奈良井宿へ至る鳥居峠越えは、木曽路有数の難所である。峠の標高は1197mしかないが、今でも熊がでるなど、自然が残っている場所である。
また、太平洋に注ぐ木曽川と日本海に注ぐ信濃川の分水嶺でもある。
奈良井宿は、鳥居峠をひかえた宿場として、また、塗り棚や曲物の産地として、奈良井千軒といわれるほど、賑わっていた。
平成十五年九月十二日、今日は宮の越に車を置き、薮原、奈良井を経て、平沢まで歩く予定。 旅館こめやを過ぎると、宿場もおわり、いよいよ、鳥居峠への道に入る。 中央本線の線路をくぐったところに、薮原神社や極楽寺があるが、寄らずに登って行く。
鳥居峠は、標高千百九十七m。 薮原、奈良井のどちらからも、高低差二百六十mほどの登りである。
御鷹匠役所跡には、現在、個人の家が建ち、その旨を記した看板があるだけ (右写真)
「 御鷹匠役所とは、別名、お鷹城と呼ばれ、鷹狩りに使う鷹の雛を確保するために設けられた施設である。 尾張藩は、享保十五年(1730)、御鷹匠役所を設置し、訓練された鷹は、将軍家に献上されたり、諸大名への贈り物にしていた。 季節になると、鷹匠が尾張
から出向いてきた。 明治四年に廃止された。 」 と、説明にはあった。
この手前の道脇に街道の追分を示す木柱が立っていた (右写真)
「 飛騨街道・奈川道と中山道の追分にあたり、左に行くと、奈川から麦草峠を越えて
飛弾・高山に行ける。 しかし、江戸時代の奈川道は、大変狭い上に、道が険しく、馬では
登れないため、荷物の搬送には奈川牛という牛が利用された。 」 と、説明があった。
このあたりは、急坂危険地帯と表示があったが言葉通りの急坂である。
自転車を押しながら登って行く60才前後の女性と一緒になり、言葉を交わしながら、登る。
「 自転車で大変ですね!! 」 と私。 「 下りは楽ですが、帰りの登りは大変です。 でも、
荷物を持って歩くより、車を押した方が楽なの 」 と彼女。 小生は、カメラとレンズ入りの
リックを背負い、一脚を杖代わりにしていたが、それでも、けっこうキツイ。
彼女は毎日の日課だ、と淡々と登った。 原町清水の裏が彼女の家だった。
「寄って一服していきませんか!!」と、声をかけられたが、先があるので、別れる。
水場で水を飲み、空のペットボトルに水を入れた (右写真)
ついでに、タオルをぬらし、顔や手足を拭く。 そして、もう一度、濡らしたタオルを首に
巻いた。 天降社前を通過すると、車道(林道)に出たが、車道を横切りそのまま登る。
いよいよ、本格的な鳥居峠への道である。
この先は旧中山道で、カラマツに囲まれた石畳の道である (右写真)
かって、峠一帯は美濃と信濃の国が境界をめぐって争っていたことがある。
元慶元年(879)に美濃に属することで決着がされ、当時は県(あがた)坂と呼ばれていた。
その後、奈良井坂とか、薮原坂と呼ばれた時代もあった。 室町時代、木曽義元が松本
の
小笠原氏と戦った戦勝の御礼に、御嶽神社に鳥居を再建して以来、鳥居峠と呼ばれる
ようになったのである。 本格的な山道になり、登りはきつくなった。
九月中旬に入ったのに、三十度を越す暑さで、リックを担いだ背中はぐしゃぐしゃである。
その上、ブヨのような小さな虫が頭の周りを飛び交え、あまり気持の良いものではない。
熊除けの鐘を鳴らすように と表示がある。 この時間にはいないだろうと思ったが、書かれていたとおり、鐘をならした (右写真)
途中で、極めて細かく刻みこまれた石碑を見付けたが、何がかいてあるのか、分からなかった。
途中、何度か、道と交差するが、直登する。
道標がしっかりしているので迷うことはない。 やがて、森林測候所跡の標識があるところにでた。 道傍には、オミナエシや、名前を知らないピンクや黄色の小花が咲いていて、すでに秋の到来を告げていた。
そのまま登って行くと、峠上近くには、丸山公園があり、そこにはいくつかの句碑が
建って
いた。 松尾芭蕉、法眼獲物などの美濃以哉派のもので、薮原や木曽福島など
の
町人
富裕層を中心とした俳人達が建立したものである。 芭蕉の句碑は二句あるが、どちらも
更級紀行で、詠まれたものである。
一つは、「 木曾路の栃 うき世の人の 土産かな 」
という句碑で、天保十三年(1842)、法眼獲物の門人達により、建立された (右写真)
この句は、芭蕉自身が俗世界から離れた人(うき世の人の土産)になった、という立場で、
詠まれたと、いわれる。 栃の実は栗くらい大きさで、加工して作ったとち餅はなかなかの
美味であるが、トチ餅を「 冥土の土産にしましょう 」 と芭蕉はいうのである。
それに対し、南会津で食べた 「 トチ餅は美味かったなあ!! 」 と、思出す小生は俗世間
(浮世)から遠ざかるのは難しいですわなあ!!
