『 中山道を歩く − 木曽路 (11)贄川宿   』


平沢は奈良井宿と贄川宿との中間にある合の宿で、漆産業が発達した、漆の町でもあった。
贄川は木曽路最北端の宿場であるが、宿の仕事の他、交通の要衝という地理的条件を生かして遠隔地商業を行っていた。
木曽路の旅のフィナーレは桜沢の境橋、ここで長くつらかった木曽路の旅も終わりを告げる。




奈良井宿から間の宿・平沢

でこ人形 平成十五年九月十二日、今日は宮の越に車を置き、薮原、奈良井を経て、平沢まで歩く計画である。 奈良井宿の見学も終え、かなりくたびれていたが、平沢まで計画通り、足を伸ばすことにする (右写真ー奈良井宿でこ人形)
旧中山道は、杉並木のところで消滅しているので、奈良井駅まで戻り、その前の道をいく。 三差路で、中学校下の道を行けばよいだろうと思って進んだが、それは、山の中に入っていく道だった。 途中で間違いに気付き、元の道に戻る。 突き当ったところで、奈良井川にかかる小さな橋を渡って、土手沿いの道にでた。 まっすぐ行くと、国道にでるが、その
まま、川に沿って歩いた。  やがて小学校の裏手にでた。 放課後で、子供達が校庭で遊
平沢町並み んでいた。 暫く行くと、旧中山道にでた。 踏み切りを越え、三差路で左に行く。 
川を渡ると、木曽漆器館とうるしの里広場公園があった。 木曽漆器館は漆器に関する資料や 用具が集められている資料館(入場料200円)で、これらの収蔵物は、平成三年に、 国から 「 重要有形民俗文化財 」 に指定された。 もとの道に戻り、右側の道に行く。
平沢の集落に入った。 江戸時代、奈良井宿と贄川宿との間に設けられた合の宿があった ところである (右写真)
平沢は度重なる火災で古い建物は残されていないが、 プーンと漆の匂いがしてくる と錯
漆器販売店 覚するくらい、多くの漆器店や工房が軒を並べている。  家のほとんどが、なんらかの形で漆器に関係するといわれる、木曽漆器の町である。  私が訪れた日は、通りは閑散として、人の姿はなく、時折、宅配便のトラックがとまるぐらいであった(平日だったこともあるだろうが) 六月上旬に行われる奈良井宿場祭とほぼ同時開催で、木曽漆器祭が行われているが、その時は沢山の人が訪れる、と漆器店の人がいっていた (右写真)
奈良井の駅から平沢までは約二キロで、三十分足らずで到着できた勘定になる。
陽が傾いてきたので、列車で宮ノ越駅まで引き返さなければならない。 
木曽平沢(きそひらさわ)駅は、町のほぼ真ん中、細い路地を山側に入ったところにあった。 
駐車場もない小さな駅で、無人。 時刻表を見ないできたので、列車が行ったばかりで、
約四十分を待たなければならない。 まず、外にあるトイレ前の水道から水を出し、タオルを
濡らして身体を拭いた。 歩いて汗をかいていたので、着替えも済ます(誰もいないので、
おおぴらにやれた) 少しお腹がすいたので、奈良井で買った 五平餅を頬張った。 
そして、薮原で汲んだ水の残りを飲んだ。 まだ時間があるので、外にでて看板等を
ぼやっと眺めた。 時間が早いがホームに行くと、おじさんが一人ホームの待合所に入って
いた。 退屈なので、列車を待つ間、話を聴く。 「 駅には、夕刊を取りにきた。 夕刊は
中央紙にはなく、地元紙の 信濃毎日新聞だけ。 毎日、列車から受け取り配達するのだ。 」 
という。 「 名古屋には行った人もいれば、帰ってきた人もいる。 」 など、たわいないこと
である。 時間がきたので、ホームにでると、何時来たのか気が付かない内に、4人連れの
女の子がいた。 平沢の見学をしていたのだ。 列車が到着し、おじさんと別れる。
宮ノ越から平沢まで一日かけて歩いたが、列車はまさに、あっという間に宮ノ越駅に到着した。

