『 中山道を歩く − 木曽路 (10)奈良井宿(続き)  』


江戸時代には鳥居峠をひかえた宿場として、また、塗り棚や曲物の産地として、奈良井千軒といわれるほど、賑わっていた。 今も、庇の深い2階建ての、大戸や蔀戸、黒くすすけた落ち着いた千本格子をもっている建物が軒を連ねている。 
宿場町としての雰囲気を残したまま、日常生活を続けている奈良井には古さと美しさがあった。




奈良井宿に入る

鎮神社 鳥居峠を下ってくると、奈良井宿で最初に出逢うのが鎮(しずめ)神社である (右写真) 
別名 「 鎮大明神 」 ともいわれ、「 奈良井・川入の氏神で、祭神は経津主神。 十二世紀後期、中原兼遠が鳥居峠に建立したものを、天正年間(1573〜1592)に奈良井氏がここに移した。 元和四年(1618)、疫病が発生したため、下総香取神社よりご神体を迎えて鎮めたことから鎮(しずめ)神社という名が付いた。 」 と、いういわれがある。 本殿は、寛文四年(1664)の建築で、 立派なつくりには感心した。 峠の登り口にあるので、道中の安全祈願に参詣する人が多かったらしい。  隣に、楢川村歴史民俗資料館があり、宿場の史料や民具などを展示していた。 庭先には、山口青邨の句碑があり、 
   『   お六ぐし   つくる夜なべや    月もよく   』 
の句が刻まれていた。

