大胆な発想だったように思えた。
義仲の考えだったのか、中原義遠の野望なのか分からないが、それを実現させた地元の豪族、 中原義遠の財力、権力と執念の強さに驚いた。 
八幡神社の社殿は、新しいもののようだが、当日は大工が入り、修理していた (右写真) 
最後に、南宮大社に行く。 国道沿いの山側へ少し入ったところにあるのだが、気が付かず 通り過ぎてしまうような場所である。 
関ヶ原にある美濃国一の宮の南宮神社を勧請したもので、宮の越の地名も、宮(神社)の
南宮神社 越し(中腹)を意味するもので、武道の神、養蚕の神、安産の神である。  
境内には、この地区の神社の神を集めて、合祀したとあった (右写真) 
夕日も細まり、境内が薄暗くなって、少し不気味になったので、退散することにした。
福島宿から宮越宿をめぐる旅はこれで終了。  今回の旅は中山道を歩くというより木曽義仲の遺蹟を探す旅になってしまったが、それはそれ で楽しかった。  旅の疲れをとるため、天神温泉に寄り、お湯につかり、夕食は水車屋で、とろろそばを食べた。  水車屋の蕎麦は、石臼でひかれ地元産100%で、いつ食べても大変おいしい。  大いに満足して帰宅の途についた。 
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平成15年9月


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かうんたぁ。