平沢集落から贄川宿

漆器販売店 平成十五年(2003)十月二日、今日はいよいよ木曽路の最後の宿の贄川、そして木曽路の最北端の桜沢まで歩く日である。  七月に始めた旅だが、既に十月に入っている。 暑いなかを歩いたのは、昨日のことのようだ。  今日が終わりと思うと、なんとなく寂しくもったいないような気がするが ・・・
前回終わった木曽平沢駅から、平沢漆器店の並ぶところに出て、本日は、ここから出発である (右写真)
平沢の集落を過ぎると、人家が途絶え、少し登りになった。 
諏訪神社 右手の坂は諏訪坂といって、諏訪神社に至る道だろう。 坂には登らず、道なりに行くと、右手に諏訪神社の石段 が現れた。 諏訪神社に登って行く。 うっそうとした森の中に諏訪神社があった。 神社は、文武天皇の大宝弐年(702)の創建だが、天正年間にあった武田軍と木曾軍との合戦の際に焼失し、現在の建物は、江戸時代後期の享保十七年(1732)に再建されたもので、二間社流造り、こけら葺きである。 それでも、二百七十年以上経っている (右写真)
本殿の前の雄の狛犬は、片手の下に金の玉を置いていた。 また、石段の登り切ったところに、庚申塚があった。 
芭蕉句碑 石段を降りると、楢川村役場前で、村役場駐車場の一角には、芭蕉の句碑があった。
  宝暦十一年(1761)の建立と伝えられるもので、表の面には、芭蕉翁、側面には、       「 送られつ をくりつ はては木曽の秋 」 と、刻まれた、細長い石碑である (右写真)
同じ句が、木曽路南端の馬籠の新茶屋と、北端のこの地にあるのはおもしろい取り合わせ
である。 馬籠の句碑は観光客にも注目浴びて大事にされているのに対し、こちらの句碑
は、今にも車にぶつけられそうなところにあり、可哀想な気がした。 近くには、漆供養塔
と書かれた石碑があったが、地場産業のシンボルなので、一等地に置かれ、大事にされて
いた。 役場の手前のところに、二十三夜塔があった。 
木曽くらしの工芸館 町役場前を通過し、歩いていくと、木曽くらしの工芸館が、右側に現れた(火曜日休み) 
駐車場も広く、道の駅 ならかわも兼ねている。 木曽漆器の展示館やレストランなどがあり、二階には地元作家の作品も展示されていて、おもしろかった (右写真)
長野オリンピックのメダルもここの工房で作られた、と説明があった。  木曽くらしの工芸館は一見に値すると思う。  工芸館で、少し時間をかけた後、出発する。
少し行くと、国道に合流(角には、コンビニがある) しかたがないので、国道を歩く。 
少し行くと、右に入る道があったので、入る。 長瀬という集落である。 
押込一里塚跡 座卓などの木材加工の工場や漆の工場があり、平沢の町内の工房より規模が大きい。 
道は一台しか通れない程の狭さで、数百m歩いたら国道に出てしまった。 
奈良井川にかかる桃岡橋を渡ると、右に入って行く道があり、これが旧道である。 
入り口の左側を入った畠の中に、押込一里塚跡があったが、標示がなければ、見付けら
れなかっただろう (右写真)
その先は行き止まりなので、右側の道を行く。 旧中山道は、この先は、道路と鉄道に
なってしまっているのだろう。 桃岡集落に入ると、水場があり、前には 木曽漆器座卓
の共同展示場があった。 桃岡には、最新の建物が多く、古い家は一軒もなかった。
鉄道のトンネル跡 民家のとぎれたところで、左手に鉄道のトンネル跡を見付ける。 現在は、国道の左側を抜けているが、以前は、こちら側を通っていたのだろうか?  (右写真) 
少し上りになり、山をぐるりと廻る感じで歩く。 下には、村の総合運動場があり、その先には奈良井川が流れていた。 たいへんのんびりとした風景なので、里山を歩いている感じがした。  やがて、鉄道線路と平行して歩くところにでて、次第に線路は下の方に遠ざかって行った。  民家が増えてきて、贄川宿に到着である。  
平沢〜贄川宿間は、約五キロ、一時間ちょっとかかった。

(ご参考) 「 木曽漆器の歴史 」
木曽漆器は、木曽福島町(現在は木曽町)の八沢町がルーツであるといわれる。 
八沢の竜源寺にある経箱はうるし塗りでできていて、そこには応永元年の年号と作者名があることから、八沢では六百年前から漆塗りが行われていたことになる。 奈良井、薮原、平沢には、江戸時代初期に八沢町から伝えられたようである。 
平沢の漆器は、1652〜55年には普及していたという記録があるので、三百五十年以上の歴史を重ねる産業である。  この地に漆業が根付いたのは、木曽五木の産地であり、原料にめぐまれたこと、 湿気が多いこと、 空気がきれいであること という、漆器には欠かせない最適な条件が揃っていたことによる。 また、農地面積が少なく、農業で生計を売ることができなかった という 地区事情もあった。
その後、本家の八沢を始め、奈良井や薮原の漆器は衰退していったが、平沢が主産地として生き残ったのは、以下の要因と努力による。
(1)明治時代に鉄道が開通し、交通事情がよくなった。
(2)付近の山から”さび土”と呼ばれる粘土が出土し、これが下地塗りの材料になり、強度と価格で競争力を付けた。 
(3)輪島に人を派遣し、技法を学ばせるなどの努力をした。
国の重要漆工業団地に指定され、今では、食器類から装飾品にいたるまで、さまざまなもの作られている。