もう一つのは、享和元年(1801)、中村
伯先の肝いりで、薮原の俳人ふとねが建立したもので、
「 雲雀よりうへに やすらふ
嶺かな 」 と、刻まれている。 信州には、芭蕉の同様な句碑がいろいろな所で建立され
ているが、これ等は芭蕉没後七十年から百年を期に興った中興俳諧運動によるもので
ある。 右の鳥居峠の浮世絵には、御嶽遠景と義仲硯水と書かれていて、旅人が御嶽を
眺めながら、休憩している図である (右写真)
丸山公園から少し下ったところに、「 義仲硯水 」 と書かれた石碑があり、 「 木曾義仲が
平家討伐の旗揚げをした時、御嶽山へ奉納する願書を書くのに使った。 」 と伝えられて
いるものである。 すぐ上の小高いところに、古い井桁状に囲まれたものがあったが、
それが義仲硯水らしい。 今は、水も流れている様子もなく、汚れていた。 丸山公園の
周辺は樹木に包まれていて見晴らしが悪く、御嶽山は見ることはできなかった。
街道の周りに木が生えていないように描かれているので、当時は見晴らしが良かったの
だろう。 公園のベンチにリックを置き、着替えを出し、汗をかいた上着を着替えた。
腹が空いたので、コンビニで買ってきたおにぎりを食べ、ボトルに入れてきた水を飲んだ。
藪原方面が一望できるとあったが、この方面も木が多すぎて展望は無理だった。
食事を終えたら、出発する。 それにしても、薮原宿を出てから、ここまで誰にも会わない。
平日だからか?? 鳥居峠まで300mとあり、少し登ると、道のへりの草むらに野仏が一体
あった (右写真)
また、御嶽遥拝所と書かれた石碑があった。
御嶽山は、古来から信仰の山として知られる。 江戸方面から来た信者にとって鳥居峠を越えたこのあたりで、御嶽を望むことができるため、
訪問できない人のため、遥拝所は設けられたという。 峠の最高地点でもある。
鳥居峠の名が付いたとされる鳥居が目の前にあった (右写真)
弘化弐年(1845)建立といわれる鳥居の前に、リックを置き、階段を登り、お堂の前に立つ。 遥拝所とあったが、お堂からは御嶽山は見えなかった。江戸時代は、見ることができたのだろうか?
両脇には、小さなお堂が建ち、御嶽神の石碑や石仏が沢山あった。
峠がなだらかに続く。 トチの巨木群があるところに出た。 地面には、大きなトチの実が落ちていた。 記念にいくつかのトチの実を拾い、ポケットに入れた。 黙って立っていると、かなり大きな音がした。 人か猿の立てた音かと思ったが、トチの実が木から落下する音だった。
なだらかにしばらく続いた峠道の先には、立派な小屋と水場があった。
このあたりは、旧道と新道が入り混ざっているようだし、消滅してしまったのもあって、
よく分からないが、かっての 「 峰小屋 」 の跡だろう。 小屋を覗くと、ノートがあり、
訪れた人が気楽に書けるようになっていた。
ここからは、下りになる。 薮原側と違い、山の斜面に沿って、下って行くという感じである。 反対側が谷になり、道が狭い上、山側が迫り出しているので、山崩れの心配がある。
ひたすら奈良井に向けて急坂を下る。 やがて、中の茶屋跡に到着。茶屋といっても人がいるわけでもなく、掘建て小屋みたいなものがあるだけである (右写真)
ここは葬沢(ほうむりさわ)といい、天正十年(1582)弐月、木曾義昌が武田勝頼軍と戦い、大勝利を収めた古戦場である。 この時、武田軍の戦死者が五百余名で、この谷は埋もれたといわれる。
さらに加速を付けて、下っていく。 ホンの少しだが、石畳道が残ってところにきた。 奈良井までもう少し。
小道を降りると、広い舗装道路に出た。 ここで、鳥居峠の道で、はじめて人に出逢った。
これから峠を越そうとする二人連れの男性で、大阪から来たと言っていた。 「 東京から西に向って、中山道を歩いているのだ。 」 と、いっていた。 登り口に道標と説明板があるので、これから、鳥居峠を越えようとする人にはいい道しるべとなるだろう (右写真)
車道の途中でショットカットし小道を下り、また、車道にでると、奈良井宿の入口に出た。 薮原から登り始めて、約二時間半。 休憩した分を引くと約二時間の行程であった。 奈良井からでも、所要時間は余り変わらないようだが、奈良井からの方が急登ということと、上りで立ち寄る場所がないこと、そして、到着した後の見る楽しみを考えると、薮原側から登ったほうが良いように思われた。