奈良井(ならい)宿

町並み 奈良井宿ができたのは古く、鎌倉時代の始め頃と言われるが、慶長七年、徳川家康により、中山道六十九の宿場が定められると、奈良井宿もそのひとつに選ばれた。 薮原宿からは一里十三町、贄川宿からは一里三十一町しかないが、鳥居峠をひかえているので、大変賑わった。  宿場の長さは、八町五間(約870m)と、薮原宿や贄川宿の約二倍の大きさがあった。  上町、中町、下町の三地区で構成され、南北一キロメートル弱、東西二百メートル、面積十七ヘクタールの土地に、約二百軒の建造物が並ぶ (右写真)
江戸から明治にかけて建築された建造物が、百六十余りあり、昭和五十三年(1978)に国の伝統的建造物保存地区に指定された。 
高札場 ほとんどの家が日常生活をしながら、修理・保存に取り組んでいるという、現在でも生きている宿場町としての努力や活動は称賛に値する。  宿場の入口には枡形や水場があり、復元された高札場があった (右写真) 
ここから鍵の手までが上町。 道の両脇には間口が狭く、奥行きの深い家が並んでいた。 福島県の 大内宿 や三重県の 関宿 に似たただずまいである。  その中の一軒、元櫛問屋・中村邸に入ってみた。  天保の豪商・櫛屋中村利兵衛の屋敷で、塗り櫛の創始者中村惠吉氏の家である。  この家は天保八年の奈良井宿大火直後に建てられたもので、二階建ての出梁造りの家である (詳細は巻末)
櫛屋が豪商と聞いたので、質問したら、 「 江戸時代の櫛は、髪を梳く櫛と髪を結う櫛と
二種類あり、髪結いは数十本の櫛を持ち歩いていた。 これらの櫛は、全て無地のもの
鍵の手 だったのだが、中村惠吉氏が塗り櫛を考案して世に出したところ、江戸や上方の女性から
頭を飾る櫛 として人気を集め、大成功を収めた、と、いわれたようです。 」 との答え。 
この地特産の櫛製造と木曽漆器の技術を融合し、これまでにない新製品を考案した訳で、豪商になったのは当然なのだろう。  道の突き当たりが鍵の手で、水場があった (右写真)
上町は、駅や道の駅からも遠いので、観光客の姿は少なかったが、旅館や民宿も多く、食べ物屋もあり、 角のそばやはなんとなく気になったが、昼飯を食べたばかりなので、やめにした。  その奥は、浄竜寺、それにしても、寺が多いところである。 山側に沿って、その先、
上問屋史料館 長泉寺、大宝寺、法然寺、専念寺と続く。  右折すると、正面に荒沢不動尊の社殿があり、老婆が二人座って談笑していた。 
道の左側にある上問屋史料館は、奈良井宿の問屋と庄屋を兼ねた家で、奥の一室は、明治天皇巡幸の際に行在所となった部屋で、当時のままに残されている (右写真)
問屋とは、大名や役人はもとより旅人のために伝馬や人足を管理する仕事で、慶長年間から明治維新まで勤めていた。 隣の伊勢屋も、昔の脇本陣で、下問屋を勤めていた家である。 現在は、民宿を営む。  昔の旅籠も何軒か残っている。 
旅館・越後屋 越後屋はその一軒で、百七十年前の天保年間の建物で、(一部改築されたが)営業している。 部屋数が少ないのでなかなか予約がとれないときいた。 軒下には、明治時代のランタンがぶら下がり、夕方には江戸時代の袖行灯が出される (右写真) 
越後屋、伊勢屋、隣の民宿・江島屋など、それぞれ当時のたたずまいを残す雰囲気の建物なので、たいへん気に入り、何枚か写真を撮った。
左に入っていくと、神明宮。 手前に公民館があるが、ここが本陣跡。 本陣跡といっても痕跡は少しもなかった。 隣は郵便局である。 中町に入ると、みやげものやが続く。 
徳利屋 右手に郷土館と茶房を営む徳利屋がある。 宿場時代には、脇本陣と高級旅籠。 問屋を兼ねていた。  この店の名は、とっくり(徳利)からの命名のようだ。 昭和初期まで営業していたそうで、島崎藤村、幸田露伴、正岡子規などが利用した (右写真) 
みがきこまれて黒光りする階段箪笥や、大きな自在鈎のあるいろりなど、歴史的に貴重なものがあった。  左手に入ると、マリヤ地蔵で有名な大宝寺。 広伝山大宝寺といい、臨済宗妙心寺派に属する禅寺で、寺のパンフレットによると、 「 天正十年(1582)、当時の領主、木曽氏の支族・奈良井治部少輔義高が建てた寺で、 大安和尚が開山である。 江戸時代に入り、 明暦年間、玉州禅師が中興し、福島の代官・山村良豊が寺門を修造し、万治元
年(1658)には、現在の本堂を建てた。 」 と、いうから、かなり歴史のある寺である。 
マリヤ地蔵 江戸時代に書かれた木曽名所図会に、庭園について、「 寺の庭に臥竜樹あり、長さ五丈許
(ばかり) 義高の薬園の跡なり 」 と記述があり、心字池に亀島、三尊仏石、蓬莱石などの
岩石を用い、背景には槙、楓、杉の樹木で山とした、嵯峨流の作庭である。 手入れが悪い
のか、季節の所為かは分からないが、雑然として迫力やしまりのない庭にしか映らなかった
のは残念だった。  マリヤ地蔵は、寺の裏手の墓地の中にあった (右写真) 
昭和七年、近くの薮の中から発掘され、寺の現在地に移されたもの。 膝の上に抱かれた
子供が手にもつ蓮の花は、たしかに十字架に見える。 キリシタン禁制の時代に、信者が
地蔵の姿を 借りて聖母マリアを拝んだものだろう。 仏教の子育地蔵になぞえて作られた
杉の森酒造 石像だが、役人に見付かり、頭部、抱かれた子供や膝を壊されて、捨てられてしまった、
という。 もとの道に戻ると、杉玉を吊した家があった。 杉の森酒造である (右写真)
以前は、平野屋酒店だったが、酒の名前の杉の森酒造にいつの間にか変っていた。
杉玉は、むかしの酒屋の看板。 昔は、新しい酒が仕込まれるたびに、真新しい青い杉玉にとり替えた。   街道を通った旅人たちは、この杉玉の色の変わり具合を見て、いつできた酒かわかった という。 最近はそのような頻度では替えられてはいないようだ。 
杉の森は辛口でうまい酒と、聞いたので、帰りに購入し持ち帰って、自宅で飲んでみた。 からくちには違いないが、トゲがなく、のどごしがさわやかで、うまい酒だった。 
このあたりは、食べ物屋やみやげやが多い。 下町に入ると、漆器店が数軒あった。 
木曽の大橋 江戸時代には、奈良井漆器として名声を轟かせたらしいが、隣の平沢にすっかりお株を
奪われ、最近はぱっとしないようである。 途中に水場が数ヶ所あり、自由に水が飲めた。 ぶらりぶらりと歩くと、しまだやなどの民宿が数軒あり、また土産屋も軒を連ねていた。  やがて、宿場のはずれになり、宿場固有の桝型のほぼ前にあったのが旅館あぶらやである。 そのまま直進すると、奈良井駅。 右に入りぐるーと行くと、道の駅のある<木曽の大橋という太鼓橋にでた (右写真) 
樹齢百年以上の木で作られたとあったが、何時つくられたものだろうか?
街道に戻る。 左奥には専念寺があり、江戸時代には中山道が通っていたようだが、
今は途中で途切れている。 斜めに上がって行く道は下町の氏神の八幡神社の参道。 
二百観音と地蔵堂 祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)で、神社は宿の丑寅の方角にあたり、鬼門除けの守護神である。 階段の途中に、旧中山道の雰囲気を伝える杉並木があった。 胸高五十センチ以上の杉が十七本が残っていた。  少し先には地蔵堂があり、前には二百観音とよばれる石仏群があった。 聖観音、千手観音、如意輪観音などの観音像で、一体一体違った表情をしている (右写真)
明治時代の国道開道や鉄道敷設で、奈良井宿周辺から集めた約二百体の石仏を合わせ祀ったものである。 ここにしても上松にしても、鉄道や国道工事で集められた石仏の数がすごく多い。 旅人が路端で行き倒れになった人の無縁仏と説明されていたが、
木曽路に住む人々の宗教心によるところが大きかったのだろう。 
旧中山道はここで途切れてしまっていて、先には進めなかった。

