『 中山道を歩く by mrmax ー  木曽路十一宿を踏破して 』


「 木曽路はすべて山の中である・・・・ 」 という有名な1節から始まる長編歴史小説は、島崎藤村の夜明け前である。 
中山道には、六拾七宿がある中で、木曽路だけが有名なのは、島崎藤村のこの作品による影響が大ではないか?




木曽路十一宿を踏破して

中山道は、江戸日本橋から京都三条大橋までの百三十五里二十四町八間(約532km)で、宿場は六十九次、六十七宿である。  難所も多いが、河川による川留めが少なく、渡海による難もないため、姫宮の通行のほとんどが利用された。  参勤交代でも、三十数藩が利用した東海道に次ぐメインのルートであった。  また、御茶壺道中や日光へ訪れる例幣使が通った道でもある。  木曽路は、その内の二十数里(約90km)にすぎないが、土木技術が発達していない時代のため、木曽川に沿った道が想像できないほど貧弱なものだったようで、そこを通る旅人や馬が落命した数はかなりのものだったようで、木曽路を無事通過すると、旅人はほっとした、と伝えられている。
私は、七月から十月にかけて、七回に分けて歩いた。  旧中山道部分をできるだけ歩くこと、宿場に縁あるものを目で確かめることを目的とした旅であったが、おおむね達成できたと思っている。  旧中山道が残っていないところは、国道あるいは自然歩道などを歩かざるをえなかった。  国道19号は高速道路のないこの地方では生活道路であり、信濃と中京経済圏を結付ける物資輸送の大動脈のため、大型トラックの利用が多い。  数年前に歩いた方々が、歩道がなくてトラックの巻き起こす風で帽子がとばされた、などの怖い思いを書いておられるが、歩道の設置工事は着々行われていて、一部を除けば、かなり安全になった。  しかし、真夏の炎天下に大型トラックがまき散らす排気ガスと道路の照り返しの中を歩くのはやはり大変だった。  宿泊すれば四日か五日で終了できたのだろうが、日帰りで行ったので、時間が多くかかった。  また、車で前回の出発地に行き、到達地からまた歩いて出発地まで戻るという方法を採ったので、かなり余分な時間を使った (最後の薮原〜平沢、平沢〜日出塩は列車を利用したが) 
歩いたのが平日だったこともあり、歩いている人には一部の行程でしか出逢うこともなく、いささかさびしい思いがした。
それでも、鳥居峠を越えたあたりからは(秋に入ったこともあるが) 順調なペースで楽しみながら歩くことができた。
また、旅先で聴くことのできた地元の方々の貴重な話はホームページをつくるのに際して大いに役にたった。
駐車させていただいた役場や駅、資料をいただいた観光協会には感謝を申しあげたい。

現在の木曽地区は、林業が衰退し、人口は最盛期の半分以下というところが多い。 観光も高速道路から離れていることからハンデキャップがあり、温泉も冷鉱泉で湯量も少なく、集客に苦労しているようである。
奈良井宿や宮ノ越宿では、現在工事中の権兵衛トンネル開通への期待が大きい(開通すれば伊奈地区と結ばれ、中央道からの観光客の誘致や広域医療の活用ができるという声が多かった)

市町村合併が当面の関心事のようだったが、結論を出す時期になってかなりの混乱が出始めている。  例えば、木曽福島のケースであるが、かっての福島町ならすんなり決着したと思うのだが、木曽福島町の提案の 「 木曽郡1市に纏まろう 」 に対し、 「 山口村は岐阜県中津川市 」 、 「 楢川村は塩尻市 」 、 「 南木曾町は大桑村 」 という風で、木曽福島町と一緒になりそうなのは上松町、日義村くらいである。  
財政基盤の弱い同士、経済や産業資源が乏しいところが合併したところで、明るい将来展望が開けるものか、政府の進める施策に疑問を感じる。 とはいえ、町(村)財政の大部分が国に頼っている訳にはいかないわけであるので、合併による合理化を進めていかざるをえないのだろう。 
私には直接関係ないことであるが、七回も訪れると少し気になるものである。 

藤村・夜明け前

木曽路を歩いていると、随所に島崎藤村がでてくる。 また、正岡子規や田山花袋の名も登場する。
江戸時代では、十辺舎一九や松尾芭蕉などである。
参考までに、 島崎藤村の「夜明け前」 序文の最初の部分と馬籠宿に関する文を転載した。

(参 考) 島崎藤村の「夜明け前」 序文の最初の部分

 木曾路(きそじ)はすべて山の中である。 あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。 一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷( けいこく)の間に散在していた。
道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い 山間 (やまあい)に 埋もれた。
名高い 桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。
新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと 降って来た。 道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。 長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。 そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の 氾濫が旅行を困難にする。 そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。
 』

