薮原宿は、鳥居峠越しに備えて一夜をとる旅人で栄えた宿場で、道の両脇には、名物のお六櫛を作る家が軒を並べ、行き交う旅人に売っていた。
鳥居峠は木曽路有数の難所、標高は1197mしかないが、今でも熊がでるなど、自然が残っていて、太平洋に注ぐ木曽川と日本海に注ぐ信濃川の分水嶺でもある。
平成十五年(2003)九月十二日、今日は宮の越に車を置き、薮原、奈良井を経て、平沢まで歩く計画である。
宮ノ越宿から薮原宿までは、一里三十三町、七キロ強の距離である。
旧中山道は宮の越駅の対面にある川を渡り、義中館から徳音寺の前を通り、百島集落に出る。
百島集落から川を右に見ながら歩くが、左側には向小路と徳音寺という集落がある。
宮の越大火を免れたのか、その後に再建したものか、分からなかったが、古い家が数軒残って
いた (右写真)
集落を通り抜けると青い色をした淵に出た。 前回訪れた巴ヶ淵である。
木曽川もここまでくると、小さな川になり、S字状の深い渕になっていた (右写真)
ここは休憩できるようになっている。
「 中山道は巴ガ渕から山吹山の左側を回り込んで道が出来ていた。
また、山吹には合いの茶屋があった。 」 と、史実にはあるが、今は、道の跡形もなくなって
いた。
山吹峠は義仲の愛妾の山吹姫の名をとったものといわれるので行ってみたかったが・・・・
しかたがないので、そのままいくと国道に出た。
国道を左手にとり、少し歩くと山吹トンネルの入口にでた。 以前多くのひとが歩かれた、
山の一部を廻って通っていた旧国道もトンネルが出来て廃道になり、岩がごろごろ落ちている
状態なので、通ることはできない。 従って、トンネルをくぐり抜ける現国道しか、
歩けるところはなさそうである。
薮原方面からトンネルを抜けてきた十数名のグループに入口で出逢ったが、
彼等は声をかける間もなく、通り過ぎていってしまった。 かなり早いペースである。
トンネル内は、ガードレールの付いた歩道になっているので、特に危険はないのだが、トンネル特有の閉塞感があり、あまり気持ちの良いものではなかった。
トンネルを抜けると、左に入る道があったので、橋を渡り、対岸(向吉田地区)の道を行く。
地図を片手にゆっくり歩く男とすれ違う。 さっきのグループの片割れと思ったが、そうではないようだ。 しばしの間、川を右に見ながら、川に沿った道を進む (右写真)
道が分かれるところにでた。 このあたりは、標示がはっきりしない。
そのまま、行ってしまったのだが、どうも様子が違う。
菅地区を通り、薮原高原スキー場に行く道に入ってしまったのだ。
しかたなく、戻り、左上に登っていったら、頭上に鉄道線路があり、そのままそこに入ったら、行き止まり。
手前に戻り、橋を渡って、国道に出た。
国道には、相変わらず、大型トラックが走っているが、ほとんどの区間がガードレールで守られているので、特に問題はない。
道脇に写真のようなレリーフがあった。 木曽路の旅を表現したものである (右写真)
やがて、信号と薮原への標識が見えてきた。
標識に従って、左に入って行くと、鉄道のガード下にでた。
右側は薮原駅とある。 そのまま、ガードをくぐると、SL(蒸気機関車)が見えた。 主として、貨物列車を引っ張ったD51(でこいち)だ!! (右写真)
D51は、鉄道ファンのが好む機関車であるが、私は貴婦人といわれたスマートなC61の方が好き。
なぜ、薮原にSLが残されているのか? もしかすると、この場所に以前機関区があったのか?
など、疑問に思ったが、なんにも書いてなかった。
機関車の手前には、小さな石碑があり、薮原の一里塚跡とあった。 江戸時代には、中山
道の薮原一里塚がこの両脇にあり、旅人が通過して行ったところなのだ!!