( ご参考 )  奈良井宿の建物「元櫛問屋・中村邸」
元櫛問屋の中村邸を例にとり、、奈良井の建物・「2階建ての出梁造りの家」を見てみよう。
庇と蔀戸1階と2階との間にある小屋根(右写真の上部)、 ここでは庇(ひさし)と言わせていただくが、 庇(ひさし)は、 桟(サン木)の上に、屋根板を並べて、釘を打つ というのが、一般的なつくり方であるが、 奈良井の場合は、桟を上にし、その下に屋根板を敷く という、独特のやりかたである。
桟には猿の頭の形状に加工した木(猿頭と呼ばれる)を使用する。
写真の屋根上部をご覧ください。 吊り金具で釣られた木が猿頭である。
屋根板は、板を横に並べるのではなく、上に重ねて敷いていく。 
鎧の襞のような形になることから、鎧庇(よろいびさし)と呼ばれるものである。
鎧のように屋根が見えるでしょう。
庇を支えるため、吊り金具で釣られているが、逆さ釘である。 このような、強度が不足する庇(小屋根)を持つのが奈良井の建物の特徴であるが、逆さ釘を使用しているのは盗人防止という。 
盗人が庇に足をかけたら屋根が崩れ落ちるようになっているのだという。 たいへんめずらしいと思った。
建物の外観は、 右写真をご覧ください。
中村邸2階は、情緒ある>千本格子とてすり、 そして、 袖壁(左右の白い部分)である。 
一階には、板大戸と蔀戸(しとみど) で構成されていた。
私は、これまで、蔀戸は何か知らなかった。
蔀戸は、写真の右下の障子が入った2つの戸のことである。
蔀戸は一見、一枚の戸のように見えるが、小戸を横向きにし、上から重ねて入れられているもので、写真の戸は、上二枚が障子戸、下一枚が板戸で構成されていた。
両脇に立てられた通柱(とおりはしら)には、戸を通す溝が掘られていて、戸を横にして上から入れるようになっている。 我々の家の戸は縦に並べて使うので、発想が違う。 昼間は、戸を入れず開け放しにして店先にしたり、障子戸を入れて明るくなるようにしたり、夜はぶっそうだから、板戸に替えて使用する。 使用しない戸は天井に跳ね上げるなどの格納の工夫もあった。
茶道を嗜むokanの話では、「茶室には蔀戸(しとみど)がある」 というから、京都では珍しいものではないのかもしれない。
大戸に取り付けられた京風の小さな潜り戸(くぐりど)を開けてなかに入ると、旅籠とは違った商家の造りを見せていた。 
裏庭まで続く通り土間に沿って、店、勝手、中之間、ざしきと続き、 そして、裏庭。 便所は屋敷の離れた庭の中にあった。 2階は、店の間の階段箪笥を登ると、通りに面して、2部屋。 客座敷の他に、茶室がしつらえてあり、豪商達の木曽文化の一端を垣間見た感じがした。

 

平成15年9月


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かうんたぁ。