(参 考) 島崎藤村の 「夜明け前」 序文の抜粋(馬籠部分)

 馬籠は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。 西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。 そこは美濃境(みのざかい)にも近い。
美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。 街道の両側には一段ずつ石垣を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。
宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、本陣、問屋(といや)、年寄、伝馬役(てんまやく)、定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)、飛脚などより成る百軒ばかりの家々が主な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町(あらまち)、みつや、横手、中のかや、岩田、峠(とうげ)などの部落がそれだ。
そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬を売る。 名物栗こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。
なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
( 中 略 )
新茶屋、馬籠の宿の一番西のはずれのところの、路傍(みちばた)に芭蕉の句塚(くづか)の建てられたころは、なんと言っても徳川の代はまだ平和であった。
木曾路の入り口に新しい名所を一つ造る、信濃と美濃の国境にあたる一里塚に近い位置をえらんで 街道を往来する旅人の目にもよくつくような 緩慢(なだらか)な丘のすそに 翁塚(おきなづか)を建てる、山石や躑躅(つつじ)や蘭(らん)などを運んで行って周囲に休息の思いを与える、土を盛りあげた塚の上に翁の句碑を置く ―― その楽しい考えが、日ごろ俳諧(はいかい)なぞに遊ぶと聞いたこともない金兵衛の胸に浮かんだということは、それだけでも吉左衛門を驚かした。
そういう吉左衛門はいくらか風雅の道に嗜みもあって、本陣や庄屋の仕事のかたわら、美濃派の俳諧の流れをくんだ句作にふけることもあったからで。
あれほど山里に住む<心地を引き出されたことも、吉左衛門らにはめずらしかった。 金兵衛はまた石屋に渡した仕事もほぼできたと言って、その都度句碑の工事を見に吉左衛門を誘った。 二人とも山家風(やまがふう) 軽袗(かるさん) 地方により、もんぺい というものをはいて出かけたものだ。
「親父も俳諧は好きでした。 自分の生きているうちに翁塚の一つも建てて置きたいと、口癖のようにそう言っていました。 まあ、あの親父の供養にと思って、わたしもこんなことを思い立ちましたよ。」
そう言って見せる金兵衛の案内で、吉左衛門も工作された石のそばに寄って見た。 碑の表面には左の文字が読まれた。

  送られつ 送りつはては 木曾のあき  はせを

「これは達者(たっしゃ)に書いてある。」
「でも、この秋という字がわたしはすこし気に入らん。禾(のぎ)へんがくずして書いてあって、それにつくりが龜(かめ)でしょう。」
「こういう書き方もありますサ。」
「どうもこれでは木曾の蠅(はえ)としか読めない。」
こんな話の出たのも、一昔前だ。
あれは天保十四年にあたる。 いわゆる天保の改革の頃で、世の中建て直しということがしきりに触れ出される。
村方一切の諸帳簿の取り調べが始まる。 福島の役所からは公役、普請役が上って来る。 尾張藩の寺社奉行、または材木方の通行も続く。
馬籠の荒町(あらまち)にある村社の鳥居のために檜木(ひのき)を背伐(せぎ)りしたと言って、その始末書を取られるような細かい干渉がやって来る。
村民の使用する煙草入れ、紙入れから、女のかんざしまで、およそ銀という銀を用いた類のものは、すべて引き上げられ、封印をつけられ、目方まで改められて、庄屋預けということになる。
それほど政治はこまかくなって、句碑一つもうっかり建てられないような時世ではあったが、まだまだそれでも社会にゆとりがあった。
翁塚の供養はその年の四月のはじめに行なわれた。 あいにくと曇った日で、八半時より雨も降り出した。 招きを受けた客は、おもに美濃の連中で、手土産も田舎らしく、扇子に羊羹を添えて来るもの、生椎茸をさげて来るもの、先代の好きな菓子を仏前へと言ってわざわざ玉あられ一箱用意して来るもの、それらの人たちが金兵衛方へ集まって見た時は、国も二つ、言葉の訛(なまり)もまた二つに入れまじった。 その中には、峠一つ降りたところに住む隣宿落合(おちあい)の宗匠、崇佐坊(すさぼう)も招かれて来た。 この人の世話で、美濃派の俳席らしい支考(しこう)『三※さんちょうの図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合(つけあい)があった。
主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、
「これで、さぞ親父もよろこびましょうよ。」
と言って、弁当に酒さかななど>重詰(じゅうづめ)にして出し、招いた人たちの間を斡旋した。

                                      ( 以 下 略 )                      』


平成15年10月 木曽路を歩き終えて記す


 美濃路を行く(1)落合宿                               旅の目次に戻る







かうんたぁ。