道標を見ながら、町に入る。
高札場跡には、赤いレトロな郵便ポストが置かれていて、
その脇の石碑には、『 夏と来て 木曽路の便り ポスト映ゆ 』 という句が刻みつけられ
ていたが、だれが詠んだ歌なのだろうか ? (右写真)
藪原宿は、戦国時代に既に利用されていたとある歴史のある宿場である。
慶長六年(1601)の徳川幕府による中山道宿駅制度の設置により宿場が整備され拡大し、
南北五町(約550m)の宿場に、天保十四年には、家数266軒、宿場人口1493人と記録
に残る。 これは中山道の中では中規模の宿場だが、木曽路では馬籠宿や妻籠宿をしのぐ
大きさである。 ここは、中山道と野麦峠を越えて飛弾へ行く飛弾街道(奈川道)の分岐点、
すなわち追分にあたる。 また、中山道の鳥居峠越えを控えていたので、峠を目指すものは鋭気を養い、越えてきたものは疲れを癒す人達で、活気あふれた宿場だった、といわれる。
歩いていくと、高札場跡の少し先に、篠原商店があった (右写真)
篠原商店には、 【 元祖お六ぐし 萬寿屋本店 】 というのれんがかけられ、レトロな雰囲気を醸し出していた。
江戸後期発行の木曽名所図絵には、 「 薮原は、江戸や京都でも、薮原のお六櫛として知られた、櫛の一大生産地であった。 宿場の両脇には櫛を作る家が軒を並べて、行き交う旅人に櫛を売っていた。 」 というような案内がされてい
た。 今でも全て手作りで、櫛の歯数が多いのが特色で、細かな歯を挽ていくことが職人の腕の見せ所になっている。
今もなお、こうした精緻な手挽きの技術を脈々と伝えているのには驚いた。
宮川家史料館は、六代に渡って医業を営んでいた家で、昔の医療道具や薬があるとあるが、興味がないので、素通り (右写真)
薮原宿には本陣一、脇本陣一、問屋場二、旅籠が十軒あったが、数度にわたる大火に遭い、当時の面影を残す建物は残っていない。
古畑氏が営んでいた脇本陣の跡地には、木祖村役場が建っていた。
本陣跡に建つ民家の前の木柱には、「 本陣の間口は十四間半、奥行二十一間半の広さで、二十余部屋。 七十坪の広庭。 などで、木曽路十一宿で一番大きかった。 」 と、書いてあったが、なにもないのでぴんとこなかった (右写真)
皇女和宮御降嫁の際にも、この宿に泊まり、翌日の鳥居峠越えに備えられた。
その時のお供の数は実に延べ二万五千人。 行列の先頭が入泊してから、最後尾がこの宿を通過するまで、四日丸々かかったというから、驚きである。
官民挙げての一大イベントだったのだろう。 とはいえ、和宮の峠を越えるときの心境は
いかばかりであったか ・・・
宿の中央には、防火用の高塀石垣がほんの少し残っていたが、元禄八年(1695)の大火後、
防火のため、土地を出し合って小道を作り、石垣を組んだものである。
その他には、明治天皇駐輦所碑くらいしか、古いものは残っていなかった (右写真)
宿場が江戸時代繁盛していたのに比べ、史実を語るものが残されていないことは、ある
意味で驚きである。
鉄道の開通により、あっという間に宿場は崩壊してしまったのだろう。
現在、駅周辺に旅館が数軒あるが、これらは薮原スキー場客の定宿になっている。 かくいう私も独身時代にお世話になった経験がある。 今や、スキーやハイカーを相手にしている時代である。
湯川酒造店は、地酒木曽路を醸造する酒屋。 福島町の七笑に比べるとかなり小さい規模だが、金賞を受賞している。
買って帰り、飲んだところ美味しかったので、暮れに義兄に送った。
旅館こめやは、創業三百六十年といわれる、
かっての旅籠である。 木曽路最古といわれたが、明治の大火で建物は、焼失した。 現在の建物の道路側部分は須原宿にあった建物を大火后移築したものである (右写真)
それにしても、歴史を重ねたものには相違ない。
掘辰雄、伊藤左千夫、藤田嗣治などの文豪や画伯が泊まったことでも有名のようである。
この先で、宿場は終わり、いよいよ、鳥居峠への道に入る。
(ご参考) 「 お六ぐし 」
お六ぐしの起源は、いろいろな説があるようだ。 その中の一つを紹介すると、
『 妻籠の宿に、お六という名の娘がいた。 大変な美人だったが、持病の頭痛でいつも悩んでいた。 ある日、御嶽神社に願をかけたところ、夢枕に大権現が立ち、「ミネバリの木を挽いた櫛で梳けば直る」というお告げを残したという。 さっそく、ミネバリの木で櫛を作り、髪をすくと、頭痛がすつかり直った。 同じ櫛をつくって、お六が人々に分け与えたことから、お六櫛として妻籠宿で名物になった。 ところが、妻籠にはミネバリの木が不足するようになり、薮原へ依頼して櫛を作ってもらっていたが、いつの間にか、薮原に中心が移り、藪原がお六櫛の本場になってしまった。』
江戸時代後半から昭和にかけて、繁栄した薮原の櫛であるが、その後はどうか?
業界関係者の話では、 『 昭和の初期までは、日本一の生産規模だったが、プラスチックなどでできたものが普及した時期に、木櫛の需要が大幅に減り、廃業が続いたが、最近では、”木櫛の梳いたときの感触の良さ”や”髪にやさしい”ことから、木櫛が見直され、注文もくるようになり、なんとかやっていけるようになった。 』 という。
流通のしかたも変わり、お六櫛の製造元とか工房、販売所が多くあるが、江戸時代のように呼び込みをして個人客に売るという時代ではなく、全国から電話で注文を受けたものを製造し、地方発送しているようすであった。
平成15年9月