贄川(にえかわ)宿

贄川の町並み 贄川宿に入ったが、本陣や脇本陣がどこにあったかの標示も一切ない、宿場としての過去を示さないところだった (右写真)
贄川宿は木曽路の北端の宿場で、江戸からは最初の、京からは最後の木曾路の宿駅だった。 天保十四年宿村大概帳によると、宿の長さは四町六間とあるので、五百メートルほどの小さな宿場だったが、そこに百二十四軒が建ち、五百四十五人の人が暮らしていた。  本陣も脇本陣も一軒で、問屋場が二ヶ所で、旅籠が二十五軒あった。  この宿場は、宿場稼業の仕事の他、交通の要衝という地理的条件を生かして、遠隔地商業を行っていたという。 江戸時代には斬新なアイデアである。 
道祖神石碑 現在の贄川には、枡形や鍵の手などの形跡も見あたらず、また、古い家もない。 というのは、昭和六年の火災で宿場の大部分の建物が焼失したからである。  贄川上町と表示された村営バス停近くには、水屋があり、水が流れていた。  隣にある津島神社と秋葉神社の鳥居の奥には、小さな二つの神社の他、道祖神と書いた石碑が あった。 道祖神は集落の入口に置かれるのが通例だから、この辺りが宿場の入口だったの だろうか? (右写真)
旅の本に、 「 宿の中程に本陣の跡がある。 昔の建物を再現して建てたものだという。   その先の酒屋は元脇本陣だった所。 」と、書かれていたので、探してみることにした。
千本格子の家 古そうな家を見つけた。 深沢家住宅で、国の重要文化財に指定されている。 屋号を加納屋 といい、行商を家業として成功した商家の住宅で、主屋は嘉永七年(1864)の建築で、切妻造り、 二重の出梁や吹き抜けの大黒柱など、木曽地方の代表的な建物で、価値が高いとされる。 (右写真)
脇本陣は酒屋とあったが、麻衣廼(あさぎぬの)神社に行く道の脇に酒を販売 している店があった。 かなり広い敷地の家で、空の瓶がずらりと並んでいた。 他には酒店が ないので、この家が脇本陣だったところではないかと思った。  なんらの標示もないのは集落や楢川村に、贄川宿に
観音寺楼門 ついての歴史的な興味がないからだろう。  今回の木曽路の旅で、過去に触れていないただ一つの宿場跡であった。 
(注)平成の合併で楢川村は塩尻市に吸収合併された。
酒店の脇の道を通り、観音寺に行く。 国道を横切った先に、山門が見えるのが観音寺である。  真言宗のお寺で、高野山金剛峰寺が本山で、本尊は十一面観音(室町時代作?)である。   山門は、寛政四年(1792)に再建された楼門である  (右写真)
楼門の彫刻はなかなか立派なものだった。  薬師如来は鎌倉時代の作と言われているよう
麻衣廼神社 なので、古い寺なのだろう。   本堂の前には、空海の像が分からないが、聖の旅姿があった。   本堂を通り抜けて、裏に行く。 寺の墓地を通り抜けた小高いところに、麻衣廼(あさぎぬの)神社があった。  天慶年間(938〜947)創立だが、社殿は、天正十年(1582)に戦火により焼失し、文禄年間(1592〜1596)に現在地に再建された、 と、伝えられる古い神社である。  神明造りの社殿と拝殿からなり、四本の御柱が境内に立てられている。 祭神は、建御名方命(たけみなかたのみこと) である (右写真)
説明文では、「 本殿は三間社流造りこけらぶき、延亨四年(1747)に建造された。 」 とあり、諏訪大社同様、六年に一度(寅年と申年に)御柱祭が行われる、という。
復元した贄川関所 薄暗い林の中なので、なんとなく、薄気味悪い。 お参りをすませて、そうそうに立ち去ることにした。   ぷらぷら歩きながら、関所跡に向かう。 この一帯にも民家が多く建つが、国道に近いほど西洋風やログハウスなどの新しい様式の家が多いのはなぜだろう。 塩尻が近いので、そこに勤めるサラリーマンが多いことも関係があるのかも知れない。  宿場のはずれに、贄川関跡があった (右写真) 
尾張藩領の最北をおさえていた口留番所で、福島関所の副関所の役割を担っていた。 女人改めや他領に出ていく木曽の木材、木製品などの監視をしていたが、明治弐年に廃止された。
復元した贄川関所 現在の建物は、発見された番所古図にもとずいて、当時の関所を忠実に復元したもので、関所や街道交通に係わる資料を展示している (右写真)  
関所の階下にある木曽考古館は、贄川で発掘された縄文中期の土器が展示されているが、土器には興味がないので、中には入らずパスをした。  旧中山道はここから下に降りていく道、即ち、鉄道東側の川の縁を通っていたようだが、今は消滅している。  短い贄川宿の探訪は終わり、これで木曽路にある十一の宿場をすべて訪問できた。

いよいよ木曽路も終わりに!!

道祖神石碑など 関所跡から鉄道を陸橋で越え、国道にでた。 鉄道を越える陸橋には、何かの記念と書いてあり、 メロデー橋なる名称が付いていた。 少し歩くと、贄川駅にでた。 駅の隣にはレストランが あったが、寄らずに進む。 この駅も無人であるが、駐車場があり、車はおくことができる。  駅前に木曽銘酒と書かれた酒屋があったので入ったら、いろんな銘柄の酒があったので、 一本買いこむ。  国道に沿って歩き始める。 左に入る道があったので、入る。 下遠、中畑集落。  入ったところに道祖神石碑などが祀られていた (右写真) 
集落の真ん中には水場があった。 建物はどれも比較的新しい感じがした。 
奈良井川 また、国道にでた。  このあたりに、若神子一里塚 があったらしいが、見付からない。 
少し歩くと、左に入る狭い道があったので、若神子集落に入っていったが、十軒足らずなので、 すぐ、終わり、国道に合流してしまった。 道が下りなので、快調にとばした。 国道沿いに、 片平集落があり、家がまばらになると、やがて奈良井川を渡った (右写真) 
片平橋の下には、ダムがあり、眺めがすばらしかった。 その先では、道路工事をしていた。  ここからの国道は、川に沿って進んでいく。 国道には歩道が設置されているが、川側で、 場所によっては、川に飛び出して設置されている。 
旧茶屋本陣・百瀬家 川は、数十米も下に流れているので、この高さから川に落ちたらと思うと、恐怖感がでてきて、 歩いていても落ち着かなかった。  桜沢集落には、道路左側に数軒の家があった。 道路から下の崖下の家も何軒かある。  江戸時代には、本山宿と贄川宿の合(あい)の宿として、また、木曽路の入口 として栄えたところである。 
明治天皇駐輦碑が立っている家が、茶屋本陣だった百瀬家である (右写真)
現在は、普通の民家として生活しているようである。 
少し歩いた右上の小高いところに馬頭観音などの石仏を見付けた。 
馬頭観音 街道で活躍した馬や谷底に転落して亡くなった馬の慰霊塔だろう。 (右写真)
十分ほど歩くと、左側に、 「 是より南木曽路の碑 」 を見付けた。 まだだと思っていたので、突然現れたという感じである。  碑の裏面には、「 歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂ニ至ル南二十余里ナリ 」  と、刻まれていて、ここが桜沢の北のはずれであることが書かれている。 江戸時代のものではなく、昭和十五年に、桜沢の藤屋百瀬栄が建立したものである。 
贄川宿からここまで、約四キロの距離だが、一時間くらいかかったか?
是より南木曽路の碑 橋の向こうで、工事をやっていたため、車が数珠つなぎの状況 (右写真が木曽路の碑) 
渋滞したドライバーが退屈しのぎにこっちを見ていた。 
奈良井川にかかる境橋は、古くは、木曽と信濃の、江戸時代には尾張藩と松本藩の境界に
なっていた。 現在でも塩尻市と楢川村との境界になっている。  江戸時代には、北から の
旅人には木曽路の始まりを、 南からの旅人には長かった木曽路の終わりを告げていた訳で、
旅人はそれぞれの感慨を込めて、渡っていったことだろう。 私はもっと先にあるのだ
と思いスピードをあげたところだったので、あっけないフイナーレだった。 境橋を渡って、
木曽路と別れる。 工事は駐車場の工事のようで、是より南木曽路の碑見学用のものかも
しれない。 国道を20分ほど歩いた先で、右に入る道が旧中山道。 まもなく、日出塩駅に
到着した。 私、MR.MAXの木曽路十一宿の旅は以上で終了した。
七月から始まった木曽路の旅は夏に向かったときだったので、国道を汗をかきかき歩くなど、
大変だったが、終わってみると、あっという間のような気がした。

 

(奈良井宿〜平沢)            平成15年9月
(平沢〜贄川宿〜桜沢)          平成15年10月


 (12) 藤村・夜明け前                             旅の目次に戻る







かうんたぁ。